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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第一章
6/55

Autumn perturbed Last episode


                5



 どこかのクラスが焼きそばでも焼いているらしい。風に乗って香ばしいソースの匂いが漂ってくる。廊下を埋め尽くす喧噪は普段のそれと似ているようでまったく違う。大抵、廊下に人があふれる時と言えば朝のHR前の時間か、授業が終わった直後だ。前者には逃げたくとも逃げられない気怠い憂鬱さと、申し訳程度の朝の空気のさわやかさがあり、後者はようやく面倒事が片づいたという開放感に満ちあふれている。しかし今日はどうだろうか。妙に浮ついていて、気分が落ち着かない。俺は理科の実験で見た、水と油の、異なる比重の液体の狭間に浮かぶ氷を思い浮かべていた。ちょうど今がそんな感じだ。日常と非日常の狭間で、どっちつかずの状態になっている。

 これが中学最後の学園祭だからだろうか。なんだか少し感傷的になっている気がする。そんなことを考えながらぼんやりと窓の外を眺めていた。

「それじゃあいこっか」遠慮がちな声で夏井が言った。開会式が終わり、教室に戻ってくるなり手鏡を取り出して髪型を直し始めた彼女を今の今まで待っていたのだ。

 教室の中をぐるりと見渡す。いつの間にか教室内の生徒は片手で数えられるほどになり、廊下から響いていた喧噪も嵐の後のように静かになっていた。すっかり俺達は取り残されていた。

 うなずいて俺は立ち上がる。

「ねえ、どこから行く?」

「さあ。どこでも、夏井が行きたいところでいいよ」

「もしかしてあんまり興味ない?」

「どうだろう。でも、付き合うっていったんだから、最後までそれは守るよ」

「じゃあさ、二年でお化け屋敷やってるところがあるらしいから、そこ行こうよ」

 言うなり俺の腕を掴んで夏井は歩き出す。引っ張られながら俺は教室を出た。

 いまにも鼻歌が聞こえてきそうなほど、夏井の横顔はご機嫌だ。それを間近で見ているのは、教室を出てからも彼女が手を解かなかったからだ。

 ただ並んで歩いているだけではなく、手を繋いでいる。そして夏井は上機嫌。先日さくらさんに相談した時の事が脳裏をよぎる。やっぱり夏井は俺のことが好きなんだろうか。

 ただ普通に考えてなんとも思っていない相手と、こういう日に手を繋いで歩こうなんて考えないだろう。これが女同士ならまた微妙に違ってくるだろうけど。

 そんなことを考えているうちにまず最初の目的地である、2年3組のお化け屋敷に到着する。

「ちょっと並んでるね」

 なかなかに盛況らしく、俺たちが到着した時点で5組ほど順番待ちをしていた。

「どうする?」俺は訊いた。

「まだまだ時間はあるし、並ぼうよ」

 並んでいる間も夏井は手を離さなかった。いよいよこれは周囲からカップルとして見られているんじゃないかと不安になってくる。

 一つ前のグループが中に入ってもうそろそろ俺たちも入れそうだ、というところでいままで聞こえていた喧噪のその性質が変わったような気がした。それまで好き勝手に煩くしていたのが、まるで一つの共通する何かに驚いている、そんな風に感じられた。

 気になって振り返ってみて、俺は自分の目を疑った。

 艶やかな着物姿の怜が居たからだ。

「どうしたの?」と夏井も振り返り、「は?」と明らかに怒気の混じった声を漏らした。直後に「なんで来てるのよ」、と呟いたのも聞き逃さなかったが聞いてない振りをした。

 それにしても綺麗だった。一見すれば派手な色合いともとれる鮮烈な赤い着物は、しかし彼女の長い黒髪との対比で、驚くほど清楚にそして上品に彼女を包み込んでいた。

 怜は周りの事などお構いなしに、きょろきょろと辺りを見回している。おそらく俺を探しているのだろう。

「次の方、どうぞ」と声が聞こえたのと同時に俺は腕を引っ張られてお化け屋敷の中に引きずり込まれた。

「セーフだね」戸が閉まるのを確認してから夏井が言った。薄明かりの中で、彼女の顔が、息が吹き掛かりそうなほど間近にあった。

「ああ」と俺は曖昧に頷いた。

「でもなんでだろうね。来れないって言ってたんでしょ?」

「そのはずだけど」

「それならそうと言えばいいのに。でも、一緒に回る約束したのは私だから」と夏井が腕を絡めてくる。「あんまり立ち止まってると迷惑だから、早くいこ?」

「その、夏井。近づきすぎじゃないか?」

「怖いの。私こういうの苦手だから」

「じゃあなんで真っ先に来たんだよ」

「そりゃあ、デートするってことになって、お化け屋敷があったら行くでしょ?」

「気持ちは分からないでもないけど、っていうかデートって」

「ほら、早く。あそこに井戸があるけどやっぱり出てくるのかな」

 ダンボールに絵を描いて作ったとおぼしき手作り感満載の井戸を指して夏井が言った。

「出てくるだろうなあ」

「番町と播州どっちだと思う?」

「お前本当はこういうのすごく好きだろ」

 そんなことないって、と言いながらさらに体を密着させてくる。肘のあたりに柔らかい物が当たっている。それもわざとそうやっていると言わんばかりにぐいぐい押しつけてくる。さくらさんも同じような事をやってくるので慣れているが、この薄暗い中でやられると思わず意識してしまう。でも駄目だ。俺には怜がいるんだし。気を強く持て。

 予想通り井戸からはうらめしや~とお岩さん的なメイクのお化けが出てきて、夏井がきゃーと言って抱きついて来た。そうくるだろうなあと思っていたので焦りはしなかったが、お化け役の生徒のうんざりした目を見て俺は思わず苦笑してしまった。視線が痛いので抱きついたままの夏井を引きずりながら奥へと歩いてく。

「宗平君は平気なの? こういうの」夏井はちょっと震えていた。もしかしたら本当に怖いのかもしれない。

「まあ慣れてる。怜がホラー映画とか好きでさ。小さい頃から付き合わされたから」

「ふうん。そうなんだ」そう呟いて彼女は考え込むように俯いた。表情が見えないけれど、きっと恐ろしい顔をしているに違いない。雰囲気でなんとなく判る。

 そのまま歩いていると急に夏井が「きゃっ」と悲鳴を上げた。「今なんか当たった!」涙目になりながら彼女は訴えてくる。

「ああ、それ保冷剤だ」

「へ?」

 天井を見上げると竿が見える。そこから垂れた糸の先には保冷剤のパックが着いていた。

「あー、びっくりした。急に冷たいのがおでこにぶつかったから。でもなんで私だけ」

「俺は避けたからな」

「酷いよぉ。そういうときはちゃんと教えてよ。ほんっとうにびっくりしたんだから」

「悪い悪い」

 赤くなりながら拗ねている夏井の姿がおかしくて思わず俺は笑ってしまう。

「ばか」

 夏井はぷい、とそっぽを向いてしまう。

「ほら、拗ねてないで、行くぞ」

 俺は夏井の手を取った。

「うん」

 急に静かになった。黙ったまま歩く夏井の表情を俺はまっすぐみれない。罪悪感の所為だろう。こんなことは今日限りにしよう。

 そんなことを考えてしまった所為だろうか、その後に出くわしたお化けや仕掛けをあまり素直に楽しむことが出来なかった。

 やがて俺たちは突き当たりに行き着いた。左手に延びる通路の先からわずかな光が漏れている。

「もう出口だね」

 ああ、とうなずきながら妙だな、と思う。なにもなさ過ぎる。なかなか凝った作りになっていたが、このまま終わったのでは片手落ちも良いところだ。

「あんがい怖くなかったね」と保冷剤にびびりまくっていたことなんて忘れたと言わんばかりに、夏井が虚勢を張る。

 そのときだった。

 ぎぃ、ぎぃ、と古い板戸が軋むような音が背後から聞こえてきた。振り返ってもそこにあるの合板で出来た、通路を仕切る壁だけだ。

 しかし音はそこから聞こえてくる。

「ねえ、三島君。早く行こうよ」

 夏井が怯えていた。震える手で俺の学ランの袖を掴む。

 音はだんだん近くなっている。この壁を隔てた向こう側に何者かが居るのだ。そこから飛び出して来て、最後に安心した客を驚かす仕掛けなのだろう。

 子供だましにしてはなかなか出来がいいじゃないか、などと上から目線で考えていると、不意に喉の奥から絞り出すような、苦しそうな息づかいが聞こえてきた。

 それは俺のすぐ耳元で発せられていた。なま暖かい息を頬に感じて、はっとして振り向いた瞬間、ぎょっとして言葉を失った。

 焼けただれたように溶け崩れた相貌の、左目は眼窩からこぼれ落ちていたが、視神経と血管によって繋ぎ止められゆらゆらと揺れている。残った右目は白く濁り、左下に引っ張られたようにひきつった唇からのぞく歯は黄色く、奥にのぞく舌は紫色に変色し、は虫類の様に先が二つに割れていた。

 中学生の出し物とは思えない迫真の特殊メイクに俺は圧倒され、悲鳴すら上げれず。思わずあとずさろうとしたが、夏井が俺の袖を握ったままへたりこんでしまった所為であまり距離はとれなかった。

「おい! 夏井」

「ごめん。腰、抜けちゃった」放心しながら夏井が答えた。

 さっき立っていた場所の真横の壁に隠し扉があったらしい、そこからのそのそとした動きでお化けが出てくる。

「いや、やだ。こないで」

 泣きそうな声で夏井が懇願する。お化け役の生徒も、夏井の怯えっぷりに乗ってきたのか、呻くような声を振り絞り、もったいぶるような動きで接近してくる。

「ほら、掴まれ」とっさに俺は夏井に背を向けてしゃがみ込んだ。

 夏井が後ろから抱きついて来た。「そのまま掴まってろよ」

 ちら、と背後を見ると律儀にお化けは待っていてくれた。夏井を背中に乗せて一気に立ち上がる。一瞬腰に走った痛みを無視して出口へ向かって歩を進める。

 お化けが喉をつぶしたような絶叫を上げて追いかけてくる。夏井がものすごい声で叫んだので、俺はとにかく早く出ようと残りの距離を一気に駆け抜けた。

 外に出た瞬間、廊下の明るさに目がくらみそうになった。

「お疲れさまでした」と待ち受けていた生徒に出迎えられて、ようやく俺はほっと息を吐いた。

「ほら、夏井。もう終わったぞ」

 背中にしがみついたままの夏井に声を掛ける。

「ほんとに?」

「嘘じゃないって」思わず苦笑してしまう。

「ごめん。まだ立てそうにない」恥ずかしそうに彼女は言う。

「じゃあ一端教室に戻るか?」

「うん。ごめんね。三島君」

「いや、別にいいよ」

 短く息をはいて、気合いを入れ直す。これくらいの距離なら大丈夫なはずだ。ちゃんと鍛えてるんだし。

 平気な風を装ってはみたが正直もう限界だった。その所為で階段へ向かおうと角を曲がったところで鉢合わせた誰かを避けきれずにぶつかってしまう。

「あ、すみません」と言おうとして俺は固まってしまった。またしても見知った顔と遭遇してしまったからだ。

「やっと見つけた」

 ぶつかった相手はさくらさんだった。怜とは違い、彼女は北高の制服を着ていた。

「どうしたの?」と背中で夏井が不思議そうに言う。

「ちょっと知り合いとであって」

「知り合い、っていう仲でもないでしょ? それより大丈夫なの? 宗平君」

 せっかく隠そうとしていたことをずばりと突いてくる。一瞬目つきが変わったので間違いなく狙ってやっている。

「あ、」と夏井が声を上げる。「ごめんなさい。三島君。すぐ降りるね」と背中で暴れ出したので、とうとう俺は我慢できなくなって、けれど崩れ落ちないように踏ん張りながら、夏井を下ろした。

「あ、あの。私シップもらってくるね」言うが早いか、夏井は階段を駆け下りていった。

 夏井の後ろ姿を見送ってから、俺は壁にもたれ掛かり、どすんと腰を下ろした。

「さくらさんも来てたんですね」

 さくらさんは答えずに、俺の隣に腰を下ろし、こちらの肩にもたれ掛かってきた。

「ここは静かね」

「まあこの辺りの教室は生徒の荷物置き場になってて、基本使われてないですか」とはいえ、他のクラスの出し物に興味がない連中や、そもそも学園祭自体どうでもいい連中が、どこのクラスにもいて、そいつらが屯しているのでまったく人がいないというわけでもない。当然この階段も人通りがずっとないなんてことはないだろう。

「さくらさん。こんなとこ見られたらどうするんですか」

「どうもしないわよ」しれっとした顔で彼女は言う。「そうね。私は宗平君の彼女だから、とでも答えようかしら」

「元、でしょ」

「私が人見知りなの、知ってるわよね」

「ええ」いきなり話題が変わって俺は身構えながらさくらさんの顔を見た。

「あなたを見つけるまでずっと心細かったんだから。余所から来た男の子にしつこく声かけられるし。いまくらい、くっついててもいいじゃない。元彼なんだから、それくらいのわがまま聞いてよ」

「夏井が戻ってくるまでですよ」

「いっそ見せびらかせてみようかしら。あの子でしょ? この前宗平君が言ってたのって」

「ええ」

「この目で見て確信したけど、彼女、間違いなく宗平君のことが好きよ。だって私と同じ目をしていたもの」

「やっぱりですか」

「罪な人ね。宗平君は。婚約者がいる癖に、私をこんなにして、おまけにかわいい同級生まで夢中にさせて」

「そう言われるととんでもないロクデナシみたいですね」

「間違ってないと思うわよ。私は、でもだから嫌いになれないし、あの頃をまだ思い出にできないのかもしれないわね。宗平君はちゃんと出来てる?」

「正直言うと微妙ですね。そういえば俺たちってはっきりと言葉で伝えて別れた訳じゃないですし。自然消滅っていうのともなんか違うし」

「それ、二股っていうんじゃないかしら」言ってさくらさんはくすくす笑った。

「あの、笑い事じゃないですよ」

「ごめんなさい。宗平君に浮気された、って考えてみたら割としっくりくるなあ、って思って」

 さくらさんが立ち上がった。

「たぶんあなたは怜と二人で居るときが一番自然なんだと思う」そう言って、つま先でくるりとターン。くせっ毛な髪がふわりとなびき、細い肩に柔らかく降りかかる。こちらに背を向けて彼女は言葉を接ぐ。「宗平君。私はね、まだあなたのことが好きなの。あのころと変わらず。いつまでもこのままじゃいけないのは判ってる。でも自分で決心が出来ないから、だから、待ってるわ。あなたが私を切り捨てる日を。そのときが来たら、私はちゃんと受け入れるから。だから、それまでは、今みたいな関係でいさせてちょうだい」

「俺次第という訳ですか」

「そういうこと。けど、もし私が一番だっていうなら、それも受け入れてあげるから」

「怜と相談してみます」俺は苦笑して答えた。

 そのとき、足音が階下から響いて来た。

「それじゃあ、私はもう行くわ」背を向けたまま彼女は言った。

「もうですか?」

「宗平君の顔を見に来ただけだから。それに楽しみは取っておかないと。来てくれるんでしょ? うちの学園祭」

「そのつもりです」

「もし怜と回ってて、それでも時間が余ったら私の事も構って欲しい。待ってるから」

 どう答えたら良いものか。迷っているうちにさくらさんは階段を降りていく。何か一言言葉を掛けるべきなんじゃないだろうか。しかし何も言葉は出て来ない。迷っているうちに彼女の姿は見えなくなり、入れ違いに、夏井が駆け上がってきた。

「あれ? さっきの人は?」息を切らせながら彼女は訊ねてきた。

「さっきすれ違っただろ。気づかなかったのか」

「あ、そっか。もうどっか行っちゃったんだ。なんか誰かに似てる気がしたから、聞いてみようと思ってたんだけどなあ」

「気のせいだろ」夏井がさくらさんの本を愛読しているのを知っていたので、本当の事を教えてやろうかと思ったが、そのことを口にする気にはなれなかった。

「三島君。とりあえずこれ、もらってきたよ」手に持っていたナイロン袋からシップを二枚取り出し、ぴらぴらと見せつけた。「私が貼ってあげるから、上脱いで」

「夏井、とりあえず教室に戻ろう。流石にここじゃ恥ずかしい」

「いいじゃんどうせ人こないし」

「いや、そういう問題じゃないだろ」

「んー、じゃあ行こっか。あ、階段大丈夫?」

「ちょっと休んだお陰で、マシにはなってるから大丈夫」

 ちょうどみんな出払っている様で教室には誰も居なかった。俺は自分の席に腰を下ろし大きく息を吐いた。

「ごめんね。私の所為で」

「俺がやろうと思ってやったことだし。別にいいよ」学ランのボタンをはずしながら俺は言う。脱いだ学ランを無造作に丸めて机に置き、カッターシャツも脱ぎ、後はTシャツを脱ぐだけ、というところで「待った」と夏井が言った。

「どうしたんだ?」

 振り向きざまに見た夏井の顔は、まるで夕陽に照らされているみたいに真っ赤だった。

「こ、心の準備が」

「なんの準備だよ」

「ちょっと深呼吸させて」こっちに背を向けると、何度か肩を大きく上下させた。それから彼女はこちらを振り向き「いいよ」と言った。

 俺はTシャツを脱いだ。

 ひやりとした感触が背中に触れた。シップの冷たさではない。夏井の手のひらが、軽く押し当てられていた。

「大きいね。三島君の背中」

 背中に触れていた手のひらの感触が消えた。そして躊躇うような間の後に、彼女が背中に抱きついて来た。

「おい、夏井」俺はあわてて言った。

「香奈って呼んで」

「急にどうしたんだよ」

 彼女のひたむきな声に俺は焦っていた。

「さっきの人と仲良いんでしょ?」

 階段を上がってきたタイミングから考えて、さくらさんと身を寄せ合っていた所を見られていたはずがない。女の勘とかいう奴なのだろうか。

「あの人も、三島君のこと好きだと思うよ。だって私がおんぶされてるの見て、すごく怖い目でやきもちやいてたから。ふふ、あの人にこんなところ見られたらどうなっちゃうのかな」

「きっと恐ろしいことになるでしょうね」

 その声は教室の、戸口の方から響いた。

 俺は戦慄した。すぐに声の主を見ることが出来なかった。正直さくらさんにこの場面でかち合ったとしてもそれは大したことではない。あくまで彼女は別れた、昔の恋人なのだ。だがしかし、この聞き馴染みのある声は間違いなく怜の物であり、つまりこんな場面で遭遇したらどうなるか、想像しうる中で最も恐ろしい人物なのだ。

「おはようございます。三島君のお姉さん」抱きついたまま夏井が言った。明らかに挑発しているとしか思えない口調だったので、俺はもう駄目だとあきらめて怜の方を見た。

 般若というのは嫉妬や恨みに狂った女の顔を現した物だと言う。燃えさかる情念の炎の中に浮かび上がる凄絶なる鬼面だ。怜の表情はどちらかというとうっすらと、一見すれば友好的ともとれる笑みを浮かべていた。だが表情筋が作り出した造形通りに受け取ることはできなかった。彼女の目の中では、嫉妬と怒りが綯い交ぜになり燃え上がった炎が、いままさに吹きださんと黒煙を上げながら燃えさかっていた。そこに見えるはまさしく情念の鬼と化した般若の姿であった。

「そうちゃんが困ってるじゃない。早く離れなさい」

 すべての矛先は俺ではなく夏井に向いていた。ぞっとするような冷たい声で言い放ち、氷の微笑を浮かべた。

「それはお姉さんがいきなり現れたからなんじゃないんですか」

 気圧されているのか、夏井の声がわずかに震え、うわずっていた。抱きつく腕は助けをすがるが如、強く巻き付き俺を離さない。

 怜はなにか言いたげにこちらを見てから敷居を跨いだ。

 スリッパの底が床を擦る音がひとときの静寂が張りつめた教室内に響く。

「その子と一緒に回る約束してたの?」目の前までやってきて怜が訊ねた。

「その通りです。だから私は今日は三島君と一日ずっと一緒なんです」

「ごめんなさい。あなたには訊いてないの」冷笑一つで夏井を黙らせた怜は、そのままの目で俺を見た。

「まあその。はい」嘘を吐いたところでたぶんすぐに見破られるので俺は正直に答えた。

「どっちから誘ったの?」

 正直に夏井から誘われたと答えようとして、ふと考え直して「それは」と言葉を濁した。流石にこのままだと大事になりそうだったので、ひとまず彼女をかばおうと思ったのだ。

 だが、「ええ、私から誘ったんです」と勝ち誇ったように言う夏井に思惑は台無しにされてしまった。なにやってんだお前は。

「そう。とりあえずそうちゃんから離れてちょうだい」

「嫌って言ったらどうします?」

「言えないわよ。だってそうちゃん寒そうだもの。今の季節、夏じゃあるまいし、流石に上半身裸で過ごせるほど暖かくないわ。そうでしょ?」

 俺は無言でうなずいた。こればっかりは仕方ない。夏井の善意は嬉しいが、正直寒かった。

「あ、ごめん。三島君」

「とりあえずシップだけ貼ってくれ」

「うん」

 夏井がシップを貼っている間だ、怜は右手の人差し指と親指の爪を擦り合わせてカチカチ音を鳴らしていた。彼女が相当苛立っている証拠だった。

「よし。これでオッケーだよ」

「おう。ありがとう」答えて脱いであったTシャツに手を伸ばす。俺が服を着ている間もずっとカチカチと音は聞こえていた。

「そういえばよくここが判りましたね」と夏井。

「ここの卒業生だもの。どの辺の教室が控え室になってるか知らないわけないでしょ?」

「でもどうしてここにいるって判ったんですか?」

「そうちゃんのことで判らない事なんてあるわけないもの」

「なんですかそれ。答えになってません」

「そんなことより、私からも質問させてもらうけど。あなた、何様のつもり? 所詮ただのお友達なんだから、立場をわきまえてもらわないと。私も、そうちゃんも困ってしまうわ。そうでしょ?」

「そういうお姉さんこそ。まるで恋人みたいな言い草ですね。ちょっとおかしいんじゃないですか?」

 両者とも、完全にエンジンがかかっている。このままじゃ埒があかない。それどころか放っておいたらキャットファイトに発展する可能性すらある。なんとか止めなくては。

「二人とも、ちょっと落ち着こう。な?」

「三島君はさ、どっちの味方なの? 当然私だよね」同意より、本心では助けを求めているような、気丈さの裏におびえが見え隠れしていた。

「寝言は寝てるときに言ってちょうだい。ね? そうちゃん?」対して怜は余裕があった。当然のことを要求し、当たり前の答えが返ってくる。その確信に満ちていた。

 薮をつついて蛇を出してしまった。

 二人の間に板挟みになり、もう逃げ場はない。

 好転するどころか最悪の状況に追い込まれてしまっていた。

 ここはどう考えても婚約者であり恋人である怜の味方をするのが筋だ。腹をくくれ。

「夏井。いいか。落ち着いて聞いてくれ」相手に話をするときは目を見ることが大事だ。それが一度聞いただけでは信じ難い事実ならば余計にだ。俺は目を見開いて、まっすぐに夏井の目を見つめた。「まず一つ。俺と怜は血が繋がった姉弟じゃないんだ」

 予想に反し夏井は驚いた様子もなく、まるで最初から知っていたとでも言いたげな目で「そうなんだ」と抑揚のない声で言った。

 違和感を覚えながらも俺は言葉を接いだ。

「そしてこれが一番重要なことなんだけど。俺と怜は恋人同士で、婚約もしているんだ」

 夏井はなにも言いはしなかった。なにか考えがあって黙っている訳ではないことはその表情を見れば一目瞭然だった。それまでのすべてを承知しているという表情から一転、まるで幼児が未知の現象に遭遇したかのような呆けた顔で俺を見ていた。やがて半開きの唇からは言葉の代わりに乾いた笑い声が漏れてきた。それは次第に大きくなっていった。今度は俺が呆ける番だった。一体どうしたと言うんだ。狂ったように笑い続ける夏井に俺は少し恐怖していた。

「おい、夏井」

 呼びかけると笑いは止まった。ゆっくりとクビを動かし彼女は俺を見た。

「ねえ、三島君。私の事、好きって言ってよ」

 目が据わっている。つばを飲み込もうとして口の中がからからに乾いていることに気が付いた。いつの間にか握りしめていた拳の中も手汗でべったりと濡れていた。

「私がいままでしてきたことってなんだったの? 私の気持ちは一体、どこにぶつければいいの?」

 その問いかけに答える為の言葉を俺は持って居なかった。

「私は三島君が好き。大好き。初めて会った時から今日までもう何年も、ずっとずっと。本当は今日、あなたに告白しようと思ってたの。どこか人気のない場所で。好きです、つきあってくださいって。でも、なによこれ。訳わかんない。ねえ、どういうことなの? ねえってば!」

 思いの丈を絞り出した悲痛な叫びは当て所を見失い窓から吹き込む風に流されてゆく。残った嘆きは嗚咽となり、それは冬近い末枯れた木から舞い落ちる枯れ葉の様に静寂の中に滞留していく。

 掛ける言葉はなんなのか、そんなものがあるのだろうか。崩れ落ち、床に手を着き啜り泣く彼女の姿を見ていることしか出来ない自分に酷く腹が立った。しかし同時に、いまの夏井のために何か行動を起こすことが怜に対する新たな裏切りになるのではないか、そう怯える自分が情けなく思えた。

 あれだけ夏井が大声を出したけれど、いまだこの教室にいるのは俺たち三人だけで、廊下を歩く陰すら見えない。大事になる前になんとかしなければならない。

「そうちゃん」

 怜がこっちを見ていた。なにも手を出すなとその目は語っていた。俺は頷き、事の次第を見守った。

 怜は楚々と歩みを進め、夏井のそばにしゃがみ込んだ。そして耳元でなにかささやいたように見えた。そのとき、夏井が顔を上げ、怜を突き飛ばした。

 小さな悲鳴を上げて、床に転がった怜のそばに俺はすぐに駆けつけた。

「大丈夫か?」

「うん。平気」

 怜を抱き起こし、夏井と向き合う。いつの間にか立っていた彼女のその目にはなんとも形容し難い光がぎらぎらと宿っていた。それに気が付いた途端に、今し方口にしようとしていたはずの抗議の言葉は飲み込んだつばと共に腹の底へと沈んでいった。

「私は認めないから」それほど大きな声だったわけじゃない。むしろ囁いた程度だったはずだ。けれど何故かはっきりとその言葉を聞き取ることが出来た。

 夏井の視線の先に俺は居なかった。ただ一点、怜をにらみつけていた。

「あなたみたいな人が三島君の恋人だなんて、私は絶対に認めないから」

 ふらふらとした足取りで戸口へ歩いてく夏井の後ろ姿を、俺は呆然と見守っていた。彼女は振り返らず、差し込む光の、逆光の中へと消えていった。

 あそこで彼女を呼び止めるべきだったんじゃないのか。あのまま行かせて良かったのか。急にこみ上げてきた思いに突き動かされるように、彼女の後を追おうとした。まだ間に合うかもしれない。そう思ったからだ。

 けれどそうしなかったのは隣に怜が居たからだった。彼女は俺の腕を掴み、そうさせまいと、強い意志のこもった目で訴えかけていた。

「大丈夫」その声は不思議なほど確信に満ちていた。「あの子はさくらみたいにはならないから」

 その一言で俺がなにを危惧していたのか、ようやく理解した。

 脳裏に深く刻まれた、さくらさんのリストカットの記憶が無意識に俺の体を乗っ取り、居ても立っても居られないほどの不安と、罪悪感を呼び起こさせたのだ。

 ただ、それだけではないことも判っている。途中からは夏井の好意に気が付きながら、それをなあなあにして受け流していた、その事実もまた罪悪感を煽り立てる要因の一つであったことは間違いない。けれど、不意に浮かんで来た喪失への恐怖はまさしくさくらさんが植え付けた物に相違なかった。

 あるいはそれは怜も同じなのかもしれない。だから彼女はさくらさんを引き合いに出したのだ。さくらさんが手首を切るに至った直接の原因を作ったのはほかの誰でもない自分だと思っている分、きっと俺よりもさらに重たい物を背負っているに違いない。

 これはもはや呪いだ。

 俺も怜も、きっと一生さくらさんの記憶に、例えそれが薄れるようなことがあっても、どこかで支配され続けるのだろう。現実には怜の親友である以上、さくらさんの存在が希薄になることなどあり得ない。だからそれは大樹を締め付ける強靱な蔦のように、俺たちを縛りつけるだろう。

 こんなことになると考えて手首を切った訳ではないだろう。やましいことがあるから、俺たちが勝手に縛られているだけだ。それでも何か不気味な、空恐ろしいものを感じずには居られなかった。

「そうちゃん。昔の事ってどれくらい覚えてる?」不意に怜が言った。

「昔ってどの昔だよ」

「幼稚園に通ってたくらいの頃」

「さあ。どうだろう。思いだそうと思えば思い出せそうだけど、判んないな」

「ならいいの」

 一体どういう意図があってそんなことを聞くのだろうか。その横顔に問いかけようと思ったが、慌てた様子で「ほら、行こ?」と急かされて機を逸してしまう。まるでそうされることが不都合であるかのような慌て様に違和感を覚えたが、怜のことだから、単に一緒に回れる時間が減ることを危惧しただけかもしれない。だから深く考えないようにして、これからどこを回ろうかと思いを巡らせた。

 先ほどのことがあったせいか怜はいつも以上に積極的だった。周囲の目など知ったことではないとばかりに抱きつき、腕を絡ませ、どさくさ紛れにキスをし、それはまるで周囲に俺が自分のモノであることを強調しているようにさえ思えた。ただ、うちの事情を知らない相手には怜は普通に姉だと説明していたので、後々どう釈明するかを考えると若干気が滅入ったが、それで嘆息する暇もなく引っ張り回されたので時間はあっという間に過ぎて行ってしまった。 


                6


 教室に生徒が集まってくる。集合時間にはまだ少し早いがざっと見た所、すでに殆どのクラスメイトが戻ってきている。

 無意識のうちに俺は夏井の姿を探していた。あのことが心に強くひっかかっていたからだ。おかげで怜と一緒に回った中学最後の学園祭もなんだか上の空でここまで来てしまった。

「三島君。ちょっといい?」

 背後で控えめな声が聞こえて振り返ると、井上奈々子が俺を見下ろしていた。女性にして、なんてレベルじゃないくらいに背が高いので必然的にそうなるのだ。口数が少ない割に妙にどっしりとした物腰も相まって、こう言っては失礼かもしれないが、変に迫力がある。

「どうかしたの?」俺は訊ねた。

 井上は頷き、教室の中で一番人気のない一角を見た。そっちに移動しようということだろう。

 そこは掃除道具入れのロッカーが置いてある、日当たりの悪い角っこだった。

「香奈のことなんだけど。何かあったの?」

 井上は、夏井とは小学校一年の頃からのつきあいで、いわゆる幼なじみという奴だ。普段から仲がよくていつも一緒に行動している。おそらく俺たちと別れた後、夏井は彼女と一緒だったのだろう。

 答えに窮する俺の目を彼女は黙って見詰めていた。とてもじゃないが、何もなかったなんて嘘を吐いて納得してくれそうもない。彼女は夏井の親友だ。きっと告白するつもりだったことも知っていたに違いない。

 だがしかしあの状況を、そして顛末をどう説明したらいいものか。考え込みながら、逸らした視線の先に時計が見えた。

「答える前に、一つ訊いていいか?」

 ふと思い立って俺はそう切り出した。集合時間までもう5分ほどになっていた。時間になれば先生もやってきて、合唱の練習が始まるはずだ。とにかくいまはごまかそう。

「香奈のこと?」井上はまだ時間が迫っていることに気が付いていない様だ。

「ああ、その、どんな様子だったか気になって」

「判らない」

「一緒に居たんじゃないのか?」

「居たけど、あんな香奈を初めて見たから。最初は駄目だったのかと思ったけど、でも何か嬉しそうにも見えるし。本人に訊いてみても笑って誤魔化すばっかりで」

 普段あまり喜怒哀楽を多く見せない彼女が、いまははっきりと困惑の表情を浮かべていた。

 戸惑っているのは俺も同じだ。あの行動だけでも訳が分からないというのに、その後のこともいまいち解せない。一体夏井は何がしたいんだ。

 怜に向かって啖呵を切った、その言葉通りまだ諦めていない、それどころか怜から俺を奪おうと本気で考えているのかもしれない。

「そういえば夏井は?」俺は訊ねた。

「お手洗い」井上が答えた。

 なるほど。本人が居なくなったのを見計らって俺に声を掛けたらしい。俺は時計をみる。時間までもう二分もない。もうそろそろ夏井が戻ってくるかもしれない。先生が来るまでもなく、時間稼ぎは成功しそうだ。

「それで、三島君」井上はそこまで言って言葉を切った。目が俺よりもずっと後ろを見ている。夏井が戻ってきたのだ。振り返ると、戸口から入ってすぐの場所で立ち止まり、こちらを見ていた夏井と目があった。彼女はにこりと笑むと、まっすぐこちらに歩いてきた。

「どうしたの、二人で何か内緒話?」

「流石に本番が近づいてくると緊張するなあ、って話してたんだ」

 俺が誤魔化したのに合わせて井上が「香奈は平気なの?」と訊ねた。

「まあ私は慣れてるから」自慢げに彼女は言った。吹奏楽部で舞台に立つのに慣れているのだから当然といえばそうか。

 納得していると先生がやってきた。それからすぐに全員揃っているか点呼があり、やがて合唱の練習が始まった。

 正直言うとあまりこの後の事は頭にはなかった。先ほどの夏井の様子が気になって仕方なかったからだ。こちらに近づいて来た時の彼女の表情が、井上に向けられたその目が、まるで親友を見るのにふさわしくない敵意に溢れていたように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。普段から彼女の事を間近で見ていなければ判らないような表情の変化だったが、井上があの時少したじろいだかに見えたので間違いないと思う。

 そもそもあんな事があった後にあそこまで何もなかったように振る舞えるだろうか。表情の僅かな違いを除けば、不自然なほど彼女はいつも通りだった。まるで何もなかった。いや、なかったことにしようとしているかのごとく。気を使って、あるいは強がりでそう努めているのならまだいいが、どうもそんな様子ではない。

 上の空のまま最後の練習を終え、あとは体育館に移動するだけとなった。

「私もちょっと緊張してきたかも」近くにやってきて夏井が言う。無遠慮なほど至近距離に彼女の顔がある。一見無邪気なその裏に一体何を隠しているのか。とぐろを巻く毒蛇のような情念か、煤煙を上げ燃えさかる嫉妬の火焔か。

 彼女が俺の手を取る。「行こう」と言い、微笑む。恐ろしく、同時に美しい。それは妖艶な笑みだった。また一つ逃れ難い蜘蛛の糸に絡め捕られてしまった様だ。ただ一つの救いは怜が居てくれること。そのためにこの状況を脱しなければならない。何がなんでもだ。そう残酷にならなければならないのだ。

 けれど俺は手を引かれるまま、彼女に導かれてしまう。彼女の手を振り払う勇気がこの瞬間にはまだなかったのだ。

 悔やむとも恨むとも。どうしようもない自分にあきれ果てることすら過ぎ、ただ気だるい諦観の中で、彼女の小さな手の、有無をいわさぬ存在感に、平伏するほかなかった。



                  了

なんとか今週も更新出来ました。

今回でこのエピソードは完結です。

が、当然のことながらまだまだお話は続きますのでこれからも宜しくお願いします。次回更新は未定ですが、もしかしたら来週も何か更新しているかもしれないです。

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