番外編 『蛍』
蛍を見に行きたい。そう怜が言い出したのは夕食を食べてすぐのことだった。そういえばもうそんな季節なのか、と思いながら洗い物を続けた。彼女が突飛なことを言い出すのは今に始まったことではない。彼女は割と気分屋なところがあって、尚かつ思いついたことはとりあえず口にする癖もあった。なので俺はいつもの戯れ言だろうと思い適当に受け流していたのだが、どうにも今日はしつこい。普段なら結局口だけで行動に移すことなんてないのに、いますぐ行こうと食い下がってくる。まだ洗い物の途中だからと一旦引き下がらせて、さてこれからどうするか考えた。すっかり日が暮れてしまっているので時間帯的には何も問題はない。天気予報で今夜は晴れると言っていたし雨の心配もないだろう。窓から風は吹き込まず、空気は生暖かい。それに確か今日は新月だったはずだ。条件としては問題ない。ただ一つ懸念があるとすれば、それは果たしてこの時期にこの辺りで蛍が見られるのだろうか、ということだ。ちょっと早すぎるのではないだろうか。とはいえ、ここ数日は夜も暖かい日が続いているので、もしかしたらちょっとくらいは、申し訳程度に夜陰に灯りを漂わせているかもしれない。
結局俺も居たら居たで見てみたいと思い、洗い物を終えると早速出かける準備をした。うちから蛍の居る川までは徒歩だと少々時間が掛かるので自転車を使うことにした。
「ねえ、後ろに乗ってもいい?」
そのつもりで出て来たのか、先ほどまでは着物姿だったはずが、いまはTシャツにジーンズというラフな服装になっている。おまけに準備よく小さなクッションも手に持っている。
どうせ断ったら拗ねるだけだ。俺は自転車にまたがり、彼女を荷台に座らせた。普段とは違う、薄手のTシャツだからだろう、背中に感じる温もりや柔らかさがいつも以上に生々しく伝わってくる。
「ふふ。そうちゃんの背中、おっきいね」
いまさらなことを言って彼女は俺の体にしっかりと腕を巻き付けた。
住宅街から離れると辺りは途端に田園風景に早変わりする。月明かりのない夜道は思った以上に闇が深く、くすんだ街灯と自転車のランプだけでは到底照らしきれる物ではない。自然と運転は慎重になってくる。車道を過ぎゆく車のランプに何度か目を眩まされそうになりながら何とか目的地に辿り着くことが出来た。
川幅は五メートルもない、何の変哲もない小川である。川岸はいずれもコンクリート舗装がなされ、一見すれば蛍なんて居そうにない場所なのだが、流れの中にぽつりぽつりと草むらが点在しているおかげか、最盛期には驚くほど沢山の蛍が飛び交い、淡い光の粒が闇を彩る。だが予想通りぱっと見た限りまだ蛍の姿は確認出来なかった。
「どうする?」
彼女は「探す」と一言言い畦道へと分け入っていった。慌てて後を追いかける。諦めが付かないのは判るが、こんな真っ暗な夜に懐中電灯の明かり一つで歩くには、足場が不安定すぎる。それに怜はどんくさい。すぐ右側には水を張ったばかりの水田が広がり、左手には彼女に希望を抱かせて止まない清流が流れている。どちらにしても落ちたら一大事だ。
なんてことを考えていたら急に彼女の後ろ姿が大きくふらついた。俺は慌てて後ろから彼女を抱き留めた。
「大丈夫か」
腕の中の彼女は一度、こくりと頷き、「ありがと」と恥ずかしそうに言った。
「そんなに蛍が見たいの?」俺は訊ねた。
「うん。どうしても見なくちゃいけない事情があるから」
「そうは言っても、この様子だとまだちょっと早かったんじゃないかな」
「でもね、さくらがこの前蛍を見たって言うから」
「場所が全然違うじゃんか」
さくらさんは大学進学と同時に地元と離れて県内の、ここから電車で1時間くらいのところに住んでいる。当然ながら自然環境は全く違う。
「あっちよりこっちの方が自然が豊かだし。居るかな、って思ったんだけど」
「向こうの方が、多分こっちよりも暖かいんじゃないかな」
「でもそんなに違いはないと思うんだけどなあ」
畦道から歩道に戻って俺達はもう一度川を眺めた。やっぱり蛍は見当たらない。それでもやはり諦めきれないのか、真剣に闇の中を見詰める横顔を見ていると、最後まで付き合ってやりたくなってきた。幸い、明日は土曜日で何も予定はない。
「別の所行ってみる?」
「うん」二つ返事で彼女は頷いた。
といってもこれといってアテがある訳でもなかった。何せ普段からそれほど蛍の生息地を気にして居るわけでもないので当然と言えば当然だが。しかしこうして怜を後ろに乗せて、夜風を切りながら自転車を漕ぐのも悪くない。とにかく、幼い頃に公康らと冒険して回った頃の記憶を頼りにペダルを漕いだ。
「そうちゃんストップ!」怜が大声で言った。
俺はゆっくりとブレーキを掛けて自転車を止めた。怜はふらつきながら荷台から降りると、闇の中を指さした。「あそこ!」
彼女が指し示した方向へ目を凝らしてみると、一瞬何か、火の粉のような光が見えたような気がした。まさか、と思って居ると闇の中に淡い光が浮かび上がり、ゆらゆらと宙を舞い、一瞬の夢が如、闇にかき消えた。
「いまの見た?」はしゃぎながら怜は言った。
「もういるんだなあ」
よく見てみれば二つ三つ、四つ五つとどんどん視界に入る光が増えてくる。何の変哲もない川幅二メートルそこそこの農業用水路の両岸に茂る草むらで数十匹にも及ぶ蛍が競い合うように尻を光らせ愛を説いていた。
「もっと向こう行ってみようよ」そう言って彼女は畦道へ入っていく。先ほどとは違い、軽トラックが余裕で入れるほどの道幅があるので、よっぽど間抜けなことをしでかさない限り、田圃か用水路に落ちることはないだろうが、それでもやっぱり心配だ。すぐに後を追いかけ、隣に並び、彼女の手を握った。
「大丈夫だってば」こちらの意図をすぐに読み取ったらしい彼女は、そう言って苦笑を浮かべた。
「けど昔からどんくさいからなあ」
「そんなことないって」
「小学生の時、俺と公康がオタマジャクシ取ってるところにやってきて、そのまま田圃に落ちたのはどこの誰だったかな」
「それは昔のことだし」
「さっき落ちかけただろ」
「そうちゃんのいじわる」そう言って彼女はぷいと顔を背けた。ちょっと苛めすぎたか。けれど手は握ったまま離さない。そういうところがなんというか、どうしようもなく愛おしい。
「怜」
名前を呼んでみたが彼女はこちらを向いてくれない。
だがそれほど機嫌が悪そうにも見えない。むしろなにか期待している様に、そわそわと、落ち着かない様子に見える。
ああ、なるほど。ようやく俺は理解して、握っていた手を解き、半ば強引に彼女を抱きしめた。
「そうちゃん」腕の中で彼女は言った。「こういうので誤魔化せると思ったら大間違いだよ」
「本当に?」
「本当に」口ではそう言っているが、顔は幸せそうににやけている。説得力などあったものではない。
「蛍はいいのか」
「えへへ。もうちょっとだけ」
静寂とはほど遠い、蛙の鳴き声で満ちたこの場所で、月の明かりすらない夜の闇の中で、こうして抱き合っていることがとても場違いな事のように思え、なんだかおかしくなってきて、思わず笑いがこみ上げてくる。怜が不思議そうな顔で俺を見上げている。
「どうしたの?」
「なんとなく」
「そうちゃんって時々ちょっと不思議だよね」
「SF?」
「それは少し不思議でしょ」
そう言って彼女も笑った。
俺もまた笑い声を上げる。
げらげら、げらげらと、蛙たちと競い合うように俺達は笑った。
幼い頃に戻ったような気分だった。
それから俺たちは草むらに並んで腰を下ろし、黙ってホタルを見た。
水路の上をゆらゆらと飛び交う蛍を見る彼女の横顔はどこか悲しげに見えた。長いまつげのその先から今にも悲哀を湛えた涙の雫がこぼれ落ちてしまいそうで、俺はたまらず彼女の手を握った。
「どうしたの?」きょとんとした顔で彼女は言った。
俺は急に恥ずかしくなってきて「なんでもない」と答えたが手は離さなかった。
「昔ね、お父さんに連れて行ってもらったことがあるの」
闇の中に語りかけるような声だった。
「私が5歳くらいの頃だったと思うから、そうちゃんはたぶん知らないと思う。蛍が見たいって私がごねてね。とびきりの場所があるからって自転車の後ろに乗せてもらって。お父さんが言ったとおりそこにはたくさん蛍が居て、小さな私はその光を追いかけてあぜ道をふらふら歩いて」
「田んぼに落ちた?」
俺が横から言うと彼女は笑って「悔しいけど正解」
俺はふと、淡い光がゆらゆらとこちらに向かって飛んでくるのに気がついた。それは俺の目の前を横切り怜の膝小僧にとまった。
いとおしげにその蛍を眺めながら怜は「あのとき、私も小さかったから、その場所がどこだったのかちゃんと覚えてなかったの。ほら、この辺りって結構いろんなところに蛍がいるでしょ? お父さんもお母さんも死んじゃって。それから二年くらいしたころから、あの思い出の中の場所がどこだったか急に気になりだして、それとなく当たりをつけたりもしてたんだけど、全然確信が持てなくて。でもね、わかったの。あれはたぶんここだったんだって」
「今日蛍を見に来た理由はそれ?」
「そう、って答えた方がかっこいいんだろうけど、実は仕事のためだったり」彼女は苦笑を浮かべて言った。といっても表情はあまりよく判らない。だが無理して明るく振る舞おうとしているのはなんとなく判った。
「この流れでその事実はあんまり知りたくなかったなあ」
そのとき、不意に彼女の表情が克明に浮かび上がった。膝小僧にとまっていた蛍が飛び立ったのだ。その灯りの中で彼女は懸命に涙をこらえているように見えた。そして蛍が飛び去っていくのと同時に、とうとうこらえきれなくなったのか、俺の胸に飛び込んできて、わんわん声を上げながら泣き始めた。
彼女の頭をなでてやりながら、俺は怜の父さんのことを思い出していた。
怜の父さんは大変にのほほんとした性格をしていて、厳格で怒りっぽい怜の母さんとは正反対だったのだが夫婦仲は不思議と良好でウチの両親ともどもいつも仲良く寄り添い合っていた。だが二人が結婚した経緯を知っていればそれも得心するはずである。二人は、元々はこの国に住んでいれば誰もが名前を知っているであろう大企業を経営している一族の次男坊であり、令嬢であった。怜の父さんがどこかのんびりした性格なのもそのせいなのかもしれない。
二人は大学のキャンパスで出会った。そして大学生らしく青春を謳歌しているうちに恋に落ち、共通の友人であった我が両親の手引きもあり無事恋人同士となった。ところがである。実は二人の実家は、大昔、それこそ数百年前から引きずってきた禍根を抱え、現在においてなおいがみ合う犬猿の仲であった。当然交際にも反対。それどころか顔を合わせることすら禁じようとしたが為に、恋に焦がれ愛に燃え、その情熱を胸に湛えた二人は大学卒業と同時に駆け落ちを決意する。例によってうちの両親の入れ知恵によるものであって、当然その手助けも行った。そして二人は見事愛を成就させ、その結果怜がこの世に生を受けたのである。もしつつがなく二人の交際が認められていたら、あるいはあきらめてしまっていたらきっと怜は俺の隣には居なかっただろう。そう考えるとなんとも数奇な話である。
怜の父さんと最後に話したのは事故が起こる前日のことだった。少年野球の練習を終え家路を急いでいたところ、途中でばったりと出くわしたのだ。それから何を話したのだろう。思い出そうにも思い出せない。きっと他愛のない無駄話だったに違いない。のんびりとした性格の怜の父さんはとても話し好きで、よくいろんなことを話しを聞かせてくれた。同時に聞き上手でもあった。練習の帰りだったから、きっと野球のことについて話したのかもしれない。
そんな会話の中で一つだけ覚えている言葉があった。
「怜のことを頼むぞ」
別れ際の言葉だった。
俺はよく判らず「うん。まかしとけ」と答えた。
そしてそれが最後に交わした言葉となった。
当時は深く考えることもなかったが、今思えばまるで自らの死期を悟っていたかのような言葉だ。とはいえあれは事故だったのだし、やっぱりただの偶然なのだろう。
泣き止んだ怜はあぜ道に立ち、辺りをぐるりと見回した。
「かえろっか」
座ったままの俺に手をさしのべる。
その手につかまり俺は立ち上がった。
俺はゆっくりと自転車のペダルをこいだ。慎重にバランスを崩さないように、一漕ぎ一漕ぎに神経を使いながら。いまこの瞬間に、背中から伝わってくる彼女の体温を、一秒でも長く感じていたいと思った。
家の近くまで来たところで彼女が急に歩きたいと言い出した。俺は自転車を止めた。それから二人並んで静かな住宅街を歩いた。車輪が回るからからと言う音がいつも以上に大きく聞こえた。怜はまだ自分の父さんのことを考えているのだろうか。感傷的な横顔で彼女はじっと黙り込んでいた。
この先の角を曲がれば俺たちの家が見えてくる。玄関の灯りがわずかに漏れ、路面をかすかに照らしている。俺はそのすぐ手前、灯りのない家の前で足を止めた。
怜の生家である。
両親の死後彼女はこの家を相続した。残されていた思いの外大きな額の遺産と、裁判の末に転がり込んできた物の金額を合わせればローンを最後まで支払いきれる程度の額はあるらしく、そのお金でこの家を維持してきた。
普段、自分の部屋は掃除できない癖に、この家の掃除だけは週に一度必ず行っている。俺も手伝える時には手伝っている。そして、そのたびに思うのだ、彼女の帰る家はここなのだと。床に雑巾をかけ、窓を丁寧に磨き、埃をはたきで落とす。そうやって掃除をする彼女の横顔には、いつも昔を懐かしむような穏やかで、ちょっとだけ悲しそうな表情が浮かんでいる。かつて長い時間を過ごしていたこの家のそこかしこに残っている思い出の残滓がそうさせているのだろうか。掃除を終えるといつも彼女は仏壇に手を合わせ、「いってきます」と言う。そうして家を出る。たまにひどい喧嘩をすると「実家にかえらせていただきます」などと言ってこっちの家に籠もってしまうこともある。やはりここが彼女の帰る家なのだろう。
どうしたの? と振り返った彼女は不思議そうに首を傾げた。俺はなんでもない、と答えた。
そして俺たちは帰った。俺たちの家族の家へと。
了
お久しぶりです。
季節外れな内容ですが、書き始めたのが実際に蛍が飛んでた時期だったのでしゃーないですね。その後途中で放置して、最近完成させました。
次回の更新についてはやはり未定ですが、一ヶ月以内に出来る様にがんばりたいです。