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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第一章
3/55

Autumn perturbed scene 1


     1


 まただ。ホームルームを終え、俺はなんとも言えない感慨の中に居た。

 今は中三の10月。毎月行われる席替えも後はもう片手で数えられる回数しか残されていない。それはつまり中学生活がもう残りわずかであるという証左でもある。ここまで来ると、もうクラスの連中の顔も見飽きたというレベルすら越えて、そのものが日常のなかの不可欠なピースとなってしまっている。その日常がもう数ヶ月で終わってしまうというのはなんだか寂しい気もする。

 そう変わらないと思っていることもいずれは変わっていくのだ。そのはずなのだ。

「また隣だね」

 振り向くと夏井香奈が苦笑を浮かべていた。

 彼女とは一年生の時からずっとクラスが同じだった。そればかりではない。何の運命の悪戯か、一年最初の席替えから今日まで連続して、ずっと席が隣同士なのだ。

「私たちってやっぱり運命の糸か何かで繋がってるのかな」

「何かしら因縁みたいな物があるのは間違いないな。さては前世で俺に恨みでもあったんじゃないか」

「よっぽど深い恨みだったのかなあ」

 まじめな顔をして夏井は考え込む。彼女はどこか抜けているところがある。背が低くて顔立ちは整っているが童顔で天然な彼女は、それでいて中学生の割にでるところは出ており、その所為か多分学年で一番男子の人気が高い。庇護欲をそそられるのだろう。その立ち振る舞いはさながら小動物のようであり、子犬を連想させる愛嬌が彼女にはあった。

「まーたお前ら隣同士になったのかよ」

 国彦が呆れ顔で言った。

「いい加減夏井の横顔にも飽きたから別の組み合わせになって欲しいんだけどな」俺は肩をすくめた。

「なにそれ。私も三島君の隣はいい加減うんざりなんだけど」ムキになって夏井は言う。

「おぅおぅ、イヌの餌にもなりゃしねえ」なぜか国彦はいなせな口調でそういうと、明後日の方向に向かって見栄を切った。こいつはちょっとバカなのだ。

「だーれが夫婦よ」じとっとした目で夏井は国彦を睨んだ。

「どっから流れてくるか知らねぇけど、お前らが付き合ってるって噂をよく耳にするんだよなあ」

「ああ、時々訊かれるなあ、付き合ってるのかって」

「それ私もよ。三島君とどうなのって、しょっちゅう訊かれて」

 俺たちはそろってため息を吐いた。こんな時公康が居れば愚痴の一つや二つこぼせるのだが、あいにくあいつは隣のクラスだ。三年になって別々になってしまった。

「そういやおまえら志望校同じなんだろ? だったらまた一緒になる可能性もあるんじゃないか?」

「国彦。縁起でもないこと言わないでくれ」

「ねえ、私が言うのもなんだけど、そんなに私の隣嫌なの?」

「いや、別にそういう訳でもないけど」単にそういう体で話していただけだ。最初の数ヶ月は本当にうんざりしていたところもあったけど、二年になっても席が離れなかった辺りでどうでも良くなった。

「三島君ってちょっと変わってるよね」

 夏井は急に別の話題を振ってきた。彼女の癖である。最初の頃は戸惑ったが、やはり慣れてしまった。

「そうか?」

「極度のシスコンってところでは既に変人の域に到達してるよな」と国彦。

「別にそれはいいだろ」

「ほんっと三島君ってお姉さんのこと好きよねえ。話してても結構な頻度でお姉さんが出てくるし。将来大丈夫?」

「何が」

「彼女作る気とかある?」

「いや、それは」

 実はその姉が彼女で、成り行きで婚約者ということにまでなってしまっているのだが。そのうち話そうと思っていたまま、結局話す機会がなかったので、夏井も国彦も怜が本当の姉でないことを知らないのだ。

「なんだったら私が手伝ってあげるわよ」

「何を」

「お姉さん以外の女の子と仲良くする為のリハビリを」

 夏井が突然訳の分からないことを言い出した。

「それはナイスアイディアかもしれないな」国彦はその言葉の真意を悟ったらしく、何やらにやつきながら夏井に言った。

「うるさい」夏井はまたじとっとした目で国彦を睨んだ。

「で、どういうことなんだ?」

「どういうことって、その、あれよ。ほら、もうすぐ文化祭でしょ?」

「そういう時期だな」

「中学生活最後の文化祭だし。三島君っていっつも野球部の連中とつるんで回ってたじゃない。でも流石に最後まで男クサイ感じはかわいそうかなあ、って思って」

「お前すごい上から目線だな」

「いいじゃない。わざとやってるのか知らないけど、お姉さんと私以外に女っ気がないのは事実でしょ?」

「そう言われると何も言い返せないな」本当はもう一人仲がいい人はいるのだけれども。

「私みたいな美少女からの誘いを受けたんだから、光栄に思いなさい」夏井はえっへんと胸を張った。

「自分で言うか、それ」俺は苦笑する。

「いいなー、うらやましいなー」国彦が隣で感情のこもってない声を出した。こいつはバカだが一つ年下の可愛い彼女がいるので、こういうことに関しては完全に他人事なのだ。

 しかし夏井と一緒に文化祭を過ごすとなると、ますますあらぬ噂に拍車がかかりそうだ。想像しただけで気が滅入る。せめて夏井がもう少し目立たないおとなしい奴だったら良かったのに。だが現実の彼女は、人当たりがよくて、片っ端から無意識に男を勘違いさせては恋に落としていく魅惑の美少女なのだ。

「まあそう言うことだから、考えておいてね」夏井はそう言ってにっこりと微笑んだ。

「おう」俺は曖昧に頷いた。俺としては今年は怜とすごそうと考えていたので、どう返せば良いものか、と少し悩んで居た。過去二回の学園祭ではまるで狙ったかのように彼女が熱を出して来れなかったので、今度こそは、という強い思いがあったのだ。しかも去年までと大きく事情も異なっている。俺と怜は恋人同士になったのだ。

「まーたお姉さんのこと考えてるでしょ」

 振り向くと夏井が呆れ顔でこっちを見ていた。

「なんだよ」

「どうせ自由時間を過ごす約束してたのに、とかそうする予定だからどうやって断ろうか、とか。考えてたんじゃないの」

「いや、そういうわけじゃ」とっさに俺は嘘を吐いた。

「いいわよ別に。家族との時間って大切だもんね」

 言葉がいちいち棘棘しい。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。やれやれと気づかれないようにため息を吐く。よくあることなので慣れているとはいえ、すぐ隣で、明らかに怒ってます、という空気を振りまかれるとなんだか気持ちが落ち着かない。国彦に助け船を求めようとしたが、危険を察知するやいなや「いっけね」と何か思い出した風に逃げてしまった。アテにならない奴だ。

「そんなに俺と回りたかったのか?」おそるおそる訊ねてみる。

「別に」そっぽ向いたまま彼女は答えた。

「でも何か機嫌悪いし」

「私の機嫌が悪かったら何か問題でもあるの?」

「居心地が悪い」

 夏井がこちらを見た。

「もしかして、判ってて言ってる?」

「何を」

 疑り深い目で夏井は、じぃっと見つめてくる。俺はたじろぎ、体を引いた。

 ふっと視線をはずすと彼女は大きなため息を吐いた。「三島君ってやっぱりちょっと変」

「なんだよいきなり」

「なんなんだろうね」心なしか声に元気がない。

「夏井?」

「文化祭のことだけど。できれば私は三島君と回りたいからそれだけは頭の隅っこでも良いから、覚えててね」

 いつになく真剣な顔で言う夏井に戸惑いながら「一応、検討はしておく」と言葉を濁した。


      2


 玄関を開けるなり熱い抱擁が待ち受けていた。ただいま、を言う暇すら与えずに怜が抱きついて来たのだ。恐らく土間で待ちかまえていたのだろう。そのためだけにどれだけ時間をつぶしていたのか定かではないが、とりあえず悪い気はしなかったのでしばらく無抵抗で居たが、あまりにも離れる気配がないので「いいかげん上がらせてくれ」と抗議をすると彼女は体を離し、上がり框でぴょん、と跳ね、くるりと翻るや否や、ほれぼれするほど綺麗な所作でその場に正座し、四つ指をつき丁寧なお辞儀をした。

「お風呂にする? ごはんにする? それとも私?」

「怜、もしかして熱ある?」

 なんなんだこの異様なはしゃぎ様は。何かいいことでもあったんだろうか。

「熱はないけどちょっとおかしいかもー」

 自覚はあるようだ。まあちょっとどころではないのだが。

「で、何かあった?」

「えへへー、ないしょ」

 ものすごく気になる。「どうしても?」と食い下がってみたが「どうしても」と念を押されてしまった。

 部屋で服を着替えてからリビングへ降りていった。怜はソファにうつ伏せになって足をぱたぱたさせていた。

「そういえば今年の文化祭なんだけど」反対側のソファに座って俺は言った。

「もうすぐだよね」怜が起きあがってこっちを見た。「今年はもしかしたら行けないかもしれない」

「え?」

「ちょっと用事があって」

「そうなんだ」

 自分でも驚くくらいがっかりした声がでた。怜も残念そうにため息を吐いた。

「用事が何、とか訊かないの?」怜が言った。

「何なの?」

「ないしょ」

「だと思った」なんとなくだが、今日、彼女のテンションがおかしかったことと何か関係があるような気がする。確信はないが、幼なじみというか恋人の勘という奴だ。

「そうちゃんは私の学園祭来れる?」

「まあ予定入れないつもりだし、大丈夫だと思う」

「その時に埋め合わせするから。ごめんね」

 話がとぎれた。居心地が悪い沈黙だ。何か事情があって話したくないんだろうが、やっぱり気になる。あっさり無理だと言われてしまったのが、ひっかかっているのかもしれない。嫉妬というのだろうか。俺を差し置いて一体どんな予定を組んでいたのか。そんなことを考えていると少しむかついてきた。

 仏頂面で目の前のテーブルに視線を落としていると、「そうちゃん」と呼ぶ声がして顔をあげたら怜と視線がぶつかった。

「そっち行っていい?」

 俺は黙って頷いた。

 怜が隣にやってきて寄り添う様にソファに腰を下ろした。

「ごめんね。どうしても外せない用事だったから」

「いいよ別に」

「そのうち話すつもりだけど、いまはまだちょっと心の整理ができてなくて」

 そんな言い方をされたら余計に気になるということに彼女は気が付いていないのだろうか。それとも俺の反応を見て楽しんでいるのだろうか。

 ますます俺の中で虫の居所が悪くなっていく。そんな気配を察知してか、彼女は両の腕で優しく包み込むようにして俺のおでこを自分の胸に押しつけた。

 少し甘い香りがするのは彼女が愛用しているシャンプーの所為だろう。その中に混じって母性を感じさせられる独特の柔らかさのある匂いがささくれ立っていた感情の角を取って丸くしていく。

 こんなことでごまかされてたまるか、なんて考えていてもだんだん苛立っていたのがどうでもよくなってきて、俺は怜の胸に顔を埋めたまま目を閉じて、そのまま彼女の鼓動を聴くように耳を澄ませた。規則正しく刻まれるその脈動に呼応するように、耳の奥で自分の鼓動が跳ねているのが聞こえて来る。そうしているとだんだん俺と怜の間にある境界が曖昧になっていく感じがした。紅茶に混ぜたミルクが溶けていくように、俺と怜が一つになる。この場合俺はどっちなんだろうか。俺の中では怜というミルクが自分の溶けていく感じだが、もしかしたら彼女からしたら俺がミルクなのかもしれない。

 そんなことを考えていた所為だろう。開けっ放しにしていた扉から誰か入ってきたことにすぐには気がつけなかった。

「まだ日が高いうちから、あんたら何やってるの」

 呆れた声が聞こえてきて、俺は初めてこの部屋が二人だけの空間ではなくなっていたことに気が付いた。慌てて怜から離れて声の主を見た。母さんが、いかにも呆れてますという表情でこっちを見ていた。

「お母さん今日は早いね」怜が何事もなかったかのように話しかけた。

「昨日から泊まりがけだったから今日は早く上がらせてもらったのよ」

 あー疲れたと漏らしながらキッチンの方へ向かった。

 怜はこちらを見てにししと笑う。俺も照れ笑いがこらえきれなかった。

「宗平」と呼ぶ声がキッチンから聞こえてきたので俺は怜に目で断ってから、そちらへ向かった。

 開け放った冷蔵庫を見せつける様に立ちながら母さんは「何が作れると思う?」

 そういうことか、と俺は理解して冷蔵庫の中をあらためる。数日前にセールで買ってきた豚バラ肉がまだ大分余っている。これで野菜巻きを作ってもいいかもしれない。それに豆腐もある。最近夜は冷えるし湯豆腐をつけるのも悪くない。あとは味噌汁と適当にキャベツでも切ってサラダを付け合わせればそれらしくなるだろう。

「じゃあ今日は頼んだわよ」俺の表情から献立が決まったことを察した母さんはビールの瓶を冷蔵庫から取り出した。国産のモノではない小振りな瓶だ。俺はグラスと栓抜きを食器棚から出してテーブルの上に置いた。母さんはそれをもって「頼んだわよ」ともう一度言ってキッチンから出ていく。

「父さんの分は?」その背中に俺は問いかけた。

「遅くなるからいいって」

 頷いて俺は壁掛け時計を見た。気が付いたら5時半を回っている。もう作り始めていい頃合いだろう。エプロンを身につけ、手を洗い、夕飯の準備に取りかかった。

 

 夕飯ができあがった頃にはすっかり母さんはできあがってしまっていた。夕飯を作っている間に隣からにぎやかな声が聞こえてきていたのでなんとなく予想はできていたが、作り終えて呼びに行った頃には既にウイスキーを一本空けたあとだった。テーブルの上にスナック菓子の袋とスーパーのビニール袋があったので帰る途中に買って来たモノなのだろう。床には空になった炭酸水のペットボトルが転がっている。

「メシ食う前に飲むなよ」そして食べるな。

「いいじゃない。明日休み取れたんだからあ」だらしない口調で母さんが言った。

「へえ。珍しい」

「たまには息抜きしないとやってらんないわよ。まったく」

 どっこいしょ、と呟いて母さんはソファから立ち上がった。怜が苦笑を浮かべている。俺は肩を一度竦めて、「食べようか」

「うん」と頷いて怜も立ち上がった。

 食卓は終始賑やかだった。しゃべっていたのは殆どが酒が回って陽気になった母さんだけだったが、時々怜が話に乗っかったり、俺が茶々を入れたりした。最近は怜と二人だけの夕餉が続いていたのでなんだか新鮮な感じがしていた。特に俺も怜も食事中は基本的にしゃべらないので、こんなに賑やかに食事をとるなんて本当に久しぶりだった。

 しかし最初は和やかな団らんだったのだが、だんだん母さんの言葉に愚痴が混じるようになってきた。それも父さんに対しての物だ。二人は同じ会社に勤めていて、職場も同じなのだが。そこで父さんがやたらと若い子にモテているのが気にくわない。愚痴の内容は概ねその様な物だった。

「お父さんって優しいから仕方ないって」怜が言った。

「優しさに節操がないのよ、あの人は」

「あー、それはちょっと判るかも」苦笑して怜は「血は争えないね」と俺の方を見た。

「宗平、あんたもか!」

「何がだよ」

「そうちゃんが優しいって話」怜がにっこりと笑む。なぜだかそれがすごく怖い。

「怜、あんたも苦労するわよ」

「覚悟はできてます。私はもう実質そうちゃんの妻ですから」

「いい子が来てくれてよかったあ。宗平、あんた幸せ物だなあ、ほんと」

「幸せそうなのはそっちだろ。べろべろじゃねえか」

「親に対してなんて口の効き方を。嫁、やっておしまいなさい」

「判りました義母様」

 指をわきわきさせながら怜がテーブルを回り込んでこっちにやってくる。わきの下を擽るつもりだ。ていうか本当に今日の怜はなんなんだ。

「ここで会ったがぁ百年目。神妙に擽られなさい!」

 襲いかかってくる怜。しかし動きが絶望的なまでにどんくさいので簡単に脇をすり抜けて後ろを取ることに成功した。すかさず俺は怜のわきを擽った。

 返り討ちにあった怜は身をよじりながら「降参だって!」と叫んだが俺は容赦しなかった。さらにくすぐり続ける。「ダメだって、そうちゃん! やあ、んっ」声が妙に艶っぽくなってきて、俺はとっさに擽る手を止めた。怜はふらふらとした足取りで椅子にたどり着き、ぐったりと背もたれにもたれ掛かった。

「若いわねえ、あんたたち」いつの間にか持ってきていたワインを飲みながら妙に冷めた目で母さんがこっちを見ていた。

「まだ十代だし」

「あんまりあれなことしてると小遣い減らすからね」

「あれってなんだよ」

「あれはあれよ」そう言ってグラスのワインを、ずずーっと啜って、香りの楽しむように口の中で液体を転がし嚥下した。そしてこれまたいつの間にか用意していたチーズをかじった。その隣で怜は相変わらずぐったりしたままだ。

「まあ若さにまかせていろいろヤるのは仕方ない部分もあるから、ある程度は大目に見てあげるけど、流石にまだ孫は欲しくないからね」

「なんの話だよ」

「あれの話」

「まさか親から神妙な顔でそんな話されるとは思わなかったわ」

「あんたたち仲良すぎるから一応釘刺しておこうと思って」

「本音は?」

「若さが羨ましい! あと昔思い出して虚しくなるのよ。ああもう早くお父さん帰ってこないかしら」

「母さん」

「なに」

「流石におれも今更弟とか妹いらないからな」

「お母さん。私は最低でも二人産みたいです」怜が突拍子もないことを口走った。酔ってるんじゃないかと思ったが、彼女のコップに注がれているのは俺が薬缶で煮出したウーロン茶に相違ない。「さし当たっていつ頃からなら許可がいただけますでしょうか」

 けど口調が変に丁寧だ。

「そうねえ。宗平が高校卒業したらいいわよ。そのころにはあなたも立派に漫画家としてやっていけてるでしょうし」

「おい酔っぱらい、何言ってんだよ」

 そこでふとなんとも言えない違和感に襲われて俺はさっき母さんが言ったことを頭の中で思い返してみた。そう、漫画家だ。怜が漫画家だと母さんは言ったのだ。確かに怜は普段からよく絵を描いたりしているけど。ちらりと怜の表情を伺うと、明らかに焦っていた。当の母さんは自分が言ったことに気が付いていないのか、気にしていないのか、ぐいぐいとワインを飲んでいる。

「あ、そうだ。明日の予習しとかないと。ごちそうさま。美味しかったよ」

 一気にそういうと怜は逃げるようにキッチンから出ていった。

「やっぱりあの子話してなかったかあ」

 母さんがそう漏らしたのは、階段を上っていく怜の足音が聞こえなくなってからだった。

「やっぱりって何がだよ」

「あの子ね、実はかなり前にそこそこ有名な雑誌が主催してる新人賞で賞を取ったのよ」

「怜が?」

「そう。確かあんたが事故に遭う前だから、もう一年近くも前になるわね」

 俺はすぐにはその話を信じることができなかった。確かに怜は絵を描くのが好きだし、それにかなり上手い。けれど俺はいままで彼女がマンガを描いてるところを見たことがなかった。それに、賞を取ったならどうしてすぐに話さなかったのか。

「最初は驚かそうと思ってたみたいなのよ」こちらの疑問を察したかのようなタイミングで母さんが言う。「読み切りが掲載されたら、それを見せてあんたをびっくりさせてやろうって、そう考えてたみたい」

「でも母さんたちには話してたんだろ」

「あんたは特別だからね。いろんな意味で」

「で、その読み切りは雑誌に載ったの?」

「ええ」

「じゃあなんで」

「時期が悪かったのよ。ちょうどあんたが入院してた時期だったから」

 それは確かに時期が悪い。

「それに、あの子、なんていうか負い目を感じてる部分もあるみたいでねえ」

「なんに対してだよ」

「そりゃあんたに対してに決まってるでしょ」

 しかしそう言われてもすぐに思い当たる物がなかったので、納得しようにもできなかった。

「あんたが大好きな野球ができなくなったのに、自分は好きなことで夢を叶えようとしている。そこに負い目を感じたんでしょう。そういう子だもの」

 なるほど怜が考えそうなことだ。それなら隠そうとしていても不思議ではない。

「近々連載が始まるらしくて、いまはその為の作業で忙しいみたいよ。多分いまも予習じゃなくて原稿やってるんじゃないかしら」

 恐らく学園祭に来れないのもそれが原因なのだろう。そして浮かれていたのもその所為かもしれない。

「あ、そうだ。これ話した事黙ってなさいよ。一応話すなって釘は刺されてたから」

「もう手遅れな気がするけどなあ」

 食事を終えると母さんはまたリビングで飲み始めた。俺は使った食器を洗いながら空っ風のような寂しさを覚えていた。俺はもう大丈夫なのに変に気を使われていたことが少しショックだった。まだあれから一年も経ってないしそう言う風に考えるのは判る。でも婚約者な訳だし、そう言うことは包み隠さず話して欲しかった。

 俺は頼りないのだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を過ぎる。自分では平気だと思っていても、実は気を使わせてしまうくらい、まだけがのことを引きずってしまっているのだろうか。

 蛇口を捻って水を止める。濡れた手をハンドタオルで拭った。その手をじっと見つめ、それからぐっと握りしめた。力一杯、拳がふるえる位に。それから周囲を確認して、ヒジを斜め後ろに引き上げるようにして、腕を振り上げた。その瞬間鋭い痛みが走って、歯を食いしばり、ゆっくりと腕を下ろした。やっぱりまだボールを投げる動作はできないらしい。けれどこれでもマシになった方だ。最初の頃は肘が肩より高く上がらなかったのだから。そう考えればかなりの進歩だと言えるだろう。腰の方も短い距離なら全力で走っても問題ないくらいには回復している。いまも密かにリハビリを、個人的に続けているのだ。流石に高校の部活でやるのは無理だろうが、草野球程度でならできるようになるかもしれない。

 そうだ。俺がまた野球ができることを証明してやれば、怜が必要のない負い目を感じることもなくなるかもしれない。

 胸の中で何かが燃えていた。熱くたぎるそれは長らく忘れていた物だった。そう、決意だ。なんとなくまた野球が、スポーツが出来ればいいと思いながらリハビリを続けていたがこれからは違う。必ず怜に見せてやるんだ。俺が野球をしているところを。


 

      続く

久しぶりの投稿です。

いっぺんに長いの投稿すると読みにくい気がしたので小分けに出していきます。

タイトルは地味な言葉の並びをグーグル翻訳さんに英語にしてもらいました。それっぽい気がするだけで大した意味はないです。

次回更新は8/5~8/9の間のどこかの積もりです。

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