無題
冷たい風が頬を刺す。
そこは、白銀の世界だった。
あらゆるものは凍結し、手も足も頬も何もかも、白く白く、冷たく、凍て尽くしていた。
「痛い」
声に出してみたが、喉がこの寒い空気が更に乾燥しているため、掠れていることに気付いた。
なんだか、生きていることも苦しくなってきちゃうな、これって走馬燈?
心なしか、人生の終わりを感じ始めていた、そう思っては、また頭の中で「生きて」と信号が発され、現実に引き戻される。
「ここを抜けて、もう少しするとロッジがあります。もう少し頑張りましょう」
「…はい」
後ろから男性の声がする。私が一人ではないことを更に思い出させてくれて、それだけでこの場からもう一歩足を先に進めようとさせてくれる原動力になった。
彼は、山岳・森林において、プロのアドバイザーである。そしてこの一般人には無謀かもしれない森抜けを一緒に歩いてくれる心強い仲間である。
***
この森を歩くことを決めた1ヶ月前、私は10年付き合っていた男と別れた。
その人は学生時代からの友人から始まり、学校を卒業したと同時に告白し、彼も同じ想いであることに感激し、付き合い始めた。
最初はどこにでもいるラブラブカップルだった。彼は優しく、紳士的でいつも私を気にかけてくれ、誕生日や記念日には毎回プレゼントをくれた。
しかし、5年を過ぎたとき、それは起こった。
結婚を意識し始めたのだ。若い男女のありがちな壁だが、これが私たちには高かった。
お互いの家への挨拶など、細かなことはすぐできる、と二人して先送りにした結果、彼は仕事に忙殺され、もともと細かいことで少し不満があった私はその姿が結婚を嫌がり、後回しにしていると思い込んだ。
「いつまで親への挨拶、しないつもり?結婚する気、ある?」
こんな言葉で締めくくるメッセージのやり取りが増えてきた。彼からの返信もまばらで、今までのマメさがどんどん薄れていった。
会えば、喧嘩ばかりでデートの回数も減った。私たちはお互いに疲れていた。
ある日、仕事が終わり、家に戻ると彼からメッセージが来ていた。
端的で短い文章でこう書かれていた。
≪1年、同棲してみないか?それでだめなら結婚も諦めて、お互い別の道を歩もう≫
それを見て、悲しいとか悔しいとか、そういう気持ちは湧きあがらなかった。それくらい、私たちの関係は冷めきっていたのだ。
私はそのメッセージに短く≪OK≫と返した。
その後、1年間、彼と同棲生活をした。お互いの元の住まいは残したまま、安いがそれなりに居心地のよさそうな部屋に、家賃は半分ずつ、家事は当番で。それでも楽しかった。最初の1ヶ月は私も変化のある生活に楽しさを見出して手料理を振る舞ったり、彼のためシャツをアイロンがけしてみたり、彼も、仕事終わりに帰りを待つ人がいる生活はいいな、と嬉しそうに話していた。
3ヶ月ほど、経ったある日。他愛無いことで喧嘩をした。同棲カップルあるあるの洗濯物脱ぎ捨て問題、飲みかけのペットボトル放置問題、しまいには使ったあとのシャンプーリンスの詰め替えしていなかった問題…等々、掘り出せば山ほどある。
喧嘩をしても、最初のうちは仲直りも早かったのに、次第に仲直りもせずに翌日に持ち越し、仕事が挟まれば、不機嫌がまた重なる。そしてまた不満が溜まれば、相手に当たってしまうのだ。
1年後、同棲期限の12月。世の中はカップルイベントのクリスマスの近い時期。
「どうだった?」
「…」
「満足いく、1年になったか?」
「…」
「俺は…ごめん、むりかもし「友達だったとき」
彼の話を遮り、私は話す。
「毎日が楽しくて、毎日がドキドキして、あなたを見るとさらにドキドキが増して」
「…」
「卒業式の日、勇気を持ってあなたに告白したのは私で、OKをもらったとき、嬉しくて嬉しくてどうにかなりそうだった」
「…」
「私、あなたの外見しか見えていなかったのかな?」
「…」
「中身をこの10年近く見つめてきたつもりだったのに、それを好きになれなかったのは、私があなたを結局外見でしか好きでいられなかったからなのかな?」
言いながら、涙がぽろぽろ出てきた。泣きたい訳じゃないのに、悲しい気持ちなんてほとんどないのに。私の方こそ、気持ちが薄れて彼をないがしろにしたのに。
俯き加減で、私を見ずにいた彼がそのまま話し始めた。
「…俺は、お前と学校で過ごしたとき、本気で好きになったよ。卒業式で告白を受けたとき、信じられない気持ちと、それを超えてくる感動で、俺も浮かれたよ」
「…」
「でも、」
一息ついて、彼がうつむいていた顔を上げた。
「…お互いに大人になったんだ。それが、俺たちの気持ちを遠ざけた」
「…」
「この1年、楽しかったよ、ありがとう」
そう言うと、彼は部屋を出て、2度と戻っては来なかった。
***
過去のことを考えながら、目の前の森を抜けていく。
昨日の今の時間、私はまだあの部屋にいた。ぼーっとして、何も考えられず、ただ起きた事実を反芻だけして、彼が出て行ったドアを見つめていた。涙はとうに枯れていた。
いい加減、体が痛いと感じ始めたとき、足元でカサっと音がした。
「…雪の森を、ガイドと一緒に歩きませんか…?」
それは、一面、白の世界に覆い尽くされた綺麗な森の写真だった。さほど高くはない金額で最寄りの駅からバスで30分、森の入り口から歩き始めて、白銀の世界を進むというアドベンチャー感覚のゆるい旅チラシだった。
キャッチの言葉をそのまま口にした私は、チラシの隣にあった携帯に手を伸ばした。
プルルルル…プルルルル…
「…あ、あのチラシを拝見して…はい、雪の森の…あの、一人なんですけど、予約できますか…?」
その電話の1ケ月後、私はこの場にいた。
「大丈夫ですか?」
「…!あ、はい…どうにか、ロッジ、まだまだ先っぽいですね」
「ええ、でももう少しですよ。よくここまで弱音吐かずに来れましたね、すごいです」
笑顔でガイドの人が、褒めてくれる。なんだかこそばゆいが、褒められることなんて社会人になってそうそうないので、素直に感謝の言葉を述べることにした。
「ありがとうございます」
「ほかの方も、ゆっくりではありますが、着実に進んでおられるので、このままのペースで行きましょう」
「はい」
寒々しい風が頬を刺す中、ゆっくりと着実に歩を進めた。
少しして、ガイドの言う通り、ロッジが見えてきた。見えてきた途端、不思議な感覚が私を襲った。ああ、終わってしまう…つらく苦しい道のりだったはずなのに、彼と過ごした1年より、全然苦しくなくて、むしろ清々しい気持ちになれている。
吹っ切れるつもりで、ここに来たのに、ここが愛おしく感じている。
ロッジに着くと、ここで一夜を明かして、翌日後半の道のりを抜け、解散となる旨がみんなに伝えられた。
夕飯はロッジの管理人が振る舞ってくれ、それが心に染みる温かいシチューで添え物の野菜やパンがおいしくて仕方なくて、半ばやけ食いのつもりだったのに、最後まで味わいながら私は平らげた。
夕飯後、お風呂も済ませて、少しだけ涼もうと、ロッジの外に出た。
夜は雪の世界とはいえ、どうやら気温はそこまで低くない様で、少し寒い程度で過ごしやすかった。
「お加減どうですか?」
「あ、ガイドさん…はい、大丈夫です」
「夕飯、他の皆さんより多く召し上がっていたから、大丈夫かなって…あ、これどうぞ」
ガイドさんが差し出してくれたのはココアだった。大き目のマグカップに注がれたココアの上には、白いクリームが乗っかっていて、今まさに注がれたばかりの湯気が寒い空気の中で濃く表れていた。
「ありがとうございます…女性で一人参加なんて目立ちますもんね、すいません、気を使わせて…」
「いえいえ、参加頂けてうれしいです。それに気を使っているというより、目についてしまって…」
「…変なことばかりしてますもんね」
あ、つい卑屈になってしまった。言ってから後悔が出てきた。ただでさえ、こんなカップルや友人同士で楽しむのが普通なガイド付き森林浴。雪の森なんてきれいな場所で一人でただ歩きにくる変な女。
ガイドさんが気に掛けるのもおかしな話じゃない、それを卑屈で返すなんて、我ながら最悪…。
自分で自分を責め立てて、私は頭の中で反省していた。
「あ、あの」
「あ、…すいません…今のは、卑屈になってしまって、忘れてください」
「いえ、すいませんでした。知りもしないで勝手にしておいて、迷惑でしたよね」
「いえ!…あ、むしろ、助かっているんです。参加者で一人、しかも女で目立つから…ガイドさんが、隣でアドバイスしてくれているから、安心して歩いてこれましたし」
「女性に気を遣うのは当たり前ですよ、でも、それ以上にあなたが頑張っているから、ここまで来れたんですよ。」
「…」
頑張っている。本当にそうだっただろうか。
これまでも、彼に、尽くしてきたつもりで、それが彼にとって重荷だった。それがあの別れを生み出した。
「頑張っても、…頑張っても、報われない時もあります」
「…」
「私はそれで、…大事な人を失いました」
「…」
「10年、…10年ですよ、長い時間、尽くしてきたつもりだった、なのに、変に気を持たせて、やっぱり合わないから無理だから、別れよう…?」
「…あ、あの」
「…ふっざけんじゃない!!!!!」
私は足物が雪なのも気にせず、ロッジから少し離れて、森の奥のほうに叫んだ。
「私はね!学校いた時から、あんただけをずぅーーーーーーっと見てたのよ!この先も縁がある、そう思って、やってきたのよ!支えたし!好きだから!なのに!勝手に同棲して決めようなんて言い出して!OKしたけどさ!私だって!それでだめなら諦めよう!なんて思ったけどさ!引き留めてほしいじゃん!あーーーーーーーもう!ばか!!!!!」
はぁ、はぁ、はぁ…、叫ぶだけ叫んで、最後は「ばか」の一言しか浮かばないなんて、言葉のボキャブラリーの少なさに情けなくなった。
けど、不思議と、なんだか、心が軽くなったのに気が付いた。
「森の寒さ、静けさが、気持ちを飲み込んでくれているんですよ」
「…お恥ずかしいところを見せました」
「いえ、本音が吐き出せて良かったですね」
「…はいっ」
***
女性の一人参加なんて珍しいと思った。
この旅チラシのアドバイザーとして、プロの森歩きのガイドとして、参加者全員を公平に見ていくのは、俺の仕事だから、最初は当然の気の使い方以外はしようと思わなかった。
森を抜け始めて少し経った頃、その女性は眼前の雪景色にはしゃぎもせず、ただ、じっと見つめていた。
気分でも悪いのかな?と心配になり、声を掛けようとした、その瞬間。
女性の目には涙が伝っていた。
涙は、朝の雪景色の白に反射してキラキラしていて、女性の長いまつげがパチ、パチと動くたびに光っていた。
多分、それを見てから、気に掛け、目が行くようになったのだと思う。歩くたびに何かを思い起こすように表情が変わり、沈み、また前を見据えて雪道を歩く。
少し後ろ寄りの隣から声を掛けるたびに、こちらを向いて、小さく会釈をする姿を眺め、会話を繰り返すうち、なんで一人で参加しているのだろう、と疑問が起こった。
参加者の私情なんて探るものではない、だが、気になってしまって仕方なかった。
夕飯で、ものすごい量を食べ終えた女性は、ロッジの外にいた。話を聞こうと思ったわけではないが、参加経緯くらいは聞いても不自然じゃないか、と思い、ロッジのキッチンにあったマグカップにインスタントココアを入れ、クリームをたっぷりにして、彼女に渡しに行った。
「お加減どうですか?」
「あ、ガイドさん…はい、大丈夫です」
「夕飯、他の皆さんより多く召し上がっていたから、大丈夫かなって…あ、これどうぞ」
ココアを渡すと女性は、小さく、ありがとうございます、といい、少しずつ熱いココアをすすっていた。
「女性で一人参加なんて目立ちますもんね、すいません、気を使わせて…」
「いえいえ、参加頂けてうれしいです。それに気を使っているというより、目についてしまって…」
「…変なことばかりしてますもんね」
唐突に女性の顔が小さく歪んだ。そんなことを言わせたい訳じゃなかったので、焦ってしまった。
「あ、あの」
「あ、…すいません…今のは、卑屈になってしまって、忘れてください」
「いえ、すいませんでした。知りもしないで勝手にしておいて、迷惑でしたよね」
「いえ!…あ、むしろ、助かっているんです。参加者で一人、しかも女で目立つから…ガイドさんが、隣でアドバイスしてくれているから、安心して歩いてこれましたし」
「女性に気を遣うのは当たり前ですよ、でも、それ以上にあなたが頑張っているから、ここまで来れたんですよ。」
「…」
ありきたり過ぎた言い方になってしまうが、頑張れるのは一つの才能だと思っている方こそ、伝えたい言葉だと思う。
そういわれた彼女は、至極、悲しそうに言葉を吐き出した。
「頑張っても、…頑張っても、報われない時もあります」
「…」
「私はそれで、…大事な人を失いました」
「…」
「10年、…10年ですよ、長い時間、尽くしてきたつもりだった、なのに、変に気を持たせて、やっぱり合わないから無理だから、別れよう…?」
「…あ、あの」
「…ふっざけんじゃない!!!!!」
思った以上の大きな声に、一瞬びっくりしてしまった。女性の中の何かが弾け飛んだように次から次へと罵倒と悲しみと悔しさの綯い交ぜといった感情が流れ出してきた。
「私はね!学校いた時から、あんただけをずぅーーーーーーっと見てたのよ!この先も縁がある、そう思って、やってきたのよ!支えたし!好きだから!なのに!勝手に同棲して決めようなんて言い出して!OKしたけどさ!私だって!それでだめなら諦めよう!なんて思ったけどさ!引き留めてほしいじゃん!あーーーーーーーもう!ばか!!!!!」
はぁ、はぁ、はぁ…、女性の息が荒れている。最後の罵倒を終えると、叫びつくしたのか、小さく、ふぅと息をつき、女性は少し吹っ切れたように目線をこっちに戻してくれた。
「森の寒さ、静けさが、気持ちを飲み込んでくれているんですよ」
「…お恥ずかしいところを見せました」
「いえ、本音が吐き出せて良かったですね」
「…はいっ」
女性は笑顔だった。本音を森に吸い込んでもらえて、来る前よりは吹っ切れたようだった。
叫んだ拍子、滲みでた女性の笑顔からこぼれ落ちる涙が、月明かりで照らされた雪の光を纏って美しいと思った。