第1話 出会い
落ち着け、状況を整理しよう。
混乱する頭を落ち着かせようと何度も自分にそう言い聞かせた。
不思議な美女の夢から覚めるとそこは砂漠だった。何でだ。
私はいつも通り、いつもの道を通って仕事場から帰路についていたはずだ。
いつもと違っていた事と言えば、突然目の前に指輪が落ちてきたことぐらいだ。
ダイヤモンドや水晶に似た、けれどそのどちらでも無い銀色の宝石がはめ込まれた見るからに高価そうな指輪。
やっぱりこの指輪が原因か、でも何でだ。何なのこの指輪。じぃっと見つめるが何も分からない。
とにかく自分を落ち着かせようと深呼吸をして、もう一度ここまでの状況を自分の中で整理する。
仕事帰りに目の前に指輪が落ちてきた。
誰か恋人と喧嘩でもして投げ捨てたのかと辺りを見渡すが人の気配は無く、もしかしてカラスにでも盗られてしまったものが落ちてきたのだろうかと思ったのだ。
交番はここから自宅までの帰路には無い、指輪を届けるには最寄りの駅まで行かなくてはいけない。
仕事終わりで疲れ果てた身体では面倒だと思ったが、この指輪の持ち主はひょっとしたら必死で探しているかもしれない。
一瞬でもそんな想像をしてしまうとこのまま知らない振りをして帰るのはなんだか気が引けて、まぁ交番に届けに行くついでに買い物でもするかぁ、と軽くため息を吐きながら地面に落ちている指輪を拾い上げようと、それに触れたのだ。
「えっ」
触れた瞬間、指輪にはめ込まれた銀色の宝石が眩しいぐらいの光を放ち、光は徐々に収束し細い柱のように空に伸びていった。
果てなく空に伸びていくと思われた細い光の柱の先で、黒い渦のようなものが現れる。
「え、なに、あれ何ッ…」
突然の非現実的な現象にパニックになりながら、空に生じた黒い渦を見上げて得体の知れないものに恐怖を感じたが混乱のあまり身体が動かない。
やがて銀色に光る柱は徐々に膨張してこちらに迫ってきた。
飲み込まれる、と思ったその時には、視界は光で埋め尽くされそのあまりの眩しさに目を瞑った。
それと同時に身体が中に浮く感覚が襲い、バランスを崩し、しかしそのまま倒れる事は無く、まるで空に吸い込まれるように上へ上へと昇っていく。
誰か、と助けを求めて力の限り声を出すが返ってくる声も無く、身体が空に吸い込まれていって、一層眩い光が強くなったかと思うと、全ての感覚が遮断されたかのうように、そのまま意識が無くなった。
そして次に目を覚ますとたった一本だけ木が立つ不思議な空間にいて、そこで儚げな美女に出会い何故か号泣した。
色々な感情でぐちゃぐちゃになって泣いてしまい、涙で溢れた目が自然と瞼を閉じそのまままた意識を失った。
そして次に目を覚ますと砂漠に居た。やっぱり訳がわからない。
あ夢なんだな、と頬をつねってみたが普通に痛かったし、フィクションでやるようなテンプレ行動をやった自分が恥ずかしくなった。
訳は分からないがこれは現実であると理解はした。
では次にどうしたかというと持ち物を確認した。
スマホは鞄の中に入れてあったからとりあえず何処かと連絡がとれればと思ったがそもそも鞄が無くなっていた。
何処か離れた場所に落ちているのではと辺りを探してはみたものの一向に見つからなかったのだ。
持っていたのはそう、例の指輪のみ。
指輪一つでどうしろと嘆いたがそれで現状が変わるはずもなく、とにかく人を探そうと立ち上がった。
幸いにも、歩いて5分もかからないであろう距離に緑が見えたのでそちらに向かって足を進める。
砂漠の境目の先には草原が一面に広がっており、意外にも境目の環境は急に変わっているものだと初めて知った。
乾いた砂に足をとられながらも無事に草原にたどり着く。
柔らかな草を踏みしめる感触に少しホッとして、草原の先を見つめた。
視線の先には高い木々が多く立っているのが見えるが、建物などの人工物は何もなかった。
森だろうか。
人かいるのかまた不安が大きくなるが、全く人気がしないこの場に居るほうが人と会える可能性は低いだろう。
気合いを入れる為に深呼吸をしてから、再び足を進めた。
それにしてもここはどこなんだろうか。
辺り一面に広がる砂漠、いくつか砂の山で盛り上がっている箇所はあるがそれ以外に視界を遮る物など無く、草原とは反対方向には砂漠の地平線が見えたのだ。
しかしその先にも、人工物など一切見えなかった。
信じられないが明らかに日本ではない。
ならここは何処かの外国なのか、しかし何故私は外国にいるんだ。
光の柱に飲み込まれ、空に出現した渦に飲み込まれた先、それしか情報が無い。
まずは人を探して情報収集、不安で仕方ないがやるしかない。
言葉通じなかったらどうしようとも思ったがまずは人を探しだす、その時はその時で考えよう。
そうやって自分を奮い立たせながら歩いていると、突然地面が大きく揺れて体制を崩し倒れ込みそうになった。
なんとか足に力を入れて踏ん張っていると、後ろの方から地面を割るような大きな音が響いた。
「うわっ」
倒れてしまうまえにその場に座り込んでから、爆音がした後ろへと振り返ったが、その先の光景が信じられず目を疑った。
巨大なトカゲらしき生き物が、そこに居た。
身体中を覆っている尖った岩のようなものは鱗なのだろうか、そこに積もっていた砂は舞い上がり砂埃が辺りを充満している。
太い木の幹のような手足が動くたびに地面を重く響かせ、足から伝わってくるその振動の強さで巨大な身体に見合った重さを持っているのが分かる。
尻尾も胴体と同じように岩のような鱗で覆われており、動いただけで砂の山を崩し辺りを平面にさせていた。
上手く呼吸ができない。
開いたままの口から吐き出る息と一緒に出そうになった声を抑えるため両手で口を塞ぐ。
見つかったら終わる 隠れなくては
トカゲから目を離さないよう少しずつ背後の森へにじり寄る。
ギョロギョロと動く目はまだこちらの姿をとらえてはいない。
意味はないと分かっているが見つけないでと心の中で何度も祈りつつ足を進めた。
(こっちを見るな、こっちを見るなっ…!)
一瞬でも化物から目を離せなくて森までの距離があとどのぐらいなのか振り返って確かめることもできず、焦りからか時間の経過があまりにも長く感じる。
(まだ、まだなのっ早く!)
走って行きたい衝動を必死に抑えた。
大きな動きをすればすぐに見つかってしまう、そうなったら終わりだ。
他に身を隠せるような物もなく、とにかく森に行くしかなかった。
しかし祈りも虚しく、人の身体を優に超える大きな目がギョロリとこちらに向けられた。
見つかった瞬間、蛇に睨まれた蛙のごとく身体が硬直した。
全身から冷や汗が溢れ出し、心臓が痛いぐらいに早鐘を打つ。
汗が滲む手で口を塞いで声を抑えた、本能的に声を出せばその瞬間襲われると感じ取っていた。
一瞬、辺りがシンと静まりかえる。
その静寂を破ったのは巨大トカゲの、周囲の音全てをかき消すほどの大きな唸り声だった。
空気がビリビリと震え、鼓膜が破れそうなほどの爆音。
そして目に入ったのは、トラック一台を簡単に丸呑みできるほど大きく開かれた口と、口全体に生えそろったサメの様な鋭い歯。
空気を震わせる唸り声の圧に押されるように、その場に座り込んだ。
黒い瞳孔を大きくさせてまっすぐにこちらを睨むトカゲが放つ圧に、もはや立っていることもできなかった。
(おわった、しぬ)
恐怖と絶望に支配される。頭の中はそんな単純な言葉で埋め尽くされた。
ズシン、ズシンと地面を響かせながらトカゲが真っ直ぐにこちらに向かってくる。
逃げる気も起きなかった、見つかった時点で逃げ切れる訳がないのだ。
再びトカゲが口を大きく開け、生臭くて温い息が風のように髪をなびかせた。
喉奥は巨大な暗い闇、今からあそこに飲み込まれるのだろうか。
訳もわかないまま、あっけなく死ぬ
訳の分からない場所で、訳の分からない化物に食べられて死ぬ
たぶん死体も残らない、誰にも知られることもなく、死ぬ
巨体は止まることはない、一目散に獲物に向かって走ってくる。
視界一面が、今から自分を捕食しようとする化物で埋め尽くされた。
(し――――――)
トカゲの巨大な影にかかった瞬間、何かが空気を裂くように飛んできた。
遅れて耳に届いたのは岩が砕けるような、岩に何かが深く突き刺さるような音と肉が裂かれる鈍い音。
時間が止まったような、世界がゆっくり流れているかのような感覚がした。
無意識に顔を上げると、赤いなにかが空に舞っている。
それが何なのかすぐには分からなかった。時間の流れが遅く感じたように、思考も遅くなっていたのか。
突然の出来事に呆然としていた意識を引き戻したのは、甲高い叫び声。
先ほどの敵を威嚇する唸り声とは違う、痛みに怯んだ声だ。
「え…?」
巨大トカゲは痛みにもだえ苦しむようにその巨体を右往左往に揺らし暴れていた。
周りには鮮血が飛び散っており、その様子からトカゲが攻撃を受けたことにようやく気づく。
しかしあの岩のような鱗を貫くなど、一体何がと、辺りを見渡そうとした。
風が横切った
最初に目が捕らえられたのは、なびく茶色の布。
視界で大きくはためくそれはマントだった。
巨大トカゲと対峙するように、まるで庇ってくれているかのように、そのマントを羽織った人物が目の前に立っている。
「森へ走れ」
低い声、男性だ。
「走れ!」
はっと鞭を打たれたように立ち上がり、全力で森へ向かって走った。
背後からまた地響きがしてよろめく。
トカゲが向かってくるのかと振り向こうとしたが、先ほどの男性の「振り返るな」と言う声が聞こえて、その言葉に従って必死で走った。
走り続ける間も、岩を砕くような音やあのトカゲの唸り声が聞こえてくる。
振り返らなくてもマントの男性があの巨大トカゲと戦っていることが分かった。
(まさか、あんな大きな化物と、どうやって)
全力疾走を続け、息が乱れ胸が苦しい。
それでも男性の言うとおりに振り返らず走った。
辺りが薄暗くなる。森の中に入ったのだ。
それに気づいてようやく足を緩め、乱れた息を整えながら痛む胸を押さえた。
それと同時に背後から大きな爆発音が響き、その後に続いてあのトカゲの呻き声が聞こえた。
森の中に入ったため木や草で遮られ砂漠の方向で何が起こっているのか見えない。
まだあのトカゲが居るかもしれない。しかし逃がしてくれた男性の安否が気になる。
どうするべきかとオロオロと迷っていると、砂漠の方向から何かが草木を分け入って近づいてくる音がした。
「ひっ」
次は何が来るのかと怯んだが、草木の向こうから現れたのは先ほどの茶色のマントの男性だった。
「あ、」
「こっちだ」
男性に腕を掴まれ、有無を言わせず引っ張られ足早に再び歩き出した。
男性に腕を引かれ横切られたその時に、深く被ったフードの奥から金色に近い、琥珀色の瞳が一瞬見えた。
初めて見るその瞳の色に視線だけでなく一瞬意識も奪われた。
急かすように強く腕を引っ張られた事に我に返って、男性に付いていくため疲れ切った足に力を入れる。
砂漠の方向へ振り返ったが、巨大なトカゲが追ってくる気配は無かった。
再び男性の方へ目を向ける。
フードが付いたマントを被った謎の男性
あの巨大トカゲから助けてくれたとはいえ、見知らぬ男性に腕を引かれ森奥深くへ連れて行かれようとしている。
しかし恐怖を感じなかった。
もちろんこの訳の分からない状況にひどく戸惑ってはいるが、この男性自体には恐怖は感じない。
巨大なトカゲから逃げ切れた安心からなのか、ようやく人に会えた喜びからなのか、泣きたくなるぐらいに安心した。
腕を掴む大きな手に、不思議なぐらい安堵したのだ。
男性に腕を引かれたまま早足で森の奥へ歩き続けると、その先に高い崖があった。
崖に掘られた穴、やぐらのような場所に連れてこられ、男性はここで待っていろと言い残しすぐに何処かに行ってしまった。
他に頼れる人もいない中、男性に言われたとおりに一人薄暗い崖のやぐらの中で男性が戻ってくるのを待っている。
心細くて仕方ないが、未だに訳のわからないこの状況下ではあの男性の言うことに従うしかない。
それから数十分は経ったか、本当に戻ってきてくれるのかと不安になり始めた頃に男性は戻ってきた。手には荷物だろうか、麻袋を持っている。
男性は自身のベルトポーチから金属製の小さな筒のような物を取り出し、こちらに差し出してきた。
「水だ」
筒からちゃぷりと水が揺れる音がした、水筒のようだ。
差し出されたということは飲んで良いということだろう、それを受け取り口につける。
冷たい水が喉を通り疲労した身体に心地良く染み渡る、ふぅと一息ついて気持ちが少し落ち着いたところで、自分が助けてくれた男性に礼も言っていないことにようやく気づいた。
「助けて頂いてありがとうございます、水まで…」
「いや…それよりお前は何故あそこに居た?」
「私も自分が何故あんな所に居たのか分からなくて…というかここは何処なんですか?日本語を話されていますがここは日本なんですか?」
「ニホン?何処の地名だ、聞いた事がない」
「え…?」
男性が話しているのはどう聞いても日本語だ、問題無く会話ができているのだから間違いない。それなのに日本を知らないとはどういうことだ。
やっと少し落ち着き事態も進展するかと思いきやこれだ、ぐるぐると混乱する思考を宥めながら情報を得るため更に男性に質問を重ねる。
「えっと、ではここは何処なんでしょうか?本当に分からなくて…」
「…ここはガルディーン南部、モストロ砂漠との境だ」
「がるでぃーん?もす…?」
聞いた事も無い地名に首を傾げる。
男性はフードを深く被っていて表情こそ見えないが、こちらの反応に不信感を抱いているのが空気で伝わってくる。
「す、すみません分からなくて。あのっ、付近の国の名前とか教えてもらっても」
「……」
「地名からしてヨーロッパの方ですか?それともアメリカ…。アジアの方…ではないですかね?」
「……」
男性からの返答はない、顔は見ないが意識はこちらに向いているから無視されている訳では無い。完全に怪しまれている。
泣きそうになった、嘘など一つもついていない、本当にここが何処なのかさっぱり分からないのにそれが伝わらない。
確かに自分が何処にいるのかさっぱり分からないなんて怪しさ満点ではあるが事実なのだ、どうやったらこの男性にそれ分かってもらえるのだろう。
「…仕事の帰り道に目の前に指輪が落ちてきたんです。触った瞬間に指輪についていた銀色の宝石みたいなのが光って空に渦ができてそこに飲み込まれて、気づいたらあの砂漠にいました」
頭のおかしい奴と思われるだろうが、もう包み隠さず全てを話す事にした。
憐れまれてもいいからとにかくこの状況から脱したかった。
「指輪?」
男性が反応した、明らかにさっきと様子と違う。何か思い当たる節でもあるのだろうか。
微かな期待を抱き慌ててポケットに入れていた指輪を取り出して男性に見せる。
「これですっ、何か思い当たることで、も」
言葉が途切れてしまった、例の指輪を見せた瞬間、男性は水筒を渡してからこちらと一定の距離を保っていたにも関わらず一瞬で近づいて指輪を乗せた手を掴んできた。
「何故お前がこれを」
「…っい」
手首を掴む大きな手に力が込められ痛みで顔をゆがめる。無意識だったのだろうか、男性は我に返ったように息をついて掴む手の力を緩めた。
近づいてきたことでフードの奥に隠されていた金色の目が見える。
フードの影で光っているようにも見えるその金眼が、より男性の眼光を鋭く見せていた。
「それが何か分かっているのか?」
「い、いえ、本当に何も分からないんです。荷物も無くなっててこれだけが手元にあったんです。この指輪は何なんですか?これに触った瞬間突然光り出して空にできた渦に飲み込まれて…。これが何かご存じなんですか?」
「…」
男性は再び黙り込む。しかし先ほどの怪しむ様子はなく何かを考え混んでいるようだ。
やっぱり現状はこの指輪が原因なのかもしれない。
改めて指輪をまじまじと観察する。
宝石には詳しくないのではめ込まれている宝石が何なのかは分からない。
ダイヤモンドのように透明でありながら光を反射し輝く色は光沢のある銀色だ。
(あれ、そういえば何処かで…)
ふと、この銀色と同じものを何処かで見たような気がした。しかし何時何処でだったか思い出せない。
銀色なんて何処にでもある色だが、何かが引っかかる。この銀色が強く印象に残るような事があったような気がするのだ。でも思い出せない。
「おい」
「ふぉぁはい!」
「行く当ては無いのか」
「はい…」
「わかった。付いて来い」
突然男性に話しかけられ驚き変な返事をしてしまったが男性は特に気にすることもなく話を進める。
え、指輪に関する話は無いの、と戸惑ったが移動し始めた男性に慌てて付いていく。
「移動するんですか?」
「あぁ、ここから一番近い要塞基地に向かう」