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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第二章
9/55

Broken Love Was Piled Up. As snow... Chapter1" In the case of her"

 









 また冬がやってきた。

 寒い季節だ。

 すぐ隣にあった温もりは、いまはもう私の元には居ない。近くて遠いところへと行ってしまった。

 この凍えそうな心の寒さも、身を切るような孤独も、すべては自業自得。あの冬に犯した取り返しの付かない過ちが私を孤独にした。

 だから私は冬が嫌いになった。

 あまりにも寒いからこたつのなかで丸くなりたくなった。ネコのように瞳を閉じ、ゆっくりと深く呼吸をしながら、見たくない現実から目を反らして、あったかもしれない未来に思いを馳せる。瞼の裏はいつもすばらしい夢だけを見せてくれる。現実の残酷さとは正反対の優しい世界がそこには広がっている。

 こうして妄想の世界へと逃げるのは昔からの癖だった。何も期待せず叱責ばかりする父親と、気の毒そうに見守るだけで何もしない母の元で生きていくために必要不可欠な行為だったから、それは自然と研ぎ澄まされていった。いまではリアルな映画のようにどんなことも思い描くことが出来る。

 尤も、目を開けてしまえばそこには何もない。薄暗い中で光こたつのヒーターが放つ赤くくすんだ光が毒々しく目に映る。

 こたつから抜け出して、ため息を一つこぼしてから、こたつのテーブルの上に開いたまんまのノートパソコンへ向かった。

 思えばこれは日々の現実逃避の副産物といっても過言ではない。妄想の世界の他に、物語の世界も私が逃げ込む逃亡先の一つとなっていた。そしていつしか物語を夢想し、それを文字として描き出すことを始めていた。最初に小説を書いたのは小学校の高学年の頃だったろうと記憶している。

 ただひたすらに、自分の為に書き続けた。心が壊れてしまわないように必死だった。そしてなにより自分の内より出る物語の続きを知りたくてノートに自分でしか読めないような文字でひたすら書き綴った。

 それにしても今日は普段に増して寒い。もしかしたら雪が降っているかもしれない。曇っているだけならここまで冷え込みはしないだろう。或いは天球は晴れ渡り、綺羅と輝く星々に向けて大地の熱が放出されているのかもしれない。

 いずれにせよ妄想するだけだ。私は寒いのが苦手だからこたつからは出たくないのだ。こたつは良いものだ。入っていれば寒さなど関係無い。周りにふかふかのクッションを用意すればなお良い。まさに完全無敵の要塞と化し、どれだけ意志を強く持とうといとも簡単にへし折られ堕落の世界へとたたき落とされる。だんだんいろんな事がどうでもよくなってくるのだ。そしてやってくるのはあらがいようのない睡魔である。頭の隅で原稿がどうのと思い出しそうになったけどもうどうしようもなかった。私は幸せな夢を求めて目を瞑った。

 そして気が付くと朝になっていた。あんまりにもぐっすり眠っていたらしく夢らしい夢の記憶がない。

 こたつの中とは思えない寒さに思わず身震いした。いつの間にか上半身がほとんどこたつ布団の外に出てしまっていたようだ。のそのそと動いてこたつの中に潜り込んでから違和感を覚えた。体の奥の方からこみ上げてくる倦怠感に、理不尽なまでの鼻づまり。そして思わずしかめっ面になってしまうほどの喉の痛み。試しに声を出そうとしたら思わずせき込んでしまった。喉に引っかかっていた痰が異様にねちっこい。この症状もはや疑いようがない。確認の為体温を測る必要がある。体を起こして、こたつの上のペン立ての中から体温計をとって脇に挟んだ。そのままぼーっとしているとアラームがなった。三十八度五分あった。あまり冗談にならない高熱である。

 いま家には私一人しかいない。両親は仕事の都合で昨日から家を離れている。色々立て込んでいるようで年が明けるまで、二週間近く帰ってこない見込みだ。

 尤も、こんな体調だからといってあの人達に助けを求める気は毛の先ほどもないけれど。お手伝いさんの城所さんも身内の不幸か何かで帰省するとかでしばらく顔出さないはずだから、どうしよう、これからしばらくずっと一人だけだ。代わりのお手伝いさんに来てもらうという話はあったが、せっかく一人になれるチャンスなのだから、と断固拒否したのは私自身なので憤るにもぶつける宛てがない。

 それにしても体がだるい。どうしよう。もしこのまま死んじゃったら私はどうなるんだろう。なんてことを考えてしまったせいだろうか急に心細くなってきた。気が付くと携帯電話を握りしめていた。電話帳を開いて、「宗平くん」と登録した番号に電話をかけた。いまの時刻は午前八時。今日は土曜日だからきっと大丈夫なはず。お願いだから出てちょうだい。

「もしもし。おはようございます」

 彼の声が聞こえた瞬間に、私は泣きそうになった。

「ごめんなさい。こんな朝早くに」自分でも情けなくなるくらいに酷い声だった。

「さくらさん。その声」

「ええ。ちょっと体調崩しちゃって」

「大丈夫……じゃなさそうですね」

 彼のこういうすぐに察してくれるところが私は好きだ。

「その、ごめんなさい。ちょっと心細くて声が聞きたかっただけだから」

 私の知っている彼はここで引けばかならず強く踏み込んでくる。ちょっとお節介で優しいからだ。

 期待通りの彼の言葉を待っていると電話の向こうから彼以外の声が聞こえてきた。耳馴染みのある声だ。

「怜も一緒なの?」

 気が付くとそう訊ねていた。

「ええ、まあ」答えにくそうに彼は言った。

 この時間に二人一緒にいる。はっきりと声が聞き取れた訳ではなかったが、きっと怜は寝起きだったのだろう。

 胃のあたりがきゅっと締め付けられるような、強烈な違和感が襲ってきた。次いで吐き気がこみ上げてくる。

 きっと二人は同じ布団の中ですごしている。もしかしたら、恋人同士らしくやることをやったのかもしれない。

「なんだか邪魔をしてしまったみたいね。もう、切るわね」

「待ってください。さくらさん、大丈夫じゃないですよね」

「いいの。私は。多分大丈夫だから」言いながら、私は涙を堪えていた。どうしようもなく寂しくて、情けなくて、ぶつけようのない感情が胸の中で暴れ回っていた。痛い。ただひたすらに心が痛い。彼がもう、私の恋人でないことは判っている。理解もしているつもりだ。けれど、こうして事実を事実として突きつけられるとやっぱりまだ、私という人間のバランスがおかしくなってしまう。

「絶対に、安静にしててくださいね」念を押すように彼は言った。

「うん。切るね」

 通話を終えるまで耐えきった自分を褒めてやりたい。泣きたいのか吐きたいのかよく分からない。熱があるおかげで頭がぼーっとしているから余計にだ。けれどそのうちに涙がぼろぼろこぼれてきて、喉が痛いのに嗚咽が我慢できなくて、けれどだんだんなんで泣いているのか判らなくなってくる。馬鹿らしくなってきて涙は勝手に止まってくれたが熱と喉の痛みはそうは行かない。とりあえず、何か簡単に食べれそうな物を胃に放り込んでから風邪薬を飲もう。

 部屋を出てキッチンへと向かった。階段を下りるときに何度か転びそうになったがなんとか踏みとどまり、無事一階へたどり着くことが出来た。風邪薬は、確かキッチンの戸棚の中にあったはず。

 冷蔵庫を漁ってみたが病人がすぐに食べられそうな物はなく、とりあえず牛乳と一緒に風邪薬を飲んで居間のコタツに入った。もう二階に戻る気力など残っていなかった。

 風邪薬の効果がなかったらどうしよう。そんなことを考え始めたせいでまた心細くなってきた。結構な熱だし医者に診てもらうのが一番なのだろうけれどいまの状態では自力で行くことも結構しんどい。かといって救急車に頼るほどではない。

 私は心の底で期待していた。心配した彼が駆けつけてくれるのではないかと。甘い幻想だと言ってしまえばそれまでだ。でも彼のことだから十分に有り得ることだった。彼は充分甘い。

 気怠い睡魔が意識を鈍化させ始めた。結構副作用がキツイ風邪薬だったようだ。特に起きている理由もないので大人しく目を瞑った。

 

 雪が降っていた。眼下には灯りの消えた町並が広がっている。あの丘の上から見える風景だった。隣を見ると彼が居た。私たちは同じ毛布にくるまって、丘の上の東屋で身を寄せ合っていた。

 あ、これは夢だなとすぐに判った。

「静かですね」夢の中の彼はそう言って毛布の中で私の手を握った。

「まるで世界が滅んで、二人だけになってしまったみたいね」夢の中の自分はそんなこっぱずかしいことを言って、彼の肩に頭をちょこんと乗せた。

 いつの間にか視点が主観から俯瞰に変わっていた。これはそろそろかな、と思っていると不意に静寂が打ち破られた。どこからともなく響く電子音。なんだっけ? 朝の目覚ましじゃなくて、携帯のアラームでもない。

 あ、そうだ、これは。



 目が醒めた。聞こえるのは玄関の呼び鈴だ。起きあがろうとしたらめまいがして、ふらついてしまった。なんとか棚にしがみついて持ちこたえる。もしかしたら本当に彼が来てくれたのかもしれない。淡い期待を胸に、私は這々の体で玄関へと向かった。

 幸せな夢を邪魔されたのだ。これでもし荷物の配達とかだったら、運送会社の人には悪いけれどありったけの呪詛を込めて睨みつけてやる。

 玄関にたどり着いたところで私はおや? と思い、それから小さく落胆した。磨り硝子の向こうに見える人影がどうやら彼ではなさそうだったからだ。

 背はほどほどに高く、ぼやけていても判る服飾の鮮やかさ。そしてそのシルエットが洋服を着ている様には全く見えない。

 嫌な予感がして土間に降りようとした足を止めたが、まるでそれを察知したかのように向こうから勝手に戸を開けて玄関の中に入ってきた。

「寒いんだからさっさと出てきなさいよ」

 思った通り来客は怜だった。

 落胆したといえばしたし、なんであなたがくるのよ、と怒鳴り散らしたいほど一気に頭に血が上ったが、しかし彼女はなんだかんだあっても気の置けない私の唯一の親友である。不覚にも、彼女の憎まれ口を聞いた瞬間に心が緩んで、視界がにじんでしまった。そして何かがぐっとこみ上げてきた。なんだろう。胃の腑の辺りから突き上げてくるようなこの感覚。あ、そうか。吐き気だ。

 こちらの顔色を見て瞬時に察したのか、怜は血相を変えて持って居た買い物袋をひっくり返して中身をぶちまけると、袋のクチを広げてこっちにつきだしてきた。

 その中に顔をつっこむようにして、思いっきり吐いた。風邪薬を飲む時に、一緒に牛乳を飲んでいたせいで吐瀉物はなんとも言えないくすんだミルク色に染まり、漂う臭気は不意にもう一度か二度の嘔吐を誘発せんばかりに強烈な刺激を放っていた。

 無言で手早く、怜は袋の口を結んだ。なんだか妙に手慣れている。

「ぼーっとしてないでさっさと顔洗ってきたら?」

「あの、ありがとう」

「いいからほらさっさと洗ってきてって。くさいし、いつまでもそんな風に突っ立ってられたら私まで吐いちゃう。ほら、しっしっ」

 一瞬でも感謝しようと思った私が馬鹿だった。二人で話す時はいつもこうだ。彼女は何かしら憎まれ口を叩くし、私もそれに応じて言い返す。

 なんというか、私たちはいつも素直ではないのだ。

 洗面所で顔を洗い、ついでに歯も磨いた。これで臭いはほとんど気にならなくなった。廊下に出て玄関の方へ行くと、吐瀉物を受け止めた買い物袋の処分に難儀する怜の姿があった。

「ちょっと行った所にゴミ捨て場があるからそこに捨ててきたら?」

「こんな時間に捨てても収集車はこないでしょ?」

「あなた、時々妙にまじめなこと言うわよね」

「なんならこれをいままここでぶちまけてやってもいいんだけど。どう?」

「そうね。あなたが頭からそれを被るっていうなら考えてあげなくもないわね」

「捨ててくる。門から出て右に行ったところの電柱のそばの奴よね?」

「そう、それ」

 ため息混じりに出て言った彼女の後ろ姿を見送ってから私は土間に降りた。ぶちまけられた買い物袋の中身たち。ゼリー飲料とプリンやスポーツドリンク。いろんな種類のレトルトのお粥もある。彼女らしい大雑把な買い込み方だ。でも心配はしてくれてたんだな、と思うとちょっとだけうれしくなってくる。それらを拾っていると、彼女が持ってきたもう一つの買い物袋が目に入った。中をのぞいてみると焼きそばパンやらコロッケパンと言ったおおよそ病人に与えるようなものではない胃にがつんとくるような総菜パンがとにかく詰め込まれていた。

 そういえば彼女、何か大きめのバッグも背負ってた気がするし、もしかして泊まり込むつもりなんじゃないだろうか。

 ちょうどそのとき怜が戻ってきたので訊ねてみると「ダメなの?」とまるでそうすることが当然であったかのような反応をされてしまった。

「うちに助けを求めてきたってことは、つまり当分誰も居ないってことだと思ったんだけど? もしかして違った?」

「違わないけど」

「ならいいじゃない」

 こんなのでも居ないよりマシだし、よく考えれば断る理由もない。

 不満があるとすれば、それは。

「どうしてあなたが来たの?」

「そうちゃんは用事があったから。あんたの世話をする暇がないの。だから私が代わりに来てあげたってわけ。感謝しなさい」

「そうだったのね」

「そう言うわけだから感謝しなさい」

「しつこい」

「それはそうと酷い声ね。のど飴もあるけど、舐める? あと病院はまだよね? とりあえず荷物置いたらすぐ行きましょう」

「なにもそこまでしてくれなくても」

「いいからなすがままされるがまま、長いものに巻かれて簀巻きになっちゃいなさいな。これでも私、結構病弱だからいろんな病院に顔が利くんだから」

「得意げに言うことじゃないでしょ」

「あ、そうだ。ほら、マスクも買ってあるからこれつけなさい。あとこれ、のど飴ね」

 言われるがままにのど飴をほおばりマスクをつけて私はリビングまで怜を案内した。

 荷物を下ろすと彼女はすぐにどこかに電話をかけた。

「タクシー呼んだから。来たら病院ね」

「え、あ、うん」

 私の意志とは関係なしに事態がどんどん動いていて、正直頭が追いつかない。けど悪い方向へは行っていないので、やっぱりここは怜が言った通りにするべきかもしれない。

「あなたって意外と世話焼きなのね」

「別にそんなんじゃないわよ。普通のことしてるだけだし。そうちゃんに頼まれたからやってるだけだし。心配とかそういうのじゃないから勘違いしないで欲しいわね」

 赤くなりながらもじもじ。なんとも気持ちの悪い照れ方だ。まあしかし悪い気はしないので出かかっていた憎まれ口はぐっと堪えた。

 タクシーが来るのを待っている間に体温を測った。三十八度八分。ちょっと悪化している。その割にそれほど辛く感じないのは感覚が鈍化してきたからなのかそれとも彼女が来てくれたおかげで精神的な余裕ができたからなのか。

 怜の携帯が鳴った。どうやらタクシーが来たらしい。

 向かった先は怜がよくお世話になっているというこじんまりとした内科だった。

 人見知りの私にとって初めて訪れる病院ほど気まずいものはない。どうせ診察を受けてしまえばすべては全くの杞憂だということは判るのだけれど、それでもやっぱり気が引けてしまう。

 正面入り口から入ってすぐ、風除室に、三十八度以上の高熱がある来院者は呼び出しボタンを押すか、同行者に行かせて看護師が来るまでここで待機していろという旨の文章が書かれた立て札と四人がけほどの長いすが置いてあった。

「保険証出して」怜が言った。言われた通り保険証を手渡した。

「ちょっと待ってて」と彼女は言いさっさと中に入ってしまった。

 待っている間は、不本意ながらとても心細かった。彼女が看護師さんを連れて戻ってくるまで何十分も待たされたような気分がした。実際は五分もかからずに戻ってきたのだけれど、とにかくそう感じてしまうほど、私はどうかしていた。

 空いている時間帯だったこともあってそのまま診察室に案内されて、そこでインフルエンザの疑いがあるとかで、鼻の粘膜を採られた。

 結果を待っている間だ退屈だったので持ってきた文庫本を読んでいた。よりにもよって梶井基次郎をチョイスしてしまったせいで、その間とても退廃的な気持ちになってしまった。でも手首を切った頃の事を思えばこんなもの昼下がりに感じるアンニュイさと大差はない。あのとき爆弾に見立てたレモンが手元にあれば私はどうなっていたのだろう。それを彼の家の中に放り込んで、そのまま逃げ去っていたら、もしかしたらあるいはいまの私はいなかったかもしれない。でもそうやって解決できるほど私は彼を恨みも憎みもしていなかったし、そのまま関係を絶ってしまえるような状況でもなかった。彼との関わりを絶つことはそのまま親友を失うと言うことでもあるからだ。それになにより彼を愛する気持ちはいくら抑え付けたって消える気配がない。それはまるで埋め火のようにひっそりと赤熱しながら再燃の時を待ち続けているかのようにこの胸を焦がし続けている。

 くだらないことを考えているうちに結果が出た。予想に違わずインフルエンザだった。全くこれっぽっちも心当たりはなかったが、どこかでもらってしまったのだろう。大変な時期にかかってしまったな、と思ったけれど期末試験も終わった後だったので不幸中の幸いと言えるかもしれない。

「インフルエンザだと、もしかしたら二学期終わるまでに復帰できないかもね」

 帰りのタクシーの中、怜が窓の外を見ながらぽつりと呟いた。

「そういえばそうね」熱が下がったとしても数日間は登校できない決まりになっている。熱が下がらず長引けば当然普通の風邪よりも復帰の時期が遅くなる。

「帰ったらすぐに薬飲みなさいよ」

「判ってる。母親みたいなこというのね、あなた」

「心配なのよ」

 帰宅してから簡単な食事を取った。喉が酷くはれていてとてもじゃないがまともなご飯は食べれそうにない。怜が買って来てくれたゼリー飲料を飲むので精一杯だった。その後すぐに処方された特効薬を取り出した。インフルエンザにかかったのなんて小学生の頃以来だったので、吸入するタイプの物があるなんて初めて知って驚いた。そういえば何年か前にそれまで主流だった特効薬の副作用が世間を賑わせていたことを思い出して、そう言うことかと改めて手に持った特効薬をまじまじと見つめた。薬と一緒に貰ったマニュアルと、薬剤師の人が実演して見せてくれた姿を思い出しながら一気に薬を吸い込んだ。

 後は部屋でゆっくり寝るだけだ。けれどそう簡単に眠ることもできない。節々が痛むし熱があるせいで苦しいしで、寝たいのに全く眠れない。

「怜、いる?」

「いない」

 しっかりと返事は帰って来た。寝返りを打ってこたつのある方を見ると、彼女はコタツの上にノートパソコンとペンタブを広げて熱心に作業をしていた。

 こんなことに付き合わせてしまって申し訳ないと少し思っていたけれど、彼女のマイペースな姿にそんな気持ちも吹き飛んでしまった。

「ここに居たら、あなたにもうつるかもしれないわよ」

「心配してくれてありがと。でも大丈夫。さくらがかかった型の予防接種はちゃんと受けてるから」

「けど、完全に防げるって訳でもないでしょ」

「いいの。なったらなったでそうちゃんに看病してもらえるし」

「私だって、本当は」

「ごめんなさい。なんて言わないわよ。あのとき、そうちゃんのお見舞いに来なかったのはあなたなんだから。誰も邪魔なんてしてなかった。けれどあなたは、」

「いまはそんな話は聞きたくない」私は彼女の言葉を遮った。こんな時に聞きたい話ではない。他人にされたい話でもない。何度も何度も自問を繰り返して、それでも答えがまだ出ない、それは一時私に死への幻想すら抱かせた難問なのだから。

「そう。とんだ安眠妨害だったみたいね。黙ってるから、もし何かあったら言ってちょうだい」

 怜のことは憎いし、もしかしたら嫌いかもしれない。でもこんな時に一緒に居てくれる友人は得難いものだし、心強くて、やっぱり彼女のことが好きなのかもしれない。

 愛と憎が対極の物ではなく表裏一体であり、ある時には共存しうるということをこの一年で痛いほど思い知らされた。だからこそ私は悩むのだ。どうすればいいのか、どうしたいのか、と。

 煩悶に身を焦がされそうになったところで急に睡魔が襲ってきた。ありがたい。そう思いながら私は眠りに身を委ねた。




 また夢を見た。

 雪が降っていた。街頭のわずかな灯りを覆い尽くさんばかりに雪片は降り注ぎ、地面を真っ白に染め上げていた。

 見覚えのある風景だった。初めて彼の家に行ったときの夜のことだ。

 それからすぐに風景は切り替わった。

 あの丘の東屋に私は一人で座っていた。何度も時計を見ながら、待ち合わせの時間になってもやってこない彼のことを考えていた。やがて待ちかねて、彼の携帯電話に電話をかけた。何度も何度も、しつこくかけ直しようやく出たのは彼のお母様だった。そして私は事故のことを知った。

 どんな言葉を交わしたのかあまりよく覚えていない。しばらく呆然と立ち尽くしていた。すぐに彼の元に駆けつけようと思った。けれど、どこの病院に運ばれたのか、確かに彼のお母様は言っていたはずだけれど、私はそれを聞き逃していた。

 もう一度電話をかけて確認し直せばいいだけなのに、それができなかった。指が震えていた。寒くてそうなっている訳じゃない。怖かったのだ。何を私はそこまで恐れていたのだろう。それが今でも判らない。ただ私は目の前に現れた漠然とした何かを本気で恐れていた。そしてその恐れは、本能的に漆黒の闇を忌避し嫌悪することとよく似ていたように感じる。

 そのうち涙があふれてきて、私はその場にへたり込み、ベンチに突っ伏して、何度も何度も拳でそれを叩いた。やがて携帯に着信が入った。怜からだった。震える手を抑えながら私は電話に出た。彼の事故のことを知らせる電話だった。抑揚のない、まるで生気の感じられない怜の声を聞いて私は初めて彼が事故に遭ってかなり危険な状態にあるのだということを実感した。先ほどまで感じていた恐怖はなりを潜めたが、今度は別の恐怖が襲いかかってきた。

 ――彼が事故にあったのは私のせいかもしれない。

 血の気がさあっと引いていくのが自分でも判った。それからのことはあまり覚えていない。気が付くと私は家に帰っていて、布団の中で、まるで恐ろしい怪物から身を隠すかのように体を丸くして、息を殺し続けた。





 目が覚めると真っ暗だった。いま何時だろうか。とにかく体がだるい。本当に薬は効いているんだろうか。いや、むしろ効いているからこそ意識が朦朧としているのかもしれない。寒いのか暑いのかよく判らない。とにかく熱を計ろうとしたけれど体温計が見あたらない。眠る前は枕元にちゃんとおいたはずなのに。ほう、と息を吐いて上体を起こした。軋むように間接が痛む。振り返って見てみると、自分の背中があったところに体温計があった。電源を入れて脇に挟む。

 ベッドに横たわり一息付いたところで、天井が青白く見えることに気が付いた。顔だけ動かして部屋の中央を見ると、怜がノートPCを開きっぱなしにしてコタツで眠っていた。スクリーンセーバーの動きに合わせて天井の光がうねりを見せている。水中から見上げた太陽に少し似ているな、と思った。

 体温計のアラームが鳴った。私は一瞬見間違えでもしたのかと思った。しかしはっきりとそこには四十度五分と表示されている。

 処方された解熱剤はどこにおいたか。特効薬を使ったしもう平気だろう、と思って部屋には持ってきていなかったはずだ。きっと、台所かリビングに置き放しになっていると思う。

 取りに行こうとベッドから出たとたんに猛烈なめまいに襲われて、思わずしゃがみ込んでしまった。どうしようかと考えていると、幸せそうに眠ってる怜の姿が目に入った。私は迷わず枕を掴み、その顔面にぶつけてやった。しかし起きない。二言三言寝言を漏らしただけで寝返りをうってしまった。こうなりゃ意地でも起きてもらわなければならない。私は這って彼女の傍に行き、頭を思いっきり叩いた。

「もう、なにすんのよ」不機嫌そうな声で彼女は言った。

「解熱剤」

「は?」

「持ってきて」

 寝ぼけ眼でしばらく私の事を見つめてから、ようやく察したのか「うん」とうなずいて部屋から出ていった。

 一安心して私はコタツに潜り込んで怜が戻ってくるのを待った。

 階段を上ってくる足音が聞こえる。廊下の軋みが近づいてくる。もうすぐドアノブが回されるはず。聞こえてきた。足音が部屋の中に入ってきた。私はコタツから頭を出して怜を呼んだ。

 解熱剤を飲んでベッドに戻った。怜はお風呂に入ると言って着替えを持って出て行った。何度かうちに来たことがあるので、勝手は知っているだろうから、風呂もキッチンも好きに使っていいと伝えている。もっとも後者はせいぜいお湯を沸かす程度のことにしか使わないだろうけれど。

 それにしても今夜は時間が進むのがやけに遅い。もうずいぶん寝ていたと思っていたのに、まだ日付すら変わっていない。ずっと眠っていたせいか、それほど眠気はない。けれど起きているには少々辛すぎる。いっそ眠ってしまいたいのにままならない。

 そういえば。

 ふと脳裏をよぎる。あの夜もそうだった。すべて夢であって欲しいと思って私は眠ろうとした。夢の中で眠って、そして目覚めれば夢が醒めるという話を昔聞いたことがあったからだ。私はあのとき、ただひたすらに逃げたかったのだ。そしてそのまま逃げ続けた。彼の方から遠ざかっていったのではない。私の方から距離を取っていたのだ。

 でも、じゃあなんで私は逃げてしまったんだろう。彼が事故に遭って、酷い怪我をして、野球ができなくなってしまって。なのにどうして。彼のことが好きだ。愛している。この気持ちに迷いも、間違いもなかった。なのにあのとき、恋人として取るべき行動ができなかった。それどころか人として最悪な選択肢へとまっしぐらに突っ走っていった。

 怜が言った言葉がふと脳裏をよぎる。

「あなたはそうちゃんを愛していた訳じゃない」

 私が手首を切ったその日、彼女はそう罵ったのだ。

 何を思ってその言葉を選んだのか。私が姿を見せなかったからというのが理由なのだろうけれど、他にまだなにかありそうな、そんな目をしていたことを思い出す。あのとき彼女は一体、どんな根拠で私を罵り、トドメの一撃を刺そうとしたのだろう。

 怖くていまもその核心に迫れないでいる。もしそれを知ってしまったら、また私はなにかしでかしてしまうかもしれない。それに、彼女とは仲直りもできたし、彼とも会えているのだから、妙な好奇心でこの関係を壊すようなこともしたくない。知らなくて良いことだってあると思う。これがそうなのかは判らないけれど。でもいますぐに知らなかればならない事でもないはずだから、私はひとまず思考を放棄した。ほう、とため息をついて頭の中を空っぽにして、ただベッドに横たわり、気休めの睡魔を待ち続けた。




つづく

続きはまた来週か再来週くらいに

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