ある日風呂場に蜘蛛がいた
シャワーを浴びて、ふと気配を感じて振り返ると蜘蛛がいた。
「……おおう」
お湯を止め、その場でまじまじと見つめる。サイズはハエトリグモより少し大きく、アシダカ軍曹より小さい程度だろうか。胴体は黒く、脚はサイズの割に太く見える……が、日常生活で眼鏡必須な視力ではいまいち自信がない。
「うーん……」
さてどうしようかと首をひねった。これが夏場にいつの間にやら入り込んでる羽虫やらなんかわけのわからない虫であれば容赦はしない。皆殺しである。だが相手は蜘蛛。個人的にカニの仲間というイメージがあり、また蜘蛛の糸の印象もあり、あまり殺したくはない。これが室内であれば、捕まえて部屋の外にキャッチ&リリースするのだがここは浴室。全裸である。つまり無防備。あまり戦いたくはない。うっかりお湯をかけてこっちにぴょんときたら阿鼻叫喚である。
「……よし」
あまり蜘蛛に詳しくはないが、まぁまさかセアカゴケグモやタランチュラのような毒のあるタイプではなかろうとそのまま蜘蛛に背を向けると、シャンプーを泡立てた。
「…………」
気になる。先ほどから蜘蛛が気になる。気にしないようにするほど気になる。シャンプーを落として振り返ってみると、蜘蛛は動く素振りも見せずその場にとどまっていた。
むっと顔を思わずしかめ、睨めつける。なぜ逃げない。そもそもなぜいる。
浴室の掃除は毎日しているし、部屋の中の掃除も同様だ。Gのつく虫が湧いて出ぬよう、そのあたりは徹底している。それとも細かいところで奴らの生息域があるのだろうか、やはり面倒くさいからと時々四隅の掃除をさぼるのがいけなかったか。考えても答えはでない。蜘蛛も動かない。
結局、それから身体を洗って浴槽を軽く掃除して風呂からでても蜘蛛は動かなかった。
次の日。昨日と同様に風呂に入り、例の蜘蛛がいたところを見上げると、やはりいた。お前食事はいつしているんだ。まさか排泄行為をこの浴室でしているわけではあるまい。
今日も睨みつけてみる。やはり動かない。二度目ということで前日ほど意識せず洗い、風呂掃除もすませさっさと浴室をでた。蜘蛛が動くことはなかった。翌日も、その次の日も。蜘蛛が動くことはなかった。
数日後。
「あれぇ?」
いつも通り蜘蛛の定位置を見上げ、思わず声が漏れた。蜘蛛がいない。そこからゆっくりと目線を下に向けると、いた。
蜘蛛は、力なく仰向けになっていた。
「…………」
恐る恐る近寄ってみる。蜘蛛は動かない。どうやら死んでいるようだ。シャワーを浴びせてみる。蜘蛛は水の流れに逆らうことなく、そのまま排水溝の中に吸い込まれていった。そうして、蜘蛛と私の関係は終わった。
それからしばらくたったが、特に蜘蛛関連の災厄も幸福も訪れず毎日は平和であった。ふとした瞬間に蜘蛛を排水溝に流したことを思い出す。もっともそのことが私の心に傷をつけるわけもなく大抵はそのまま忘れ、いつしか思い出すこともなくなったある日のこと。私は思いがけない形で蜘蛛と再会することとなった。
「どこだここ」
気が付くと私は、暗闇の中につったっていた。
「さっき、交通事故にあったんだよ、ねぇ」
周囲を見渡す。何やらざわざわとした声が聞こえるが、特に何かの姿が見つかったりはしない。
交通事故にあったはずの自分の体を調べてみるが、怪我も痛みもどこにもなかった。暗闇が少し晴れ、周囲の景色がだんだん見えてくる。黒い人影のようなものがゆらゆらと揺れていた。なにこれこわい。
「え、うそ」
自分の先ほどまでの状況と、現在の状況を考えてみると、つまり今いるのは、あの世、のようなものであろうか。自分の顔色がさっと青くなるのがわかった。
「ちょ、冗談じゃないよ」
そのままわけもわからず周囲をぐるぐると見渡す。まだ働き盛りだし、最近恋人になりそうな人にも出会えたっていうのに死んでたまるかそういやあの人かばって事故にあったんだっけ大丈夫だったかなぁおのれよくもあいつさえいなければこんなことになることはなかったのに。さまざまな思いが脳内を駆け巡る。と、その時何か小さいものがさっと目の前を横切った。あの黒い塊には見覚えがある。と、いうか。
「あ、蜘蛛」
それは間違いなくあの浴室の蜘蛛であった。多分。塊立ち止まったし。
「……?」
蜘蛛は不思議そうに私を見上げる。というかなぜわかる。ここがあの世だからか。
「ほら、浴室でよくあったじゃん、覚えてない?」
蜘蛛相手に何を言っている、と頭の冷静な部分がツッコミを入れる。だが、混乱が大部分を占めている脳内ではそんな意見はあっという間に消えてしまった。
「……あぁー、死んだあと流したひと」
「うっ」
どうやら蜘蛛は私が死んだあとの自分を流したのを知っているらしい、思わずうめき声をあげる。
「なに、死んだの?」
蜘蛛が少し好奇心をみせながら聞いてきた。首を横に振ろうとして、止まる。やはりここはあの世なのか。
「そんな絶望的な顔すんなって。転生するまでここにいるのは退屈だろうけど慣れると割と過ごしやすいぜ、ここ」
私の表情が暗くなったからか、そんな慰めるようなセリフを言って蜘蛛はまた走り出した。
「あ、まって!」
私の静止の声に、蜘蛛は立ち止まり私を見上げる。
「その、排水溝に流したことうらんでる?」「や、べつに」
そのまま蜘蛛はささっと走って行った。意外に速かった。それから幼少期にかわいがってもらった祖母に案内され自分の身体に戻るまで私はその場に立ち尽くしていた。
交通事故から数年後。幸いにも後遺症もなく私は元気に仕事していた。あの蜘蛛との再会から得るものは特になく、強いて言えばあまり周囲の人間を意識しなくなったくらいだろうか。個人的には恋人候補が入院中にであった看護師とゴールインして先輩たちからプリンや缶ビールをプレゼントされたことのほうが影響力は大きい。蜘蛛はキャッチ&リリースなことも、それ以外の虫は見つけた瞬間デストロイなことも変わらない。死後、あの蜘蛛との再会を楽しみにすることもない。
私の日常は、滞りなくまわっていた。
蜘蛛はあまり好きではありません。こわい。