雪中の梅を眺む早朝に、己を省みる
微かな梅花の香とともに、肌寒さを感じて目を開いた。
ひとたび目を覚ますと、刺すような寒さをよりはっきりと感じる。
雪でも降っているのか――そう思って少し体を起こし、縁側の方へ目を遣る。
すると、一部の格子が上げられているではないか。どうりで寒いはずである。
(まだ夜半の頃合いでしょうに……いったい誰が上げたのだろうか)
誰か起きていたら一緒に格子を下げて欲しかったのだが、辺りはしんと静まり返っている。
まだ起き出すには早すぎるが、寒さのせいで意識がはっきりしてしまった。とてもではないが、再び床に就く気分にはなれない。
寝るのは諦めるしかなさそうだ。
思わず嘆息してしまった。
◇◇◇
局から縁側へ出ると、外には雪が降り積もっていた。高欄や縁、梅の枝にほんのりと白い雪が被さっているのが見える。
雪が降り積もった梅。陽が昇れば皆が目するはずだ。
今日の宮中は、梅と雪の話題で持ちきりになるだろう。
朝日を受けてきらめく雪中の梅を、頭に思い描いてみる。
確かに、いとをかしき心躍る光景だとは思う。
だが、私はそれを愛でる場に参加したいとはあまり思わない。いくら素晴らしくとも、その景色からは雪が切っても切り離せない。
楽しむにはまず寒さに耐える必要があるが……それはご免こうむりたい。
私は、風情よりも暖が欲しい。
火桶や炭櫃、あつもの。あたたかいものを思い浮かべたら、急に寒さが耐え難く感じられてきた。
やはり、寒いのはどうも苦手だ。外で暇をつぶすのは難しそうだ。
まだ宮様――お仕えする主人の御前に上がるには早い時間だ。
仕方がない。ひとりで起きているのは暇だが、しばらくは局で待つしかないだろう。そう考え、奥へと引き下がった。
局の中で周りを見渡してみるが、やはりこの場の女房――先輩がたはまだみな寝入っている。
月あかりに照らされ、寝静まっている皆様の纏う色彩がぼんやりと浮かび上がる。
この時期にふさわしい、梅にゆかりのある襲が多いようだ。
品の良い香が焚きしめられた、鮮やかな衣の海を流れるつややかな髪。
常ならざる美に、思わず魅入ってしまった。
ぼうっと眺めていたら、冷たい隙間風で現実に引き戻された。寒い。
本当に、いつの間にか格子を上げてしまったのは一体どこの誰なのか。
(起き出した方が火桶なり炭櫃なり、何か暖を取れるものを持ってきてくださると嬉しいけれど)
そんなことを考えながら、自分にあてがわれている場所へ戻った。そして、しっかりと衣を引き寄せて丸まった。少しでも暖を取るために。
◇◇◇
ややあって、遠くから衣擦れの音が聞こえてきた。
顔を上げてちらりと様子を伺うと、パチパチという音が耳に入った。炭のはじける音。
炭櫃だ。誰かが炭櫃を運んでいるのだ。
喜びのあまり、勢いよく立ち上がった。運ぶお手伝いをし、あわよくば共に暖を取らせてもらえれば――そう思って音のする方へと近づく。
だが、喜びはほんの一瞬。運んできた人の姿と香の匂いに気づいた瞬間、全身の血の気が引いた。
炭櫃を運んでいたのは白梅の君――宮様にお仕えする女房の中でも筆頭と言える、とても高い地位におられる方だ。
白梅の君と目が合う。視界が、世界が一瞬で引き絞られたような心地になる。
目上の方に雑用まがいのことをさせるなんて、とんでもない事だ。ましてや、ここで一番の新入りである私が。
そうだ。今の私は屋敷の奥で皆に傅かれていた娘ではない。人に仕える身なのだ。自ら動かずに待つなど……あってはならない事だ。
お許しを得られるかはわからないが、謝るしかない。お傍に駆け寄り、頭を下げる。
「大変申し訳ございません! 白梅様が炭櫃を運ばれている中、私はのうのうと……」
周りの方々を起こしてしまわないよう声を抑えつつも、とにかく必死に謝罪した。この場で首が飛ぶのではないかと、内心で震えながら。
後ろ盾をなくした後、さまざまな縁に助けられ、奇跡的に手に入れた身の置き場を失う――そんな恐怖で頭が満たされる。
外の寒さなど、もう感じなくなっていた。
恐れのあまり固まってしまった私にかけられた言葉は、とても優しいものだった。
「よいのです、菫。気にしないで。むしろ、謝らなければならないのは私の方です。私が格子を上げてしまったから、寒くて目が覚めてしまったのでしょう?」
普段通りの、おだやかな声音。それを聞いて、わずかに気持ちがやわらいだような気がした。
この方の声は、不思議と聴く者の気持ちを穏やかにさせる。
だが、ここで気を緩めてはいけない。失態を犯したのは私だ。謝るべきなのは白梅の君ではなく私――菫なのだと、私自身の言葉で主張しなければ。
貴族社会である宮中において、上下関係は遵守すべき重要な事柄だ。それを怠った私は罰されて然るべきなのだ。
「白梅様が私などに謝る必要などありません!非が私にあることは明らかでございます」
頭を下げる私の上で、ふっと少し微笑まれたような声が聞こえた。
「菫、私も本当に申し訳ないことをしたと思っているの。だから……これでは堂々巡りになってしまうわ。お互いに落ち度があったという事で、この話はもうやめにしましょう。だから、どうか頭を上げて」
腑に落ちないと感じつつも、お言葉に従って頭を上げた。あまり強情を張りすぎるのも良くない。
私よりも背の高い白梅の君を、ほんの少し見上げるようにして視線を合わせる。
「まだ皆が起き始めるまで時間があるわ。それまで、少しだけ二人でお話をしましょう?」
少しだけ首を傾け、まるでいたずらっ子のような声でそう仰った。
白梅の君の肩から、御髪がさらりとすべり落ちた。おだやかな月光を受け、夜闇の中に御髪の艶が映える。
それに梅重の衣が調和しており、えもいわれぬ色香を感じる。まるで天女を見ているかのような、そんな心地を覚える。
艶のある雰囲気に反して、浮かべる表情はどこか幼く、紡がれた言葉はいたずらっ子のようなあどけなさ。
美しさと可愛らしさ――共存しえないと思える要素が、ごく自然な様子で調和している。
そんな姿に見とれて、私はどうもぼんやりとしてしまったようだ。
気づけば、言葉すら発さずにこくこくと頷き、白梅の君のお言葉に従っていた。
◇◇◇
ぼうっとした頭のまま、言われるがままに白梅の君の局へとお招きを受けた。
「どうぞ、お座りになって」
「……お言葉に甘え、失礼いたします」
促されるままに円座の上に座る。
上位の女房には、個人の局が与えられている。ここは、白梅の君の私的な空間だ。
普段は衣からほのかに感じる、白梅の君が焚きしめている香がよりいっそう強く感じられる。
白梅の君が、燭台にそうっと手を翳しているのが目に入る。
ややあって、明かりが灯った。
摩訶不思議な術を遣い手である白梅の君は、何もないところから炎を生み出すことができるのだ。
そういえば……あれは、私が宮仕えをはじめて間もない頃。白梅様が行使する術を不思議がっていた私に、手ずからあれこれと説明してくださったことがあった。
「無から生み出している訳ではないのよ」と仰っていたのだけは覚えているのだが、そういった方面の学が無い私には難しい話が多かった。
悔しいことに、細かなことはうまく理解することができずじまいだ。
やはり、白梅の君は不思議なお方だ。
人を惹きつけてやまない美しさ、お人柄……そして人知を超えた力。人に身をやつした神霊の類なのでは、なんて時折思うこともある。
そんなこと、ある訳がないのはわかっているが。そう思わさせるだけの何かを、白梅の君はお持ちだ。
非日常的な状況のせいか、どうにも気持ちが落ち着かず、ついそわそわしてしまう。思考もうまくまとまっていない事が自分でわかる。
ぼんやりとした光に照らされる中、私は辺りをきょろきょろと見回した。
あまり褒められた行為ではないが、なにせ普段は立ち入ることのない一人用の局である。しかも、白梅の君の局。
気持ちが落ち着かないせいもあってか、つい好奇心が出てしまった。
局の主たる白梅の君は、奥の方で何やらごそごそとしている。探し物をしている様子だ。
ややあって、「あったわ」と喜色に満ちた小さな声をお上げになった。
探していたもの――漆塗りのつやつやとした小箱を持ってこちらへ寄ってくる。
「菫、手を出して」
言われるがままに手を差し出す。すると、小箱から取り出された粒が三つ載せられた。
干した果物のようだ。
「これは……」
「秘蔵の甘味。皆には内緒よ」
白梅の君は、楽しげなお声でそう言った。やはり、いたずらを楽しむ子供のような雰囲気が漂う。
お言葉に甘え、いただいた粒を口に含む。
ゆっくり噛み締めると、じんわりと優しい甘みが口中に広がっていく。
「干した棗ですね……甘味は、久しぶりです」
白梅の君はいっそう優しげに微笑んだ。
「表情がやわらいだ。やはり、甘味は人に安らぎをもたらすのね」
「えっ。もしや、私はだらしのない顔を晒して……!?」
思いもよらぬ言葉に、思わず動揺してしまった。久方ぶりの甘味に、気が緩みすぎてしまったのか。
内心慌てふためいている私の姿を見て、白梅の君は小さくお笑いになり「気にしないで、だらしのない顔なんてしていないわ」と仰った。
「ごめんなさいね。緊張しているところに変な言い方をして。真面目なあなたに余計な気苦労をかけてしまったわ」
「決して白梅様のお言葉に非などありませんから、どうか謝らないでください」
白梅の君に手で制された。これ以上、謝る必要はない……という事だろうか。
少し間をおいて、白梅の君が口を開いた。
「あなたが出仕し始めてから三月ほどになるわ。ここでの暮らしには、少しは慣れてきたかしら?」
思いもよらぬお言葉に、今度こそ私は間抜けな顔を晒していたのではないだろうか。
ああ、自分のことばかりで頭がいっぱいになってしまっていて、全く気づけなかった。
白梅の君は、ずっと新入りである私を気遣ってくださっていたのだろう。
気にかけて頂いていたことに嬉しさを感じるとともに、肩の力が少し抜けたような気がする。
「はい、少しずつではありますが。未熟者ゆえ、まだまだ至らぬ点も多いかと思いますが……」
「未熟者だなんて。あなたは十分うまくやっているわ」
「それもこれも、宮様や白梅様……皆様がやさしく、あたたかかく導いてくださっているおかげです」
生家は名門といえる家柄ではあるが、両親は儚くなり、男兄弟もおらず、後ろ盾を失ってしまった。
男兄弟も両親もいない――後ろ盾を失った状態というのは、貴族社会においては死と同義。良縁も望めない、絶望的な立場だ。
そんな私に、宮仕えという道を示してくれたのが叔父だった。
かつて女房として出仕していたという母の縁を辿り、私の出仕先を見つけてくださったのだ。
私が出仕するに至った経緯を、白梅の君も思い出された様子だ。
「そういえば、貴女の母君は……宮様の母君にお仕えしていたそうね」
「はい。母上、そして叔父上……皆様が紡いでくださった縁を辿り、こうして生き永らえております」
「ご両親を失った貴女に向ける言葉として、あまり正しくはないかもしれないけれど……本当に、貴女は縁に恵まれているわ」
「お言葉の真意は理解しているつもりです。後ろ盾を失った身としては、宮様の下に仕えることができたのは本当にありがたいこと。まさに良縁に恵まれたと言えましょう」
最も力を持つ帝の妃がねである、宮様の影響下に身を置くことで私が得られるものは計り知れない。
やんごとなき方々との縁、自己研鑽の機会。そして、宮様――ひいては宮様の生家である左大臣家に仕える者として、庇護を受けること。
生家という後ろ盾を失った私が、本来は望むべくもなかったものの数々。
母が遺してくれた、私が今後も貴族として生きていくための命綱だ。
「菫。真面目さは貴女の美点だけれど、もう少し肩の力を抜くことを覚えた方がいいわ。あとは……感情の隠し方も」
白梅の君のお言葉に、私は目を見開いてしまった気がする。こういうところが良くないのかもしれない。
「私は……そんなに分かりやすいでしょうか」
「ええ、とても。でも、貴女はほんの少し前まで名家の娘として大切に育てられてきた子。出仕することなんて考えもしなかったはず。分からないことも、間違いも、あって当たり前の事よ」
白梅の君が、私の傍にそっと近づいてくる。そして、私の頭を優しく撫でてくださった。
「あなたはとても頑張っている。それに、とてもよく出来ているわ。だから、自分が不出来だなんて思わずにもっと肩の力を抜いて。困りごとや辛いことがあったら、私や周りの女房にもっと頼りなさい」
平静を保ちたいという自分の意思に反して、肩が震える。なんだか、目頭も熱くなってきた。心の中で、ぐちゃぐちゃの感情が洪水のように溢れそうになる。
「っ……ありがとう……ございます……」
何とか感謝の言葉を絞り出す。でも、涙は堪えなければ。
そろそろ宮様の御前に上がる前の、支度の時間が近いはずだ。ここで泣いたら、仕事に差し支えてしまう。
「菫、無理はしないで。御前に上がる時間を遅らせてもいいわ、皆には私から伝えるから」
私を気遣って、お優しい言葉をかけてくださる。
慮ってくださるのは本当に嬉しいことだ。けれども、私は頑張りたい。
新たな気持ちで、すぐにでも動き始めたいのだ。
「ご配慮……ありがとうございます。ですが……私は、すぐにでも動きたくて。ですから、普段通りにお勤めをさせて頂きたいです」
顔を上げると、白梅の君は「しょうがない子ね」といった表情でこちらを見ていた。
でも、止められはしなかった。
きっと私はひどい顔をしていただろうに、私の意思を汲んでくださったのだ。
白梅様に向きなおり、額づく。最大限の感謝の意を込めて。
「本当にありがとうございます、白梅様。本日より改めて、精一杯お勤め致します」
「真面目な子ね……。辛かったら、すぐに言いなさい。決して無理はしないように」
「はい、心に刻みます。この度は、お招きいただきありがとうございました。白梅様のおかげで、晴れやかな気持ちで一日を過ごすことができそうです」
立ち上がって、改めて白梅の君へ一礼する。
そして、局を辞した。
向かう先は、普段使っている共用の局。起き出した先輩女房の皆様に混じって、私は朝の支度を始めた。