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駅の改札を出て見える空は真っ黒で、まるで美也の心の中の様だった。所々灯る街灯を頼りに我が家へ歩いて10分。家を前にして、ますます心がモヤモヤして、このまま帰る気になれなかった。
非常識だと分かっている。だけど、どうしても顔が見たくて、声が聞きたくて、…安心したくて。
我が家ではなく、隣りの家のベルを押した。
「…はい」
「…美也です」
「美也?どうした?」
機械越しに彼、葵の驚いたような声が聞こえる。時間は既に23時を過ぎている。いくら幼馴染でも、こんな時間に家を訪ねるのは久しぶりだった。
「ちょっとだけ、話、してもいい?」
「………」
返事が返ってこないことに不安になってきた頃、玄関の扉が開いて葵が出てきた。
「葵…」
「お帰り、美也」
「ただいま…」
いつも通りの挨拶のはずなのに、泣きそうな位嬉しくて、心が温かくなった。
「近くの公園でいいか?」
「えっ?」
「話聞くの」
「あっ、うん」
しっかり着込んだ葵が歩き出すのを見ながら、こんなふうに部屋に入れてくれなくなったのは一体いつからだっただろうか、と漠然と考えた。温かくなったはずの心がまた冷えていく。
公園まで歩いて5分程の道は沈黙が流れた。その間美也は自分より随分大きな背中を見つめ、自分がいつもこの背中を追いかけていたことを思い出す。いや、正確には兄の空と幼馴染の葵の2人のことを。
3歳年上の空と葵はいつも美也の何歩も前を進み、優しく手を差し伸べてくれる存在だった。葵の家は葵が5歳の時に父親を亡くし、それ以来母子家庭だ。母親は看護師のため夜勤も多いので、葵は美也の家で食事を取り、風呂に入り、時には共に寝ていた。
美也からしてみれば優しい兄がもう1人増えて、とても嬉しかった。
しかし、葵が高校生になった頃から、食事が終わるとすぐに帰ってしまう様になり、まだ中学生になったばかりの美也は寂しくて堪らなかった。葵との関係に少し距離ができてしまった気がして、寂しいという気持ちも、もっと一緒にいたいという気持ちも、伝えることはできなかった。
葵が美也の家にいる時間が減ると、空が葵の家に行く様になり、ますます寂しくなった。何度か空について行ったが、行く度に増える葵の困った顔を見ると、行く勇気がなくなった。
しかし、美也の家にいる時の葵は今までと変わらない優しい兄で、自分は決して嫌われた訳ではないと、何度も自分に言い聞かせては安心したものだ。
その関係も葵が大学生になると、また変わってしまった。今度はバイトやサークルや研究室で忙しくなったそうで、美也の家に来ること自体がほとんどなくなった。今では、美也は葵に1ヶ月に1回会えれば良い方だった。
空も葵同様忙しく、同じ家に住んでいても、朝の僅かな時間しか会えない時の方が多い。大人になると少しずつ距離ができるのは仕方が無いことなのかもしれない。
公園の隅にある小さなベンチに座ると、思った以上に葵との距離が近くて、隣から温かい体温が感じられて安心した。
「久しぶりだな。美也の相談聞くの」
「そうだね」
昔は親や兄と喧嘩した時は葵の所に逃げ込んで、ひたすら話を聞いて貰っていた。絶対に守ってくれる優しい、もう1人のお兄ちゃん。
「空と喧嘩でもした?」
葵の所に逃げ込む時に1番多い理由を挙げられたが、首を振って否定する。今回はいつもと全然違う理由だから、なんて言えばいいか、わからなかった。
「…少し、話してくれるだけでいいの。葵の声が聞きたかっただけだから」
「………」
結局素直に今の思いを伝えるしかないと思い、口に出すと、葵があからさまに顔をしかめ、視線を逸らした。
「葵?」
「…そういうことは簡単に口にするな」
「えっ?」
いつも穏やかな葵が、不機嫌そうに早口で呟いたので聞き取れずに聞き返すと、「なんでもない」と、はぐらかされた。
「そんな理由だったら帰ろう。俺とならいつでも話せるし、こんな遅い時間じゃなくてもいいだろ」
口調は穏やかだが、美也を一切見ない葵が怒っているようにしか感じられず、とても焦る。どうして怒っているのか必死で考えているのに、原因がわからない。
先に歩き出した葵は行きとは違い、かなり足早に家へ向かって行く。小走りになりながらついて行くと、家の前で「おやすみ」と美也を見ずに家に入ろうとする。
「待って…っ!」
思わず引き止めたが、振り向いた葵の冷たい視線に頭が真っ白になり、言葉が出てこない。こんな顔をした葵は知らない。目の前の幼馴染が知らない人のように感じて、動けなかった。
震えて突っ立っている美也の傍までやってきた葵は、深く溜息をついて、美也の腕を優しく引っ張った。
「ほら、もう遅いから家に入りな。美也が家に入るまで気になって、俺も家に入れない」
そう言った葵はいつもの優しい葵で、優しい葵が目の前にいる安心感から涙が溢れてきた。
「うわ…っ、美也?大丈夫か…っ?」
焦ったような葵の声が聞こえるが、気にする余裕はなかった。
「あおぃ、うっ、…傍にいてっ。まだっ、帰りたくない…、一緒に、…っ、いたいのっ…」
手で涙を拭いながら、自分勝手なことを口走っていく。今日1日疲労し切った心では、葵のことまで思いやる余裕は全くなかった。ただ、『このまま帰されたくない』そんな思いだけで、今の気持ちをぶつけた。
夢中で言葉を並べていると、今度は乱暴に腕を引っ張られ、あっという間に葵の家の玄関に入っていた。ビックリして葵を見上げると、鋭い視線とぶつかった。鋭いけれど、先程とは違い、熱を感じる。
握られたままの腕を更に引かれ、葵との距離がなくなる。視線は葵から外すことができなくて、絡み合ったまま、ただ見つめていた。
「嫌だったら殴って」
言っている意味を聞き返そうとした瞬間、唇が優しく重なった。