プロローグ 『世に言う禁忌、神が言う救済』
雨が降り泥濘む地面を蹴って山道を走り抜けていく。だが、中々スピードが出ずに差は縮まっていくばかり。止まれない状況だが、背中から落ちそうになると立ち止まり背負い直し再び走り出す。それ程大切な存在。それが今にも息を引き取りそうな傷を負い、弱っている。
後ろから聞こえるガチャガチャとうるさい鉄の音が段々と近くなっているのを感じる。もう後がない。
「私を置いていってくれ……お前は今死ぬべきじゃない」
耳元で掠れた声で囁くその声は降雨音と地面を蹴る音で掻き消えてしまいそうな程弱く小さな声だ。
「そんなこと出来るわけが無いだろ! 余が助けるのだ!」
草木が足を絡め、ツタが身を叩く。何度も転びそうになっては大事な人を落とすまいと踏ん張る。己を顧みず走り続けるその勇姿も彼らからすればたまらなくうっとおしく、慈悲など当然ない。
矢が空を裂き、頬を掠め赤い血が垂れだし雨に流されていく。しかし足が止まる事は決してない。このまま逃げ切れれば雨で通った後も消える。逃げ切ることが出来る。
そんな単純な夢を浮かべながら走り続け、音の数が少なくなっているのを感じ取り思わず薄い笑みを浮かべる。そしてその笑みはすぐに歪む。
何が起きたのか分からない。視界には何も映っていないが、確かにそこには透明な壁があり、行く手を阻む。それもただの壁ではない。身体が痺れ視界がぐらぐらと定まらない。対魔用の結界が存在すると聞かされた事があったが、これほどまで効果抜群だとは誰も知らなかった。ガチャガチャとした音も止まりぼやけた剣先が自分の方へ向けられている。
横に倒れたまま身を起こさない共に覆いかぶさり喚き、叫び、泣く。そんな涙も命乞いも雨の音にかき消されてなのか、彼らの耳には届かない。
何かが壊れるような音がした。心の奥底、今までの基盤となっていたもの、それが壊れてしまった。何が正しいのか、何を信じれば良いのか、頭の中がぐちゃぐちゃとなり今までは出来ていたはずの人間への理解が出来なくなる。
「人間は良い奴らだって……争う必要は無いって言ってたじゃん……余は何を信じれば良い……?」
「に……げて……日を改めましょう……手を出しちゃだめ……――」
すでにその目は死んでいた。虚ろな瞳には何も映っていない。ただ最期にさらに迷わせる言葉だけを残して静かに目を閉じる。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ殺される……!! 人間に殺される……!!
***
厚い雲が空を覆い、昼間というのに夕暮れの様に薄闇に包まれていた。遠くに行くにつれその薄闇は濃く、暗くなっていき、それが段々と広がっているようだ。天気が不安定のせいか村はいつもより静かな時を過ごしている。そんな静寂を壊す音が森に響き渡り、鳥が騒がしく飛び、森がざわめく。一度ならず、二度、三度と地響きここまで伝わり、大きな魔法を使った余波を感じとれる。
「今日は荒れていますね。洗濯物も乾きそうにありませんし、取り込みますか」
風も出始め、いよいよ天気が怪しくなってくる。一枚の洗濯物が風に飛ばされ、落ちる。面倒ながらも拾いに向かい、騒がしい森を見る。何かがガサガサと草木を雑に掻き分ける音が近づいてくる。ただの小動物ではない。
「――ハァ、ハァ……」
もっと大きなもの、だがあの地響きを起こせる程の大きさでもない。人間と同じ程の大きさだろう。
そんな予想は当たり暗い森から顔を出したのは傷がつき、泥に汚れ、フラフラとする少女。しかしその額には人間にはない角が生えている。そう、魔族だ。
誰かに追われているのだろうか、なぜ森から来たのか。そんなことは後回しに体が動き、倒れ込む身体を受け止める。
「たす……けて――」
そう言って少女は眠るように目を閉じた。
魔族と人間は相反する存在であり、境界線では紛争が絶えない。魔族の己が一番であるという強い思想からくる衝突だ。
我々人間は神によって生み出され、神から加護を頂き、神を信じ生きてきた。しかし魔族は己の力を信じて生きて来た存在。信仰も祈りもない。個人の実力によって地位が決まり。そして一番強いものがトップになる力の社会。弱き者は淘汰され、生きていくことは出来ない。
だが、神は言った――
『命あるもの上下を無として、慈愛と正愛で接しよ』
この旧聖書の言葉を今でも信じ私は生きている。たとえ魔族だろうと、困っているなら手を貸す。それが神から、父から習った事である。それでも父の末路を知ってしまっているからこそ、躊躇いが手を震わせる。――それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。
これが彼女との最初の出会いであり、世に言う禁忌、神が言う救済である。
よろしくお願いします。ほんっとに。ね。




