第1話
見上げた夜空には満天の星が輝き、手を伸ばせば簡単に掴み取れそうな気がした。自分達の未来は、眼前に広がる広大な宇宙のように、限りない可能性を秘めている。夢を見る僕達は、その中から一番輝く星を手に入れればいい。
そう思っていたあの頃、僕達は同じ場所を見詰めていると信じていた。
「戸來、会議資料は出来たのか?」
「すみません、あと少しです」
コピー機の立てる規則的な音を聞きながら、次々に吐き出される資料を整理していると、先輩社員である赤羽さんに声を掛けられた。
「まったく……何やらせても相変わらず愚図だよなあ」
赤羽さんは大きな溜息を吐きながら、積み上げられた資料の山にイラついた視線を向けると、自分のデスクへと戻って行った。
就職氷河期と呼ばれて久しいこのご時勢、この会社から内定を貰えたのはとても運の良い事なのだろう。同級生の中には、何時まで経っても内定が貰えず、卒業間際まで就職活動を続ける者もいた。就職先が見つからないという理由から、わざと留年をしたり、大学院へ上がる者もいた。卒業しても尚何も決まらない者の中には、派遣社員やフリーターとして働きながら、正規雇用先を探している者までいるという。
そんな厳しい状況で、そこそこ名の通った企業に就職出来た僕は幸せ者だ。
「赤羽さん、揃いました」
コピー機をフル稼働させて作り上げたのは、14時からの会議で使われる資料30部。出来立ての資料は、機械の熱を孕んで火傷しそうなほどに熱い上、重ねた事で滑りやすくなっていた為、赤羽さんの元へ運ぶには少々苦労した。
「おまえさぁ、オレよりずっと良い大学出てんだろ?だったらもう少し頭使って働けよ」
「はい……」
パソコン画面の右下に表示された時間を見て、呆れた様に溜息を吐く赤羽さんは、会議資料を持って立ち尽くす僕を見ようとしなかった。
高校時代の僕は、そこそこ勉強が出来る方だった。そんな息子を持った両親は、それにどんな期待をしたのか、自分達の生活が苦しくなるにも関わらず、東京の国立大学を受験させた。運が良いのか、悪いのか。そこに受かってしまった僕は、大学生活の4年間を、実家から離れて暮らす事となった。しかし僕は、地元にある公立大学で教員免許を取得し、小学校の先生になるという夢を持っていた。
息の詰まるような思いで過ごした4年間の大学生活。それを終えたら、田舎へ戻るつもりでいた。夢は適わなくとも、せめて地元に帰って働きたい。そんな想いを抱いて就職活動を始めようとした矢先、僕の両親は『東京で就職しろ』と言い出した。
『東京の有名大学へ通っている』僕は、両親の虚栄心を満たす為にある存在なのだろう。地方で暮らす人間にとって、東京の大学へ子供を通わせる為には、経済的にかなりの負担を強いられる。そしてそれが出来る家庭は、経済的余裕があり、社会的にも高い立場にある事が多い。中には、自分の子供が東京の大学へ通っている事で、ある種のステータスシンボルを獲たと勘違いしている親もいる。勿論僕の親もそうした類の人種だ。
有名大学を卒業した後は、『東京の○○で働いてる』、と言って自慢したいのだろう。四月に入り仕事が始まると、ほぼ毎日のように様子を伺う電話が掛かってきた。その度僕は、『頑張っているよ』、『なんとかやっている』と言って両親の期待に応えているフリをした。しかし都会暮らしが性に合わないのは、4年間の大学生活で嫌という程思い知らされてきた。それでも尚本心を言い出せないのは、見栄を張りながらも、仕送りの為、影で倹しい生活を送ってきた両親を知っているから。だから決して、『実家へ戻りたい』などという言葉は口に出来なかった。
社会人として生きていく為には、勉強の出来不出来よりも先に、必要な事が沢山あると気付いたのは、入社して直ぐの事だった。機転の利く奴、要領の良い奴、目端の利く奴、場の空気を読める奴。そうした連中は、上司の見ていない所ではとことん手を抜いているのに、なぜか部内での評判は上々。臨機応変に飛び出す軽い言葉と身の軽さを巧みに使い分け、社内にどんどん人脈を広げてゆく。
一方の僕は、機転が利かず、要領も悪く、その上場の空気も読めない役立たず。言われた事しか出来ない僕に与えられる仕事は、単純な入力作業や電話の取次ぎばかり。時には、ミスをした同期の代わりに、訳も分からず頭を下げ続ける事もあった。入社当時からやる気のなかった僕は、そんな日々を過ごすうち、会社の中でどんどん落ちこぼれていった。
……これでいいんだ。
勉強しか取り柄のない僕は、何をやらせても愚図な上に不器用で、常に周囲の足を引っ張ってきた。それでも、毎月安定した収入が得られて、雨風をしのげる場所がある。このご時勢に、そんな生活を送れるなんて幸せじゃないか、十分じゃないか。自分のダメさに気付く度、僕はそうやって落ち込む気持ちを慰めてきた。
しかし、忙殺される日々、縋るものもなく、心身共に擦り切れていた僕は、限界に近い状態にあった。家と会社を往復するだけの毎日にも、満員電車にも、狭苦しいアパー トにも嫌気が差していた。そして何より、星空が見えないこの街に嫌気が差していた。
そして日を追うごとに、同じことばかり考えるようになっていった。僕は生まれ育ったあの街で、のんびり暮らしたい。誰よりも大切なあいつと一緒に。
気が進まないまま参加した同期会。飲めない酒を勧められ、無理して飲んだのが良くなかったのかもしれない。連日の残業続きで疲労が蓄積している上に、睡眠不足、そして仕事終わりの空きっ腹。乾杯の合図と共に流し込んだアルコールは、あっという間に全身へと染み渡り、気が付けば居酒屋のトイレで便器にしがみついていた。
「仕事が出来ない上に、酒まで弱いなんて……ホント勉強しかして来なかったんだなあ、おまえって」
様子を見に来たのか、それともたまたまなのか。名前も知らない同期は、吐き捨てるようにそう言うと、哀れな姿で居る僕を残してその場から去って行った。
……もう嫌だ。
同期から掛けられた言葉に、弱っていた僕の心は酷くきずついた。こんな思いをしてまで、どうしてこの場所に居なければならないのだろう。情けなくて涙が出た。ふらつく脚でなんとか立ち上がり、洗面台で汚れた顔と口を洗うと、少しだけ気分が良くなった。しかし、鏡に映る自分の顔は酷く蒼白い上に、入社当時よりぐっと減ってしまった体重のせいで、入院中の病人みたいに見えた。
「はあ、酷い顔」
そう言って溜息を吐くと、鏡の中に移る自分が、弱々しい笑みを浮かべた。
……帰ろう、こんな所にいたくない。
流れる水を止めるため、蛇口に手を伸ばすと、鏡越しにトイレのドアが開くのが見えた。
……ああ、また同期かもしれない。
これ以上醜態を晒したくない僕は、トイレに入ってきた人物を確かめるため、鏡越しに後ろの様子を伺った。
「失礼しまーす」
掃除にでも来たのかもしれない。三角に折ったバンダナを頭に巻き、店名の入ったTシャツと前掛けを身に着けた店員は、鏡の前に立つ僕に気が付くと、威勢良く挨拶をしてきた。
……あれ?
バンダナの下から覗く髪は茶色に染めてあり、耳にはピアスの穴が開いている。そして、Tシャツの上からでも分かるくらい鍛え上げられた身体と、男らしい角のある顎のライン。すっかり大人の顔になってしまったけど……間違いない。
「……隆?」
僕の呼びかけに振り向いた店員が、驚いて目を瞠った。
「圭太……?」
……僕は夢を見ているのかもしれない。
会いたくて仕方が無かったヤツと、こんな場所で再会するなんて、思ってもみなかった。