猫の生とは如何なるや?(プロローグ)
覚えている中で一番古い記憶は母の腕の中で震えている記憶だった。
母の暖かな腕の中なのに、迫りくる不安と恐怖で私も震えていた。
世界は私に対してとても厳しく怖い存在で、私は生まれてきてはいけない存在だと怖い大人達は叫んでいた。
顔も、手と足の形も母と似ているのに、私には人非ざる耳と尾――黒い猫の耳と尾を私はもっていた。
この辺りでは見ない褐色の肌と相まって私の姿は真っ黒な獣のようだった。
ただそれだけだった。それだけでこの世界の人は私の存在を拒んだ。
「――がせ!魔――ころせ!」
怒声に混じって金属が擦れ合う音、ガチャガチャと何度も何度も鳴りながら遠ざかっていく。
母は震えながらもほっとしたように息を吐き、私の頭を撫でてくれた。暖かい、優しい手だった。
「大丈夫、大丈夫よ。『――』、大丈夫よ」
優しく優しく私の名前を呼ぶ。拒まれた世界の中で私の存在を認めてくれた愛しい声。
好きだった。大好きだった。母に名を呼ばれることが好きで、だから私は自分の名前が好きだった。
ずっとずっと私の名前を呼び続けてほしかった。怖い世界で唯一の拠り所だった。
それでも、やはり世界は私には厳しい存在だった。
私を愛し、拠り所になっていた母は病で呆気なく死んでしまった。もう私の名前を呼んでくれる人はいない。
もうこの世界に存在する理由などないのに母は最後に『生きて』と言った。私の生を祈りながら死んでいった。
私は死ねなくなってしまった。
辛い、厳しい、怖い、人の悪意と敵意、殺意、酷い世界に晒されながらも生きねばならなくなった。
母が望むなら。愛してくれた人が望むなら。何としてでも生きていかなければならない。
幼い私にとって、母の『生きて』は呪いとなった。逃げられない呪いの言葉は私は生へと駆り立てた。
ゴミを漁り、泥水さえ啜り、怖い人間達から隠れ、時に追いかけられながら必死で生きた。何度も何度も痛い思いをした。辛い思いをした。死にたかった。それでも母の言葉で死ねなかった。
「寂しい」「辛い」「母様」「痛い」
『殺せ』『捕まえろ』『消えろ』『殺してやる』
母以外の人間は怖い。私を蔑む。存在してはいけないモノだと皆が言った。私の名前など聞いてくれなかった。
「私は」「私の名前」「私の名前は――」
『化け物』『禁忌の子』『悪魔』『穢れた血』『人の出来損ない』『半魔の屑』
名前を呼ばれないのが辛い、母が呼んでくれないのが寂しい。この世界から消えてしまいたくなる。
だから、私は私の名前を『忘れてしまう』事にした。
******
「――おい、大丈夫か?」
声がする。低くてしわがれた声。大人の男の声だ。急速に覚醒していく意識と共に目を開く。
私は丁度木にもたれるようにして男に見つめられていた。
確か大人達に見つかって、必死に逃げて、森に迷って――それから何日も、何日も、歩いて、逃げて。いつの間にか気を失っていたらしい。
今更ながらに腕に負った傷がじくじくと痛みだした。
「……」
「息はあるな。どうした?どこからか逃げてきたのか?」
逃げなければいけないと思った。見つかれば追いかけられ殺されそうになった。そうじゃなくても痛かったり苦しかったり、『気持ち悪い事』をされそうになった。
大人が怖い。男が怖い。女だって油断ならない、あいつらはすぐ仲間を呼ぶ。優しい振りをして捕まえられそうになった。
「…くるな」
「怪我をしているな、手当してやる」
「近づくな!!!!」
必死で叫んだ。怪我で血を失い、疲れた体は思う様に動かない。
ならばと自らに生えている人ならざる牙と爪で威嚇をしても、男は軽く肩をすくめるだけだった。
「お前が『禁忌の子』なのは見ただけで分かる。だが、ただ生きてるだけのお前よりも酷い奴らなんて腐るほどいる。そんなん一々気にしてられねぇよ」
「…は?」
「お前が何であろうと俺は気にしないし、女だからどうにかしてやろうと思うほど腐ってもいない。まあ、そんなことできるほど若くもないしな」
それ以前にお前子供だしなーと豪快に笑うまじまじと男を見つめる。年老いた、それでも強い目をした男だと思った。
警戒は解けないが、今まで見た人間とは違う事は分かった。それでも人間は怖い。恐ろしい。
「それとも、お前はこんな爺を殺すのか?そのおっそろしい牙と爪があれば俺なんかあっという間に死んじまうだろうが…どうせ殺すのなら手当を受けてからにしとけよ」
「あんたは…死ぬの、怖くないの」
「死ぬよりも酷い目に何度もあってるからな」
あっさりと言い切った男は鞄から取り出した水と布で傷口を洗おうと近づいてくる。
怖い。怖い。怖い。怖い。
その心とは裏腹に身体は動かない。それどころか頭の中では初めて見るタイプの人間に少しずつ好奇心が勝ってきている。
油断なく見つめている先で男は私の前で屈みながら傷口を洗い、しっかりと布を巻いてくれた。男の手はしわしわで母の手と違っていたけれど暖かい所は少し似ていると思った。
「ほら終わった。しばらく休んでりゃ歩けるようになるか?食い物でも持ってきてやろうか」
「……」
「それとも、口封じに俺を殺すか」
まっすぐに男は私を見た。意思のあるしっかりとした目、それでもどこか寂しそうな目。
黙ってちゃわからんとまた男は笑っていたが、言葉が浮かばない。
しばらくすれば動けるだろう。食べ物を持ってきてもらえば助かる。後々の事を考えれば殺してしまうのも手だ。どこで何を言われるか分からない。
でも、それでも、ぐちゃぐちゃと頭の中で言葉が纏まらない。思考がぐるぐるとまわっている。
「――それとも、うちに住み着いてみるか。飯はあるし寝床も勝手に作っていい。それに抵抗できるほど若くもないしな」
その言葉が不可解で男の顔を見れば、その視線がゆらゆらと揺れる尾に注がれている事に気づいてむっとした。
「ペットにでもするつもりかよ」
「悪趣味なこというんじゃねぇよ、生きたいなら何でも利用しろっていってんだ」
皮肉げに笑った男は屈んだままで背を向けた。何かを負ぶさる様な恰好で私の前で動きを止める。
「な、なんだよ」
「決めるのはお前だ、来るなら乗れ。嫌ならそう言え、飯ぐらいなら持ってきてやるから後は好きにすればいい」
「……そんなの」
嫌に決まっている。その言葉は出なかった。
怖い。恐ろしい。危険だ。そんなの分かってる。分かっているのに、私はどこかおかしくなっていた。
苦しかった。ずっと寂しかった。母と同じ暖かさが懐かしかった。その背中に思わず縋ってしまっていた。
「よし、しっかり掴まってろよ。年寄はあんまり力が無いから落っことしても怒るなよー」
冗談交じりに笑う男の背中は、とても暖かい背中だった。
男の家は町はずれにあった。ぽつんと一軒だけ建っている質素な小屋、それが男の家だった。
「狭い、ぼろい」
「そうだろ、自慢の家だ」
野宿同前の暮らしをしていた事を棚に上げて悪態をついても男は笑っていた。
男の寝床を占領しても、床で平気で寝ころんで笑っていた。貯めてあった食糧を勝手に食べた時は少し怒ったが、夕食の時には育ち盛りは沢山食えと笑っていた。
男以外の町の人間はやはり私に良い顔をしなかったが追いかけはしてこなかった。不思議に思って聞いてみれば、この国は半魔を忌み嫌えど殺せば罪になるらしい。
問答無用で殺していいのは別の国だと男は言っていた。私は森で迷ううちに別の国へと渡っていたらしい。幸運なことだと男は笑って言った。
「なぁ猫よ、人を愛せとは言わないが、憎みながら生きるのは疲れるだけだ。お前が笑って生きれることが俺の今の願いだよ」
名を忘れた私を男は猫と呼んだ。嫌なら名前を思い出すか新たに命名しろと言われたけれどそのままにしている。なんとなく名前が無いのが自分らしいと思ったのだ。
成長した私は髪も伸び、尾も更に長くなり、体つきも女らしい曲線を描いていった。それに想像以上に背が伸びて男の背を越していた。大きく育ったもんだと男は嬉しそうに笑っていた。
思えば男との暮らしは笑顔が必ずあった。しわしわの顔で笑うのが面白くて、男が笑うのを見るのがいつの間にか好きになっていた。
だから、男が倒れた時はその笑顔が見れなくなるのがとても悲しくて寂しかった。この人も母と同じで私を置いていくのかと辛かった。
「猫よ。なぁ猫よ。今は辛いだろうが、きっとお前にはまた傍に居てくれる奴に出会えるさ。お前は優しくて寂しがり屋だからなぁ、ほっとけないんだ」
私の頭を撫でながら男は言った。
暖かい手で撫でながら、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべていた。それに私は上手く笑い返せなくて、情けなくて涙が出た。
「妻を亡くして、娘を奪われて、絶望の淵にいた俺に猫を出会わせてくれたんだ。この世界は辛いが悪い事ばっかじゃねぇさ」
「お前に出会えて良かったよ。お前がいてくれて良かったよ。お前が笑ってくれた時、俺は幸せだったんだ。まだ若いお前を残していくのは辛いが、なぁ」
「生きてくれよ…なぁ…」
最後まで笑いながら、ただ泣きじゃくる私を撫でながら、男は安らかに眠った。永遠に目覚める事のない眠りだった。
永遠に眠った男は、飲み仲間だったという男達に連れられて森へとひっそりと埋められた。それが男の願いだったと男達は言っていた。
家には私一人が残った。来る客といえば、町に住まう猫達ぐらいで半魔の私が住まう家を皆避けていた。
それでいいと思った。男は私に傍に居てくれる奴がいるなんて言ったがそんな都合が良い事何度も起こる筈がない。世界は何時だって私に厳しいのだ。
それでも生きねばならない。母も男も生きろと言った。生きていくには食べねばならない。
食料は森へと狩りに行った。人間と比べて俊敏に、力強く動けるこの体は狩りに向いていた。鹿を狩り、猪を狩り、余った皮や骨は売れば少しの金にはなった。
森に出没する魔物を狩れば更に金を貰えた。魔物を狩れる力を気味悪がられる事も慣れていった。
私は一人になった。もともと一人になる運命だったのだろう。だからそれで良いと思った。生きていればいいと思った。
幸い、猫達だけは懐いてくれた。不思議と猫と意思疎通ができたのだ。更に気味悪がられることは分かりきっているので内緒ではあるが。
男が暮らした家で、猫達と生きる。それが私の一生なのだろう。それでいい。それでよかった。
それでよかったのに。
「…あの…そこに、誰か…いますか?」
森の中、いつも通りの狩りの帰り。体についた血を川で洗い流している最中に。
「――!?!?す、すいません!その!水浴び中だとは!ごめんなさい!」
必死に謝りながら、白い頬を真っ赤にさせて、その子は姿を現した。
「ごめ、ごめんなさい!!!!!」
「いや…まぁ、いいんだけど…」
裸のまま戸惑う私とその子――雪の様な真っ白な髪を持つ少女、それが『私達』の初めての出会いだった。
初連載です。まずはプロローグ。
ゆっくり不定期更新ですが、宜しくお願いします。