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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第一章
4/55

Autumn perturbed scene 2

     3


「え?」と夏井が素っ頓狂な声を上げた。

 昼休み、給食を食べ終えてくつろいでいたところに昨日の誘いに対する答えを返したのだ。怜が来れなくなったから夏井と一緒に回る、と。

 恐らく断られると思っていたのだろう。彼女は最初、俺の答えを信じられなかったらしい。しばらくの間呆けた顔で固まってしまっていた。

「ほんとに?」目をぱちくりさせながら俺に詰め寄ってくる。

「お、おう。嘘ではないぞ」

「どうして?」

「いや、だからさっき話した通り怜が用事で来れないみたいだから」

「ねえ、夢じゃないよね」

「試してみるか?」

 真剣な顔で夏井がうなづいたので俺は遠慮なく彼女の頬を抓ってやった。

「痛い痛い。痛いってば!」

 嬉しそうにそう言って俺の手を振り払う。そして痛みを確認するように自分で頬を抓っては、うんうん、と頷いている。なんとも珍妙な光景である。

「まーたいちゃついてんのかおまえらは」国彦がやってきた。

「なにをどう見たらそう見えるんだよ」俺はため息を吐いた。「夏井がおかしくなっただけだ」

「別に私はふつうだよ」いつの間にか正気に戻った夏井が反論する。

「どこの世界にほっぺた抓られて喜ぶ普通の人間がいるんだよ」

「普通の人でもそういう気分の時がたまにはあるかもしれないじゃない」

「そんな気分になる時点で普通じゃねえから」

「そんなの判らないでしょ?」

 お互いムキになって見つめ合っていると見かねた国彦が「そこまでっ」と間に割って入ってきた。

「仲がいいのは判ったから、おまえら落ち着け。見ててムカつくから」

「どういう理屈だよそれ」

「喧嘩するほどなんとやら」眉間にしわを寄せながら徳の高いお経でもを唱えるように中途半端に諺を口にした。

「べ、別に私と三島君はそんなに仲良くないもん。ね?」

「そんなに慌てて否定しなくちゃならないことか? 変な奴だな」

 少なくとも友人同士なのは間違いないし。

「うーん。それもそうよね。三島君と私は、その、仲良し。うん。仲良し。あ、ちょっと待って」と夏井はこちらに背を向けてしまった。

「どうしたんだ?」

 背中に問いかけるが答えは返ってこない。もう一度訊ねようとして、国彦がにやにや笑って居るのに気が付いた。

「なんだよ」

「お前それわざとやってんのか?」

「なにを」

「判ってないならいいけど、あんまりあれだと酷いことになるかもよ」

 判然としないことを言って国彦が教室から出ていく。多分これから二年の彼女に会いに行くのだろう。

「なあ、どうしたんだ?」

 まだ夏井は背中を向けたままだ。

「ねえ三島君」こちらを向かないまま彼女は言った。「せっかくだから今日三島君家に行っていい?」

 何がせっかくなのか判らなかったが、特に断る理由もないので「別に良いけど」と答えた。

「料理出来るでしょ、三島君って」

「一通りは」

「お菓子もいける?」

「材料さえあれば」

 三島が振り向いた。頬が紅潮している。童顔な彼女が頬を染めているとなんだかリンゴみたいだ。

「じゃあ私に教えてくれない? お菓子の作り方」

「いいけど、どうして」

「それは、内緒」そう言って、ぷい、と目をそらす。

「まあいいけど。で、何の作り方を教えればいい?」

「無難にクッキーとか。いきなり難しいのに挑戦しても覚えられないだろうし」

 はて、材料はあっただろうか。卵や牛乳はまだ大丈夫だ。薄力粉があんまりなかった気がする。バニラエッセンスやグラニュー糖も怪しい。夕飯の材料を買うついでに一式揃えてしまおう。

「夏井、帰りにスーパー寄るけど、いいか?」

「え、うん。全然大丈夫」



 うちの学校の学園祭では、三年生は基本的に合唱を行うことになっている。文化祭も兼ねていることもあるし、高校受験を控えているから凝った出し物をやろうとして勉強時間が削られないように、という学校の方針もある様だ。

 練習は放課後に一時間ちょっとやる程度でおしまいだ。もちろん熱心に残って練習しているクラスメイトも居るにはいるが、そもそもこの時期になると日が短いせいで下校時刻が早まるのであまり練習時間は取れていない。まとまった練習時間が取れるときと言えば、最後の6限目にHRがある火曜と金曜だけだ。

 惰性でこの場に残っているような気怠い空気がいつもこの時間の教室に立ちこめていた。そしてそれは酷く感傷的な物に思えた。去年までのギャップの所為で自分たちがどういう立場に置かれているのか嫌と言うほど思い知らされて、高校受験がまだどこか現実味のなかった頃を懐かしんでいるのかもしれない。

 あるいは俺のように数ヶ月前の出来事に思いを馳せているのだろうか。



 今年の夏、俺たち野球部は全国大会に駒を進めることが出来た。エース江島を筆頭に三年連中がとにかく活躍し、破竹の連勝を重ねていったのだ。俺はそれをマネージャとして支えた。プレー出来なくなってもチームに貢献できることはいくらでもある。全国大会では一回戦では勝てたが、二回戦で敗退した。九回裏、連投の疲れから制球を乱した江島がヒットと連続四球で二死満塁とし絶体絶命のピンチを招いた。対する相手の六番打者はその試合一本もヒットがないどころか江島の球にバットにかすることさえ出来ていない謂わば"安牌"だった。このまま延長戦に入るのだろう。誰もがそう思っていた筈だ。しかし江島が投げたアウトコースの少し高めに浮いた直球をそのバッターは真芯で捉え、思いっきり叩き付けた。三塁線際に転がった打球は、前進守備のサードの頭を越えようかという高いバウンドになった。あれが越えてしまったらそこで試合が終わってしまう。俺はベンチの中からありったけの声でサードを守っていた国彦の名前を叫んだ。その瞬間、国彦が宙に舞った。精一杯腕を伸ばし差しだしたグラブの中に白球は吸い込まれて行った。「バックホーム!」という声が一斉に響いた。三塁ランナーのスタートが遅かった所為でまだどうにかなりそうなタイミングだった。着地するや否や強引に体を捻って国彦はホームへ返球した。キャッチャーの公彦はでかい図体を生かしてホームベースに立ちはだかる壁になった。そこに三塁ランナーが突っ込んでくる。それより少し早いかどうかというタイミングでボールが返ってくる。クロスプレーになった。しばらく間があったあと、審判の右腕が高く掲げられた。アウト。その瞬間、グランドに居たナイン全員が崩れ落ちた。それはベンチの中も同じだった。

 そうして俺達の夏は終わった。


 

「三島君、かえろ?」

 呼ばれて振り返る。夏井だった。スクールバッグを肩にかけて、もう下校準備は万端だった。

「どうしたの? ぼーっとして」

「最近はずいぶんと時間が流れるのが早いなあと」

「なにそれ。おじいちゃんみたい」ぷぷぷと夏井が笑う。

「ああ、やっぱりそうみえるか」

「本当にどうしたの?」心配そうにこちらの顔をのぞき込んでくる。

「なんでもないよ。ただなんというか、数ヶ月前が嘘の様だって思えて。あれが本当に数ヶ月、いや2、3ヶ月前のことだったのか信じられなくて」

「燃え尽きたんだね。それ、私もだよ。夏のコンクールで県大会まで行けて、まあ最終的にはダメ金でそれより先に行けなかったんだけど、で、いざ部活を引退してみるとなんにもやることがなくって」

「そういえば、吹奏楽部は学園祭のオープニングで演奏するんじゃなかったっけ?」

「三年生は自由参加。あれってうちじゃあ基本的に新体制のお披露目会みたいなものだから。定期演奏会も五月にやっちゃってるし」

「意外だな」

「まあ私はあんまり成績良くないから、すぱっと諦めて勉強してないと北高受からないもん。それに別にこれが最後って訳でもないんだし。高校でも続けられるから」

 そこで夏井の表情が固まった。言ってはいけないことを言ってしまった、と急に狼狽えだした目が語っていた。

「まあお前だから言っておくけどさ、正直そう言う風に気を使われると逆に居心地悪いから、遠慮しなくてもいいぞ。第一、そういうの、いまさらだろ?」

「ごめん」

「ほら、そんなことより早く行こうぜ」俺はさっさと廊下へ向かって歩き出す。

「あ、ちょっと待ってよ」

 足音がすぐに追いかけてくる。教室を出たところで夏井が隣に並んだ。

「置いてくなんて酷いよ」

 そう言ってぶすっとした顔になったが、すぐに表情を和らげ、「なんかこうして帰るのって久し振りな気がするね」

「そうか?」

「だって三島君、いっつも公彦君とかと一緒じゃない」

「そう言われてみればそうだなあ」

 そもそもあいつとは小さい頃から一緒に居ることが多かったのであまりそう言う意識をしていなかったが、改めて考えて見ると確かにそうだ。

「まああいつは幼なじみだからな」

「そう、だよね」

「なんだよ急に俯いて」

「別に、大したことじゃないよ。ただ、ちょっと寂しいなって」

「なんだよそれ」俺は笑った。

「だって私は小学校の頃の三島君を知らないし」

「そりゃそうだろ」

「うん。そうだよね」

 そう言って彼女は妙に熱っぽい目で俺を見つめた。

「それなら、私はもっと三島君のことが知りたい」

 一瞬周りが静かになったような気がした。彼女のその言葉一つで、それまで喧噪に包まれていた廊下の空気が、凍り付いたように音が死に、時間がどうしようもないくらいに長く引き延ばされて。

「えっと、それは、どういう?」

 やっとの思いで俺はそう言った。

 はっとした表情を浮かべ夏井は、「あ、今のはその、忘れて!」

 そして彼女は駆けだした。その背中を追うべきかどうかしばらく迷っていたが、周囲の視線に耐えきれず俺は彼女を追いかけた。

 意外にも彼女は下駄箱のところで俺を待ってくれていた。

「さっきはごめん」

 真顔で謝る彼女に、俺は「別にいいよ」となんでもない風を装って言い、下駄箱から靴を取り出した。

 靴をはきかえ一緒に校舎を出る。

 黙って隣を歩く彼女は何か考え込んでいる様子で、前庭と校庭の間にある段差に気づかず足を踏みだそうとして、間一髪彼女の腕を掴んで事なきを得た。

「あ、」と彼女は掴まれた腕を見つめ、「ごめん。ありがと」とこちらを見上げた。

「ちゃんと前見て歩かないと。こけて頭でも打って見ろ、ヤバイ成績がさらに目も当てられないことになるぞ」

 強い信頼を感じさせる彼女の目に、俺は照れくさくなってそんな憎まれ口を叩いた。

「三島君ってさ、時々酷いこと言うよね」

 不機嫌そうに言って夏井は、地面に転がっていたドングリをつま先で蹴った。どこまで転がっていくのだろうと目で追っていると急に腕を引っ張られて危うく転びそうになった。

「ほら、ぼーっと立ってないで。早く」

 夏井に腕を引っ張られなながら早足で校門からでる。

 しばらく行った所で彼女が手を離した。それからくるりと振り返って、「また噂になるかな」と言った。その顔がなぜか少し嬉しそうに見えたのは、気のせいだったろうか。

「そんな心配今更だろ」俺はため息を吐いた。

「それもそっか。きっとみんなの中では私たちはカップルってことになってるかもね」

「それはぞっとしない話だな」

「なんでよ」

「夏井ってモテるだろ?」

「まあそれなりに」ここで否定せずにあっさり認めてしまうのが彼女のある種の美点でもある。「ついこないだも一人フったし」

「もし俺がお前と付き合ってる、なんてことになったら周囲からの嫉妬がとんでもないことになりそうだし」

 それにそんな噂が何かの間違いで怜の耳に入ったらそれこそどうなるか。

「三島君って意外とヘタレ?」

「かもな」

「否定してよそこは。かっこわるい」

「いいんだよ」

「よくない。三島君はかっこよくないと」

「なあ夏井。そういう態度が誤解を生む理由だって判ってるか?」

「私の誘いにホイホイ乗ってくる三島君が言えたことじゃないでしょ、それ」

 夏井の歩幅が少し大きくなる。不機嫌になっている、と判るのは三年間の腐れ縁のお陰だろうか。俺も歩調を早めて置いて行かれないようにする。

 それからスーパーに着くまで彼女は一言も話さなかった。

 いつまで黙っているつもりなのだろうか。わかりやすいくらい不機嫌な顔で、意地でも口を利いてやらないという雰囲気が伝わってくる。そっちがその気なら、と俺も相手が折れるまで黙ることを決めて、買い物かごを手に取った。

 結局買い物中も彼女は一言も言葉を発しなかった。流石に不安になってきて、それとなく彼女の表情を伺うと、不機嫌とは違う、何か気むずかしそうな顔になっていた。また考え事をしている様だった。

 スーパーを出るとしばらく公孫樹並木が続く。地面いっぱいに散った黄色い扇形の葉っぱを踏みながら、ぎんなんの、あの独特の酸っぱい匂いを胸に吸い込むと、もう秋も盛りを過ぎ、冬に近づき始めていることを実感して、少し人恋しい気分になる。

「寒いね」

 久々に夏井が口を利いた。そして買い物袋を持つ俺の手に、遠慮がちに手を重ねてきた。

「流石にこの時間になると冷えてくるな」気づかない振りをして俺は言った。

「うん」

 そう頷いたっきり、彼女はまた黙り込んだ。

 家にかえってまず確認したことは、怜の靴があるかどうかだった。土間にはまだ彼女のローファーはなかった。母さんの靴もない。ただ仕事用の靴は残されていたので恐らく何かの用事か買い物かで、出かけているだけだろう。

「お姉さんいないんだ」俺の後ろで夏井が言った。「もしかして二人っきり?」

「まあそうなるな」

「ふふっ。思春期の男女が誰もいない家の中で二人っきり。これは」

「何も起こらないぞ」

「そうはっきり断言されると少し傷つくなあ」

 しょんぼりしている夏井を放って置いて俺は靴を脱いで廊下に上がる。すぐに彼女もついてくる。

 彼女をリビングで待たせて置いて、俺は着替える為に自分の部屋に向かった。部屋の扉を開けた時だった。玄関の方から物音が聞こえてきた。玄関の扉が開いて、閉まる音。父さんがこんな時間に帰ってくる訳がないので、怜か、もしくは母さんが帰ってきたのだろう。後者ならともかく前者ならかなりまずい。

 慌てて着替えをすませて下に置り、リビングに飛び込んだ。

 帰って来たばかりで制服姿の怜と、ソファに座ったままの夏井が互いに見つめ合って固まっていた。いや、見つめ合っているというよりは縄張り争いをする猫の様に一触即発の状態で牽制しあっていると言った方が正しいだろう。物音一つ立てることすらはばかられる緊張感が漂っている。

 とりあえず声をかけようとした瞬間、二人同時にこっちを見た。

「あ、えっと、お帰り、怜」

「ただいま。そうちゃん」そう言った彼女の目は状況の説明を求めていた。なんで俺は怜がまだ帰ってきてないからと、そこで安堵してしまったのだろうか。まあしかし、別にやましいことがあるわけでもないし、ひとまず怜に、夏井がお菓子作りを習いに来たことを説明した。

 クッキーというワードに絆されたのか、多少彼女の目つきが柔らかくなった。

「ならあとで私にも分けてね?」じゃないとどうなっても知らないわよ、とその目は脅迫しているようだったので俺は頷かざるを得なかった。元々出来た物をお裾分けするつもりだったのだが、これは彼女の為に、特別なクッキーを焼かないと溜飲を下げてはくれないだろう。

 怜がリビングを出ていくと、夏井が大きなため息を吐いた。

「あー、緊張した」すとんとソファに腰を下ろして天井を仰ぐ。「昔からそうだけど、お姉さん私の事嫌いなのかな」

「そういう訳じゃないと思うけど、警戒してるんじゃないかな」

「警戒?」

「あんまり誰彼に心開くタイプじゃないから」

「そうかなあ」その後しばらく考え込む様な顔をしてから、「三島君と似てるね。三島君も、時々何考えてるか判らない時あるもん」

「俺も夏井のことが判らない時があるぞ」

「そういう次元の話じゃないんだよね。なんていうか、底が知れないっていうか。三年間ずっと隣にいて、それなりに仲がいいはずなのに、時々全然知らない人みたいに見えるっていうか」

「なんだよそれ」俺は笑った。そうするしかなかった。心の奥を見透かされているような気がしたからだ。

「私もよくわかんない」そう言って夏井は俯き、しかしすぐに立ち上がり、こちらを見た。「そんなことより早く教えてよ。クッキーの焼き方」

「ああ、そうだったな」俺は苦笑した。そのために夏井をうちに呼んだのだ。その割に、ここまでたどり着くのにえらく時間がかかってしまった気がする。

 それからすぐにクッキー作りに取りかかった。初めてという割に、彼女は要領よく生地を作り上げていった。

「普段料理とかしてるのか?」

「うーん。あんまり。でもたまにマドレーヌとか作ったりしてるから、そのお陰かな」

「なんだそれなら別に俺が教えなくても、自分でどうにかなったんじゃないか?」

「三島君。そういうことは言いっこなしだよ」型抜きで生地をくり抜きながら彼女は言う。「私はね、三島君に教えてもらいたかったの。そりゃあレシピ本を見るなりネットで調べるかすれば自力でどうにかなったかもしれないけど」

「けど?」

「気持ちの問題だから。うん」

 いまいちよく判らないがあんまり踏み込まない方が良さそうな気がしたのでそれ以上訊きはしなかった。

 形を整えた生地をオーブンで焼いていく。しばらくすると甘い良い香りが漂い始める。そろそろ来る頃だろう、と思っていると案の定、怜がやってきた。

「まだ?」オーブンをのぞき込みながら彼女が言う。

「もうしばらくかかるからソファで待ってろ」

「あの、クッキーお好きなんですか?」おそるおそる夏井が訊ねる。

 怜は振り向き、「あなたは嫌い?」と質問に質問で返した。

「いえ、そんなことは」

「甘い物が嫌いな女の子なんていないわよ。ね、そうちゃん?」

「いや、俺は男だからその流れで同意を求められても」

「そういえば随分仲がいいのね」唐突に怜が言った。そう言えば怜の部屋はこの真上だから、話し声が聞こえていたのかもしれない。急に背筋が寒くなってきた。

「はい。三年間ずっとクラスメイトで、席も隣でしたし」

 何も知らない夏井が無邪気に答える。若干自慢げに見えるのは気のせいだろうか。

 そして怜は悔しそうに夏井を見ている。大方、自分もクラスメイトになって、席も隣同士になりたかったのに、とか考えているに違いない。

「私はそうちゃんとずっと一緒にいたから」

「えっと、それはお姉さんですし……」

 対抗心むき出しの怜に夏井は困惑した様子でこちらに助けを求めてくる。怜も「もっと言ってやって」という目でこっちを見ている。

 二人の顔を交互に見る。退路はどこにもない。夏井に事情を話せていない、自業自得なのだから恨み言を言う筋合いなどどこにもないのだが、怜の嫉妬深さには愚痴の一つも言いたい気分だった。

「とりあえずその、二人とも、特に怜、落ち着こう」針の筵にくるまれた上でようやく出てきた言葉がそれだった。我ながら情けない。

「そうちゃんはその子の味方なんだ」

「そういうわけじゃなくてだな。それはそれ、これはこれ、というか。夏井とは基本学校でしか会わない訳で、逆にプライベートな時間はいつも怜と一緒だろ?」

「私はね、そうちゃん。私以外の女の子が、私の知らないそうちゃんを知っていることがなんだか許せないの」

 言ってることがめちゃくちゃである。夏井も顔がひきつっている。

「まあ今日は、そのクッキーに免じて許してあげる」そう言い残しくるりときびすを返した。

「何様のつもりなんだろ」ぼそっと夏井が呟いた。普段の彼女からは到底考えられないほど低く怨念をはらんで静寂の中に響いた。俺はぎょっとして怜の背中を見つめた。しかし彼女は立ち止まらず、何事もなかったかのようにリビングのソファに倒れ込むように寝転がった。

「ちゃんと焼けるかな?」オーブンをのぞき込みながら夏井が言った。先ほどのことがまるで悪い白日夢であったかのように、彼女はいつも通り無邪気だった。



              続く

スポーツの描写って難しい

次回はまた来週に

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