42枚目
……はぁ。
「たーちばなぁ?」
「おーい」
「どったの?」
「わからん。返事がない」
……那月の唇、柔らかかった。
イイ匂いもした。いつもの那月の匂いなんだけど、もっともっと甘くて、濃くて。
一瞬だったような、数分、数十分だったような、不思議な感覚。
触れるだけ。そっと触れるだけのキスは、今までのどのキスよりも幸せで、ドキドキして、倒れちゃうかと思った。
「やばい。ほんと」
「いや、お前がやばい。帰ってこい」
「イ、イタッ!」
ぱしんって音がして、がくんって頭が肘ついてた両手から落ちた。
え、な、なにっ?
「那月って誰?」
「キスってんだから、カレシ?」
「カレシって浅──」
「しっ! それ禁句!」
「橘にもやっとちゃんとした春来たんだね……」
「それな」
待って待って待って。
ちょっと待ってどゆことなんで知ってんの!?
「橘ぁ。のろけんのはあとにして」
「えっ!?」
「無意識ってのがイラっとする」
ツヤッツヤの長い黒髪の間から、とてつもなく冷たい目を覗かせてくる中学からの友達、優子。
おんなじ美術部でやってきて、今年で五年目。未だかつて、この女にこんな風に見られたことがあったろうか。いやない。
「優ちゃん、昨日カレシと別れたんだよぉ」
「「えっ、そうなの!?」」
沙希、ハモるのはいいけど私の机にイチゴミルク零さないでくれる?拭けや。
「……あーちゃんは仕方ないにしても、さっちゃんまで知らないってどぉゆぅことー?」
絵玲奈のゆるゆる声に「えー?」と抗議の声をあげる沙希を押しのけて、私の机の横に立つ優子を見上げた。
「優子? えーっと、あの、元気出せ?」
「ありがとう嬉しくない」
ひどい。
相当ショックだったのかな。優子のカレシさん、見たことないんだけど。
「それより」
ばっさりと片付けられた。
「あんたが今のろけてた、新しいカレシが来てるけど?」
優子はくいっと、カッコよく親指を後ろに向けた。
来てる……って、那月!?
ちょっと待て。
「あの、優子? 今のろけてたって……?」
「心ん中で言ってたつもりかい? 全部声に出してたよ爆発しやがれー」
まさかまさか。
のんこの忠告のアレだよね。私が無意識に心の声を口に出してる……って……。
「あーちゃんのカレシ!? うそうそ見たーい!」
「ちょっと絵玲奈ズルい! あたしも!」
「ほら、橘早く行っといでー」
うわっ。ちょ、無理矢理急に立たせないで!って、絵玲奈も沙希も背中を押すな!転ぶ!
「あ……」
教室の、後ろのドア口に半分だけ見える後ろ姿。ほんとに、那月がいる。
いや、さっき優子が「来てる」って言ってたのちゃんと聞いてたけど。
私の、教室に、那月が来てるなんて。
「やだ、あーちゃん赤くなってるぅ」
「あの天音がー?」
「可愛いったらない」
「言ってあげなよ、きっと赤くなって怒るよぉ」
「えー?」
ちょっと後ろ!
くすくす笑い声もナイショ話も残らず丸聞こえ!
「ほら、天音! あたしたちのことは気にしないで話しかけて。そんで顔見せて!」
沙希め、最後のが本音だろ?
もー。
……その前に、深呼吸させて。
「ふぅ……。よし」
「なんでこの子気合い入れ直してんの?」
「カレシと話すからでしょ」
「え、マジか」
「ホントに可愛くなったね、天音も」
そんなしみじみ。
私は元から可愛いんですけど!?
「なっ……、那月っ」
噛んだ……!
「あっ、橘さん。ごめんね、友達といたのに」
ぱっと振り返った那月は、今日はちゃんと眼レフ下げてた。
「おぉ……」
「なんか……」
「天音、趣味変わった?」
「いやアレはアレで……、うーん?」
うるさい。
どんなときでもうるさいってもうなんなの?
「全ッ然へーき! うるさいから行こう!」
「えー、行っちゃうの? ここで話せばいいじゃーん」
「あんたらが話聞きたいだけだろーが」
「「うん」」
ほーらもう!
全員でハモって、素直でいいですね!
「お生憎様! 那月のよさがわからん人らに聞かせる話はありませんっ」
「えー? いや、カッコいいんじゃん?」
「うるさいあげないからっ」
「いらねーよ」
茶化すことしか頭にないな、ほんとに。
「……えーっと」
「あっ、ごめん! なにか用だよね?」
お昼ご飯を食べ終わった今の時間、次の授業まで五分もない。A組に近い一番奥の階段の踊り場かな、話すとしたら。私は、授業なんて遅れて当たり前な人だけど、那月はそーもいかないだろう。
「ちょっとですむから」
教室出ようとしたら、肩を軽く押さえて止められた。
後ろがざわめいた。
「今日、部活ある? 雪村さん個人練するらしいから、一緒に帰らない?」
えっ、そうなんだ。
なんでのんこのそんなこと、那月が知ってんだろ?
「部活…………は、ない」
「ウソつけあんだろ」
ねぇ優子さん。
あなたの作品取りに走ってあげたの誰だと思ってんの。ちょっとぐらい見逃せ。
「ないない。私はない。お腹痛くなるから、ない」
真顔で振り返れば、「ええぇ」と優子に上から下まで見られた。
「橘さん? 俺、図書室で待ってるから気にしないで」
「いや大丈夫! 優子がどーにかしてくれるから!」
「どーにか? どーすんの?」
「お腹痛いってことにしといてあげなよぉ」
「ねぇ、聞いた? 図書室だって」
「なんて縁のない場所」
「縁のないって言えばさぁ……」
後ろでがやがやしてたと思えば、すぐに話題は明後日の方向へ。こういう頓着のなさが付き合いやすくて好きだわ。今もそれに助かって、那月への注目が途端に消えた。
「そう? それじゃあ、放課後迎えに来るね……っと、」
瞬間、予鈴が鳴って「またね、」と走ってっちゃった。
メールでもよかったのに。会えて嬉しかったけど。
「……橘? ガチで体調悪い?」
「えっ?」
顔覗き込んできた優子に続いて、絵玲奈と沙希も前に回ってきて、「あぁ」とふたりして頷いた。仲のよろしいことで。
「違うよ、優ちゃん」
「アレでしょ、カレシに会えたから顔赤くしてるだけでしょ」
「……ふーん?」
ニヤニヤやめて!
あっ、ちょ、引っぱらないでどこいくの!?屋上?今から!?
それから尋問まがいの恋バナさせられ、帰してくれたのは五限はもちろん、ホームルームさえ終わった放課後だった。




