4章・愛を苦抱く(7)
影が揺らめく。
それは一瞬だった。目の前に人影が現れたと同時に意識が飛んだ。闇へ落ちる感覚はむしろ快感でもある。
「く、くせも……」
もう一人がさけびを上げようとした。が、それもままならなかった。手で口を抑えられてその瞬間後に後頭部をしたたかに壁に打ち付けられた。わずかの抵抗も出来ずに気を失う。
「ふぅ」
アーディルは息をついた。
地下牢の入口を取り締まっていた兵士の二人を瞬時に気絶させたのである。二人を相手に戦うのは彼にとって取るに足らないことであるが、他の兵士達に騒ぎを知られることが一番厄介だった。
ひとまず敵に気付かれる事は回避できた。彼は気絶した兵士達の周りを調べて、牢の鍵束を手に入れると、奥へと侵入した。
地下牢は冷たい空気が立ちこめている。それは何処の地下牢でも同じだろう。
ただ、乾いた季節であるのが幸いなのかも知れない。湿気が多ければ石造りの地下牢はたまらなく湿る。
アーディルは地下牢を慎重に歩き、中の気配を探った。一段と大きな牢に多数の気配を感じる。
「……ジーク」
アーディルは掠れた声でつぶやいた。彼の悪友ジークフリートの通称だ。
「アーディルだな? 待ちわびたぜ」
牢から声が帰ってきた。ジークの声だ。
アーディルは安息を一つついて、鍵を調べて、開けた。
ぞろぞろとフェンリルの団員たちが流れて出てくる。
昨日、捕まった者達ばかりだ。十数人になる。
「これだけか?」
「ああ……たぶんな。あと、ガルドがもう少しむこうにいる」
「後は、逃げたか、死んだか……か」
アーディルは小さくつぶやくと、気配を殺して走り、ガルドを牢から解放した。
「ヴァルハナのフェンリルはもう終わりだな。ここから逃げ出せたら、後は個人の裁量に任せる。解散だ」
ジークはそっけなく言った。
彼もフェンリルの幹部の一人だったが、実際には寄り所を求めてフェンリルに寄っていただけでしかなかった。愛着も、別惜もほとんど無かった。
フェンリルの理念も彼にはどうでもいいことだった。
「脱出するときに俺とジークで奴らの目を引き付ける。ガルドさんは逃げる方の指揮を頼む」
アーディルが小声で指示を出した。一同がうなずいて行動に移る。
急に城内が騒がしくなった。
その時にはもうラルフ達は来た道から脱出している。脱出した後の行動はすでにアーディルと打ち合わせてあった。
急に喧騒に包まれたことに彼らは不安を覚えたが、アーディルの能力を信じて自身達は闇夜の中を遁走して行った。
騒ぎを起こしたのはアーディルとジークだった。
たいまつを手にいれた二人はわざと警備の目の厳しいところで見つかったのである。
あちこちから兵士達がつめより、逃走する二人を追いかけて行く。が、ぬかりのないアーディルは巧妙に計算し、見事に逃げ道を残して追い手を撹乱させた。
その隙にゆうゆうとガルドに率いられたフェンリルの団員達は夜陰に紛れて城内を脱出した。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
逃走劇には不慣れなジークが不安そうにアーディルに尋ねた。
アーディルは平然としたままで、駆けながら答えた。
「そうだな、そろそろ頃合だろう」
アーディルは愛用の皮ジャケットの裏からいくつかの小さな壷を取り出した。
大人の男の手ならば、片手で十分握れる大きさの素焼の壷だ。中には何かが詰まっていて意外に重い。
「ジーク、こいつを投げろ」
アーディルはそのいくつかをジークに渡して簡単に指示した。
だが、ジークには何が何だか理解できていない。
そうする内にアーディルはその小さな壷を追っ手の兵士群へ投げつけた。そのコントロールは曖昧でそれらは床や壁に当たって割れた。
ジークも慌てて彼にならう。やはり、それらも床や壁に当たって砕け散った。
「よしっ!」
アーディルは持っていたたいまつを壷を追う様に投げつけた。それは孤を描いて壷が落ちた場所へと飛んで行く。
それが地面に落ちた瞬間、ジークはアーディルが魔法を使ったのかと思った。
床や壁一面が炎で包まれたのだ。
数名、炎に巻き込まれた兵士が悲鳴を挙げて恐慌に走っている。それほど強烈な炎が瞬時に発生したのだ。
「よし、逃げるぞ!」
アーディルがにやりと笑って走りだした。
「いったい何をしたんだ? あの壷に何かが入っていたのか?」
「火薬さ。正確には椰子の油と火薬の混合物だな。持続性はないが、可燃性はめちゃくちゃ高い。魔法のまねごとみたいなもんだけどな」
火薬の存在はこの時代、あまり普及していない。火薬自体がまだ発展途上なのだ。火薬の存在を知らぬ者も多い。
原始火薬は硫黄等を中心に天然鉱石や木炭を主成分とするもので、発火性が高くとも、爆発には至らない。しかもすぐ燃え尽きてしまう。あまり実用性の無いものだった。南方のアステ・ウォールでは大きな音を出す技術が開発されたが、アーディルすらそれをまだ知らない。
「ともかく、やるじゃないか。見直したぜ」
「ふん、俺を誰だと思っている? アーディル様だぜ!」
若い青年は小生意気な少年のような笑みを浮かべて答えた。
ヴァルハナ市の城内で起こったことを知らずにセレナ達はその夜を眠りで過ごした。
無論、アーディル達がそんな活躍を見せたことなど知る由もない。彼らの消息でさえ、不明なままなのだ。
セレナは差し込む朝日にうなりながら目を覚ました。朝は苦手な方ではない。一度ベットの上で身体を一捻りして身体を起こすのが彼女の無意識な習慣だった。
それが終わるとき、彼女は誰かに視られている感触がした。
視線に驚いて身を起こすと、やさしげな微笑みがあった。
「ミ、ミナ!」
セレナは表情を驚愕から歓喜に劇的に変化させた。
さらに歓喜の表情はぐしゃぐしゃに崩れ、こぼれ落ちた涙が朝日を受けてきらきらと輝いていた。ミナが小さく微笑んでいる。
「ミナァ!」
セレナは思わずミナに抱きついていた。親友の生還に何も戸惑うことはなかった。
「いた、いたたた! セレナ、勘弁してよ。まだ傷が治ってないっ!」
ミナは苦笑しながら、苦しげにうめいた。傷口は塞がったとは言え、それは表面上だけの事である。皮膚の裏にはまだ回復し切れていない組織が激痛を神経に伝える。
「でも、ありがと、セレナ。あなたがいなかったら、もう死んでたかもね」
「ううん。感謝ならファティマにして。私、何も役に立てなかったもの」
「でも知ってるよ。セレナが必死に治療してくれたの。微かだけど、意識があったもの……うれしかった」
ミナはいつもの陽気さを取り去った素直な微笑みを向けていた。
セレナはまだ涙を止めきれずにいた。朝日の光を受けた絹の頬を伝う滴は至高の宝石のごとくである。
「でも……よかった……よかった……」
セレナは感涙に言葉を詰まらせていた。この感動に言葉はいらないと思った。訳も何もかもなくて、それでもミナが死なずにこうして話せることが嬉しかった。




