2章・開扉の刻(2)
ラルフ達はカランダの王都、カランダ市へ着いていた。ノープルの町から北へ進みヴァルハナの町までを九日、ヴァルハナで二日の滞在の後、進路を西へと向けて十四日でカランダの町へと到着していた。
すでに秋も深まっていた。
一月ほど時間が経ったこともあったが、ノープルの町に比べればカランダは緯度が高く、季節の進行も早い。
さらには落葉広葉樹もその豊かな緑の間に含まれ、その紅葉の美しさも、秋の到来を強調していた。一〇〇〇メートル級の山々が連なるヴァルハナ山脈の峠を越えるときの絶景は今でもファティマの記憶には新しい。
カランダ市はカランダ平原の中心地として栄えている。元来はカランダ王国の政治都市であるが、西岸には大きな港を持ち、整備された街道を持つので、商業都市としても繁栄を極めている。
市民の数は六万五千を数え、世界でも有数の都市だ。
ただ、異例なのが、その数が「市民権を得た」市民であり、その城壁の外には四万人を数える奴隷や流民、難民が溢れている。
それらがスラムのごとき町を作って、町の外に町ができあがっていた。余りにも急速に版図を広げたカランダ王国の生み出した者達だった。だが、彼らを交えてでも十分に成り立っているカランダの町は活力に満ち溢れいてる。
そのカランダの町もさすがに深夜となって、静寂と闇が町中を支配していた。
この時刻、歓楽街を除けば、後は昼間の喧騒に疲れた身体を癒す休息の時間に当てられる。だがその与えられた休息を返上するものがいた。
青年は闇の隙間を縫い、カランダ市の北部に位置するカランダ王家の宮殿へと向かっていた。
カランダの宮殿は政治的な中心建造物だけではなく、軍事的な拠点としても役割をなす。すなわち、高い城壁があって、侵入するものをことごとく拒む。
「さて……」
闇の中で青年はぼんやりと高さ五メートルはある頑強な城壁を見上げた。闇に気配をとかしこみ、見張りの兵に全く悟られていないのは驚くべき事実である。彼の名をラルフと言い、かつては「暗闇のラルフォード」として知られた男だ。
彼は懐から短剣を二本取り出して、両手にそれぞれを握った。
彼は壁に寄り添うと、ゆらりとした跳躍を見せた。
無論、壁を飛び越すことなどそれだけで出来ようはずが無い。彼は手にした剣を石造りの城壁の隙間に突き刺し、流麗な仕草でそれを支点にして、身体を翻して、その剣を足場にもう一度跳躍をする。
それを二回繰り返して、見事にその城壁の頂点へ上り詰めた。おそるべき身のこなしである。凡庸な彼の外見からは、考えようもない能力だった。
そして、気配を殺したまま、闇に包まれた城内へと彼は自身を沈めて行った。
無意味であるほどに豪奢なベットはまるで権力を持つものが、その権力を誇示しているかのようである。そしてその部屋に散在する無意味な高級調度品もそれと同じだ。そして、そのようなものにルシアは好意はおろか、嫌悪すら覚えずにいられない。
平民が汗水流して稼いだ財を、私たちは生まれながらの権力者と言うだけでそれを巻き上げている。白蟻よりも達が悪いではないか……
ルシアはこの手のものに批判的になることが度々ある。彼女が生まれ育ったアムル公国は決して貧しい国ではなかったものの、彼女の父は清貧を好み、質素な生活に美徳を感じていたからだ。
つまり比較的この部屋の豪華さも彼女が望んだ物ではない。だが、まさかそれを取り替える訳にも行かず、彼女はこの部屋で生活の大部分を過ごさねばならなかった。
その彼女は人が三人も横たわることが出来そうなベットに身を沈め、寝息を立てていた。
室内の滞った闇が揺らいだ。
そこから現れたのは細身の青年。蜂蜜色の髪とアイスブルーの瞳以外は特に特徴の無い青年だった。
ただし、闇に溶け込むその気配だけが尋常ではない。
その青年、ラルフは不意に闇に隠れたその気配を解放させてそのベットに近付いた。そのベットの周りには極薄い絹のカーテンがかかっていて、ヴェールのごとく淡く視界を遮っている。
そのカーテンをラルフは愚かなほど摩擦の音を立ててかき分けて入った。
「誰っ!」
その気配を明敏に察知したルシアは小さくだが叫んだ。そして次の瞬間に、救援を求めるための大声を出そうとする。だがそれよりも一瞬早く、ラルフの右腕が彼女の優美な口元を抑えた。
「別によばいに来たわけじゃありませんよ。落ち着いて下さい」
ラルフはゆっくりとした声で諭した。
驚愕に見開かれたルシアの瞳がゆっくりとだがラルフの顔を捕らえた。それを確認したラルフも静かに右手をルシアの口元から放した。
「ラルフ! 来てくれたのね!」
「え、ええ。まあ……落ち着いて下さいよ」
ルシアは小声だが歓喜の叫びをあげ、旧知の仲であラルフの胸へと飛び込んだ。かつてラルフはアムル公国の客将として仕えたことがあった。
それは殺人に嫌気がさしたラルフが求めた物で、その仕事とは、ルシアの警護であった。今から五年前ほどにもなる。ルシアが十六でラルフは二十三だった。
「協力してくれるの?」
「しないつもりなら、ここには来ませんよ。ただし、今は無理です。ここから脱出できたとしても、その後の宛が在りませんから。行動は万全を整えてからでも、遅くはないでしょう?」
「冷静ね」
ルシアに抱きつかれて、寝衣を通して伝わる彼女の身体の感触と、微かな香水の芳香にラルフは狼狽しながらも、これから先の方向を説明した。その彼をルシアはいたずらっぽく皮肉った。
「なるべく早い内に手配致します。では」
「ラルフ」
闇の中へ消え入りそうな青年を見つめて、ルシアは少女のような不安げな表情で彼の名を呼んだ。
その声は恋する少女の物であり、明敏なるものならそれに気付いたであろう。
しかし、ラルフはそれに関しては愚かなほど鈍感なのだ。
そしてルシアの想いを断ち切って、ラルフは闇の中へ気配を消して行こうとした。
「曲物め、動くな!」
鋭い声がラルフの背後から放たれた。
幅広の剣がラルフの首筋からさして遠くない距離にある。
「ガルド!」
ルシアは驚愕して叫んだ。
だが、ラルフは落ち着いて眉を少し潜めただけだった。
ガルドは完全にラルフの不意をつき、ラルフの行動の自由を奪っていた。少しでも彼が動こうものなら、鋭い刃が彼の首を胴から永遠の別れを強いるだろう。
また、これ程までいともあっさりと後ろを取られたラルフは自らの力の衰えとガルドと呼ばれた騎士の力量を認めざるを得なかった。かつての彼ならば、このようなへまはしなかったはずだ。
「やれやれ、参ったなあ」
しかし誤解は誤解であるために、更にルシアという証人がいる限り、ラルフは危機感という物を心理から遠ざけていた。だが侵入者であることは否めない。どうにかこの厄介な状況を抜ける必要があった。
ガルドは油断ならぬ構えを解かずにいたうちに、視界に違和感を覚えた。
ラルフの周りの蒼い闇がぼんやりと凝縮し、漆黒になったと思った刹那、彼の姿は忽然ときえていた。
愕然とするガルド。これを見て驚かぬ者など人間の精神を超越している。
「幻術だよ。それに、私は敵じゃない。あなただろう? ルシアを逃がそうと腐心している騎士って言うのは」
ラルフは常と違わぬ温厚な声で言った。消えたと思われたラルフはガルドから手の届かぬ位置に、穏和な表情を浮かべていた。まるで先ほどの脅迫を全く不快に思っていないかのようだ。
「あ、あなたは?」
「私はラルフ。ルシアとは旧知の仲。まぁ、『暗闇のラルフォード』と言った方が、分かりやすいかな? そうあなたがルシアの救出を依頼した人間だ」
自らの言葉の放つ皮肉にラルフは苦笑いを禁じ得なかった。忌み捨て去った過去の自分が、現在の自分の存在を凌駕しているのである。これほどの皮肉はあろうか。
「あ、あなたが……」
ガルドは驚きで声が出せなかった。ただ、それよりも彼の脳裏を支配していたのは、「暗闇のラルフォード」に対する偶像と目の前の彼との矛盾。
今のラルフには、冷徹残酷な暗殺者という面影はない。人のよさそうな普通の青年にしか見えない。
だが先ほどの幻術を見せられては、その言葉を信じるしかなかった。魔法と同様、幻術の使い手もごく限られた存在だ。
「ガルド。彼は味方よ。おそらく世界最強のね」
二人の間にルシアが割って入って、冷静な言葉でガルドを諭した。
ガルドは未だに狼狽から覚めきっていない。彼にしては不名誉なことであったが、それも仕方が無いと言えば仕方が無い。
ルシアの言葉にラルフも静かにうなずく。彼は自身を世界最強などとは思っていなかったが、味方であると言うことは本当なので、それに頷いたのだ。
更に言うと、訂正する労力を惜しむほど、最近の彼は怠け者である。
「じゃあ、近い内にまた来るよ」
その言葉は公爵令嬢を絶対的権力の中枢から救出するという、決意の言葉の色と言うには余りにも緊張感の無い言葉だった。
せいぜい、不倫相手の女性にかけたときぐらいの声色だった。
「待って下さい」
「え?」
冷静さをとりもどしたガルドが闇に溶け込もうとするラルフを呼び止めた。
「無理を承知でお願いします。なるべく、早急に手を打たねば取り返しの着かないことになりそうなのです。聞いた話なのではありますが、ルシア様とラウエル様の婚姻の式が近い内にも行われると言うのです……」
「そんな! 私は何も聞いていないわよ!」
ルシアが憤慨して叫んだ。但しまだ理性が支配していて大声にはなっていない。
ラルフは肩をすくめた。
「大丈夫。すぐに、手配しますよ」
やはり緊張感の無い声だったが、ラルフは力強くルシアに応えていた。
ラルフは闇から闇へと伝って、自分達が宿泊してる宿にたどり着いた。
そして寝静まり返った宿の中の自らの部屋を捜し当てる。
「あれ?」
彼は思わず声をあげた。鍵がかかっているのだ。自分は閉めたような記憶はない。
何しろ、彼は自分の家でも外出するときに鍵をかけ忘れて、ファティマに叱られるような人間なので夜更けの一時の外出に鍵などかけようか。
「部屋を間違えたのかなあ?」
独り言をつぶやきながら、のんきそうに彼は小首を傾げた。
すると扉の覗き窓が開いて部屋の中の明りが漏れて来る。
そこにはつぶらで澄んだ深い蒼色をしたファティマの瞳があった。
「やあ、ファティマ、起きてたのか?」
「こんな遅くに何処へ行ってたんですか?」
「ええと。話せば長くなるな」
「……女の所じゃないですよね」
ファティマの低い声には十二分に嫉妬が含まれていたが、疎いラルフは気付いていない。
愚かな彼はそのまま正直に応えた。
「え? よく分かったね」
余りに愚かであろう。恐るべき愚かさである。
確かにルシアは女性である。しかも若く美しい女性だ。
「そうなんですね。もうっ! 知らないっ!」
ファティマは最後に寂しさと怒りを含んだ瞳でラルフをにらみつけ、勢いよく覗き窓を閉め、鍵を開けずにドアから荒っぽく立ち去った。
「あ、おい……ファティマ、開けてくれよぉ」
情けない声が廊下に締め出されたラルフが情けない声を出す。未だに事態を理解していないらしい。
だがそのまま廊下で眠りに着いてしまったラルフは次の朝、遅い朝を向かえ、それがベットの上であることに気付いて不思議そうな顔をした。次の瞬間、やや怒った顔のファティマが視界に入り事の次第を涼解した。
ラルフはベットから降りて微笑みながら「ごめん」と言った。
ファティマは文句の一つや二つをいいたげであったが、ラルフの人のよい笑みにつられて、微笑みで返してしまった。だが、それはそれでいいと思う彼女である……




