「ハサミ男」 感想
殊能将之の「ハサミ男」を読んだ。ネタバレ回避しつつ感想を書くつもりだが、ネタバレがないとも限らないので、嫌な人はブラウザバック推奨する。
「ハサミ男」というのはミステリに該当する。ミステリはまず読まないので、「読むのが楽だなあ」と思いつつ、すらすら読んでいった。「わかりやすく書け!」「面白く書いてくれ!」というたびたび聞こえる声というのは、こうした作品を中心に読んでいる人達の声だったのだなと感じた。また、自分が読んでいる本はわかりにくい本が中心だったという事もわかった。これに関してはどうこう言うつもりはない。ただ、そうか、なるほど、と感じただけだ。
さて、「ハサミ男」という作品は最後に大きなどんでん返しが待っている作品だ。あらすじを紹介すると、「ハサミ男」という名で呼ばれる猟奇殺人犯がいて、すでに二人の美少女を殺している。警察も行方をつかむ事ができない。「ハサミ男」は三人目の美少女を標的にして、準備を整えるのだが、美少女をつけねらっている際に、すでに死体になっているのを発見してしまう。しかも、その死体はハサミ男の犯行を真似られていた。
つまり、三人目の殺人は模倣殺人なのだが、ターゲットの死体を、本物のハサミ男が目撃してしまう。そこで、本物のハサミ男は自分の犯行を模倣した真犯人を捜索する事にする。それと共に、警察内部でのハサミ男の捜索も内側から描かれていく。果たして、三人目の美少女を殺したのは誰なのか? ……というのがあらすじだ。
僕は「ハサミ男」を最後まで読了した。まるでテレビドラマを見るようにスラスラ読めた。テレビを見ている感じで活字を読むという経験はあまりなかったので、非常に楽に分厚い本を読めた。活字嫌い、活字離れといっても、活字如何によって難易度が違うので、そう簡単に決められないと思う。楽に読める活字もあれば、奮闘して読まなければならない活字もある。活字も色々ある。
「ハサミ男」というのは最後に大きなどんでん返しがある。そこで主に二つ、読者の意想外の秘密が明かされる事になる。だが、秘密というのは、読者に見えないように作品内部に隠しておかなければならない。そうでなければ、どんでん返しの意味がない。
率直に言うと、どんでん返しのくる終盤部分までは愉しく読めた。特に面白く感じたのは、「ハサミ男」という殺人鬼の像が、マスコミを通じて独り歩きし、その独り歩きが逆に、ハサミ男本人にフィードバックするような部分である。マスコミは猟奇殺人犯の真実に迫ろうとイメージを作るのだが、それは実際の犯人とはまるで違う単なるイメージにすぎない。犯人の方ではマスコミの作るイメージを知り、巧みに利用しもする。つまり、対象の真実を僕達が探り出そうとしているように見えて実は、僕らは各々勝手なイメージを作っているにすぎない。気づけば、イメージを与えられた方も、イメージに合うように自分を作り上げる。こうして現実は虚構によって書き換えられる。
実際はここまで抽象的に書いているわけではないが、そういったメッセージを受け取り、その部分は「なるほど」と愉しく読めた。またハサミ男と警察双方で、真犯人(模倣犯)を追いかけていく姿も、臨場感があって愉しく読めた。だが、最後のどんでん返しまで来た「うーん」となり、ダウンな気持ちになってしまった。
元々、自分はどんでん返しというのには重要な価値を感じていない。「ネタバレ良くないよ」という声がこれだけ多いのは、話の筋を中心に見ている人が多いだからだろう。そして、そうした読者に適合する姿勢として、どんでん返しもまたある。つまり、読者が騙されるといっても、それは騙されたい読者が沢山いるから成り立つ。僕としては別に騙されたくないし、相手の裏をつこうとも思っていない。自分が作品に隠されたメッセージ・表徴を読み取れなくても、気にしない。
僕はシェイクスピアが大好きだが、シェイクスピアの作品には秘められたものがないように見える。ゲーテの言うように、登場人物はもちろん、石であろうと草木であろうと、真実を吐露する事を要請されている。全ては明らかであって、読者に隠すべきものなど何もない。逆に、シェイクスピアの作品は全てがあまりにも明らか、あまりにも真実であるからこそ、僕らの凡眼には眩しすぎて、逆に謎があるように感じてしまう。先日、「モナリザ」の模造絵を見て、素晴らしい絵だと感じたが、「モナリザ」に陰謀や秘密の必要は全く感じなかった。作品の背後ばかり見ようとする人は作品全体を見落とす。「モナリザ」の絵の美しさという当たり前のものが見えなくなって、代わりに背後の陰謀と秘密を探る。
…と言うと、大げさな話になるので、話を戻す。「ハサミ男」はよくできた作品である。最後によくできた叙述トリックが披露される。それは非常によくできているので、読者はだまされる。「俺はだまされなかった!」という人もいるだろうが、それは別に読者の優位を意味するものではない。僕は普通にだまされたが、だまされて気持ち良いとは感じなかった。「ああ、そういう風に来るんだ」と思った。正直言うと、こちらの信頼を裏切られたと感じた。逆に考えると、ミステリファンというのは、みんな、あのような戦闘態勢に立って本を読むのだろうか。(多分読むのだろうけれど) 一つの本に対して常にだまされまい、真実を見抜こうという姿勢で読むのだろうか。僕としては多少の粗があっても、全体として作者が作品に与えた方向性や思想、そしてそれらが醸し出す個々の部分が良ければそれで満足する。細部の設定は完璧だが凡庸な作品というのは興味がわかない。
「ハサミ男」のラストは意外な結末である。意外な人が真犯人だ。だが、真犯人の犯行動機はかなり平凡なもので、まるで「名探偵コナン」を見ている気持ちになった。もちろん、動機が平凡でも構わないわけだが、この動機はどんでん返しの為に、最後までとっておく必要がある。犯人は急に明らかになるので、その心理的過程は深く描く事はできない。
僕には、真犯人があの人だったというのは確かに意外だったが、それと引き換えに、真犯人の内実や心理を描く描写はかなりお粗末なものに見えた。作者が真犯人の内面を描く力がないのであれば、別になんとも思わない。だが、作者にはそれを描く力が十分にある。にも関わらず、最後に真犯人が平凡な動機で人殺しをしたという事実は、それが、最後の最後まで謎としてとっておくための代償のように見えた。つまり、どんでん返しの為に、真犯人の内面や人間性はこそぎ落とされ、読者を欺くためだけに出てきた役者のように感じた。
言い換えると、作者は真犯人を物象化して扱った。人を殺したり、殺されたり、といった時に現れてくる人間の内面の問題は、読者の思考を上回る為に、省略された。代わりに、単純化された事実が現れた。それは、物事を事実の連なりとして読む読者の為に構成されたものだったと思う。
確かに、殺人事件を扱う作品というのは、殺人を単なる事実として扱う。毎度毎度、人が殺され、毎度毎度、刑事は犯人を探る。その時、殺された人の内面、殺す側の内面の葛藤を深く描いていたら尺が足りない。
色々な物事が記号化し、単純化されている。僕らは作品の筋を追う。意外な結末を知りたがる。巧みなストーリー構成を期待する。しかし、その時、登場人物はストーリーを構成する為のただの駒に見えてくる。ブラック企業の社長には社員が駒に見えるのかもしれないが、同様に、ストーリーだけを追うのであれば、登場人物はその為の道具として現れてしまう。
「ハサミ男」の作者は決してそんな単純な作家ではない。きちんとした力量のある作家だ。ハサミ男が幻視で見る架空の医師と、ハサミ男自身が会話する部分がある。あの部分はストーリーの流れを阻害するかもしれないが、文学的には価値があると思う。また、被害者が清純な女子高生に見えてそうでなかったという部分もきちんと描けばもっと意味のあったものになっただろう。
しかし、最終的に「ハサミ男」という作品はどんでん返しに収斂される事になった。僕はそこから急速に読む気力を失ってしまった。ああ、そっちに行ってしまうかという気分だった。
作者はキャラクターの内面や動機といった問題をラストに省略し、ストーリーの転調に水準を合わせた。その為に、事実の連鎖としては意外なものとなったが、水面下の人間は単純化された。真犯人は知能の高さとは裏腹に、異様に凡庸な存在になってしまった。そこには取ってつけられたような葛藤しかなかった。僕はそれを残念に感じた。
…とここまで書いたが、こういうのは今までミステリを読まなかった人の読み方かもしれない。ただ、常に作品から隠された意味を発見しようとして、普通に作品が見れなくなってきているというのもどうだろうと思っている。作者もそれに合わせて作品を作らざるを得ないのだろうけれど。
例えば、本を読むという事では、ほんの人間のリアリティを感じるだけでも十分おもしろいと思う。本ではないが「龍が如く」というゲームはキャラクターが魅力的だ。冴島とか秋山とか、魅力あるキャラクターが出てくる。しかしこの作品もまた、読者を驚かす為に沢山の労力を支払っている。その労力は良い支払いだったとは思わない。むしろ、キャラクターの方がストーリーの為に損をしている印象すらある。
ひらたく言えば、作品の価値はストーリーにあるとは一元的には言えない。だが、それを望む読者は沢山いる。沢山いるからこそ、それは一つのジャンルになる。そうした作品が多くできる。読者はどんどん高度になる。複雑で高度な内容を求める。作品は次第に複雑化していき、高度になるが、本当にそれが過去より良くなったかどうかはわからない。ただ、誰もがなんとなくそれを追い求める事になってしまっているという事実だけがある。
どんでん返しには確かに意味がある。それに最初に出会うと、大きな驚きを感じる。面白いと思う。だが、そういう見方をする読者はその本をいつか読み返すだろうか。どんでん返しに代表される瞬間の驚き、一回限りのサプライズにエネルギーを集中させている作品は繰り返し読むに値するだろうか。
「ハサミ男」は確かに面白い作品だ。僕も面白い作品だと思うし、良い作品だと思う。娯楽として優れていると思う。しかし、「ハサミ男」を再び読み返したいと思わない。一度経験したからもういいやと思ってしまう。そして、作品それ自体もそのように書かれている。では、この作品を良いという基準はどんな基準なのだろうか。少なくとも、過去の古典と同じ水準にはおけない。
もちろん、こんな見方は僕固有の勝手な見方である。しかし、作品の途中までは十分面白く感じていたので、最後でそういくのかというのは残念に感じた。ただ、あちらの方が正当なのかもしれない。よくわからない。少なくとも、僕は読み返したいとは思わないだろう。
…という事で、「ハサミ男」の感想を終わる事にする。すらすら読める面白い作品だったが、同時に、色々な事に疑問を持った。読者の方でも非常に賢くなっているために、作者はそれを越えるのが大変になっている。だけどその賢さとはそもそもなんだろうと根源的に考えてみても良いように感じた。もっとも、そんな事言っていると、ミステリの世界では生き残っていけないのかもしれないけれど。