碧い小鳥、紅い鳥
ルイーズは寒さに目を覚まし、シーツに包まった足先を思わず擦り合わせた。それからベッドに横になったままで、まだ夜の明けきらぬ時間から聞こえる、使用人達の動く足音に耳をすませた。間もなく部屋にも若い侍女が毛布を抱えてやってきて、シーツの中で小さく丸まった身体に、ふわりと掛けてくれた。
「……どうもありがとう」
半ば寝ぼけた小さな呟きに、去年新しく雇い入れた若い彼女は、もう少しおやすみなさいませ、と一礼して去って行った。厚手の毛布に包まっているうちに、徐々に冷たさは遠のいていく。
昨日までは明け方でも、こんなに寒くなかった。きっとこれから、駆け足をするように冬がやってくるに違いない。ルイーズは身体の向きを変えながら、国の南にあって穏やかな気候の子爵領とは比べるべくもない、北の国境線の事を考えた。
そこにルイーズの婚約者が、国境警備の任についていた。治安の悪い北の隣国とは武力衝突こそないものの、野盗じみた人間達がたびたびやってくるのだと、父の購読している新聞に書いてあった。寒い上にそんな危険な場所なんて、と箱入り娘だと自覚があるルイーズにはとても想像がつかなかった。
美しい、と社交界でも評判だったルイーズの姉二人は、どちらも格上の貴族の青年と恋に落ちて、乞われて嫁いで行った。
てっきり、せめて長女には婿になってくれるような青年を、と期待していた父は、表向きは笑顔で二人の結婚を祝福した。しかし、ルイーズには社交界に出る前から婚約者を立てる事にした。上の二人と齢の離れた末娘まで嫁に行かれては、子爵家には一人も子供がいなくなってしまうからだ。
そう言った経緯で、父は若く将来有望、かつ王都から遠い田舎にある子爵領を真面目に守ってくれそうな人物を、嫁いだ娘二人の協力を得ながら精力的に探し求めた。しかし、子爵家は社交界での華やかな生活とは程遠く、領民最優先で慎ましい暮らしを代々続けて来たためか、花婿探しは難航した。しかしついに、条件を満たすヒューイという青年に、ルイーズが結婚可能な年齢に達し次第の、子爵家への婿入りを承諾させた。
その日、ルイーズはまだ十二歳になったばかりだった。軍人であるというヒューイの方も国境警備の任を命ぜられた直後で、二人は顔を合わせる事もなく離れたまま、時間だけが過ぎてしまった。申し分ない相手だから心配するな、と父は言い、ルイーズは頷いた。
彼が、自分が結婚する相手が一体どんな人なのか、期待と不安は入り混じりつつも、向こうは仕事が忙しいだろうと、積極的でない性格のルイーズは、今まで接触しようと自分から動く事はなかった。姉二人とは違う、あくまで家のための結婚だと父に刷り込まれたせいもある。その方針に異論はない。しかしいつも後から、この機会に便りの一つでも試みておけば良かった、と後悔するばかりだった。せめて一目会っておきたかった、今でもそう思っている。
今までのルイーズであれば、起きる時間までぬくぬくと毛布の中に包まれるだけだった。しかし、今日に限っては、寒さに白い息を吐き、目を擦りながら起き上がった。
次の春が来れば、ルイーズは十六歳となって結婚を許される齢になり、ヒューイもそれに合わせて国境から帰還する。顔もわからない婚約者、父の決めた相手とは言え、自分がこれから伴侶となる存在に少しでもいいから近づきたかった。
手紙を書いてみようかと、ルイーズはずっと心の奥底にあった計画を実行に移す事にした。早速毛布に包まったまま、ベッドサイドに置かれていたランプに火を灯した。暖かな炎を頼って、引き出しから羊皮紙とペンを取り出し、しかしまた別の問題が立ち塞がる。
一体何を書けば正解なのだろうか。いつもそこでペンは止まってしまうのだ。
お元気ですかと書き出してみれば、もしケガを負っていたらと暗い想像が先に立つ。では、そちらは寒くないでしょうかと案じてみる。安全な場所から高みの見物、ととられやしないだろうか。何色のお花が好きか聞いてみようと思いついた。しかし、そもそも相手は軍人として戦場にいるのだった。今そんな悠長な話をしたい気分ではないかもしれない。
「……うー」
考えて、悶えて。何度も書き直して。やはり手紙など出さない方が良いのではないか。気が付けば、くう、と切なくお腹が音を立てる。そこで少し冷静になって、寝台の下に手を伸ばした。
そうして夜が明けるころ、ルイーズはそっと部屋を抜け出した。歪な形に膨らんだ、飾り気のない封筒に書かれた宛名は、会った事の無い人の名前だけがある。
「……どうか」
遠い王都にて売られているという、摩訶不思議なレターセットは、嫁ぐ前の姉が残して行った物である。何度かこっそりと、秘密のやり取りを交していたのを、まだ子供の頃にその後ろ姿を見ていた。だから使い方は知っている。
ルイーズが三階の窓から空中へ腕を伸ばすと、手紙がまるで旗の様に風にはためいた。
国の旗を掲げられた国境線で、あの人は今日も生きていてくれるだろうか。手の中の封筒が不意にぴたりと静止して、ルイーズの瞳と同じ色の碧い炎を纏って燃え上がる。冷たい風に晒された指先が、ほんのりと温まった。
そうして現れた小鳥は手の平にて可愛らしく小首を傾げ、小さく鳴いた。たん、と空へ舞いあがり屋敷の周りの一回りして、北に向かって飛び始めた。
「……届きますように」
「……おい、ヒューイ!」
国境警備基地の食堂にて、当直明けの昼飯にありつきながら会議を開いていた部隊の長に、別の隊の同期から声がかかった。彼の手には書類の束や小包の他、その一番上に小さく鮮やかな碧い小鳥が鎮座している。
「……?」
会議に水を差された、夜勤明けで気が立っているヒューイは、にやつく同僚から飛び移って来た小鳥に不審そうに眉根を寄せた。
「なんだなんだ?」
王都で大流行となって久しい、詳しい所在のわからない相手にも届く謳い文句の手紙は主に、主に裕福な貴族の恋人同士のやりとりに使われていた。つまり、差出人はほぼその相手に限られている。転じて手紙を送る行為自体が、どんな言葉を尽くすより心の内が伝わってしまうのだとも言われていた。
何故、それが自分に届くのか。真面目な会議の雰囲気も吹き飛んで、好奇の目が注がれた小鳥は封筒に姿を戻した。
眠いのと、それからこんな場所までわざわざ手紙を寄越すような知り合いに心当たりのない彼は、乱暴に手紙を掴んで封を破り捨て、中からコロコロカサカサと転がり出た色とりどりの幾つもの丸いものと、差出人の名に目を見張る。名前の主の父親とは何度か事務的なやりとりをしているが、本人の名前を目にするのは久しぶりだった。
「あ、飴玉じゃないですか!」
ふわりと香る甘い匂い。人数分余裕でありますね、と上がる嬉々とした声。しかももらった当人が甘いものが嫌いで有名である。男所帯な国境基地においては貴重な甘味に伸ばされた手は、しかし容赦なく叩かれて悲鳴を上げた。
「……人の物を勝手に食おうとするな」
全く、と彼は手紙と零れた包み紙を掴んで残らず懐へしまう。まさかの独り占めに、食堂には打ちひしがれた声がこだました。
「隊長、甘いもの好きでしたっけ?」
「今、好きになった」
「ひどい、わざわざ見せびらかして」
「隊長の婚約者、十二歳でしたっけ」
「……春先で十六だ。いいから会議を続け……」
「わあ……なんて羨ましい……」
「尻に敷かれてください」
「やかましいぞ貴様ら」
「ああ、俺も十六歳の可愛い婚約者欲しいよ……」
「……集中しろ」
ヒューイはすっかり話題の逸れた昼食兼会議を無理やりまとめるのに手こずって、部屋に戻ったのはずっと後の事である。横になっていつもなら、さっさと毛布を被って夕食まで寝てしまうのだが、と雑に扱ってしまった便箋を懐から取り出した。
「……」
なかなか中身を確かめる気にならなくて、先に赤い飴玉を一つ、包み紙から剥がした。指先で摘んだ、まるで宝石のように丸く半透明なそれを口に放り込み、ようやく便箋に目を通した。
書きたい事はたくさんありますが、とりあえず今は会えるのを楽しみにしています。
手紙の中身は、飴玉以外にはそれだけが書かれている非常に短い内容である。一体どういうつもりでこんな、とか、彼女の父親は把握しているのだろうか、と色々な事が頭を過って行った。
ヒューイは子供の時期の大半を孤児院で過ごしている。そこから身一つで這い上がって奨学金を借り、返済免除になる北への任務に就き、出立直前になって士官学校の友人の兄の紹介で結婚の話が出た。何故自分のような生い立ちの者に貴族の家の婿養子になって欲しいのかは、未だに定かではない。どうしてもと君が、としつこく懇願されて断り切れなかった。
それから婚約が決まった当初、相手はまだ女性には程遠い幼い子供だった。深窓の令嬢なために顔を合わせる事もなかった。
姉二人が望まれ嫁いで行った姿を間近で見ていたはずの、幼い妹の立場からするとどうなのだろう、と若干複雑な気分でもある。今まで何の接触なかったのはそういう事だと解釈していた。
そんな相手からの思わぬ便りに、ヒューイは少しだけ笑みを浮かべた。
寒さが峠を越した。冬の間も庭師がせっせと世話をし手入れをした成果が少しずつ色づき始めている。
婚礼の日に向けた衣装合わせに呼ばれた商会とすっかり日が落ちるまで打ち合わせを行い、ルイーズは部屋へと戻った。扉を開けると、暗いはずの部屋からは夕日のような光が零れた。
「……あ」
整えられた寝台の上に丸くなっていたそれは、ゆっくりと顔を上げた。優に一抱えはある紅い、美しい鳥は受け取り主の姿を認めると、キュルルルと高く啼いて翼を広げた。思わず駆け寄った先にふわりと舞い上がって、封筒へと姿を変え手におさまる。
「う、わ…」
見た目よりずっしりと重いそれにはルイーズ、とそれだけ宛名書きされていた。文字は角ばった教本のような硬い筆跡である。震える手で引き出しからペーパーナイフを取り出して慎重に封を切った。
拝啓
流石に、手紙がついて書いた当人が帰らないという笑えない事態は避けたいと考え、返事が遅くなりましたことを謝罪致します。
手紙と、美味しい飴玉をどうもありがとう。孤児院にいた頃も、学院に所属していた間も、任地に立っていた時も、飴なんかで腹が膨れるものかと侮っていましたので、それらを頑なに独り占めする私の姿はなかなか奇異に映ったようです。張り詰めた基地の空気を和らげようとばかりに、しばらく笑われました。
私には家族がいませんでした。遠い親戚の元を転々とし、孤児院へ入れられ、学院の寮を家として育ちました。任務が終わって帰路につき、向かう先が私の家であるという実感は何とも不思議なものです。到着すれば、私にもようやく家族ができるのだと。
私の初めての家族となる、あなたはどんな女性なのでしょう。顔を合わせるのが楽しみでなりません。今まで会えなかった分を含めて。
さて、この手紙を受け取った事で、私の瞳の色を認識して頂けたと思います。髪も同じ色ですので、別の誰かと間違える可能性は限りなく低いでしょう。世の中にはまるで、魔法のような不思議な品があるようですね。
つきましては同封させて頂いたものを、私と初めて会う日だけ身に付けて頂けないでしょうか。決して高価なものではありませんが、貴方の瞳の色にできるだけ近いものを選んだつもりです。
それがあれば、私も花嫁を間違う事無く、一番初めに腕に抱ける事でしょう。
会えるのを楽しみにしております。
敬具
手紙を何度も反芻した。自分とはかけ離れた境遇が、それでも前を向き続けたであろう彼の姿が、紅い色と共に頭の中へ浮かんで来た。
会う事を、家族となる事を楽しみにしてくれている。その気持ちを共有できている事が、これほど嬉しい事だとは思わなかった。
便箋と一緒に入っていたもう一つの紙の包みは重く、手に取るとしゃらしゃらと軽い音を立てた。封筒とも便箋とも違う洒落た柄の包みを開けると、金の鎖に繋がった首飾りと耳飾りとが手の平へと滑り出る。
「わ、あ……」
思わず零れた笑みと歓声を聞き咎める者は誰もいなかった。
それから数か月経ち、ルイーズは父親と共に領地を出て王都へと向かった。勿論、婚約者と初めて顔を合わせ、一緒に領地へ戻るためである。
初めて足を踏み入れる王都の活気にも、せっかくだからと合流して久しぶりに顔を合わせた姉達との再会にも上の空で、ルイーズはずっと紅い色を探していた。王都でよく待ち合わせに使われる市場には出店が立ち並び、人の多さに親子そろって圧倒される。
なかなか会えないのだから、と姉二人はそれぞれ子供を連れてきていて、しかも加えて侍女や護衛まで数人いるのでかなりの大所帯である。それを特別な事と思っていない様子にも驚いた。
父はあまり子供に好かれるような雰囲気の男性ではないが、初めて顔を合わせた母方の祖父、というのが物珍しく感じるのか、孫達にずっとまとわりつかれて歩くのすら苦労する有様である。
その中の一人に背に飛びつかれてへとへとの子爵は、ふとした瞬間に娘を見失った。
「……ルイーズ、殿?」
聞こえた声に、振り返った先にいた赤毛の青年はゆっくりとこちらへ近づいて来る。何と呼べばいいのか、とやや自信のなさそうな響きが、名前を読んだ。ルイーズが想像していたよりも背が高く、質のよさそうなシャツを着ていた。髪の色はあの鳥と一緒で、夕日のように鮮やかである。
「良かった、何だか催し物が重なったようで……」
父がきっとわかりやすいだろう、と待ち合わせ場所に指定した王都で一番大きい市場の入り口、というのは人出が多い日には入りきらなかった出店等に呑み込まれてしまう。王都外の人が陥りやすいミスを見越して二人を探していたヒューイの腕の中に、小柄なルイーズはぽす、と収まった。
「……ずっと、お会いしたかったです」
収まってからここは人の目がある場所で、はしたなかったと慌てるも背中に回った腕は離してくれない。
「……お父上は?」
「……早くお会いしたくて……、見失ってしまいました。姉達がいるので大丈夫だとは思うんですけれ……」
抱きしめられたままでの言葉が途切れたのは、彼の指先がもらったイヤリングをちょん、とつついたせいだった。驚いて顔を上げたルイーズの前には、悪戯を思いついたかのような、楽しそうな笑みがある。
父が言うには誰も行きたがらない北の国境線にも自ら志願したとか、ルイーズが受け取った手紙の生い立ちから想像すれば、とても真面目な人間に違いないと思っていた。
それでもこんな風に笑ってくれるのが不思議で、往来の真ん中にも拘らず、しばらく見惚れるような心地のままで見つめてしまった。
「……あまり時間はないか」
ヒューイは周囲に視線を巡らせて、少し離れた場所に見覚えのある、婚約者の父親を姿を見つけた。まだこちらには気が付いていないが、血相を変えた表情を見るにあまり心配させるのも申し訳ないように思えた。
「ヒューイ、様?」
「……少しだけ、お許しを」
ちゃんと子爵家の跡継ぎとして真面目に振る舞うつもりですよ、と不思議そうな顔でこちらを見上げる婚約者の、名前を呼んでくれた唇を少しの間だけそっと塞いでから、ヒューイはルイーズの手を引いて子爵がいる方へ歩き出した。