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67枚目 九条那月side





 


 筆記体で書かれた『close』の文字に、ちらりと視線をやっただけで裏口へと向かう。


「やぁ、愚弟」


 ドア開けた瞬間姉さんの声って、どーなの。

 帽子を手に持ち腕を組んでる姉さんは、短く切られたつめ先で、コツコツと調理台を叩いた。


「誕生日おめでとう」

「……あぁ、ありがと」


 皿に乗せられた丸いケーキには、ご丁寧に俺の名前が書かれたチョコレートも刺さってた。

 チーズケーキ。それも、天音が美味しいって言って食べてたヨーグルトの……。


「毎年毎年、どこ行ってんだかわかんなかったけど、今年はわかるぞ。天音ちゃんのとこでしょ」


 ニヤニヤと笑うその顔に、なにかを言う前に。


「天音ちゃんに、『誕生日プレゼントは私♡』みたいなベタなことされてたりしてー」


 ゴンッ


 と、額を壁にぶつけた。

 地味に痛い。


「えっ、なに、マジなの? えっ?」


 盛大に戸惑った声だけが聞こえた。けど、そっち向けない。向けるわけがない。

 ぜってー、顔赤い。

 ヤバい。本気でヤバい。

 こんなこと、今まで一度だってなかった。ヤればそれで終わりだし、あとから思い出すことも、それで動揺することも、なかったのに。


「あっ、ちょっと、どこ行くの?」

「部屋」


 それだけ言って、急いで階段のぼる。


「あらぁ? 那月帰って来たんじゃ……、まこちゃん、どーして赤くなってるの?」

「いや、なんか、触発されて……。あいつにも、まだ純粋な部分があったらしい」

「えー?」


 背中でそんな会話聞きながら、やっとのことで辿り着いた部屋のドアをばたんと閉めた。途端にズルズル崩れ落ちる身体。

 ほんとにそうだ。

 俺に、こんな『純粋な部分』があったのか。童貞だったときですら、なかったものが。


 知らなかった。知らなかった。

 自分でも、気づかなかった。


 顔を腕にうずめようとして、はたと気づく。

 そっと手を開けば、そこにまだ感触が残ってるようで。

 サラサラの長い髪も。

 熱い頬も。

 湿った吐息も。

 柔らかな、肌も──。


「──ッ」


 あぁ。

 どーすればいい。わからない。


「心臓、もういっこ欲しい……」


 息が、止まりそうだ。




 ♯




「なんだそのキスマーク」


 人の部屋にまで押しかけてきて、開口一番それか。

 だけど今日は、そんな風に反論する気も起きなかった。長谷川が訝しげに眉を上げても、ただぐだりとカメラを眺める。

 キスマーク。

 あぁ、そうだ。そう。確か左の鎖骨の上。ちょうど、シャツの隙間から完璧に見える位置。

 これは、計算されたのだろうか。それとも、たまたま?


「まさか那月お前、またセフレとヤったんじゃねーだろーな」

「なんでだよ」


 やっと出た、いつもより数倍弱い声に、だんだんと長谷川の表情が驚愕に変わってく。

 どさ、と音がした。手になんか持って来てたから、たぶんそれだろう。


「まこさんが、お前への誕生日ケーキだと。あとこれ、誕プレな。──で?」

「は?」

「いや。は? じゃなくてだな」


 がさり、とビニールの音。誕プレは、コンビニで買ったのか、袋に緑のロゴが入ってる。


「感想は?」

「帰れ」

「いやー、よかったな、なっちゃん!」


 話を聞かないヤツは、なにが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて持ってきたコンビニの袋を漁りはじめた。


「何ヶ月自分でシてたん? 橘さんに近づこうって、結構前からセフレと連絡切ってたんだろ?」


 ふざけた質問に返事すんのも馬鹿馬鹿しくて黙ってれば、目の前で次々に出てくるスナック菓子や水やシャーペン。そしてそれに続いて。


「お、あった。じゃーん!」


 取り出したのは。


「一日遅かったかぁ。なんと! 厚さ0.01ミリのコンド──」

「テメーマジで帰れ! んで一生俺の前に顔出すな!」


「うおっ!? あぶ、あぶな! あぶねーよ、那月フォーク投げんなぁ!!」


 チッ。

 避けやがって、そのままぶっ刺さってればよかったものを。


「ひでーな。誕生日祝いに来てやったってのにー」

「くだらねぇんだよ」

「その口調! 橘さんの前じゃ猫被っておとなしいってのに! ぜってー橘さん、お前が紳士で物腰柔らかい男だって思ってるぜ」


 そりゃそうだ。

 天音に嫌われたらおしまいなんだ。なんで長谷川と天音を同じように扱わなきゃなんねーんだ。


「……」

「……」

「……なぁ」

「なんだい、悩み事かい那月ちゃん。今日は綺杏も橘さんと雪村さんとこ行ってっから、俺らもふたりで出かけるか?」

「……」

「そのガチで気持ち悪がってる顔。やめろよ。傷つくだろ」


 少しも傷ついてない顔で、俺が投げたフォークを元のように置いてきた。


「……天音のとこいんのか」

「なんか、夏休み中に三人で遊びたいんだと」

「三人?」


 天音と綺杏と、あと誰だ?


「ほんと、橘さんのことしか聞かねーな。今俺、雪村さんっつったよな?」

「……あぁ」


 長谷川は呆れた表情で目の前のケーキを頬張り「お、うめぇ」と、一転、目を見開いた。見た目によらず、皿を汚さない綺麗な食べ方をする。


「んで? なんなの?」


 口元には笑みが浮かんでる。けど、その目は真剣だった。

 コイツは、ほんとによく表情が変わる。それが、心のままだってわかるから、周りの人間は集まってくんだろーな。結局、俺だってそのひとりだ。


「……長谷川は、さ。息止まったことある?」

「息?」


 ぱくり、ともうひとくちケーキのかけらを口にする。

 一瞬の思案顔ののち、ニヤッといつもの笑顔でこっち見てきた。


「そりゃ、綺杏と一緒にいるときは」


 常に止まってる。

 あっけらかんと言い切った。


「心臓はバクバクなんだけどな。綺杏は、そーいうの気づいてねんだろーなぁ。綺杏自身、最近は俺ほどじゃねぇだろうし」

「なんで」

「おいおい。それくらいわかんだろ、学年四位さんよぉ。──あ、今回は三位だっけ? 俺、四位だったんだぜ! やったついに抜かしたーって思ったのに、なんで先にいんだよおいー」


 悔しそうに突っ伏したヤツは、すぐに起き上がって真っ直ぐ見てきた。


「なぁ、那月。今日、お前どんだけ水飲んだ?」

「は? つか、さっきから話逸れて──」


「いーから! ほら、何本?」


 そんなの、朝起きてから今まで、いつも通り三、四本は──。


「あれ」


 床を見ても、ゴミ箱を見ても、空のペットボトルは一本もなかった。

 そんなはずない。

 ……いや。そういえば今日は俺、冷蔵庫開けてない。


「ほら、それが答えだよ。お前、橘さんのこと本気で好きなんだな!」


 なんだ?なんでそーゆー繋がりになる?


「お前、将来カメラか勉強と結婚すんじゃねーかって思ってたけど、心配して損したわ。ちゃんと、コレと同等の好きなモン見つけられてよかったな!」


 コレ、と指差された一眼レフ。

 姉さんに買ってもらったやつと同じ型の、自分で買ったそれ。なによりも大事だった。大事なのは今も変わらない。だけど。


「それ以上だよ」

「ん?」

「天音は、そんなカメラ以上に、大事なんだ」


 これが壊れても何も感じなかった。腕の中の天音が、ちゃんと息をして焦った顔で見上げてきたのを目にしたら、それだけで十分だった。

 壊すのも失くすのも、絶対にできない。


「じゃ、どーしよーもねーな」


 嬉しそうに、楽しそうに。

 ケラケラと笑う長谷川は、諦めたように片肘をつく。


「俺もお前も腹括って、心臓も呼吸も、お姫様にくれてやるしかねーんだよ」


 天音に、くれてやる。


 ……そっか。

 天音に、差し出してんなら、それなら。


「どーしよーもねーか」

「そ。どーしよーもねー」


 考えたって無駄だった。


「天音に会いたい」

「俺がいんじゃん」

「は?」

「……俺も、綺杏に癒されたいなぁ」


 皿の上のケーキは、いつの間にか綺麗になくなってた。

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