2章・開扉の刻(6)
専制君主国家の会議らしく、会議は絶対権力者の一声で短時間の集結を見せ、ラッツウェルはカランダ城の奥深くにある、彼個人の生活空間である箇所に帰っていた。
豪奢な廊下を一人で彼は歩く。
とある近習が「お供の護衛者を御連れ下さいませ」等と進言したが、
「この宮殿奥深くまでか。奴隷でも一人で散歩する時間があると言うに、王たる余は一人で歩くことも許されぬのか」
とラッツウェルは苦笑したものだった。
ラッツウェルは見慣れた部屋のドアを開けて中に入ろうとした。
「陛下、アリア様は現在おやすみになっておられますが・・」
ラッツウェルが入室しようとしたのは、近い将来妃となるアリア・フォン・オーベルハイムの私室でこのところ彼は良くここに通っていた。
だが、端から声がして、ノブに手を差しだしたラッツウェルはそれをひねることを中断させられた。
「何? まだ夕刻ではないか。何かあったか?」
「はい。どうやら風邪をお召しになったようで……今朝から、微熱が続いております。医師の話では特に問題は在りませぬようですが」
ラッツウェルが怪訝そうに尋ねると、控えていた中年の女奴隷が応えた。王宮の雑用の八割は奴隷がこなすこととなっている。彼女もそんな奴隷の一人だった。
「そうか。ならばしかたあるまい。ゆっくり養生するように伝えよ」
ラッツウェルは小さく頷いて奴隷を見た。中年の奴隷は恭しくこうべを垂れて主君の意を受け入れ、敬意を払ったのだ。いや、敬意と言うよりは長年の生活で身体に浸透した反射なのかも知れない。
ラッツウェルはアリアと先刻の興味ある青年、ハインツの事について談議がしたかったのだ。アリアの知性と優れた感性にはあの青年はどう映るのだろうか。彼女が彼を知らねば、直接会わせるのも悪くないと思うほどなのである。
少なくとも、現時点でオーベルハイム公勢力に敢然と立ち向かう彼の存在は貴重である。
アリアに会うことが適わなかった彼は、自室の前まで歩いてきていつもと風景が違うことに気付いた。それは些細なことであったが、人を良く見る彼はすぐに気付くことが出来た。
「おまえはいつもの奴隷と違うな」
それがラッツウェルのいつも見る風景と異なるところであった。
「はい、前任の者は骨折ってしまって休養中でございます。もう一人は何やら悪しき病にかかったとかで」
その奴隷は若い女の奴隷だった。
王宮に奉仕する奴隷は伝統的に女性がほとんどである。
仕事が食事の支度であったり、掃除であったりするためだが、カランダ王は代々男であったから仕える者が女性であることを望んだのは自然な成行きとも言えた。
ラッツウェルなどは王の政務で会う人間がほぼ男性に限られるので、私的な身の回りくらい女性のほうがバランスが良いなどとも思う。
「前は二人であったな。となるとおまえは二人分の働きが出来るのかな?」
ラッツウェルは少々意地悪な質問をした。無論冗談であったが、氷の彫刻のような冷たくも美しい顔と、公人として厳格で冷徹な印象を強く持つので、その奴隷は大いに緊張し生唾を思わず飲み込んだ。
だが、余り知られていないことだが、ラッツウェルは私人としては、おおらかで柔らかな人物であった。無論それはアリアなどの極近くの人間にしか知られていない事実だった。
奇妙なことに兄弟であるラウエルやミハエルでさえ、それを知らない。
もっとも、彼らは兄弟とはいえ、個人的によりも公式の場で顔を合わせることの方が圧倒的に多いのではあるが。
「も、申し訳ございません。なにぶん新任なもので、慣れぬ所も多く陛下のご期待に添えぬかも知れません」
「ははは。よい。少しからかってみただけだ。すまぬな。仕事はおまえのできることを一つ一つこなせばよい。無理をすれば、何処かに破綻が生じる。それより面を上げよ。覚えておかねばならぬからな」
恐縮して身体を縮める若い奴隷を好ましげに思い、ラッツウェルは微笑んで優しい声をかけた。奴隷は意外な言葉に弾かれたように顔を上げた。
若い。そしてなにより美しさが目立った。奴隷らしからぬ容姿だった。
ラッツウェルはその奴隷の美しさに視線を奪われたが、それもやはり数瞬のみであって、次の瞬間には元の広い視野を取り戻していた。美麗ではあったが、女としてはまだ幼く、その美しさも「一般」をはるかに越えるものではなかった。
「おまえ、名前は何という?」
「はい、カテローゼと申します」
「ふむ、カテローゼか。奴隷などにはもったいない美しい響きだ。いや、悪い意味ではない。両親に感謝せよ。よい名を授かったな」
ラッツウェルは音楽的な響きすら錯覚するような美しい笑い声をあげて笑った。今年、十五になったばかりのカテローゼはラッツウェルの笑いに対して反応に窮した。当り障りの無い反応という大人の技術を持たない彼女は、やはり少女が少女たる所なのだろう。
緊張でぎこちなく、また技術的にも未熟なカテローゼが仕事をする様は、今までの熟練した奴隷達よりもはるかに非効率、非迅速であったが、額にうっすらと汗を浮かべて掃除などにいそしむ姿はラッツウェルの心を和ませた。
その心の緊張を解した彼は椅子に座り込んで考え事をしていた。
すると、陶器が重力の力を得て地面と接吻を強いられその不可に耐えかねて砕ける音がラッツウェルの耳を捕らえた。それに極僅かな時差をおいて絹を裂くような少女の悲鳴が聞こえる。
「どうした?」
ラッツウェルは怪訝そうに立ち上がり、音源を調べるべく、音の飛んで着た方向に視線を向けた。
原因の追求は至極簡単だった。
深紅の絨毯の上に、更に赤いバラの花火らがいくつか飛び散っていて、それらのすぐ側に、陶器のかけらが大小様々に散乱していたのだった。一目で花瓶が落ちて割れたのだと分かる。
「……も、申し訳在りません!」
暫し愕然としていて反応の無かったカテローゼは不意に我を取り戻し、床にひれ伏してややひろめの額を地面にすり付けた。
許されぬ失態だった。
なぜなら、この花瓶は奴隷である彼女一人の生命よりも高価だったからだ。
後世の自由主義者が忌み嫌った事ではあったが、現在に於てそれは一般的事象であった。すなわち、カテローゼの失敗はすぐさま彼女がどんな処断をされても仕方が無いのだ。
「余は陶器とか美術品などの価値は分からぬのでな。この花瓶がどれくらいの値段がするのか分からぬ」
意外にもそっけのない声でラッツウェルはかつて花瓶であった陶片を見つめた。
実に彼は生涯を通して物欲には感心がなかったと、後世の歴史家は伝えるが確かにそうであったであろう。
この部屋の調度品も最高級の物ばかりであったが、とかく彼の興味を引くものはなに一つとしてなく、それらはすべて先王リヒャルト三世の遺品というだけだった。
「まあ、おまえがいくら謝ったところで花瓶は元には戻らぬ。さっさと片付けよ。時間は何よりも大切だぞ」
ラッツウェルは余りに感心の無い声で行ったために、逆に恐怖心の塊と化したカテローゼの精神には冷酷に聞こえた。
カテローゼは畏まったまま、恐る恐る陶器の破片をぎこちなく拾い始めた。
「そうだ……破片で手を切らぬように、気を付けよ。花瓶はせいぜい眺めるくらいしか出来ないが、お前の指は色々な仕事が出来るのだからな」
破片を拾い集め始めたカテローゼの元から立ち去ろうとするラッツウェルは急に振り向いて彼女に聞かせた。今度はやさしげな感情を十二分に含んだ口調で。
驚いたカテローゼは一瞬仕事を忘れてラッツウェルを見た。
そこには穏やかに微笑んだラッツウェルがいて、彼女は自分の誤解に恥じた。
ラッツウェルは冷酷な人間ではない。
地位という責任が彼をそうさせているだけで、それを取り除けば極柔和な青年なのだ。
カテローゼはラッツウェルの本質に気付いて感動を瞳に浮かべていた。胸の奥に熱いものがこみ上げていたが、彼女の精神が奴隷という鎖でつながれている限り、それは自制できた。彼女はラッツウェルに惚れていた。
そのとき、ラッツウェルの背後に高速で影が接近するのをカテローゼは見た。それは危険な存在だと少女は本能的に感じた。彼女はは力一杯叫ぶ。
「陛下!」
その絶叫がラッツウェルの精神に緊張を与え、彼は背後から襲いかかる殺意を感じて剣を引き抜きながら振り向いた。
金属と金属が高速でぶつかり合う独特の乾いた音が響く。ラッツウェルはその接近した影の黒い刃を剣で受け止めていた。ラッツウェルは王族として、剣技は幼少より厳しく指導を受けている。
「暗殺者か!」
「陛下!」
カテローゼは本能的に走りだし、自らの肉体をラッツウェルの盾とすべく彼と暗殺者との間に滑り込ませようとした。
「カテローゼ! 逃げよ! 早くっ!」
ラッツウェルが叫んだ。その間にも剣撃は幾度も交わされている。
その声にカテローゼは飛び込むタイミングを失い、おろおろと右往左往した。
ラッツウェルは剣を交えながら戦慄していた。
ラッツウェルは十分に一流の剣士といえる腕の持ち主であったが、目の前の暗殺者は一流や二流などと言ったそんな言葉の区分をはるかに凌駕していた。
今受け切れているのが不思議なくらいだった。
「カテローゼ! 早く逃げよと言っているだろう! 早く助けを呼びに行け!」
ラッツウェルは嘘を言った。今ごろカテローゼが走って助けを読んでも彼は暗殺者のやいばに倒れるだろう。
だが彼女に使命を与えれば彼女はこの場から動くことが出来るだろう。ラッツウェルはそれを知っていた。もっとも彼自身はなぜカテローゼを救おうとするのか、分からなかった。
本能的にその言葉が飛び出していた。それはおそらく彼の天性の優しさなのか。人としての徳なのか。
「は、はいっ!」
カテローゼは弾かれたように駆け出した。小柄な彼女だが駆ける速さは人並以上だと言っていいだろう。
暗殺者はそれを見て応援を呼ばれるのをまずく思ったのか、カテローゼの数倍の速さを持って目標をラッツウェルから彼女へと変えて、疾走した。
「く、くそっ!」
ラッツウェルも全力をもって駆け、それを阻止しようと必死に斬りかかった。だがそれは暗殺者の黒いやいばに阻まれた。
焦りからラッツウェルの剣筋は乱れ、暗殺者の剣はその隙を見逃さずにラッツウェルの剣を弾き飛ばしていた。
「しまったっ……」
ラッツウェルはかすれた声でうめいた。ここまでか……ラッツウェルは所詮自分がこの程度の男だったのかと、覚悟を決めた。
「なるほど」
だが、暗殺者は剣を繰り出さなかった。
その代わり暗殺者の黒ずくめの服から澄んだ声が漏れた。
女の声だ。ラッツウェルは驚愕してその暗殺者を見つめた。
すると、黒ずきんがはずれ、切れ長な目を持つ美しい女性が現れた。
まだ若く、ラッツウェルよりは年は下に思えた。
「どういうつもりだ?」
ラッツウェルは我に返って尋ねた。
「まずは無礼をお許しくださいませ。ただ、あなたを……陛下をお試ししたかったのでございます」
「余を? おまえは何者だ? いったいどういうつもりなのだ?」
「はい。私が仕えるに値する主君かどうかを、見極めたかったのです。もし陛下があの奴隷を盾にして私から逃げようとした者ならば、斬っておりました。しかし、あなたはそうはなさらなかった」
その女暗殺者はそう言ってひざまづいた。
ラッツウェルはしばらくの間、呆然と彼女を見つめていた。
やがて聡明な彼の頭脳が常を取り戻すと、彼は音をたてて笑った。
「くっ……ふふ。面白い奴だ。暗殺者が使える主人を値踏みするとはな。つまるところ私はおまえの目にかなった主君であると言うことだな? いいだろう。無礼は功績で返してもらおう」
「ありがとうございます。私の名はカーミラ。幻妖のカーミラ」




