第4話
人間とは身勝手な生き物だと思う。誰かの為と言いながら、身の回りにある物を次々と切り捨ててゆく。そうやって捨てていった物の中には、苦労して手に入れた物だってある。それがどれだけ大切な物だったかと気付くのは、いつだって失った後なのに……。
金曜の夜、21時過ぎの電車は、思いの外空いていた。僕とリュウは、微妙な距離を保ちながら吊革に掴まると、言葉を交わすことも無く電車に揺られ続けた。
何から話していいのか、どこから話そうか。
話し出すきっかけを必死で探しているうちに、快速電車は国分寺駅へと到着した。人の流れに乗って改札を抜け、駅からアパートへ向かう間も、僕達はずっと黙ったままだった。途中コンビニへ寄り、のペットボトルに入ったお茶と牛乳、そして明日の朝食となるパンを買って表へ出ると、大して重くもないその袋を、リュウが持ってくれた。
「ここに住んでるんだ」
大学時代から住み続けている部屋は、ワンルームの木造二階建てアパート。僕の住む一階の角部屋は、片側に住人が居ない事と、昼間の僅かな時間だけ日が当たるという点以外、これといったメリットも無い。それにも関わらず、就職しても尚ここに住み続けているのは、愛着があるのではなく、ただ単に引越しをするのが面倒なだけ。
「忙しくて掃除してないけど、よかったら上がっていかない?」
帰ると言われるのが怖くて、リュウの返事を待たずに鍵を開けると、そのまま部屋の中へと入った。 ネクタイを外し、スーツの上着をハンガーに掛けていると、少し遠慮がちな様子で、リュウが部屋へ上がった。
「これどうする?」
この部屋は、昔ながらの細長いワンルーム。狭いキッチンスペースの向かいにはユニットバス。そこを抜けた先に、シングルベッドが部屋の半分以上を占める住居部分が現れる。コンビニ袋を掲げて見せたリュウは、キッチンとリビングの境に立ち、困ったような顔をしていた。
「うん、牛乳は冷蔵庫に入れておいて」
「分かった」
ベルトを緩めてズボンを脱ぐと、靴下にワイシャツという、なんとも情け無い姿になってしまったため、慌ててジャージを穿いた。そして、脱いだズボンは皺にならないよう、掌でさっと表面を撫でてからハンガーに掛けた。
「全然成長してないな」
いつの間に戻って来たのか、リュウは僕の間抜けな格好を見ながら苦笑していた。
「す、少しは背も伸びたんだよ、これでも」
震える指先でワイシャツのボタンを外すと、その下から覗く肌が、蛍光灯の光を浴びて青白く見える。
「狭いからさ、ベッドにでも座っててよ」
ワイシャツを脱いでTシャツに着替えると、キッチンスペースからグラス二つと共に、先程買ってきたペットボトルを持って狭い部屋へ戻った。 そして、折り畳み式の小さなテーブルにグラスを置くと、そこへペットボトルのお茶を注ぎ、一つをリュウに手渡した。
「サンキュ」
リュウは受け取ったグラスの中身を半分ほど飲み干すと、床に座り込んでいる僕に視線を移した。
「六年ぶり、か。まさかこっちで再会するとはなあ」
「うん、だってリュウ、あの時……」
「嘘付いちまったな、ごめん」
「何でリュウが謝るの?謝らなきゃいけないのは僕の方だよ。あの時僕は嘘を付いてたんだ、だから……」
言いたい事は山ほどあるのに、伝えなければいけない言葉は胸の中に仕舞い込んであるのに、いざリュウを目の前にすると何一つ出てこない。
「……」
もどかしい思いでリュウを見詰めながら、グラスのお茶を飲み干すと、静か過ぎる部屋がやけに息苦しく感じられた。
『そっか、僕は四月からは東京だ』
リュウが就職すると聞かされた時、僕は何も聞く事が出来なかった。 本当は色々聞きたかったし、知りたかった。そして僕は、何の為に自分が東京へ行くのか、きちんと説明したかった。 しかし、一度きっかけを失ってしまった話題は触れ辛く、そうこうしているうちに僕達はとうとう卒業式を迎えてしまった。
粛々と進む式の最中も、僕の頭の中を占めていたのはリュウの事だけ。あと一週間もしないうちに、僕はこの町から出て行かなければならない。それなのに未だにきちんと話が出来ていない。悶々と悩み続ける中、卒業証書を受け取る為、リュウがすっと立ち上がった。
壇上へ向かうリュウの後姿は、しゃんと背筋が伸びていてカッコよく、バランスの取れた体躯に、黒の学ランが良く似合っていた。
……この姿も、今日で見納めなんだ。
そう思った瞬間、ずっと抑え続けてきた想いが溢れてしまった。
この町を離れたくない。
リュウと離れたくない。
溢れてしまった想いは涙となって頬を伝い、着古した制服に吸い込まれていく。 だけどもう、後戻り出来ないんだ。どうしようもない事なんだ。
どんなに足掻いても、僕は親の敷いたレールから外れる事の出来る人間じゃないし、リュウにはリュウの事情がある。
この想いと思い出は、全てこの町に置いて行こう。
卒業証書を受け取りながら、僕は自分にそう誓った。
卒業式を終えた夜、私服に着替えたクラスの面々は、古ぼけたカラオケボックスへ集まっていた。僕は薄汚れたソファの隅に座り、クラスメイトと盛り上がるリュウの姿を眺めていた。 リュウが居るべき場所を、ずっと占領してきた僕のせめてもの償いは、みんなと楽しんでいる時間を邪魔しない事だ。その為には、僕も楽しんでいるフリをすればいい。
僕は、あまり交流の無かった女子に囲まれながら、四月から暮らす事になっている場所の話をしていた。
大いに盛り上がった面々は、二次会と称してボーリングへ行こうと盛り上がっていた。しかしこれ以上付き合う気の無い僕は、一次会で帰るメンバーに紛れ、その場を離れた。
リュウの邪魔をしないようにそっと、身を隠すようにして。
「圭太ッ」
暗い道を一人歩いていると、息を切らし走ってきたリュウに呼び止められた。
「リュウ、二次会は?」
「そんなもんどうだっていい。それより、何で黙って帰るんだよッ」
先程の余韻なのか、それとも僕の勝手な行動のせいなのか。いつもより強い口調のリュウが少し怖かった。
「みんな盛り上がってたけど、僕はああいうの苦手だから」
「だとしても、帰るんだったら声ぐらい掛けろよ」
「ごめん」
黙って帰った事位で、こんなに機嫌が悪くなるなんて、いつものリュウらしくない。
「僕の事はいいから行ってよ。さっきだってスゴク楽しそうだったのに」
「……」
リュウは僕の腕を掴むと、黙って歩き出した。
僕の家とは違う方向に向かって……。