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記憶図書館_第2話 死の質



ここは一般人のあらゆる記憶が保管されている記憶図書館である。


今日もほら、何かの目的で人が訪れてきたようだ。



司書:(ツキ)







I. 無気力な青年


ここは山奥に静かに佇む記憶図書館。司書の**ツキ**は、夕暮れ時、また一人、重い扉を開けて入ってきた客を迎えた。


「こんにちは」


入ってきたのは、20代半ばの青年だった。背広はよれていて、顔には疲労と諦めが貼り付いている。全体から色が抜け落ちたように見えた。


「こんにちは。今日はどういったご用件でしょうか?」槻はいつもの穏やかな声で尋ねた。


青年は受付のカウンターをじっと見つめ、力のない声で言った。


「...本を、見に来ました。初めてなんです」


槻は静かに頷き、この図書館の構造を説明した。一般人の記憶が保管され、1階から4階は通常の人生経験。地下にはデリケートな記憶。そして、記憶は色によって分類されていること。


「何かご質問は?」


「...何かこう......人生についての色の本はありますか?」青年は絞り出すように尋ねた。


「なるほど...明るい記憶、楽しい、面白い記憶は赤色となります。希望を得られた記憶などは黄色、辛い記憶は青色なんですが、そうですね...今のあなたにおすすめしたい記憶があります。色は琥珀色なんですけどね...」


槻は少し迷ったように、眉にしわを寄せながら答えた。


「琥珀...」青年は繰り返した。「そんな色の記憶もあるんですね......」青年は不思議そうに尋ねた。


「そうなんです。実はこの記憶図書館には『特色(とくしょく)』というものが存在します。いろんな方がいろんな記憶を保存するのですが、本が作られたときに表紙に色が現れます。基本的に現れる色は、多くの文化や言語で共通して認識される基本的な色『基本色』です。例えば、白、黒、赤、黄、緑、青、紫、ピンク、茶、オレンジ、灰色などの色です。しかし、どんな理由なのか、まれに見たことのない色が現れる時があります。それをここでは、特別な色として『特色(とくしょく)』と言っているのです。


「そういうのがあるんですね...」青年は無気力そうに言った。まるで生きている意味が分からなくなっているような、どこか遠くを見ているような、何かを見つけられていないような、そんな表情だった。


「ごめんなさいね、来て頂いて早々に細かい話をしてしまいました。初めてとのことなので、こちらの用紙に記入をお願いします」


槻は申し訳なさそうに、青年の前にそっと用紙とペンを置いた。


「ありがとうございます......」青年はとても静かな声で言ったあと、ペンを走らせた。


青年は初回用紙に記入をして、槻に手渡した。


「ありがとうございます。もし、本の保存をしたい場合は別用紙に書いていただきます。その時に身分証明書も一緒にご提示していただく必要がございますのご注意してください」


槻は青年が書いてくれた初回用紙を確認した。


彼の名前は篠原 陸(しのはらりく)。過酷なIT企業の新人として働き、わずか数年で心身ともに摩耗しきっていた。


II. 琥珀色の本との出会い


「2階へは基本的に受付に一番近いこの大きな螺旋(らせん)階段を使います。ちなみに少し小さいですが、普通の階段もありますし、エレベーターもあります」


槻は館内に人が少なかったこともあり、図書館のフロアの説明をしながら篠原さんと一緒に「琥珀色の記憶」を探しに、受付のある1階から螺旋(らせん)階段でゆっくりと2階へと上ろうとしたとき。下からとても冷たい風が入ってきた、螺旋(らせん)階段の下を見ると、まるで深い海の底のように見えた。そこは地下フロアで所々(あか)りは見えるが真っ暗だ。おそらく黒い本(犯罪など)の棚が並んでいるのだろう。彼は、黒の空気の重さに耐えられず、すぐに2階へ上って、図書館で最も明るい一角へと向かった。


「ここが2階です」槻は周りを見渡しながら話を続けた。

「ここが一般的な人の記憶が並ぶフロアとなります。基本的には地下3階を除いて、全ての階がこのフロアと同じ構造をしています。大きな正方形のフロアの中心に大きな螺旋階段があり、その周りを囲むようにたくさんの本棚が設置してあるという構造をしています」


「なるほど......」青年は興味があるのかないのか分からないような言い方だった。まるで、言葉に気持ちが乗っていないようだ。


そのまま槻と篠原さんは明るい本棚の方へ向かった。


そこには、太陽のように鮮やかな赤い表紙の本がずらりと並んでいた。棚全体が熱を帯びているようだ。

その横からオレンジや茶色の棚が続き、一部グラデーションのような配置となっている。そして、一番端に黄色い棚があり、そこから先は青色の本棚が並んでいて、また違った雰囲気を醸し出している。


槻はオレンジと茶色が混ざった本棚の真ん中あたりにある一冊の琥珀色の本を手に取った。

オレンジの本と茶色の本が混ざって置いてある本棚だが、色自体はオレンジでも茶色でもないため少し目立っていた。


タイトルは**『死の質』。作者は「タカシ」。表紙には、借り出し許可を示すシール**が誇らしげに貼られていた。


「この本です。正直この本をブック化した日はとても印象的でした。というのも、この本をブック化してほしいと言ってきた人はとてもとても焦ったような顔をしていましたからね。もちろん篠原さんの心に刺さるかは分かりませんが、この本を読んで、生き方について今一度考えてみてはいかがでしょうか。まだまだお若いのですから」


槻は優しい表情を浮かべながら、篠原さんにそっと琥珀色の本を手渡した。


篠原は、その琥珀色に吸い寄せられるように本を手に取り、読書スペースへ向かった。

篠原は読書スペースに本を置いて、横にあるクリアな壁で囲まれたスペースへ入った。看板には、このスペースは本の持ち込みは禁止されているが、唯一飲食ができるスペースで、この中であれば自由に飲食が可能である旨が書かれている。篠原はそこでお水を一口ゴクリと飲み、また読書スペースへ行った。


「よし、読んでみようか.....」篠原は一呼吸置いてから、静かに琥珀色の本の1ページ目に手をかけた。



________________________________________


内容:(ここから琥珀色の本の内容がはじまる)



・「死の質」


大学生の頃の印象深い出来事が一つある。


「はぁ〜、死にてぇ〜」


朗らかな昼下がりのキャンパスで、その声は響いた。声の主、名をタカシという僕の友人は、まったく死にそうに見えない。むしろ、今日の空のように晴れやかな、満面の笑顔だ。その口癖を聞いた周囲の人は、一瞬顔を曇らせる。不謹慎だ、不快だと。しかし、タカシの顔を見てしまえば、誰も彼を責める気にはなれない。なぜなら、彼は心底幸せそうな顔で、その言葉を発するからだ。


僕たちはいつものように学食で昼食をとっていた。タカシがいつもの調子で「はぁ〜、死にてぇ〜」と言った、その時だ。


僕たちの輪から少し離れた席にいた、別の友人であるケンジが、あからさまに不機嫌な顔で立ち上がった。彼はイライラを隠そうともせず、タカシの席に近づいてきた。


「おい、タカシ」


低い声に、タカシはにっこり笑って振り返る。


「そんなに死にてぇなら、勝手に死んでろ!」


ケンジの声は怒りを(はら)んでいた。周りの喧騒(けんそう)が一瞬静まり、数人の視線がこちらに集まる。僕もタカシも息をのんだ。


だが、タカシは少しも動揺しなかった。彼は普段と変わらぬ、いや、むしろ一段と輝かしい笑顔をケンジに向けた。


「それではだめなんだよ、ケンジ」


タカシは楽しげに、まるで秘密を打ち明ける子供のように言う。


「死の質が悪いだろ?」


ケンジはキョトンとした顔で、タカシを見返した。怒りも忘れ、ただ困惑している。


「何言ってんだ、お前」


タカシは口元に手を当て、少し考える素振りをしてから、続けた。


「考えてもみてくれよ。僕たちは生まれてから死ぬまで、たった一度の人生を生きる。そして、死ぬことも、人生でたった一度しかできない貴重な体験なんだ」


彼は熱っぽく語る。


「一度しかできないのに、たとえば、ただの事故や、誰かの()()らしのために、あっけなく終わるなんて、もったいなさすぎるじゃないか。僕は死を望んでいるけれど、いつでもいいというわけではないんだよ」


ケンジはあきれたような、しかしどこか引きつけられたような顔で、タカシを見つめていた。


「最高の人生を歩んだ果てに、最高の場所と最高の瞬間に、僕は命を終えたい。それこそが、僕にとって最高の死の質だ」


タカシは椅子に深く腰掛け、両手を広げた。


「死は、僕の人生の最終到達点なんだ。だから僕は、最高のゴールテープを切るために、今を生きている。僕は死ぬために生きているんだよ、ケンジ」


タカシはもう一度、にっこりと笑った。


その顔には、一点の曇りもなかった。まるで、生きる目的が明確に定まり、迷うことなど何もなく、一歩一歩、その目標に向かって幸せに人生を歩んでいる。そんな確信に満ちた輝きがあった。


ケンジは何も言えなかった。ただ、タカシのあまりにも楽しそうな、満ち足りた表情に、彼は怒りを向けられなくなっているのが見て取れた。


「まあ、気長に待つさ」タカシは言った。「その日までは、悔いのないように、最大限にこの人生を味わい尽くすだけだ」


タカシの言葉は、常人には理解しがたいものかもしれない。しかし、僕にはわかった。彼は「死」という絶対的な終点を明確な目標とすることで、皮肉にも「今」を誰よりも強烈に肯定し、謳歌しているのだ。


僕は、幸せそうにパンをかじるタカシを見ながら、彼が迎える「最高の死」が、どのようなものになるのだろうかと、少しだけ想像した。そして、その終点に到達するまでの彼の「最高の人生」を、友人として見届けたいと、心から思った。


________________________________________


(数日後タカシの家での会話)



・「最高の人生」の設計図


その日、僕たちはタカシの部屋で、大学の課題である「未来の計画書」を一緒に作成していた。タカシの部屋は驚くほど整理整頓されており、無駄なものは一切ない。その簡素さが、かえって彼という人間を象徴しているようだった。


「なあ、タカシ」


僕はタカシのパソコン画面を覗き込んだ。彼の計画書は、一般的な「5年後の目標」や「退職後のビジョン」といった項目を遥かに超えていた。そこには、年代ごとの資格取得、世界旅行のルート、そして「人生最高の瞬間リスト(仮)」なるものが詳細に記されている。


「お前、『最高の死を迎えるための人生設計』って、本当に細かく書いてるんだな」


タカシはコーヒーを一口飲み、満足げに笑った。


「もちろんだ。最高の死は、最高の人生の果てにある。だから、この最高の人生を歩む計画書こそが、僕の生きる指針なんだ」


リストには、奇妙な項目が並んでいた。


28歳:アフリカのサバンナでライオンの咆哮(ほうこう)を聞く


35歳:無人島で一週間自力で生き抜く


45歳:宇宙から地球を見る(もし費用が許せば)


50歳:人生で最も愛する人と、最高の料理を作る


60歳:自分の生きた証となる本を一冊完成させる


僕は思わず尋ねた。


「なんでそんなに具体的なんだ?特に『宇宙から地球を見る』なんて、現実的じゃないだろ」


タカシはディスプレイを指差した。


「それはな、僕が死の直前に『あれをやっておけば良かった』と後悔する要素を、徹底的に排除するためだ」


彼は目を輝かせて説明する。


「『死にたい』という僕の願望は、僕にとって最高のゴールだ。そのゴールが近づいた時に、もしやり残したことがあったら?それは、最高の死の瞬間を曇らせる『ノイズ』になる。死の質を下げてしまうんだ」


「なるほど……。最高の人生を送ることは、最高の死を迎えるための『準備』なのか」


「そういうこと。僕は今、『最高の人生』という名のキャンバスを、悔いのないように色で埋め尽くしている。やりたいことをすべてやりきり、味わうべき感情をすべて味わい、好奇心を満たしたとき、僕のキャンバスは完成する」


タカシは計画書の最終ページを開いた。そこには、たった一行の言葉が、太字で書かれていた。


「死の瞬間:達成感と感謝をもって、完璧に色を満たしたキャンバスを眺めること」


「計画通りに生きている間は、失敗なんて存在しないんだ。すべては最高の死というゴールに繋がる、必要なプロセスだからね」


タカシの言葉は、まるで迷いのない哲学者のようだった。その顔は、ただの「死にたがり」ではない。「最高の死」という明確な目的を持つがゆえに、人生のあらゆる瞬間を最高の生として謳歌する、幸せな人間の顔だった。


僕の目の前で、タカシは満面の笑みを浮かべ、彼の「最高の人生」の設計図をさらに練り始めた。それはまるで、遠い未来に訪れる最高の終幕へ向けて、一歩一歩、慎重かつ大胆に歩みを進める冒険家のようだった。


________________________________________


(場面は数年後へと移る、ぼくはタカシの人生をとても興味深く思っており、今では大親友だ)



・「最高の瞬間リスト」:咆哮(ほうこう)の地


タカシが28歳になった夏の終わり、僕は彼のアフリカ旅行に同行していた。リストの二番目の項目、

「28歳:アフリカのサバンナでライオンの咆哮(ほうこう)を聞く」を達成するためだ。


「はぁ~、死にてぇ〜」


熱気と土埃の中、サファリカーの助手席でタカシがいつもの口癖を言った。


「こんな場所で聞くと、また格別だな、その口癖」僕は笑った。


「だろう? この生命力に満ち溢れた大地で死を望むこと。生と死のコントラストが際立って、死の質が上がる気がするんだ」タカシは嬉しそうに言った。


日が暮れかけ、空がオレンジと紫に染まり始めた頃、僕たちのサファリカーは、水飲み場から少し離れた低木の中に身を潜めた。ガイドが静かに(ささや)く。「彼らはこの時間、狩りの準備を始める。おそらく、遠吠えが聞けるだろう」


僕たちは息を潜めて待った。あたりは静寂に包まれ、聞こえるのは風の音と、遠くで鳴く野鳥の声だけだ。タカシの隣で、僕は彼の興奮が伝わってくるのを感じた。彼は、この瞬間をこのリストに加えた時から、ずっとこの体験を夢見てきたのだ。


数分後、その音は、僕たちの予想を遥かに超えて響き渡った。


ゴオオオオオオオオオオッ!


地を揺るがすような、圧倒的な音圧。それはただの獣の鳴き声ではない。このサバンナの主権を宣言する、荘厳な、生命そのものの叫びだ。一瞬にして全身の毛が逆立ち、僕の心臓は激しく鼓動した。恐怖、畏敬(いけい)、そして言いようのない感動が同時に押し寄せてきた。


僕が震えながらタカシの顔を見たとき、彼の表情は忘れられないものだった。


彼は、泣きそうなほど深く目を見開き、恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべていた。その瞳は、暗闇の中で(かす)かに反射するライオンの瞳のように、輝いている。


「すごい…」タカシは震える声で呟いた。「これだ、これなんだよ…」


彼は目尻に浮かんだ一筋の涙を拭うこともせず、空を見上げた。


「**僕は、今、生きている。**この地球という奇跡の中で、最高の生を味わっている…」


そして彼は、次の瞬間、満面の、この上なく幸せそうな笑顔を僕に向けた。


「はぁ〜、死にてぇ〜!」


いつもの口癖だったが、この時のそれは、今まで聞いたどの口癖とも違った。「死」への願望というよりも、むしろ「ああ、最高の生だ。この人生の集大成としての死は、どれほど素晴らしいものだろう」という、極限の達成感と喜びの叫びに聞こえた。


タカシは静かにカバンから小さなノートを取り出し、ペンを走らせた。


「よし、リスト達成。最高の気分だ。この体験が、僕の『死の質』を確実に一段引き上げた」


彼は、リストの「ライオンの咆哮(ほうこう)」の項目に、太い赤ペンで力強くチェックマークを付けた。そのチェックマークは、単なる旅行の思い出ではなく、彼が積み重ねる「最高の人生」の、確固たる証のように見えた。


ライオンの咆哮(ほうこう)が消えた後の静寂の中で、僕にはタカシの生き方が少し理解できた気がした。「死」をゴールに定めることで、彼は「生」の価値を無限大に高め、誰よりも強烈に、そして幸せに、人生という冒険を歩んでいるのだ。


________________________________________


(さらに数年後、35歳になったタカシは次の項目に挑戦していた)


・「生」の試練


タカシが35歳になったとき、彼はリストの次の項目に挑戦した。「無人島で一週間自力で生き抜く」。


無人島の熱された砂浜で、僕は彼を見送った。彼は最小限のサバイバルキットだけを持ち、別れ際にいつもの口癖を言った。


「はぁ~、死にてぇ〜。最高の孤独だろ?」


一週間後、迎えの船で再びその島を訪れたとき、タカシは日焼けし、頬は少しこけ、まるで別人のように野生化していた。しかし、その瞳は、これまでになく澄み切った、強い光を放っていた。


「どうだった?無人島での一週間は」僕は訊いた。


タカシは渇ききった喉を潤した後、興奮した声で答えた。「最高だったよ、友人。初日は火も起こせず、飢えと孤独で、本当に死がすぐそこにあると感じた。でもな、あの瞬間、生きることへの渇望が、僕の体の中で爆発したんだ」


彼は熱っぽく語った。


「生きるためにココナッツを割り、雨水を集め、眠れない夜に空を仰いだ。僕の人生の中で、『生』の感覚が最も強烈だった一週間だ。死をゴールとする僕にとって、この極限の『生』を味わい尽くすことは、死の質を究極まで高めるための必須プロセスだった」


彼は笑った。「最高の準備ができたよ」と言って、彼はリストの項目に力強くチェックマークを付けた。彼の身体は疲弊していたが、精神はどこまでも満たされていた。



(そしてタカシのリストには「45歳:宇宙から地球を見る(もし費用が許せば)」という項目がありましたが、実際の宇宙旅行は彼の財力をもってしても容易ではありませんでした。

そこでタカシは、宇宙旅行に最も近い代替手段として、**高高度気球(成層圏バルーン)**による旅行を選びました)


________________________________________


(その数十年後、タカシは結婚します。変わった性格であるが故に、あまりモテることなく晩婚だったが、タカシにとっては最高に愛している妻と出会うのが遅かろうが、早かろうがそこは大きな問題ではなかった。)


50歳:最高の食卓


そして、時は流れ、タカシが50歳を迎えた。彼の「最高の瞬間リスト」は、大掛かりなものばかりではなかった。


「50歳:人生で最も愛する人と、最高の料理を作る」


50歳の誕生日。タカシは、彼が「人生で最も愛する人」と呼ぶ妻と二人、自宅のキッチンに立っていた。妻が選んだメニューは、二人が初めてデートした時に一緒に作った、ごく普通のミートソースパスタだった。


「最高の料理は、最高の食材から生まれるんじゃないわ。最高の時間と、最高の愛から生まれるのよ、タカシ」


妻は笑い、タカシの頬についたソースを拭き取った。二人はキッチンで他愛もない話をし、笑い、ミートソースの温かい匂いが部屋を満たした。


すべてが完成し、二人が食卓に向かい合ったとき、タカシは妻の手を握った。


「これが、僕のリストの最高の瞬間だ」


タカシは妻の瞳を見つめた。「最高の人生を歩んできた結果、僕は君と出会い、そして50歳という節目に、こんなにも穏やかで、満たされた時間を共有できている」


彼は深く息を吸い込み、そして、愛と感謝を込めて呟いた。


「はぁ~、死にてぇ〜!」


妻は微笑み、タカシのパスタ皿にチーズをかけた。「今は、最高の人生を味わう時よ。最高の死は、その後にね」


タカシはパスタを口にした。それは、彼がアフリカで食べたどんな珍しい料理よりも、無人島で手に入れたどんな獲物よりも、魂が震えるほど美味しかった。


________________________________________


(場面はさらに数十年後、タカシの自宅の書斎で、彼とぼくはリストにあった『自分の生きた証となる本を一冊完成させる』という目標に取りかかっていた)


・「死の質」を巡る書


タカシが60歳を迎える少し前、僕は彼の自伝的な著作『死の質(Quality of Death)』の最終原稿を、彼の書斎で読んでいた。


書斎は明るく、窓の外には手入れの行き届いた小さな庭が見える。歳月を経て、タカシの口癖は穏やかになったが、その眼差しは若い頃と同じ、迷いのない輝きを放っていた。


「どうだ?僕の『生きた証』は」タカシは笑いながら、温かい紅茶を差し出してくれた。


彼の著作は、若き日の「はぁ~死にてぇ〜」という口癖の真意から始まり、アフリカの咆哮、無人島でのサバイバル、高高度気球による旅行、そして愛する妻と出会い、共に過ごした日々――リストに記された全ての「最高の瞬間」を巡る、鮮烈な記録だった。


特に心を打たれたのは、彼の独特な人生観だった。


「私が『死にたい』と願うのは、生を否定するためではない。むしろ、生を無限に肯定するためである。死という絶対的なゴールを設定することで、そのゴールへ向かう生の一歩一歩が、かけがえのない価値を持つ。後悔のない生こそが、最高の死の土台となるのだ」


「まるで、人生を逆算して設計した哲学者のようだ」僕は原稿を閉じ、彼に言った。


「感謝するよ。まさに、僕が表現したかったことだ」タカシは満足げに頷いた。


「この本が完成すれば、リストの『自分の生きた証となる本を一冊完成させる』が達成されるわけだ。これで君の『最高の瞬間』は、ほぼ完了に近づくわけか」


タカシは静かに、そして深く頷いた。


「ああ。この本には、僕の人生のすべてを注ぎ込んだ。僕がなぜ生き、何を喜び、そしてどう死にたいかを、正直に綴った。もう、この世界に、僕がやり残したことは一つもない」


その言葉には、一切の虚勢や諦めは感じられなかった。あるのは、長きにわたる旅を終えた旅人のような、清々しい達成感だけだった。


「人生で一度しかできない『最高の死』を迎えるために、最高の準備が整った、というわけだ」


僕は尋ねた。


「タカシ。君にとって、最高の死とは、一体どんなものなんだ?」


タカシは窓の外の庭に目を向けた。彼の瞳は穏やかで、遠い未来を見据えているかのようだった。


「それはな、友人よ。愛する妻に看取られ、君のような友人たちとの最高の記憶を抱え、**『ああ、最高の人生だった。もう思い残すことは何もない』**と、心から満足して、自ら幕を引くことだ」


彼は笑顔で付け加えた。


「もちろん、その瞬間に『はぁ~死にてぇ〜』と、最高の感謝と達成感を込めて口にできたら、それこそが究極の死の質だと思っているよ」


僕たちは顔を見合わせて笑った。その笑い声は、彼の本が完成したことへの喜びであり、彼が彼の哲学を貫き通したことへの敬意でもあった。


タカシは僕の読んでいた原稿を手に取り、そっと表紙を撫でた。


「これで、僕の人生の最高のキャンバスが、完璧に色で満たされた。あとは、この美しい絵を、静かに鑑賞しながら、その瞬間の訪れを待つだけだ」


彼にとって、この本は単なる著作ではない。「最高の死」を迎えるための、最高の卒業論文であり、「生きた証」そのものだった。


________________________________________


(あれから数ヶ月後のことだった......)


・「最高の死」の仕上げ:記憶図書館にて


タカシが60歳を目前にした、穏やかな秋の日だった。


僕の目の前には、タカシの書斎の風景がある。数日前に、突然の原因不明の病で、彼はあっけなくこの世を去った。あまりにも唐突な幕引きだった。アフリカの咆哮を聞き、愛する人と最高の料理を作り、まさに「最高の死」を迎えるための準備が整ったばかりだというのに。


彼のデスクの上には、書きかけの原稿が散乱し、その真ん中に、僕宛ての封筒が置かれていた。日付は、彼が倒れる前のものだ。


僕は震える手で封を開けた。中には、タカシの丸い、しかし力強い文字が並んでいた。


________________________________________

(以下に手紙の内容が続く)


親愛なる友人へ。


この手紙を君が読んでいるということは、どうやら僕は「最高の死」の瞬間に立ち会う機会を逃してしまったようだ。まったく、人生は何が起こるかわからない。死の質が悪いったらありゃしない!


最高の人生を歩んだのに、最高のゴールテープを切れないのは、あまりにも悔しい。だが、僕のリストにはまだ残された希望がある。


「60歳:自分の生きた証となる本を一冊完成させる」。これは、僕の人生の集大成であり、僕の哲学そのものだ。


友人よ。君に頼みたい。この、僕の**未完の「死の質」**を、君の手で完成させてほしい。


最高の生を記録したこの本を世に出すことで、僕の「生きた証」は完成する。それが、僕にとっての最高の死の形となるだろう。


本の完成には、君の助けが必要だ。君の記憶、僕たちの共有した時間、そして僕の人生の細部を正確に記録するために、ある場所へ行ってほしい。


**記憶図書館**へ。


そこは人々の記憶を保管している図書館らしい。ある機械で、人の頭の中にある記憶を鮮明に本に写してくれるそうだ。なぜそこなのか、仮に表向きに本を出した時に、僕の思っているのと違う形で世に出される可能性を少しでも減らしたい。


僕はなるべく原稿の内容をそのまま残しつつ、君が見てきた景色を保管したい。だから君には、先に僕の原稿をすべて読んで頭に入れてからそこに行けば、君の記憶と僕の残した資料を照合し、僕の生きた証を完璧な形で再構成してくれるはずだ。


頼む。君がこの本を完成させた時、僕の人生は、真に最高の幕を閉じる。


ありがとう。最高の友人へ。


タカシより


________________________________________



僕は涙を拭い、タカシの願いを継ぐ決意をした。


数日後、タカシの原稿をすべて読んだ僕は足早で、山奥に静かに佇む『記憶図書館』を訪れた。そこは、世界中の人々の記憶の断片、感情、体験がブック化され、保存されている場所だという。


重い扉を開けて入った先には受付があった。何やら受付には、後ろを向いて、すこぶる背が高く、髪は輝いている紙のように銀色で、真っ黒なジャケットなのか、この図書館の制服であろう服を着ていて、受付で立ちながら、片手で真っ黒な本を読んでいる司書さんらしき人がいる。


「あの、こんにちは!」ぼくはタカシの『生きた証』を早くブック化してやりたい思いで急いで受付へ走って挨拶した。


「あらあら、あまり図書館の中で走る大人は見かけませんね。どうやら何かありましたね。私はこの記憶図書館の司書です。名前は......」


司書さんが自己紹介しようとしたとき、話は遮られた。


「あ、あの......。記憶を保存してほしくてきました」慌てたぼくは司書さんに話しかけた。


「ふふふ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。私の名前は槻と申します。一旦深呼吸してください。これをあげます。」


槻は受付の上にあった、買ったばかりのほうじ茶を渡した。


「一旦それを飲んで落ち着いてください。あなたの記憶はなくならないはずですよ。」


槻は本来館内では飲食禁止であることを承知の上で、暖かい顔で言った。

このようなルールに縛られない、訪れてくる人の気持ちや感情を瞬時に見抜いてからの柔軟な対応力は槻のお得意とするとこだった。


「落ち着きましたら、こちらの用紙に必要事項を記入して、身分証明書も一緒にご提示してください」


数分後、僕は無言でペンを走らせた。


ぼくはタカシとの思い出を鮮明に思い返しながら、用紙を槻に渡して、ぽつりと一言呟いた。


「僕の記憶は、タカシの記憶なんです......」僕はその一言を伝えた後に頭を下げた。


槻はその明らかに言葉足らずな発現に対して、優しい顔、優しい声で「そうなんですね」と答えた。

槻は続けた。


「私に任せてください。あなたたちの記憶はしっかりと保管させていただきます」真剣な顔で槻はいつも以上に強気な顔で言った。


僕は、槻さんがタカシのことをまったく知らないのにもかかわらず、詳細を聞かずに、受け止めてくれるその姿勢に感動した。あなたの記憶ではなく、あなたたちの記憶と言ってくれたことが、なんだか安心感を与えてくれた。


僕は受付の横にある部屋に誘導された。


「それではこの機械であなたの記憶をブック化します」


「それではいいですか、できるだけ鮮明に記憶を思い起こしてください。あなたたちの素晴らしい記憶を」



記憶の再構築が始まった。

目を閉じると、僕の頭の中で、タカシの人生の映像が鮮明によみがえる。

アフリカの星空の下、**「はぁ~死にてぇ〜!」**と叫ぶ、若き日のタカシの恍惚とした笑顔。

愛する妻と、人生で最高の料理を作り、満面の笑みで乾杯する、幸せそうなタカシ。

そして、僕と他愛もない話をし、未来の「最高の死」について熱っぽく語る、日常のタカシ。


僕の記憶と、図書館の機械が融合し、タカシの人生の全容が、まるでそこにタカシ自身がいるかのように、完璧に描き出されていく。


数分後、僕は一冊の真新しい本を受け取った。タイトルは『死の質』。タカシの未完の原稿が、僕の記憶と愛によって、完璧な最終章を迎えていた。


最終ページには、タカシの言葉が、彼の人生の終焉として、力強く刻まれていた。


「最高の生を歩み、愛と達成感をもって人生という名のキャンバスを完璧に塗り上げた。これで、悔いは何もない。友人たちよ、ありがとう。さようなら。…はぁ~、死にてぇ〜!」


僕は本を抱きしめた。この本は、タカシの肉体的な死を乗り越え、「最高の死」という彼の人生哲学を、完璧に昇華させた証だった。


タカシは、肉体は失ったかもしれない。しかし、その「生きた証」は永遠に残り、彼の望んだ通りの、最高のゴールテープを切ったのだ。僕には、タカシの、満足げな笑顔が見える気がした。



________________________________________


(ここから現在である本を読み終えた篠原陸の場面に変わる)


・『死の質』を読む男


篠原は黙って、本を閉じて、脇に抱えながら、ゆっくりと受付へ足を進めた。


「槻さん、この本はすごかったです」とても落ち着いた声で篠原は言った。


「それはよかったです。心なしか、篠原さんの顔色や表情が来たときとは違っている気がしますね」


受付のカウンターで作業をしていた槻は顔を上げて、微笑んだ。


「僕は、ずっと人生に希望が持てませんでした。朝起きて、仕事して、夜が来るのを待つだけの毎日。正直なところ、漠然と『死にたい』と思っていました。この本に出てくるタカシさんの言うような、死を望むというよりは、生の意味が見つからない、という状態でした」


槻は黙って耳を傾けた。


「最初タイトルを見たとき『死の質』…不謹慎だと思いましたよ。でも、ページをめくって、タカシさんがどれだけ楽しそうに『死にたい』と言いながら、誰よりも真剣に『最高の人生』を設計していたかを知って、衝撃を受けました」


篠原は持っていた本のページをめくり始めた。タカシが**「死は一度しかできない貴重なもの。だからこそ、最高の状態で死にたい」**と語った部分を指差した。


「この部分を読んだ時、頭を殴られたようでした。『最高の死を迎えるために、最高の生を送る』――この逆説的な考え方が、僕の心を大きく揺さぶったんです」


男性は静かに涙を流し始めた。


「僕も、死ぬことはできます。いつでも。でも、もしタカシさんの言うように、死が『人生でたった一度しかできない貴重な体験』なら、こんな空っぽでみすぼらしい状態で、それを迎えていいのか? と、ふと思ったんです」


篠原は続けた。


「タカシさんがアフリカで咆哮を聞いた時の記録を読みました。その時のタカシさんの喜びと、**『僕は、今、生きている』**という言葉。僕は、自分の人生に、そんな強烈な『生きた証』が一つもないことに気づきました」


タカシの哲学は、篠原の心に突き刺さった。


「タカシさんは、『死にたい』という願望を、『生きる目的』に変えた。死をゴールにすることで、生の一歩一歩に絶対的な価値を与えたんです。僕も、真似をしてみようと決心しました」


篠原は顔を上げた。その瞳には、先ほどここを訪れた時とは違う、微かな光が宿っていた。


「タカシさんにとっての『最高の死』は、僕にはまだ遠い目標かもしれません。でも、『最高の生を歩まなければ、最高の死にはたどり着けない』。そう考えると、今日のこの退屈な一日も、最高の死への貴重な準備期間に変わるんです」


篠原は立ち上がり、槻に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。タカシさんたちの残してくださったこの本は、僕に**『死を最高の体験にするために、今を生きる』**という、新しい希望を与えてくれました。僕も、自分の『最高の瞬間リスト』を作り始めます」


そう言って、篠原は本を返却して図書館を去っていった。その背中には、以前のような疲弊した影はなく、小さな、しかし確かな一歩を踏み出す意志が感じられた。


槻は一人、静かに一呼吸を置いた。タカシは、肉体的な死は早すぎたが、その哲学は本という形で残り、今、この世界で、確かに誰かの生を救っている。


「最高の死の質が悪い」


槻は微笑みながら、心の中でタカシに話しかけた。


「そんなことはないですよ、タカシさん。あなたの死は、誰かの人生を新しくし始めました。これほど『質の良い死』は、他にないんじゃないですかね...」


タカシの笑顔が、図書館の中に、温かい琥珀色の光となって広がっていくのを感じた。彼の「生きた証」は、未来へと、確かに続いていた。



________________________________________


(現在のある日の一コマ)


お昼時、おじいさんがインターホンを鳴らした。


「はーい」


中からは元気なおばあさんが出てきた。口元にはパスタソースがついている。


おじいさんは一呼吸置いてから、口を開いた。


「こちらをずっと借りたままでしたから、返しに来ました」おじいさんは穏やかな表情で言った。


「あら、○○さん!お久しぶり!」おばあさんは元気に答えて、おじいさんの手元を見た。手には分厚い原稿用紙が握られていた。


おばあさんはニッコリと続けた。


「わざわざありがとうございます。あの人も喜ぶでしょうね。ほら、入って!入って!ちょうどパスタを作ったとこよ!一緒に食べましょうよ!」


おじいさんが握っていた原稿用紙はかなりの月日が経ったものだろう。

当時は真っ白いきれいな原稿用紙の色が、今では琥珀色に変色していたことは、この二人を除いて、誰も知らない。






記憶図書館_第2話のテーマは<死の価値観>




ここは記憶図書館。


山奥にある古びた大規模図書館である。


ここは他の公共図書館とは違った特徴がある。


それは一般人の記憶が収められている。


辛かった記憶。楽しかった記憶。嬉しかった記憶。悲しかった記憶。怒りの記憶。


たくさん納められている。


そんなの興味があるのかと思うが、意外にも人は訪れる。自分の記憶を本にするため、記憶を思い出すため、誰かの記憶を読むため。


今日もほら、誰かが満足そうな顔をしてこの図書館を後にする。




次はどのようなお客さんが来るんだろうか。


そしてどのような記憶を持っているのだろうか。


読者はどのようなことを思うのだろうか。




今日もほら、何かの目的で人が訪れてきたようだ。




司書:槻

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