1.情けない始まり
私はおそらく、異世界に来ているのだと思う。
こんな一時期の流行りで手垢のつきすぎた展開に身を投じてしまった理由を話すには、前の出来事にさかのぼらなければならない。
本当にささいなきっかけだった。3月も終わりかけている日の夜、私は母親と口喧嘩をしたのだ。
母親の手には、私の通っている高校の通知表が握られていた。
「あんたねえ、興味がないからってこの成績はないんじゃないの?」
もう何度目だろうか、私の成績に不安を感じているようだ。
「お母さん、美術の成績を見てよ。ちゃんと5を取ってるでしょ?」
私は決して劣等生ではない……多分。少しバランスが偏っているだけだ。通知表に書かれた山村楓という、自然物に偏った名前を見ながらそう思った。
「でもねえ、数学は2じゃない。今留年ギリギリで、大学受験はどうするの?」
成績の話になると、いつも良い点ではなく悪い点に目がいく。心配性な母の悪い癖だ。
「あのさ、私、デザイナーを目指すために美大に行きたいんだけどダメ? あそこの学科試験なら私の得意分野がほとんどだし」
母は深くため息をつく。
「デザイナーを目指すって、その業界ってブラックらしいし……あんまり賛成したくないなあ」
実は以前にも同じような会話をしたことがある。その時はデザイナーとは何かあまり理解していなかったが、少し調べて心配してくれていることがわかる。しかし、私はその過保護なところに少し苛立ちを覚えていた。
「心配してくれるのは嬉しいけどさ、やっぱりやってみないとわからないでしょ? きっとなるようになると思うし」
「ううん、でもねえ……」
その後ろ向きな姿に私はカチンと来てしまった。
「お母さんってさ、いっつもいっつも心配するだけで全然前に進めないよね! 見ていてイライラしてくる!」
普段ならこんな事で怒ることはなかったのだが、日頃の鬱憤が溜まっていたのだろうか。冷静さを失って怒鳴ってしまった。
「イライラするのは構わないけどね、こっちだってあなたがのたれ死んだりしたらって考えると不安で仕方ないの理解できる!? 不景気で来月ご飯が食べられないかもしれない中で好きな事して生きていこうなんて、危険にもほどがあるとは思はないの?」
母も負けじと反論してくる。もうここからは歯止めが効かなくなり、数十分同じ内容を行ったり来たりの口喧嘩が続いた。
「……ちょっと出かけてくる」
私は少し冷静さを取り戻し、席を立った。
「こんな時間に?」
「うん。シャーペンの芯なくなったの思い出したからコンビニ行ってくる」
嘘だ。ただ単にこの場を離れたかっただけだ。
「まあ、言いたいことは充分言ったからいいか。女の子一人で夜出歩くのは危ないんだから、早めに帰ってきなさい」
わかってるって。そう言い残して私は家を出た。
春に近づき暖かくなってきたとはいえ、夜はとても冷える。そんな寒さの中にいるためか、完全に冷静さを取り戻し、今まで気づかなかった喧嘩疲れがどっと溢れ出してきた。
「お母さんの心配性、ほんと何とかならないかなあ。適当なこと言って出てきたけど、どうしよ」
友人の家に行くにしても時間が遅すぎる。特に目的もなく歩き回っていた。
気がつくと私はあるものを見つけた。
「冷蔵庫って、扉が一つのものもあるんだ」
私の家にある冷蔵庫と同じサイズだが、扉は一つだけ。そんな奇妙な冷蔵庫が粗大ゴミとして捨てられ横たわっていた。
目の前にある家の主が持っていたものなのだろう。私のボロアパートとは比べものにならない、大きな一軒家を眺めて推測した。
金持ちの家には金持ちらしい物が置いてあるんだなと少し嫉妬すると同時に、私の中ではある好奇心が湧いていた。
「この大きさなら入れそうな気がする」
誰もが一度はやってみたいと思ったことの一つ。冷蔵庫の中に入ることを私は考えていた。
「……だれもいないよね?」
誰もいないことを確認すると、さらにやってみたいという気持ちが大きくなっていた。誰もみていない今が、好奇心を満たすチャンスなのではないだろうか。
「じゃあ、おじゃましまーす」
音を立てないようにゆっくりと扉を開け、冷蔵庫の中に片足を入れてみる。少しきしむ音がするが、壊れるほどではなさそうだ。
ゆっくり慎重に両足を入れ、次に身体を入れてみる。
「は、はいった」
完全に冷蔵庫の中で横になった。吸血鬼が棺桶の中で寝る時ってこんな感じの景色が見えているのだろうか考えると少し笑えてくる。
さあ、好奇心は満たせたし出るかと身体を動かした時だった。
「あっ!」
身体を動かした時に生じた振動のためか、開け放していた扉が勢いよく閉まってしまった。まあ、開ければ問題ないだろう。そう思って扉を押してみた。
「えっ、嘘でしょ!?開かない!」
なんど前に力を入れてみても、扉は開かないのだ。なかばパニックになりながら扉を押したり殴ったり、時には蹴りを入れたりしていたが、全く開く気配はなかった。
「鍵がかかる仕組みだったんだ……」
冷蔵庫の種類によっては密閉性のため、外のハンドルを引くと鍵が外れ、離すと閉まる仕組みのものがある。私が入った冷蔵庫はちょうどそのような仕組みだったのだ。
「そうだ、スマホ!」
母親に助けを呼ぼう。そう思いポケットからスマホを取り出すが、画面には圏外の文字が表示されていた。
「最悪……どうしよう……」
その後も何度か扉を開けようともがいてみたが、ビクともせず、体力だけが消耗するばかりだった。
冷蔵庫に閉じ込められて恐ろしいことは、密閉されているがゆえに酸素がなくなっていくことだ。そのせいなのか、私の意識は朦朧としていた。
「だめ……しぬ……」
こんなくだらないことで私の人生は終わってしまうのか。そう思いながら私の意識は途切れた。