32枚目
髪巻いてたら遅くなっちゃった!まだ間に合うかな?走ればイケる?
って、慌てて開けたドアの向こう、スラッとした後ろ姿にかち合った。
黒髪を不自然じゃない程度にセットしてて、ジャケットの上からでもわかる細めの腰と、そこから伸びる長い脚。
「……あっ」
思わず止まって漏らした声に、振り返ったのは同じく「あ」という顔した男の人。
「天音ちゃん、おはよう」
爽やかな笑顔の、のんこ最愛の人。
……いや、どうだろう。のんこのことだから家族が一番とか言いそう。もっといえば「母さん」とか。
「おはようございます、犯──」
「……今言いかけたこと、聞かなかったことにしていい?」
ウソウソ。冗談だよ。未成年たらし込んだ犯罪者さんなんて。
冗談だから笑顔引きつらせないでよ。
「のんことのデートですよね?」
チラッと見上げた先には、しっかりと閉まったカーテン。珍しい。のんこ、寝起きは悪いけど時間に遅れるようなカンジじゃないのに。
「うん」
「……寝てる?」
「そうみたいだね。毎回、起こすたびに殴られてね」
へぇ……。
ちょっと嬉しそうな笑顔は、見なかったことにしていいですか?
「朝っぱらからご馳走様です」
「えっ! いや、そんなつもりじゃ……っ。あ、あぁ、えっと、天音ちゃん、凄くお洒落して、今日はお出かけかな? 相変わらず可愛いね」
また上手く話題そらし……て。
あっ!!
「やばい、遅れちゃう! さよならっ!!」
そうじゃん、ギリギリだったのに、なにやってんの私!
「あ、気をつけて! 慌てて、事故に遭わないように!」
相も変わらずのお母さん発言である。
優しいなって思うけど、のんこにとったら「小うるさい」らしい。
一体、私はどれだけの無意識のろけ話を聞かされてんだろうか。
「はーい! そっちものんこに気をつけて、楽しいデートにしてあげてね!」
ちょっと悔しかったから、言うだけ言ってすぐ角曲がっちゃった。
なに言ってたのか、そもそも返事されたのかどうかもわかんなかったけど、おそらくちょっと顔赤らめて立ち竦んでんだろうな。
ほんと、あのカップルは揃ってよくわからん。それを把握できてしまう私。
──結論。赤信号渡ったら轢かれかけた。
♯
めっちゃ、息、切れてる……っ。
駅から待ち合わせの広場まで、大した距離じゃないというのにこの体たらく。
汗かいてきたかも。
「橘さん、大丈夫?」
「ん、へ、へーき……」
やばい恥ずかしい。
膝に両手ついて下向くしかない私の背中を、那月がさすってくれてる。
「ごめ、遅れ、ちゃって……」
「全然遅れてないよ。それより、はい。水飲んで落ち着いて」
「あ、ありがと」
差し出されたペットボトルのミネラルウォーターをありがたく頂戴しました。
冷たいそれが、内側から火照った身体を冷ましてくれた。
はぁ。ちょっと落ち着いたかも。
「なっちゃんってさぁ、いつも思ってたんだけど、なんで水持ってんの?」
訝しげな声は斜め下から聞こえた。理由は、長谷川くんが花壇の淵に座ってるから。
「すぐ喉乾くんだよ」
「へー。そーいや、やたら水飲んでるよね。糖尿病?」
「ふざけんな」
……糖尿病って、喉乾くの?
言い合いはじめた那月をちょっと盗み見。
意外や意外、パーカーを着てる。勝手にもっとカッチリしてんの想像してた。思ったよりラフだった。薄い生地で濃いグレーの、ちょっと緩めなかんじ。白いシャツに下は深い紺色のパンツ。
シンプルなんだけどボヤけてない。似合ってるし、センスがよかった。
隣の長谷川くんは逆に派手。こっちは予想通りだけど。
足下の真っ赤なスニーカー、めっちゃ勇気いりそうなのに、平気な顔して履きこなしてるのがさすがです。
ってあれ。私、十分くらい遅れたと思ったんだけど。
「綺杏は?」
ツインテールが見当たらない。
そしたら、長谷川くんがチラッと腕時計に視線落として困ったように笑った。
「あと二十分くらい。いっつも三十分は遅れてくっから。だから、橘さんは全然セーフ」
那月の「遅れてないよ」って、そーゆうことか。
いや、でもそれってじゃあ、那月と長谷川くんは少なくとも三十分はここで待つようになるってこと?
「あっ。ペットボトル、口つけちゃった!」
そういえば、なんも考えてなかったけど、これ那月のなのに。
しかも、喉乾くから持ってたんだよね!?
「ん? あぁ、大丈夫。もう一本あるから」
「えっ」
「一リットルも持ち歩いてんの!? マジウケんだけど!」
「んなわけあるか。二百五十だ」
「それでも相当だわっ」
ゲラゲラ笑いはじめちゃった長谷川くんは、ツボに入っちゃったみたいでなかなか戻ってこない。
「橘さん、それ貸して」
そんな長谷川くんを完全無視な那月が手を差し出してきた。
それって、このペットボトルだよね。
「あれ。まだ飲む?」
「えっ。いや、そーじゃないけど。あの、買って返すから」
「いーよ。そんな減ってないし」
確かに四分の一も飲んでない。
じゃなくてですね。
私の飲みかけを飲むんですか?いいんですか?それって、あの、いわゆる間接キス……。
「あっ」
緩んだ手からするっと抜かれたペットボトル。
長い指がキャップを外して飲み口が見えたとき、そこにほんのり赤い色が付いてんのにも気づいてしまった。やばい。グロス付いちゃってる!
「あ、な、那月! それ、一回拭くから──」
って言ってんのに、そのまま持ち上げて唇を付けちゃった。
軽く首そらして、喉晒して、ペットボトルの中身が波打つたびに喉仏が上下して。
ただ、水飲んでるだけなのに、目が釘付けんなって──……、ッ!?
「ちょっ」
「ん?」
那月は、一度離したペットボトルをべろりと舐めて、私が残したグロスを拭った。
不思議そうな顔。
楽しそうな顔。
理由は、その細い目に捕らえられてるであろう、私の真っ赤な顔のせい。
な、な、な、なんなんなの!?なんでそーゆうことすんの!?
やばいやばいやばい。心臓、しょっぱなから保ってくれそうにないんだけど!
「……」
いつの間にか静かになった、その方向を見れば、死んだような目ぇして虚空を眺めてた長谷川くんと目があった。
「ご馳走様でーす」
「!?」
やだ、ちょっと待っ──、
「おーいっ!」
唐突に響いたマシュマロみたいに可愛い声。
それにガバリと反応した長谷川くん。目の輝きが今日一番。まさに、水を得た……。
……なんだっけ。
水、水を得た……カエル?
「カーズーく」
「でかした綺杏! タイミングが最高だ! 愛してる!!」
「綺杏も! 愛してるよカズくーんっ!!」
どよめきと、この場にいる人間全ての視線を集めたカップルは、それらを全てガン無視して公衆の面前でしっかりと抱き合った。
そうしてこの場を支配したのは、異様な沈黙。
見ず知らずのこんなにも大勢の人間と、生まれてはじめて心をひとつにした瞬間だった。
おそらく、思ったことはひとつだけ。
──リア充、爆発しちまえばいい。




