7章・それぞれの道標(2)
もし、この事を告げて彼に否定できるだろうか。
彼の前には緑の髪の少女がいる。彼の両親も彼も黒髪だった。
だが彼女は紛れもなく、彼の両親の実の子であることは確かだった。
その希有なる髪故に、彼女は村の子供達からもそして自分の親からさえも疎まれ、迫害された。
彼女にとって唯一の信頼できる存在は兄だった。
兄は独りで彼女を守っていた。そしてその兄の腕っ節は強くなっていったが、生傷が消えることはなかった。
少女は兄の前で何度泣いたことだろう。
自分のために、兄のために。
兄はそれを優しく受け止めた。
そのうち彼の中にある感情が生まれていた。兄妹として、あってはならぬ感情だった。その感情が行動に移ったのは、破滅の前夜だった。
そして、彼は今も彼女の面影を追い続けている。
違う、俺は――。
と、意識がはっきりした。暗闇の呪縛から抜け出すような意識の取り戻し方ではなく、眠り姫の唐突な目覚めのように意識がはっきりしていた。
屋内だ。彼はゆっくりを上半身を起こした。
潮の香りがする。
「そうか、俺は海に投げ出されて……」
それからの記憶はない、おそらく意識を失ったのだろう。
「セレナ……」
彼はここ数カ月で一番身近な存在となった少女の名を呼んだ。
「おはようさん」
艶やかな声が彼の耳に入ってきた。
その敵意のなさにアーディルは不覚にもぼんやりとそちらに視線を向けた。本来の彼ならまず警戒心を抱いたに違いない。
それが、彼の育った環境だったから。
「どうした? 私の顔に何か付いてるのかな?」
それは女性だった。栗色の髪が美しい、彼よりも多少年は上であろうが艶やかさでは彼の周りにいた少女達の比ではなかった。大人の女である。
「いや、あんたが俺を助けてくれたのか?」
「あんた、じゃないクレアって言う名前がある」
「ああ、俺はアーディル。クレアさん、だったな。助けてくれてありがとう」
「助けるつもりはなかった。何、私の気まぐれと、神様と、自分の幸運に感謝するんだね」
クレアは笑いながら言った。
笑うと目が細まって、線のようになる女性だった。
優美や豪奢とはかけ離れている。
質素というほど素朴ではないが、華美を嫌っているようだった。
妖ではないが、艶やかだ。性格的にはシレーヌに似ているとアーディルは感じたが、彼女よりも激しさは少なかった。
アーディルは身なりが違うことに気付いてクレアに問いた。
「俺の服は……バンダナは?」
「バンダナ? ああ、あの青い奴か? あるよ。服の方は革製だったからね、海水を拭くんでもう使いモノにならないよ。でもさ、あれは何? 剣とかナイフとか……あんた、何者?」
アーディルはそれには無言だった。そのかわり、視線をクレアから離さなかった。
「わかったよ……そら」
クレアはテーブルからアーディルのバンダナを取り、彼に投げた。ふわりとそれは宙を飛び、アーディルの手元までたどり着いた。
「セレナって娘から貰ったモノかい?」
クレアはややからかいを含む声で言った。
「セレナ?」
「寝言を聞いたのさ。もう、何度聞いたか解らなくなるくらいにね」
「そうか。けど、違うな。これは妹の形見なんだ」
アーディルは微笑んだ。
そうか、俺はティナでなく、セレナを呼んだか――。
ジークは何か懐かしい香りを嗅いだ。
一流の剣士というのは、なにがしか自分の空間というものを持っており、その中は自分の五感と同じように感覚を持つのだと言う。ジークも一流の剣士であることは間違いなく彼らと似た感覚を持っていた。
「カトゥル? カトゥルか!」
甲板から風を受けていた彼の元に、風より速い一陣が舞った。
彼の愛鷹カトゥルである。
ヴァルハナ市でフェンリルの本部がドゥルジ伯に攻められたとき、この主人と従者は離ればなれになっていたのだ。
あれからかなりの時が経つ。だが、彼は主人の元へ帰ってきたのである。
「ジーク? 何してんの?」
ミナの声が聞こえてきた。
「カトゥル? うそ、ホントに?」
カトゥルは喜びの一声をあげると彼女の周りを旋回して彼女の肩に止まった。カトゥルはこの無邪気な少女の肩が気に入っているのだ。
ジークはその光景を見て微笑んだ。
「帰巣本能、って奴があるらしいな」
カトゥルがこの地に帰ってきた。
そして、俺もこの地に帰ってきた。
あの日、二度とこの大地をふむまいと旅たった俺だったが……運命とは俺ごときには計り知れないものらしい……
きらめく水面の向こうには、ホーエンツ公国の首都カイン市が見え始めていた。




