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一つ年上の彼女

一つ年上の姉貴

作者: 野山 佳宏

一つ年上の彼女の続きになります。この作品だけを読んでも理解が出来るように努力致しましたが、不十分かも知れません。出来れば前作を読んで頂ければ幸いです。

「おぎゃあ、おぎゃあ。」

「元気な女の赤ちゃんですよ。」

助産師さんの声が泣き声の間を縫って聞こえてくる。

産まれた。やっと産まれた。俺の子供だ。いや俺たちの子供だ。俺は疲労と喜びが混ざったハイな気分だった。そばには出産を終えたばかりの律子が分娩台で荒い息をしている。

「産んでくれてありがとう、律子。お疲れ様。」

精一杯息んだために赤い顔をしている律子を見つめながら、俺は御礼を言った。

「ん。」

だが律子は頷いて返事をするのがやっとだった。長時間の分娩で疲れ果てている。俺より遥かに大変だったろう。目元に隈も出来ている。ありがとう。俺は母の偉大さを眼の前に感動していた。こんな思いをして赤ん坊を産むんだ。ありきたりながら、すごいとしか思えなかった。


「ほら、お母さんですよ。」

助産師さんが、羊水から出たばかりの赤ん坊を白い布に包んで、律子の顔元に連れてきてくれた。生まれたばかりの赤ん坊と対面した律子の眼に涙が出てくる。

「産まれてきてくれてありがとう。」

律子は赤ん坊に母として素直な感謝の気持ちを伝えていた。俺も思う。本当に俺たちのところに来てくれてありがとう。紆余曲折を経てこの世に誕生した命だ。大切に守らないとな。俺に父親となった自覚が肌に感じられた瞬間でもあった。



律子の陣痛が始まったのは丸一日以上前のことだ。最初は、あれっという程度の痛みだった。

「これが陣痛なのかなあ。」

律子も結構気楽に言っていた。そのときはまだまだ余裕があった。陣痛の間隔は15分以上空いていたし、数えてみたが1時間に3回程度だった。

「まだ病院に行くのは早いよね。」

病院からは陣痛が1時間に10回以上になる頃には来て下さいねと言われていた。だから俺たちは、のんびりと晩ご飯を食べて、ゆったりとお風呂にも入った。その後でも陣痛の間隔は10分以上空いていた。ただ痛みは強くなっているようで陣痛がくると律子は「いたた。」と言って顔を顰めていた。それでも陣痛が治まるとケロっとしていた。


ただ初めてのことだし、いつ陣痛が強くなるかも分からない。おちおち寝ているわけにもいかない。どうしようかと思ったが、病院にいったら出来ないからと律子が言い出し、俺たちはテレビゲームを始めた。ブロックが落ちてくるのを消すゲームだ。

律子はかなり上手い。俺が高校に行っている間、暇なときはずっとしていたそうだ。胎教に悪いんじゃないだろうか。だがその成果で俺のボロ負けが続く。でも律子の気張らしになって良かった。律子の機嫌もいい。


家にはお袋は当然、親父も兄貴達も居た。何かあっても助けてくれる家族が揃っているのは、ものすごく有り難く頼もしい。両親と兄貴達は全員車の免許を持っているし、家には車が三台もある。親父はセダンだが、お袋がミニバンで、兄貴達が共用でクーペに乗っている。


季節は夏になってきていた。緩く冷房を掛けた部屋で俺たちはゲームに熱中していたが、そのうちに日付が変わりそうになっていた。だが陣痛の間隔は早くも遅くもならず一定の間隔で襲ってきているだけだった。だんだん慣れてきた律子は陣痛が来てもコントローラーを離さずブロックを消していた。


「あんたたち、変わりがないのなら、そろそろ寝なさい。」

心配して見に来てくれたお袋が、ゲームに夢中になっている俺たちを見て、呆れたように言った。俺たちも、いい加減疲れてきていたので、お袋の言いつけに従って寝ることにした。

横に向いて寝る律子の前に、何かあったら対応出来るように俺は向かい合わせで横になって寝た。だが夜中に陣痛が来るたびに律子がうめき声を上げるので、その度に俺は目覚めて律子の腰を押したりさすったりしていた。だから寝むれたとはとても言えない。もちろん律子も寝むれていない。


だが朝になっても陣痛は定期便だった。あまりにも定期的過ぎるので不安になって病院に電話をして聞いてみたが、途中で陣痛が治まる人もいるし、出血や激痛がなければそのまま様子を観て構わないと言われた。そして陣痛間隔が短くなったら病院にくるように再度言われた。

陣痛が来たからといって即入院しても陣痛が治まって出産もせず退院するという話も聞くから、本当に出産が近くなってから入院するのが正しいのだろう。いたずらに焦っても仕方ない。俺たちは待つことにした。


親父が仕事に出かけた。夏休みなので俺と兄貴達は家に居た。お袋も居る。律子の陣痛がいつ早まるか分からないので誰も出かけない。することもなくリビングに集まっているだけの俺たち兄弟を見てお袋が言った。陣痛がゆるんだ律子は部屋で休んでいる。

「息子が三人揃って家にいるのは、うっとうしいわね。」

「ひどくね、お袋。」

「だいたい男ばっかり、お父さんを入れて4人もいると家の中がむさくるしいのよね。律子ちゃんが来てくれて、ようやくマシになったと思っていたのにね。天気の良い昼間にリビングに陰気な男三人が雁首揃えて黙っているのなんか気味が悪いわ。」

お袋の言うことに一理あることは認める。だからと言って律子が陣痛で苦しんでいるのに俺が遊びに行くわけにはいかないだろう。そんなことをして外に居る間になにかあったら後悔ではすまない。だが兄貴達は別だろう。

「兄貴達は出かけてくれていいよ。俺たちの為に、ずっと家にいるのもなんだろうしさ。」

俺の言葉に兄貴達は顔を見合わせた。だが出かけるとは言わなかった。兄貴達も俺たちに何かあったら困ると思っているんだろう。有り難いが、お袋の機嫌は斜めのままだった。


昼飯を喰って、何も変わらず。晩飯を喰う頃になって、ようやく律子の陣痛が強くなり間隔が短くなってきた。陣痛が始まって24時間が経過していた。律子も痛みの強さが変化してきたと言っていた。時間で計ってみると、いつのまにか陣痛回数が1時間に8回から9回になっていた。

病院に電話をすると来院して入院してくださいと言われた。親父は帰ってきていなかったから、お袋のミニバンを使った。上の兄貴が運転して助手席に下の兄貴、後部座席に俺、律子、お袋で並んで座って病院に向かった。


病院についたら産科病棟に通された。中絶事件で律子の両親に俺が罵倒された因縁の病棟だ。しかも主治医は例の手術担当だった医者だ。そのことを通院しているときに知った俺は律子に聞いたことがある。

「あの先生、嫌じゃないのか、律子。」

「え、あの先生いい先生だよ。」

「でも中絶を勧めた医者だろ。」

「違うよ。先生は一度も堕ろす話はしなかったよ。したのはわたしの母親。」

医者は堕ろす話はしなかったらしい。律子の母親が強引に突っ走った。

「先生は助産師さんと一緒に、本当に手術をするのでいいのかって何回も聞いてくれたんだよ。病院に父親が誰か伝えなくてもいいから子供の父親に相談しなさいとか、他に相談出来る人がいるのなら相談しなさいとか、いろいろ言ってくれたんだよ。」

そうだったのか。俺の医者を見る目が変わった。

「だけど聡に相談するのは出来なかった。年下の聡に重荷を背負わすのはダメと思ったの。わたしは年上のお姉さんなんだしね。あ、年上って嫌だった、聡。」

律子の顔色が曇った。考えが横道にそれて年齢を気にしていた。

「いや、俺が好きなのは律子だから。年上とか年下とか関係ないから心配しなくて良いよ。」

「良かった。年上嫌いだったらどうしようかと思ったよ。」

いや付き合いを迫った時点で考えろよ。それに、だいたい出会った小学生の頃から俺は年下だったろうが。一度も年上になったことはないぞ。

「他に相談する人って言われて、思い浮かんだのが渚。でも連絡するにも携帯も取り上げられていたし、手術する日に自宅電話から連絡するのがやっとだった。」


助産師さんが来てくれて内診をしてくれた。

「破水もまだで、子宮孔も開いていないし、陣痛も弱めだし、待つ時間はあるので、すこし休憩して待ちましょうか。あまり陣痛が強くならなければ薬もあるけど、出来れば無しでいきたいしね。」

まだ時間が掛かる見込みであることを俺たちに伝えて助産師さんは詰め所に戻っていった。俺は律子と陣痛室で待機することになった。たわいのない話をしていたが、そのうち陣痛の間隔が短くなり、痛みが強くなるにつれて、律子の遠慮のない要求が増えてきた。

「痛い。腰を押して。」

「身体をあっちに向けて。」

「こっち向けて。ちがう。」

「お水が飲みたい。お茶がいい。」

「腰を押して、さすって。弱い。強い。」

「足を揉んで。肩を叩いて。」

「汗を拭いて。気持ち悪い。」

「暑い。」

「寒い。」

「しんどい。」

俺は律子の言うままに身体をさすり向きを変えて少しでも楽になるように頑張った。

「もう痛い。もう無理。なんとかして。お願い。」

だが強くなり続ける痛みに律子は泣きが入り始めた。俺も長時間労働に泣きが入りそうだった。だが弱音を吐くわけにはいかない。俺より律子の方が何倍も辛いんだから。俺は歯を食いしばって律子が楽になるように頑張った。

空腹でめまいがしそうだったが気合を入れる以外なかった。でもそれでも気が遠くなって倒れそうになったときに、なんでか渚に殴られる光景が頭に浮かんで素面に戻れた。渚は本当に偉大な兄貴だ。実の兄貴達はとうの昔にお袋の車を運転して家に戻っていた。

「痛いよね。これは経験した女にしか分からないからね。」

お袋は律子の顔の汗を拭きながら、抱きしめて心を重ね合わせていた。

「もうちょっとだからね。そばにいるからね。」

律子は頷いて、お袋にしがみついていた。


日付が変わるころになって助産師さんに言われた。

「子宮孔が全開ですね。破水はまだですが分娩台に行きましょう。お父さんは立ち会われますか。」

立ち会いの希望を聞かれた俺は朦朧としながらも、ちらと律子を見てから答えた。

「お願いします。」

「え。」

律子が小さく呟いた。俺は律子の耳元で聞いた。

「嫌か。」

「ちょっと恥ずかしいな。でも一緒に居て欲しい。」

「わかった。一緒に居るよ。」

分娩室でも律子は泣き叫んでいた。俺は律子の腕と言葉の暴力によるサンドバッグ状態だった。

「やさしい旦那さんだと、奥さんは甘えられるからねえ。まあ奥さんはもっと大変な思いをしているのだし、男としては奥さんからの暴力くらい耐えんとな。」

件の医者は真剣な顔をしながら、笑いながら言っていた。助産師さん達は、モニターを見ながら律子に息むタイミングを伝えていた。その場の全員の額から汗が流れ落ちていた。

「いま息んで。違う。待って、ちょっと待って。」

助産師さんが掛け声を掛けたのに、直後に指示を変更した。だが間に合うわけもない。というか律子が反応できるはずもない。破水とともに、赤ん坊は産道を一直線に通り、助産師さんの腕にキャッチされた。外気に触れた赤ん坊は元気に第一声をあげた。



子供が産まれて、小さい娘が本当に赤いから赤ん坊なんだと、ぼんやりした頭で考えながら、俺は眠っている娘を抱っこしてゆるやかにゆっくりと左右に揺らしていた。

「ママ、遅いね。」

律子は破水が出産直前になり会陰切開が間に合わず、大幅に裂けたので縫うのが大変だったそうだ。草木も眠る丑三つ時になって律子は戻ってきた。

律子は戻ってきたら、赤ん坊に初乳を与えた後は、疲れ果てて寝入ってしまった。俺も病室で気絶しかけており、赤ん坊は詰め所で預かってくれた。お袋は全てを見届けると、明日朝一で来ると言って、迎えに来た親父の車で帰った。お袋は俺たちにずっと付き添っていてくれたのにびくともしていなかった。鉄人かよ。


朝になって少し元気になった律子が赤ん坊にお乳を与えているときに話をした。

「なあ赤ちゃんの名前を決めなきゃ。どうする、律子。」

「聡はどんな名前を考えているの。」

「いや、いろいろ考えたよ。(あずみ)(りん)(まなみ)とか、(みのり)(ゆかり)(のぞみ)もいいかなとかね。でもあれもこれも良さげに思えてきて、何がいいのか分からなくなってきたから、これっていうのは決められていないんだ。」

「そうなんだ。」

「律子はどんな名前を考えたの。」

「ええと、いや、その考えたというか、なんていうか。」

「いや、律子が考えているのがあるのなら、もうその名前がいいんじゃないかと俺は思う。」

「聡はわたしが考えた名前でいいの。何か希望とか、子供に付けてあげたい名前とか意味とかないの。」

「ん、俺としては、なんか夢の持てる名前がいいなとは思っていたけどね。あと拘るわけじゃないんだけど漢字一文字がいいなとかは思っていた。」

漢字一文字の名前は、俺の家のというか、親父から兄貴を含めて俺まで全員一文字の名前が付いているというのが影響している。親父が漢字一文字の名前だったから、男三人兄弟ともに漢字一文字の名前をつけられている。もちろんだがお袋は違う。

「もちろん、女の子だし、律子が二文字や三文字がいいのなら、一文字や漢字にこだわる必要は全然ないしさ。」

「いや、そのこだわりは大丈夫だよ。わたしが考えた名前も漢字一文字だから。」

「そうなんだ。で、なんて名前。」

「え、聡が嫌がるかも。」

「なんで、律子が考えてくれた名前を俺が嫌がるなんてことはないよ。」

「ほんとうに。」

「約束するよ。だから教えてよ。赤ちゃんだって早く名前が知りたいだろう。と言うか律子はその名前でお腹の赤ちゃんに呼び掛けていたんじゃないの。」

「うん。検査で女の子だって、分かってから、こそっと呼んでた。」

「じゃあ、問題ないだろう。」

「でも・・・。」

「なんで、何か問題でもあるの。」

「え、でも。本当に嫌がらない。」

「いや、聞かせてくれなきゃ、どうにもならないじゃない。たしかに、とんでもない名前だったら、例えば、鬼、とかさ、とても女の子というか、人としてどうなんだっていう名前だったら困るけどさ。でもそんな名前を律子が考えるわけはないだろう。」

「そりゃ、そんな変な名前は付けたくないし、付けるわけないし。」

「じゃ、いいだろう。」

妙に律子が言い渋る。何かあるんだろうか。俺が嫌がるってどうしてだろうと思った。でも思いつくこと、思い当たることはなかった。俺が嫌いな漢字というのでもないだろうし。


渋っていた律子だが、いつまでも隠し事をしていてもどうにもならない。ようやくのことだったが、律子が温めていた名前を教えてくれた。

「あのね。付けたい名前はね、なぎさ。渚ってつけたいの。」

律子の言った名前を聞いて、俺はしばらく停止していた。なぎさね。渚ね。

「やっぱり、嫌なんでしょ、聡。」

律子の顔がクシャっとなっている。

「いや嫌じゃないよ。そうじゃなくて、なぎがなんて言うかなって思ってね。」


律子の親友の渚を、俺は、なぎ先輩と呼んでいたが、律子の中絶事件以来、なぎと呼ぶようになっていた。他ならぬ渚が俺に言ったからだ。

「わたしのことは、もう先輩って呼ばなくていい。聡は律子の旦那になるのに、親友の旦那から先輩って呼ばれるのは気持ち悪い。名前を呼び捨てで良い。」

「じゃあ、渚って呼び捨てするのは、ちょっと気が引けるから、なぎって呼んでいいですか。」

「ああ、それでいい。わたしも、聡と呼び捨てにしているんだしな。あと、敬語もいらん。タメでいいからな。」

「わかりました。」

なぎに殴られた。

「言ったそばから敬語使ってどうするんだよ。」

「そんなこと言ったって、何年も先輩って呼んで、敬語使ってきたのに、いきなり呼び捨てでタメ口なんて無理に決まっているでしょう。」

また殴られた。

「殴ってりゃ、いつかタメ口がきけるだろう。」

「無茶ですよ。勘弁してください。」

「もっと殴って欲しいのか。」

「やめてくださいよ。努力しますから、いきなりは止めてください。あと殴るの無しにしてください、兄貴。」

思いっきり殴られた。

「おまえわざとだろうが。」

なぎに首を絞められた。

「ばれましたか。」

「殺す。」

笑いながら、なぎが俺をくすぐりの刑にしてきた。付き合いの長い相手だ。俺の弱いところも良く知っている。

「降参。降参。なぎ。」

「それで良い。」

なぎは笑顔で許してくれた。


「なぎが嫌がらないかな、とふと思ってね。俺たちの子供だし、渚って呼んで怒ることもあるだろうし、隣でなぎが聞いていたら、気分良くないんじゃないかな。」

俺は律子が付けたいと言っている名前だし付けたいとは思ったけど、名前を貰う相手の承諾は貰ったほうがいいんじゃないだろうかと思った。

「だから、なぎの許しを貰ってからにしたいかなと。俺たちの子供を、なぎにも可愛がって欲しいしね。」

俺の言い分を律子も分かってくれた。だが、いざ、なぎに許しを貰う段階で律子が尻込みした。渚がひょっとすると、嫌だと言うかもしれない。そうしたら付けたい名前が付けられない。でも他の名前は付けたくない。どうしよう。

「やっぱり無理かな。」

「いや、電話する前から、無理って言ってどうするんだよ。なぎのことだから、許してくれるだろうから大丈夫だよ。ただ一言いってから付けたほうが良いってだけなんだからさ。」

「じゃあ聡が電話してよ。」

「分かった。俺がするよ。」

律子が電話を掛けるのを怯んだので、俺が、なぎに電話を掛けた。


「もしもし、聡だけど。」

「ああ、聡かどうしたんだ。」

「ええと、渚が産まれたんだけど。」

「はあ?おまえ頭だいじょうぶか。」

「いや、そうじゃなくて。子供が産まれたんだよ。」

「そうか。それはめでたい。良かったじゃないか。これでおまえ達も立派な親だな。それで律子は大丈夫か。」

「ああ、律子は元気だよ。それでさ、子供の名前のことなんだけど。」

「ああ名前か。名前は何にしたんだ。」

「ええと、渚にしたいんだけど。」

「はあ、おまえの言っている意味が分からん。」

「だから、なぎの名前を貰って渚って付けたいんだけど、いいかな。」

「え、本気か。わたしの名前を付けるのか。いいのか。ガサツな女になるかも知れんぞ。」

「なぎはガサツじゃないよ。」

「おまえ何か悪いものでも食べたのか。それとも聡に化けた詐欺か。」

「ちょっと酷くね。でも本当になぎはガサツじゃないよ。」


なぎは、見た目で割とおおざっぱな印象を周りに与えている。体格が女性としては大柄でがっちりしているし、ソフトボールを中学からずっとしていて怪我も絶えない。口調も乱暴で化粧もしないし、可愛い女の子という感じでもない。服もあまり気にせずジャージを着ていることも多い。

でも面倒見は良い。俺が律子と仲良くなれたのも、なぎのおかげだ。小学校のときは行事で強制的に一緒になることがあったから律子と話をすることも出来たが、律子たちが中学生になってからの一年間は離れていたから疎遠になっていた。それと中学になってからは距離の縮まる行事はなかった。

だけど、ちょっとしたことで隣り合わせになった時に話しかけてくれて旧交を温めてくれたのは、なぎだ。それ以降も、なぎが何かと俺に構ってくれたから、なぎといつも一緒に居た律子と仲良くなれた。

高校になってから一緒に通学しようと言ってくれたのも、なぎだ。なぎがどういうつもりだったのかは分からないけど、律子と俺のことを応援してくれたのは事実だ。あの中絶事件のときも、なぎが居てくれなかったらどうなっていたか分からない。感謝してもしきれない恩がある。

それと、なぎは自分のことをガサツだと言うけど、結構繊細なところもあるのを俺は知っている。化粧はしないけど、肌の手入れはしっかりしている。汗に負けることが多いかららしいけど、丁寧に洗ってクリームを塗って保湿に手間を掛けている。髪は短くしているけど、こまめにコンディショナーとトリーメントをして艶も保っている。決して、身だしなみに手を抜いているわけじゃない。近くで見ていたから、なぎが密かに女の子として努力している姿は知っていた。まあ俺の感情的には格好いい憧れの兄貴って思ってたけど。


「なぎは素敵な女性だと思うよ。」

「おまえ、本当にどうしたんだ。わたしを口説いているつもりなのか。子供が産まれたばかりなのに、いきなり浮気するんだったら絞めるぞ。」

「勘弁しろよ。はあ。まあいいや。で、名前もらってもいいか。」

「律子はどういっているんだ。」

「いや律子が渚って付けたいって言いだしたんだよ。」

「代わって、聡。」

俺が電話しているのを聞いていた律子が、電話を代わって欲しいと言いだした。

「ちょっと律子に代わるな。」

俺は電話を律子に渡した。

「渚。子供産まれたよ。渚のおかげで無事産まれたよ。」

「いや、律子が頑張ったからだろ。あと聡も居たし。」

「うん、それはそう。だけど、この子を守ってくれたのは渚。渚がいなかったら、この子はこの世に産まれてこられなかった。わたしは、もう堕ろすしかない、無理だと諦めかけていた。でも渚は励ましてくれたじゃない。踏み止まれって、頑張れって、すぐに聡を行かせるって。」

律子が隙を見て自宅電話から電話したのは、渚の携帯電話。最近は携帯が便利になって、自分の電話番号すらうろ覚えになっている。友達の電話番号なんかも携帯の電話帳機能がなければ分からないことが多い。だけど律子は渚の携帯電話の番号は覚えていた。だから連絡が出来た。それで渚は律子から連絡を受けてすぐ俺のところに全速力で来てくれた。そして俺を病院に突き飛ばしてくれた。

「それだけじゃない。小さい頃から、渚はずっと律子と一緒に居てくれた。いろいろ悩んだりしたときにも助けてくれたじゃない。渚は大親友だよ。だから生まれた子供には、渚って名前を付けたい。」

渚から返事がない。律子は小さい声で聞いた。

「ダメ?」

「ダメなわけないじゃない。うれしいよ。律子が子供にわたしの名前を付けてくれるのなんて。」

渚の返事は涙声だった。

「律子、大好きだよ。律子こそ、いつもこんなわたしと一緒に居てくれてありがとうね。」


生まれた娘の名前は『渚』と命名された。


お袋と親父は良い名前だと喜んでくれた。親父は半紙に『渚』と書いて、病室の壁に貼ってくれた。ジジババは「なぎさ~。」と甘い声で呼びかけていた。娘の渚は何の反応もしていないのに、「笑ったぞ。」と立派なジジ馬鹿とババ馬鹿になっていた。だが幸せだ。娘が生まれてきてくれて、これまでの俺の選択は間違っていなかったと、俺には思えた。


病院に来てくれた渚は、同名の小さな渚を見つめながら言った。

「わたしと同じようにはなるなよ。おまえは律子に似た綺麗で可愛い女の子になるんだぞ。」

「渚は綺麗だと思うよ。」

「俺もそう思うんだけどな。」

「おまえ達は、わたしに何か恨みでもあるのか。こんなわたしを捕まえて綺麗だとか、嫌がらせか。」

「いや、なんでそんなことを言うんだよ。俺は、なぎは綺麗で格好いいと思うんだけどな。」

「わたしもそう思うよ。なんで渚は、自分が綺麗じゃないと思うの。」

格好いいと言った俺にヘッドロックを掛けながら、渚は律子に答えていた。

「いや、綺麗じゃないだろう。」

「そんなことないよ。渚は自分の評価がおかしいよ。綺麗だよ。」

「そうか。」

律子の強い言葉に渚は迷いを見せ始めている。

「俺は小学校の頃から、なぎは綺麗だと思っていたよ。」

ヘッドロックを掛けられながら、俺は言った。

「なんで、そう思っていたんだ。」

少し真面目に、なぎに聞かれた。

「なぎは真っ直ぐだしね。思ったことは行動に移す。間違ったことは間違っていると言ってくれるしね。外見がどうとかだけじゃないよ。綺麗ってのは、心の綺麗さもあって初めて人として綺麗といえるんじゃないかな。」

自分でもクサいセリフだと思ったが、俺の本音だ。そして愛しているとは違うけど、なぎのことが俺は好きだ。俺もいつも元気づけられてきた。感謝している。

「おまえはそんなセリフが良くいえるな。こっちが照れてしまうわ。」

なぎは口ではなんだかんだと言いながらも満更ではない様子だった。


ところで律子が娘に渚とつけるのを俺が嫌がると思っていた理由は、俺が本心では、なぎのことが嫌いなんじゃないだろうかと思っていたからだった。まあ結構余計なことを言って俺はなぎに殴られていたからな。でも割と手加減して殴ってくれていたと思うんだが、そばで殴られる俺を見ていた律子にとっては気が気じゃなかったらしい。


出産と誕生から落ち着いた律子と渚は無事に自宅に帰ってきた。そして家族揃って家で過ごしていた。娘の渚は律子から母乳をゴクゴクと飲んで日々大きくなっていった。夜鳴きするときには、俺が抱っこをして廊下をさまよい、哺乳瓶でミルクを飲ませ、あやす大役を仰せつかった。

「渚~。おまえが寝るのが先か、俺が倒れるのが先か勝負だな。」


なぎは、暇を見つけては、頻回に遊びに来てくれた。渚の子供服やおもちゃなんかもよく買って持ってきてくれた。寝ている渚を飽きることなく長い時間眺めていた。

「可愛いな、渚は。」

オムツも替えてくれる、なぎは、渚にベタ惚れだった。


だが、その頻回に俺たちの家にくる、なぎが何故か少しずつ変化していっていた。最初は髪型が少し整えられていただけだった。そのうちに来ている服が変わり、アクセサリーや小物が少しずつ、なんというか女性らしいものに入れ替わっていった。

化粧もしたいと言い出した。最初は万国びっくりショーにでも出場するのかというレベルだったが、律子が一生懸命指導したかいもあって見事に上達した。最近のなぎは、一年前のなぎと比べると別人というくらいに変貌している。一年前は健康なソフトボール選手だったが、最近は背の高い綺麗な美人になっている。体つきもやわらかく女性らしいラインが出てきている。何が起こったんだ。


それに妙なことがある。渚が少し大きくなったので、俺たちは親子三人で散歩にいったり出来るようになっていた。だが俺たちが散歩から家に帰ったときに、俺たちの家からなぎが出てきたことがあった。それも1回や2回じゃない。

「あれ、なぎ来てたの。居なくて悪かったね。散歩に行っていたんだ。」

「ああ、連絡しなかったからな。わたしが悪い。渚、元気か。」

なぎは渚に声を掛けて、ベビーカーを覗き込んでいた。

「もう一度家に寄っていく。」

「いや。ちょっと用事もあるから、今日は帰るわ。」

律子が声を掛けたが、なぎは用事があるので帰ると言って帰っていった。

「なんか、おかしいな。そう思わないか、律子。」

「なにが、おかしいの。」

「いや、俺たちが居ないのに、なぎは家に居たんだろう。」

「そうだね。」

「で、俺たちが帰ってきたら、渚の顔は見たけど、それだけで帰るって何をしにきたんだよ。」

「まあ、渚も忙しいんだろうしね。」

確かに高校3年の渚は就職する予定と聞いているから色々忙しいんだろうとは思う。だけど、その忙しい中を俺たちの家に来てくれたんなら、もう少しゆっくりして行けばいいのにと思っていた。


律子の両親とはまだ和解は出来ていない。だが渚のお食い初めの祝いに参加してくれるように、俺は頭を下げて頼みに行った。両親は首を縦に振ってはくれなかったが、会ってくれただけマシだ。罵詈雑言もなかった。結局両親は参加してくれなかったが、代わりに祖父母さん達は参加してくれた。律子の両親の両親の4人だ。律子は4人にとって初孫だ。だから渚は初曾孫になる。

俺の親父とお袋の両親、ようは俺の祖父母達も参加してくれた。曾孫が生まれたことは写真を持って俺が直接祖父母達の家に一人で挨拶に行った。わずか16歳で父親となった俺に、最初はびっくりしていた祖父母達は笑って祝福してくれた。初めて会う曾祖父母達の合計8名に囲まれて渚はキョトンとしていた。

ちなみに祝いに参加してくれた、なぎは渚の世話をする姿が乳母のような存在だと皆に言われていた。


冬になって律子は復学した。俺の担任を含めて親しい先生達に掛け合って、最後は学校長と一対一で正対してディベートに勝利した俺は、律子を同じクラスにすることに成功した。そして俺のクラスには律子のことを知っている同級生が少なからずいる。

一年前に俺が授業をぶっちぎってタクシーで市民病院へ駈けていったことは沢山の人に見られた。事情を知った人たちから、彼女を妊娠させた罪、彼女と子供を守りぬいた功、俺は両極端の評価を貰ったが、幸せそうな律子の姿が俺の罪を消し評価を高めてくれた。

学校では節度ある態度をとる事を誓約させられているが、別に問題はない。律子と普通に一緒に居られるだけで俺は幸せだ。なぎを始めとして、卒業が近い律子の元同級生たちも時々俺たちのところに顔を見せてくれた。


新年を迎えて、三世代の家族が全員揃って祝うことが出来た。娘の渚にとって初正月だ。

曾祖父母たち8名から連名で立派な羽子板が届いていた。

「あけましておめでとう。」

親父の挨拶に対して、家族全員で挨拶をする。

「あけましておめでとうございます。」

「去年は渚も産まれたし、良い年だった。今年も良い年であることを祈るぞ。」

親父は笑顔で話をしている。

正月の鯛は魚市場に親父と俺で買いに行ったものだ。

正月料理は、お袋と律子が作ったものだ。お袋は娘と料理が出来て実に楽しそうだった。

よく分からない話だが、なぎも我が家の正月料理を何故か手伝っていたらしい。

大学生の兄貴たちも穏やかな正月を迎えている。


ところで俺たちが居ないのに、なぎが俺たちの家によく来ていた理由は、春になってようやく分かった。渚を産んで一年遅れになった律子と俺が一緒に3年生になる前の春休みだ。なぎは卒業して就職するはずだった。いや就職という意味では間違っていないのかも知れない。永久就職というものになるが。


下の兄貴の誠が、親父とお袋、上の兄貴の暁、それに俺と律子と渚に向かって報告をした。

「親父、お袋。二人目の孫が夏に生まれる。」

兄貴の隣には顔を赤く染めた渚が居た。娘の渚じゃない。律子の大親友の渚だ。

いつの間にか誠兄は、我が家に入り浸る渚と仲良くなっていたらしい。それで渚は綺麗になっていったんだな。だが、つい俺は言ってしまった。

「兄貴、高校生に手を出したんだ。」

それを言ったら、律子となぎを含む全員から言われた

「おまえがそれを言う資格はない。」


娘の渚に従兄弟が出来る。弟か妹かは分からないが、年も近いし一緒に遊べる存在になるだろう。渚は1歳にしてお姉ちゃんだ。

そして俺にも姉が出来た。俺にとっては一つ年上の妻に続く姉だ。


「なぎが、むかしは兄貴だったのに姉貴になったよ。」

冗談で笑って言った俺は、なぎにぶんなぐられた。


独り者の上の兄貴の暁は、弟たちの幸せに悔しさで怒り狂っていた。

誤字脱字、文脈不整合などありましたら、ご指摘頂ければ幸いです。

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