序章 2 "追憶の春に"
朝方は相変わらず冷えるが、それでも真冬のそれと比べれば大分マシにはなってきた。テレビが伝える天気予報によると、日中は20度を超えてくるところもあるらしい。
窓の外は雲一つない快晴。風も凪いでいるようだ。それでも窓を開けていると冷気が這うように忍び入ってくる。起き抜けの胡乱な頭にはうってつけの気付け薬だった。ぼんやりと漂っていた意識がだんだんと一つにまとまって、輪郭がはっきりしてくる。もういいだろう、と窓を閉め、テレビを消して部屋を出た。階段を降りて、洗面所に向う。そこで冷たい水で顔を洗い、眠気に止めを刺した。
よし、と呟いて気合いを入れ、リビングへ向かった。うちはリビングとダイニングキッチンの間に壁がない間取りになっている。そのおかげで狭いなりに開放感のある空間になっている。しかし早朝の薄暗い時間に、一人でそこに足を踏み入れると何とも言えない寂寥感を覚えることもある。例えば今日のように、ダイニングのテーブルの上に書き置きを見つけた時などは。読まなくても内容は判る。今日は家族で花見に行く予定になっていたのだ。しかし急な仕事が入って、行けなくなった、という両親からの謝罪の文言がそこに並べられていた。土日であろうとも、関係なく仕事に駆り出されることは珍しくなかったので、昨夜、俺が夜寝るまでに帰ってこなかった時点でなんとなく予想は出来ていた。
だからこうして早く起きたのだ。父さんと母さんは不在だが、怜が居る。彼女は花見に行くことを楽しみにしていたし、二人が行けなくなった場合は、俺と怜だけで、という計画も一応立てていた。
壁の時計を見た。時刻は6時を少し回ったところだ。怜は朝に弱いし、昨日も遅くまで仕事部屋に籠もっていたので起きてくるまで後2時間くらいは掛かるだろう。遠出するわけではない。近所に桜を見るのにちょうどいい公園があるので、そこへ行くだけだ。それくらいの時間に起きてきたとしても何の問題はない。ぐっすり寝かせて置いてやろう。その間に花見に持っていく弁当を作ってしまおう。少しばかり取りかかるのが早すぎる気もするが、下準備などをしていると思いの外時間が取られてしまうこともある。余裕を持っておいた方が良い。まあ予定よりも遅れたところで彼女は何も文句を言わないだろうが、定刻を過ぎてしまうということはそれだけ彼女と二人で、公園で過ごせる時間が少なくなるということだ。どうせなら早く出て二人でぶらぶらしてから、どこか適当な場所に陣取ってのんびりする方が良いに決まっている。
あらかた完成しかけた頃、怜はリビングに現れた。起きてからそのまま出てきたようで、本来であれば目を惹かれるほど美しくしっとりとした長い黒髪が、寝癖であちこちに跳ねまくっていた。切れ長でアーモンド型の大きな眼も、いまは眠たげに半開きになっている。そんなだらしなさが愛嬌と映るのは、恋の盲目さが成せる業なのか、それとも完璧なほどに整った彼女の美貌のおかげなのか。恐らく両方だろうな、と苦笑して「おはよう」と声を掛けた。
怜は眠たげに頷いて、もごもごと何事か言葉を返した。多分「おはよう」と言ったのだろう。
彼女は漫画を書いて収入を得ている。所謂漫画家という奴だ。高校生の頃にデビューして、卒業と同時に専業になった。そこそこ売れているらしく、父さんの話では怜がうちで一番稼いでるらしい。
どんな物を書いているかは俺は知らない。本人が頑として喋りたがらないのでどうしようもない。彼女は筆が速い方らしいが、それでもアシスタントを雇わずに連載を続けているところを見ると恐らく月刊誌辺りで連載しているんじゃないかと勝手に予想している。
彼女は欠伸をしながらリビングのソファへと歩いて行って、そこに倒れ込んだ。大体いつもはそのまま二度寝をしてしまうのだが、生憎今日は午前中から出て行く予定なので起こさなければならない。調理をしていた手を止めて、ソファのところへ歩いて行く。
ソファの上で俯せになった彼女は、顔を横に向けて寝息を立てていた。このまま放って置いたら寝違えてしまう。やれやれと思いながら俺は彼女の肩を揺さぶった。
「怜、朝だぞ」
うっすらと彼女の瞼が開いた。
「知ってる」
掠れた声が返ってきた。彼女は狭いソファの上で、体をずらすようにして寝返りを打ち、仰向けになった。ちょうど一年くらい前から彼女は和装をするようになった。従ってこんな方法で寝返りを打った為に、襦袢の裾が割れ、右足の太ももまでが露わになり、胸元も乱れていた。それに見とれてしまった一瞬の間に、彼女は俺の腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。バランスを崩して、俺はソファの上に倒れ込んだ。柔らかい感触に体を受け止められる。巻き付いてきた腕に、息苦しい程に抱きしめられる。すぐ目の前に怜の顔があった。悪戯が成功した子供の様に邪気のない笑みを浮かべていたが、その頬はどこか恥ずかしげに、朱に染まっていた。自分からやってくせに、と思いながら、俺は迷わず彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
「おはよう、怜」改めて言う。
「おはよう、そうちゃん」今度はちゃんとした言葉が返ってきた。
腕が解かれ、俺は立ち上がった。
怜も体を起こし、一度大きくのびをした。
「顔、洗ってきたら。その間に朝食の用意しとくから」
頷いて、怜はリビングから出て行く。
酷い寝癖だったから、戻ってくるまでには大分時間が掛かるだろう。その間に弁当も完成させてしまっておこう。
朝食は多めに作った弁当の具をより合わせた適当な物だったが、彼女は文句を言うことなくそれを平らげた。細身な体に似合わぬ強靱な胃腸を持つ彼女は、朝っぱら、しかも起きてすぐだというのに、夕飯のおかずにしようかと迷っていた唐揚げまでぺろりと平らげてしまった。
「相変わらず美味しいね、そうちゃんの料理」
「そう?」
「うん。昨日からずっと楽しみだったんだから。久しぶりにそうちゃんの手料理が食べられるのが。だから仕事もいつもよりはりきっちゃって」
「それで寝不足って訳ね」
「そゆこと」
色白な所為か、目のしたのクマまるで墨を塗ったかのように、悲惨なほど目立っている。俺はちらりと時計を見た。9時30分。11時頃に出る予定なので、まだ時間はあるが、この様子だとクマを隠すためのメイクに相当な時間が費やされてしまうだろう。
「あんまり無理はするなよ。そんなに体が丈夫な方でもないんだから」胃腸は丈夫だが、彼女は割と病弱でもある。
「平気よ」と彼女は苦笑する。「確かに子供の頃はよく熱を出してたけど、いまはもう殆どそんなこともないし」
「でも怜ってさ、結構一人で抱え込んじゃうところがあるから、心配なんだよ」
「そんなこと最近あったっけ?」
「最近ではないけど、昔あったろ?」
「そうちゃんって心配性だよね」
目の下にそんなくっきりとしたクマを作っている奴に言われたくない、と言い返そうとしたがつい先ほどの豪快な食べっぷりを思い出してそうでもないか、と飲み込んだ。
単に寝不足なだけで、元気なことは元気なのだろう。
「何時頃だっけ?」
「11時くらい。そろそろ用意始めた方がいいんじゃない?」
「うーん。やっぱりそうかなぁ」
「昨日仕事張り切りすぎたこと、後悔してるでしょ」
「ねえ、やっぱり目立ってる?」
俺は頷いた。「メジャーリーグのデイゲームの中継でよく見る感じ」
怜は大きな溜息を吐いて、それから苦笑した。「そこまで酷くないとは思うんだけどなぁ」
※※※
怜と俺は姉弟だが血は繋がっていない。彼女がうちにやってきたのは俺が小学生の時だった。それ以前は彼女は、彼女の両親とともにうちの隣に住んでいた。互いの両親が、学生時代の友人だったこともあり、家族ぐるみの付き合いがあって、その中で俺は怜と出会った。最初に出会った時の事は覚えていない。その頃はまだ赤ん坊だったのだから当然だ。物心がついた頃にはもう、いつも隣に彼女が居て、それが当たり前になっていた。
怜は我が侭で、三つ年上と思えないほどどんくさくて、年下の俺がついていないと何をやらかすか判らないところがあった。しかし向こうは向こうで年上のお姉さんという自負があったらしく、いつも俺の三歩先を歩こうとしていた。
そうして俺達は互いの意思で二人離れることなく育っていった。そんな姿を見てうちの両親も怜の両親も、将来孫の心配はしなくて済みそうだ、等と冗談を言い合っていた。
世界はとりあえず平穏で、これといって特筆することがないくらい退屈だったが、概ね幸せで不満らしい不満なんてなかった。このままずっとこの暖かい世界で、二人はずっと一緒に居続けることが出来るという根拠のない確信が胸の中にあった。
だから怜の両親が事故で亡くなったと聞いたときは、すぐにはその話を信じることが出来なかった。交通事故だった。交差点で、赤信号を無視して突っ込んできた居眠り運転のトラックに横から衝突されて、乗り上げてきたトラックの車体に前部の座席が押し潰されてしまった。後部座席に乗っていた怜は、たまたま全開にしていた窓から投げ出され、運良く耕されたばかりの畑の畝に受け止められ、打撲とむち打ち程度で済んだが、彼女の両親は即死だったらしい。
初めて遭遇した親しい人間の死に、幼い俺は戸惑っていた。死ぬと言うことがどういう物なのか理解していたつもりだったが、それでもしばらくは実感という物が湧かなかった。そしてそれ以上に、泣きもせず、うつろな表情で俯いたままの怜のことがずっと気に掛かっていた。彼女は両親を亡くしてからしばらく、笑うこともなく殆ど喋らずに、時折、やるせないほどの悲しみを湛えた目を虚空に漂わせていた。まるで今にも消えてしまいそうなほど、弱々しい彼女の姿に、不謹慎ながら俺は初めて彼女に対する恋愛感情というものを自覚した。
俺が彼女を守ってやらなければならない。そんな使命感を抱きながら、自分に出来ることが何かを考えているうちに、彼女が母親の実家に引き取られるという話がいつの間にか決まってしまって、結局なにも出来ないまま彼女は遠くへ行ってしまった。
彼女が居なくなって俺はしばらく呆然としながら過ごしていたが、再会は思いの外早くやって来た。母親の実家に引き取られてちょうど一ヶ月が経ったある日、怜はこっちに戻ってきた。それをうちの両親が出迎え、そして言ったのだ。「今日から怜はうちの子だ」と。
果たして空白の一ヶ月の間に何があったかは判らない。ただろくでもないことに遭っていたことは間違いなかった。うちに戻ってきた怜はひどくやつれていて、目に浮かべていた悲しみの感情すら失い、まるで人形のように生気がなかった。
そんな彼女の姿に、俺は素直に再会を喜ぶことが出来なかった。同時に、彼女の母親の実家に対する憤りが胸の中で渦巻いていた。だからといってどうすることも出来ない。せめて怜のために何か出来ることはないか、と考えて俺は努めて彼女に話しかけた。或いはそれは自分の為であったかもしれない。目の前の年上の少女が、このままどこか遠くへ風船のように飛ばされないように、話しかけることでつなぎ止めようとしたのだ。
その甲斐あってか彼女は少しずつ人間味を取りもどし始めた。そうして一年が経ち彼女も大分以前のように振る舞うことが出来るようになっていた。
ちょうどその頃だったと思う。俺は怜と二人で夕飯のおつかいに出かけた帰りだった。二人で並んで、夕日に染められた街を歩いていた。
「私は居ちゃいけない子だったんだって」
ぽつりと独り言のように呟いた。
あんまりにも唐突だったので、どういうことなんだ、と問いただすことも出来ずに、夕日に輪郭を縁取られた彼女の横顔を見詰めていた。逆光の所為ではないだろう。今までに見たことがないほどくらい翳りがそこに見てとれた。
そして翌日事件が起こった。
彼女が、夜になっても家に帰ってこなかった。普段が普段だっただけに警察に通報するほど大騒ぎになった。警察頼みで待ち続けることに耐えかねた俺は、通報してから一時間も経たないうちに怜を探すために家をこっそりと抜けだした。
氷雨が降り注ぐ中、寒さも忘れて俺はただひたすら走った。あてがあった訳じゃない。普段からあまり外に出たがらない彼女が行きそうな場所なんて判る筈もなかった。
ただ怖かったのだ。このまま怜が帰ってこないんじゃないか。そんな予感が常に脳裏を支配して、凍り付きそうな体を前へ前へと押し進めた。
気が付くと住宅街から少し外れたところにある寂れた公園の前に居た。申し訳程度の錆び付いたブランコと、象をモチーフにしたとおぼしき丸い形の塗装の剥げた滑り台がもう何十年も人々に忘れ去られた廃墟のように、朧気な街灯の灯りに照らし出されていた。
そういえばこんなところもあったな、と思っていると、不意に闇の中に光が浮かび上がった。それは滑り台の下部に作られたトンネルの中で光っていた。目を凝らしてみると、人影が見えた。まさか、と思って近づいて見るとそのまさかで。そこに怜が居た。先ほどの光は、彼女の携帯のディスプレイから放たれた物だった。
蒼白い光に照らされた彼女は、一瞬驚いた表情を浮かべた後、きまりが悪そうに「ずぶ濡れだよ」と言った。
「誰の所為だと思ってるんだよ」
正直言うと、彼女がなんでもなさそうなその態度に腹が立っていた。心配していた反動だろう。
彼女は「ごめん」と言ってから、少し奥に移動した。入ってこい、ということらしい。俺は体を屈めてトンネルの中へと入った。中は思いの外広々としていた。
開きっぱなしになった携帯のディスプレイから、光が消えた。目の前が真っ暗になった。けれど、しばらくすると目が慣れてきて、隣を見るとうっすらとだが、怜の表情が確認出来た。
彼女は目を伏せ、何かをこらえるように唇を噛んでいた。
「あのさ」
彼女が振り向いた。
「なんで帰ってこなかったんだ?」
訊いた後で、あまりにも直截的過ぎたか、と思った。
実際、彼女はすぐに応えなかった。
けれど、しばらくの沈黙の後「分かんない」と弱々しい声が返ってきた。
「急にね、いろんな事が悲しくなったの。道ばたを歩いている猫とか、空を流れてゆく雲とか。風に飛ばされる落ち葉とか。本当になんでもない物まで、世の中の全部が悲しい物に見えてきて、そう言うのを見たくないって思って歩いているうちにここに辿り着いていて」
「穴があったから逃げ込んだ?」
怜が頷いたのが判った。
「変な話だよね」そういって彼女は笑ったが声に力がなかった。
それからまたしばらくの間沈黙が続いた。雨音が強くなってきた。そういえば夕方の天気予報では、これから夜半過ぎに掛けて雨脚が次第に強くなっていくと言っていたことを思い出した。
「あのさ、怜」
こちらの声に、彼女が振り向いた。
「そういう悲しい気持ちになったらさ、もっと誰かを頼ってみてもいいと思うんだ」
「え?」
「一人で抱え込んでも何も解決しないぞ」
怜が俯いた。膝小僧に顔を埋めながら「ダメだな、私」と呟いた。「そうちゃんに心配掛けちゃうなんて。私の方が年上なのに」
「昔からそうだろ。年上の癖にさ、どんくさくてダメダメで」
「そんなことないよ」顔を上げずに彼女は言った。
「今日だって。どうせ雨が降ったから帰ってこれなくなったんだろ?」
「それも、無いわけじゃないかな」
「ほら。やっぱり怜はどんくさい」
「そうちゃん」
「なに?」
「私ってそんなに頼りない?」
「特に最近は」
「お姉ちゃん失格?」
「どちらかというと失格」
「きびしいなぁ」
怜が顔を上げた。先ほどよりも、少しだけ表情が明るくなっているように見えた。
「正直まだよく判らないの。いろんな事が自分の中で整理できてなくて。お父さんとお母さんが死んじゃったこととか、そうちゃんの家に引き取られて苗字が変わったこととか。それ以外にも、いろいろあった」
いろいろあった。その部分に彼女の必要以上の翳りの原因が集約されていることは何となく判っていた。けれどいまはまだそこに言及するべき時期ではない。だから俺は黙って彼女の言葉を聞き続けていた。
「私、どうしたらいいんだろ。そうちゃんのお姉さんになったのに、でもちゃんとそれが出来てなくて」
「そんなに無理してお姉ちゃんぶらなくていいと思う」
怜が驚いた顔でこちらを見た。
「怜は頼りないけど、でも優しいし。その、なんていうんだっけ? 母性だっけ? そういうのに溢れてると思うから、大丈夫」
「それ、フォローのつもり?」
そう言った怜は、くすりと笑った。
それを見て俺ははっとした。
「どうしたの?」こちらが驚いた表情を見せたことに、彼女は首を傾げて見せた。
「そういえば、久しぶりに怜が笑ってるとこ見たな、って」
「え?」
「うん。すっごい久しぶり」
「そっか」呟いて、彼女はまた俯いた。「そういえばそんな気がする」
雨音は先ほどよりもさらに強くなっている。ずぶ濡れの体はすでに冷え切っていて、体が震えるのをこらえるのもそろそろ限界だった。
「そろそろ帰らない?」
そう言って俺は怜の手を取った。彼女の肩が、驚いた様に震えた。
「そうちゃん、手、冷たい」
「誰の所為だと思ってるんだよ」
「ごめんなさい」
「まあその、別にいいんだけど。怜が無事だったからさ」
「ううん。ごめんなさい。やっぱり私ダメだな」
「ダメでもなんでも、怜は俺にとって、なんていうか、その、大切な人だから。昨日、居ちゃいけない子だ、とか言ってたけど全然そんなことないから。怜がいないなんてありえないから。だからとにかく一緒に帰ろう。俺等の家に」
「私たちの、家」自分の言葉の、その一文字一文字まで噛みしめるように彼女が呟いた。
「うん」俺は頷いた。「怜はもううちの家族の一員なんだから、居なくちゃダメなんだよ。姉としてダメダメでも、家族の一員として欠けちゃ駄目な、パズルのピースみたいな感じのなんかえっと、とにかくそういうのなんだって」
あるいはそれは自分の中でそういうことになっているからこそ、出てきた言葉だったのかもしれない。俺は彼女のことが好きだった。だから彼女が親戚の家に引き取られると聞いたとき、もの凄くショックだった。きっと俺達はこのまま二人離れることなく大きくなっていくのだろうと、特にどこかに根拠があるわけでもないのに、そう信じ込んでいたので、その時の動揺はどうしようもないほどに大きかった。彼女が居ない一ヶ月の間。俺はひたすらどうやって彼女と会いに行こうか、そればかり考えていた。いくらか方法は思いついたが、それを実行に移せなかったのは、彼女が居ない現実から目を逸らしたかったからなのかもしれない。手を拱いているうちに彼女は帰ってきた。変わり果てた姿になって。嬉しいはずなのに、彼女の帰りを心から喜べなかったのは、まだ彼女がちゃんと帰ってきた訳ではない、と判っていたからかもしれない。今日に至るまでの彼女は、とてもじゃないがそれ以前と同じ人間だとは到底思えなかった。無邪気だった笑顔が消え、まるで人形のように、彼女の動作の全てが無機質に感じられて、それが酷く悲しかった。
だから、怜が手を握り返してきた時、その手のぬくもりを感じて、俺は心底ほっとしていた。目の前で照れたような表情を浮かべている彼女は、紛れもなく俺がよく知っている、そして大好きな彼女だったからだ。
「帰ろう」怜が言った。
俺は頷いた。
二人とも傘なんて持っていなかったから、土砂降りの中を無抵抗に濡れながら歩くしかなかった。流石に寒くて俺も怜もじっと黙ったまま、ただ強く手を握りあっていた。
それからしばらくして、通報を受けて出動していた警察のパトカーに拾われて、家まで送り届けられた。家では当然酷く怒られた(特に勝手に出て行った俺はこっぴどく叱られてただでさえ少ない小遣いを半年間も半分に減額される羽目になった)。
そうして彼女は我が家の一員となった。
※※※
結局彼女は家を出る寸前まで鏡と睨めっこを続けていた。最後までクマを隠す努力を続けていた様だが、それも実らなかったようで、薄くはなっているものの、それでもはっきりと目のしたのクマは見てとれた。それを隠すためだろう、階段を降りてきた彼女は白いツバの広い帽子を深く被っていた。それが薄紅色の着物と良く合っていた。けれど悪戯心が沸き上がってきて、「金田一みたい」と言ったら彼女は「じっちゃんの方だよね」と複雑な表情になった。ともあれ、これならまじまじと顔を見詰めでもしなければクマには気付かれないだろう。そう思わさせるほど服装の組み合わせは完璧だった。そして中身も美人なのだから非の打ち所がない。
しかし当の本人はまったく安心して居ないようで、目的地へ向かう間ずっと俺の後ろに隠れながら、人とすれ違う度に顔を伏せていた。
20分ほど歩くと目的地が見えてきた。家並みが寂しい田舎の住宅街の、その向こう側に丘と言うほど低くもないし、山と呼べるほど高くもない、なんとも中途半端な緑色の盛り上がりがある。誰が名付けたのか児童山といい、そこに公園があって、広場には桜の森が広がっているのだ。その他、名前の通り子供が遊べるアスレチックやちょっとしたハイキングコースも整備されている。
坂道を登り切ると、公園と隣接している図書館がすぐ右手に建っていた。公園はこの図書館の向こう側にある。
「バスで来た方が良かったかな」ほう、と息を吐いて怜が言った。元々体を動かすのが苦手で、仕事柄部屋に籠もりきりで運動不足な所為もあるのだろう。脱いだ帽子を団扇代わりにしている彼女の額にはうっすらと汗が浮いていた。日射しは確かに強いが、それでもこの時期にしてはという話であり、汗ばむ陽気という訳ではない。
「ちょっと休憩する?」俺は図書館の方へ視線を向けた。
「ううん。すぐそこだし、頑張る」そう言って彼女は歩き出した。
公園に着くとすぐに広場へ向かった。広場はすぐそばにある。
近づくにつれ、山の土の甘酸っぱい匂いの中に、桜の花の香りが混じっているような気がしてくる。前方に矢印の形をした看板が見えてくる。方向は左を指していて「桜の園」と書いてある。遊歩道はそこで突き当たっているので、左に折れるしかない。果たしてその方向指示は必要なのだろうか、とどうでも良いことを考えながら突き当たりを道なりに折れた。
ちょうど今が満開の時期らしく、一帯に植えられている桜の木はどれも鮮やかに咲き誇っていた。そよ吹く風の中で、雪のように花びらが散るその光景にしばし見とれてから、俺達はその森の中へと足を踏み入れた。他に花見客は居ないようで、辺りはとてもしんとしていた。その中で、さらさらと桜の散る音が聞こえてくるような気がしていた。
「桜の森の、満開の下だね」怜が意味ありげに呟いた。
「なるほど。誰もいないわけだ」見渡しても、俺達以外に人の姿はない。まあ元々そんなに人が集まる場所ではないので予想していたことではある。
「でも私とそうちゃんはいる。あ。じゃあ私は亭主を殺された可哀想な女ね」そう言って笑った。
「確かに、すごく我が侭だ」
「でも鬼には見えないでしょ?」
「どうだろう。たまに見えることが、あるかもしれない」
そんな風に冗談を言い合っていると、不意に彼女が俺の腕に抱きついて来た。その華奢な体が、まるで何かに怯えているように震えていた。
「ずっと桜の花を、見てたら、急にそうちゃんが事故に遭った日のことを思い出して」
なんだって急にそんなことを、と思ったが、辺りを見回してそれも仕方ないと思った。静寂に沈んだ桜の森はどういうわけか、その美しさとは裏腹に物悲しさが漂っている。散った花の悲しみがそこかしこに降り積もっているからかもしれない。先ほど聞いた気がした桜の散る音も、本当は花たちが己の死を愁い啜り泣く声だったのかも知れない。俺も何故だが急に寂しくなってきて、怜の体を強く抱きしめた。そうしていないと、彼女という存在が舞い上がる桜吹雪の中にかき消えてしまい、もう二度と会えなくなってしまう、馬鹿げた空想だが急にそんな不安が胸をついたのだ。事故から生還して、親戚の家から戻ってきた頃の怜がちょうどそんな希薄さの中に居た。俺も人のことは言えない。昔の事を思い出して不安になっているのだ。
しばらくの間俺達は、互いの存在を確かめ合うように、或いはその腕の中に確と留め置くように、抱きしめ合っていた。次第に胸を掴んでいた恐れや不安が薄れていくのが判った。密着し合った体から伝わってくる、彼女の体の感触や胸の鼓動が、恐ろしいほどゆっくりと、しかし確実に俺の中に染み渡って来て、彼女がここに居るのだという確信を強固にしていった。それは彼女も同じだっただろう。やがて体を離した俺達は、先ほどまでのことを恥じるでもなく、照れるでもない、なんとも言いがたい苦笑を浮かべ合った。
「お昼にしよ?」
彼女の提案に頷き、俺はバッグの中から敷物を取りだし、なるべく平らな場所を探してそこに敷いた。
背負っていたバッグを降ろして、弁当箱を取り出した。
隣に腰を下ろしていた怜のお腹から、可愛らしい音が聞こえてきた。朝あれだけ食べていたくせに、どうやらもう腹の虫が鳴き始めたらしい。彼女は顔を赤くしながら、誤魔化すようにしなだれかかってきた。
「燃費が悪いな、怜は」俺は苦笑して言った。
「だってあんなに歩いたの、久しぶりなんだもん」
「あんまり運動してないと年取ってからどうなるか判らないぞ」
「その時はそうちゃんに介護してもらう」
俺は肩を竦めて、使い捨てのおしぼりを彼女にさしだした。
弁当のおかずは、今朝彼女が食べた物とそう変わらない内容だったが、それでも彼女は「こういうところで食べるともっと美味しく感じる」と見ていて嬉しくなってくるくらい美味しそうに食べてくれた。世間一般のカップルと比べると立場が逆な気がしなくもないが、幸せそうにだし巻き卵を頬張る彼女を見ているとそんなことはどうでも良くなってくる。誰かに強制されている訳でもなく、俺がそうしたいからしているだけなのだ。俺は怜を幸せにしてやりたい。今この瞬間も、そして遠い遠い未来でも。
「そうちゃん?」
呼ばれて我に返った。彼女の目は、どうしたの? と訊きたげに揺れながら俺の顔をまっすぐに見ていた。その深く澄んだ瞳で見詰められると、胸の内を全て見透かされてしまうような気がしてはっとする。彼女は時折こういう目を見せる。相手の心を丸裸にしてしまうような眼差しだ。自覚があってやっていることなのか、あるいは無自覚なのか。恐らく後者の可能性の方が高いだろう。そんな訳だから、俺はあまり怜に嘘をつくことが出来ない。吐いたところですぐにばれることが判っているからだ。
「ちょっと考え事をしてた」
「こんなに可愛い恋人と一緒にいるのに考え事なんて、もったいないよ?」怜が悪戯っぽく笑う。
「いつも一緒だけどね」
「だからよ。いつも一緒だと言っても、こういう所で二人きり、なんて滅多にないじゃない」
それは自分が出不精だからだろ、と言いかかったがなんとか飲み込んだ。
「貴重な機会なんだから、たっぷりと満喫しなくちゃ」
とはいえ花見で満喫することなんてそれほど多くはない。大人数で来て宴会をしているのなら誰かが場の勢いで一発芸でもしてそれをはやし立てて、などと色々イベントもあるだろうが、この場にいるのは俺達二人だけだ。弁当を食べ終えてしまうと後はこれといってやることがない。しばらく談笑していたが、やがてどちらも話さなくなった。隣で、足を崩して座った怜の目は、とろんとしていて、既に意識は半分微睡みの中にあるようだった。それは俺も同じだ。食後は眠たくなるものだし、おまけに降り注ぐ日射しは柔らかく、非常に心地良い。俺はリュックサックの底に、重心をかさ上げする為に入れていたクッションを取りだした。ちょうど二つある。こういう時のために用意していたのだ。クッションを枕にして、二人で仰向けに寝転んだ。
「暖かいね」舌っ足らずな声が隣から聞こえてきた。
「ああ」と応じて、俺は目を閉じた。
それだけで意識は微睡みの淵へと深く滑り落ちていった。
どれくらい眠ってしまっていたのだろうか。薄く開いた瞼の間をすり抜けてくる日射しは、いくらか翳っている様に見えた。腕時計で時間を確認しようとしたところで、右腕にかかる重さに気が付いた。顔を横に向けると、怜の寝顔が目の前にあった。彼女は俺の腕を枕のようにして、シャツの胸の所を掴みながら穏やかな寝息を立てていた。
俺より三つも年上の癖に、その寝顔のあどけなさはまるで童女のように健やかで。そういえば余り寝てないと言っていたし、起こすのもなんだか悪い気がして、もう少しこのまま寝かして置いてやろう。幸い、まだ日射しは暖かい。
起こさない様にそっと彼女の髪を撫でていると、舌っ足らずな寝言が聞こえてきた。「そちゃん」と俺の名前を呼んだ怜は、どんな夢を見ていたのだろうか、その閉ざされた眦から涙がこぼれ落ちた。
不意に俺はこの桜の森に足を踏み入れた時の、彼女の言葉を思い出していた。多分彼女は俺が事故に遭ったときの夢を見ているのだろう。
※※※
二年前、中二の冬に俺は交通事故に遭った。その日はちょうどクリスマスイブで、大切な待ち合わせに向かう途中でのことだった。その時のことは断片的にしか思い出せない。俺自身その時何が起こったのかはっきり把握出来ていなかったのだ。交差点で、自転車から降りて信号待ちをしていると、えらく派手に唸るエンジン音が聞こえてきた。そちらへ振り返った瞬間、視界が真っ白に染まった。恐らくハイビームの光の所為だったのだろう。そして次の瞬間、何かとてつもない衝撃を受けて、上下左右の感覚が判らなくなった。目撃者の話では、飲酒運転の車に吹っ飛ばされた俺の体は数メートル宙を舞い地面に叩き付けられたらしい。そして意識はそこで跡切れ、次に目を覚ました時には病院のベッドから見る天井があった。
一週間意識が戻らずに眠っていたと聞かされた時には、流石に信じられなかったが、病室のテレビで、朝のニュース番組を見て改めて事実を認識して、愕然としたことを覚えている。ただそれ以上にショックだったのは、右肩と腰を骨折していて、リハビリをすれば日常生活に支障は出ないが、激しい運動は今までのようには出来ないだろう、と主治医から聞かされたことだった。当時野球少年だった俺には、それは酷く残酷な現実だった。別に将来を嘱望されていたとかそういう選手ではなかったが、小学生の頃からずっと好きで、本気で続けていたことが突然出来なくなってしまったのだ。一四才の少年にとって、それはあまりにも大きすぎる喪失だった。退院し、リハビリを終えてから、一時は左投げを練習しようとしたこともあったが、後遺症はスローイングのみならず、バッティングやグラブ捌きまでにも影響を及ぼし、最早二進も三進も行かない現状に、俺は心が折れ掛けていた。
その当時の俺は殆ど魂が抜けかけていたと言っても良い。勉学にも実が入らず、その年の学年末テストは散々な成績で、このままだと来年受験でどこの高校にも入れないぞと真剣な顔で担任に脅されたことを覚えている。
そんな状況で、救いの手をさしのべてくれたのが怜だった。
彼女はあの日、俺が事故に遭ったという知らせを聞くと、そのまま財布すら持たず家を飛び出そうとしたらしい。俺が搬送されたのは隣町にある病院で、うちからだと自転車でも数十分はかかるところにあった。なんとか母さんが引き留めてくれて、ちょうど良いタイミングで帰宅した父さんの車に乗って駆けつけた。車の中に居る間も落ち着かない様子で、俯いたまま祈るように「死なないで」「お願いだから無事でいて」としきりに呟いていたらしい。俺の事故が、彼女の過去のトラウマを刺激したのは想像に難くなかった。病院につくや、看護師に食って掛かりどこに運ばれたのか聞き出すと一目散に駆け出した。父さんと母さん、それに付き添ってきた看護師が追いつくと、怜は手術室の前の廊下にぺたんと座りこみ、虚ろな目から涙をながしながら、手術中と書かれた赤いランプを見詰めていたという。彼女は、その灯りが消えるまで、そこから動こうとせず、呼びかけても心ここにあらずと言った様子だったらしい。
やがてランプが消え、スライド式の扉が開くと同時に彼女は跳ねるように立ち上がり、渋い顔で出てきた主治医に、「助かるんですか?」ともの凄い剣幕で詰め寄った。その時のことを執刀医だった四〇過ぎの少し頭髪の薄い痩せた医師は、苦笑を浮かべながら「殺されるんじゃないかと思ったよ」と冗談交じりに語ってくれた。
それから怜は俺が目覚めるまで、殆どの時間を病院で過ごしていたらしい。食事も碌に採らずに、俺が目を覚ます前に彼女が倒れるんじゃないかと周囲の人間は心配していたそうだが、そうなる前に俺が目を覚ましたのは、ある意味では不幸中の幸いと言えるかもしれない。
最初に顔を合わせたのも、当然彼女だった。まだ痛みが全身に残る体を気遣うように、遠慮がちに俺を抱きしめながら、「よかった。本当に、よかった」と呟き後は言葉にならない嗚咽を挙げ、喜びを噛みしめるように涙を流し続けた。
それからも彼女は毎日病室にやってきて、身のまわりの世話をしてくれたり、世間話に興じたり、退屈な入院生活を少しでも彩りのある物にしてやろう、というある種の努力が見え隠れするほどに、尽くしてくれた。
そのおかげだろう。当時一番会いたかった人がどういうわけか顔を出さないことに耐えられたのは。相川さくら。当時俺が付き合っていた彼女で、怜の親友でもあった。事故に遭った日、待ち合わせ場所に居たのが彼女だった。自分と待ち合わせをしていたが為に俺が事故に遭ってしまった、と責任を感じてしまい、合わせる顔がなくてお見舞いに来れなくなってしまったであろうことは彼女の性格上、想像に難くなかった。もしかすると何度か病院まで来たことがあったのかもしれない。いま考えればそれらしいことを怜がほのめかしていた感じもする。だが、彼女は俺が入院している間一度も顔を出すことはなかった。ただ、一度だけ怜が手紙を持ってきたことがあった。そこにはあの日待ち合わせをしていなければ事故に遭うことはなかったんじゃないか、という後悔と、未だに会いに行けないふがいなさを詫びる言葉が並べられていた。
その手紙を読みながら、急に相川さくらという存在が、自分の中で急速に遠い物へと変わっていきつつあることに気が付いた。俺がほしかったのはこんな手紙じゃない。ただ彼女に会いたかったのだ。詰るつもりなんてないし、謝罪を求める気なんてさらさらなかった。
大切な物を失ってぽっかりと空いてしまった心の虚を、埋めてくれる存在を、役割を、俺は彼女に求めていた。しかし現実には、それを担ったのは怜だった。俺たちの関係において大きな転換点があったとするならば、間違いなくこの時期だろう。
それまで積み重ねてきた本当の姉弟になろうという努力を嘲うかのように、心が酷く揺れ動いていた。
そうして迎えた春休み。俺は胸にぽっかり開いた大穴を持てあまし、どうすることも出来ずに部屋に籠もっていた。あの頃はずっとそんな調子で、半分死んだような状態だったので、果たして本当に春休みの三日目だったのかも定かではない。いつもの様にカーテンを締め切り、薄暗い部屋の中で、ベッドの上に横たわっていると、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。「入って良い?」という彼女の声。俺は「ああ」とだけ短く答えた。本当は返事をするのも億劫だったのだが、彼女に対して邪険にすることだけはどうにも気が引けていた。
「これ、偶然手に入って」彼女はチケット袋を持っていた。そこから一枚、長方形の紙切れを取りだし、こちらに差しだした。受け取って、それをまじまじと見詰めた。プロ野球のオープン戦のチケットだった。普段の俺なら、そこでテンションが上がってはしゃぎながら「一緒に行こう」と彼女の手を取っていただろう。しかしその時の俺には何かの当てつけか嫌がらせのように思えて、気が付くと俺はチケットを握りつぶし彼女に向かって投げつけていた。思わず右腕で投げていて、電流のように走った肩の痛みの所為で、投げたチケットはあらぬ方向へと飛んでいってしまった。
「出て行ってくれ」低い声で俺は言った。彼女は乱暴にくしゃくしゃになったチケットを呆然と見詰めていた。こちらの声が聞こえていないようだった。俺は苛立ちながら、もう一度、「出て行けっていってるんだ!」と怒鳴った。
びく、と肩を震わせた彼女は信じられない物でも見るように目を見開いた。ごめんなさい、という言葉が発せられたのと同時に、涙が頬を伝い落ちた。彼女は俺が投げたチケットを拾い、足早に部屋を出て行った。
彼女が出て行ってからすぐに、俺はベッドを思いっきり殴りつけた。なんてことをしてしまったんだ。彼女はきっと色々考えた末に、あのチケットを持ってきてくれたんだ。それは俺を元気づけるために他ならない。きっとアレを手に入れるのに苦労したに違いない。なんせ人気球団同士のカードだったから。いくら気が立っていたとはいえ、あんまりじゃないか。己のふがいなさに、もう一度ベッドを殴った。手応えのない感触がもどかしく、余計に気持ちが苛立ってくる。かといって壁を殴るわけにも行かない。隣の部屋に怜が駆け込んだのは、扉が閉まる音がすぐ隣で聞こえてきたので判っている。きっと彼女は声を殺して泣いているのだろう。
しばらく迷ってから、俺は決心して、怜の部屋に向かった。扉の前に立った俺は、どう声を掛けて良いか判らずに、しばらく呆然と立ち尽くしていた。ついさっき決したばかりの心が早くも揺らぎ始めていた。けれどこれはこのまま有耶無耶にしてはならない、という危機感に突き動かされるように、扉をノックした。返事はなかった。俺は黙って扉を開けた。カーテンは開いていたが部屋は薄暗かった。どうやら低く雲が垂れ込めているらしい。部屋の右奥に置かれたベッドのそばに彼女の姿を見つけた。カーペットの上に足を崩して座り込み、ベッドに顔を伏せて肩を震わせていた。
「怜」
俺が声を掛けると、彼女の体が一度小さく震えた。恐る恐ると言った様子で彼女が顔を上げる。その表情に、背筋をちらりと冷たい物が撫でた。まるで昔の様な、深い絶望と悲しみが綯い交ぜになった目をしていたからだ。一瞬足が竦んだようになって動けなかった。まさかまた彼女がこんな表情を見せるなんて思ってもみなかったからだ。一度唾を飲み込んで、俺は彼女の方へ歩み寄った。彼女は、まるで全ての出来事が他人事であるかのように、近づいてくる俺を虚ろな目で見詰め続けていた。俺は改めて自分の馬鹿さ加減に、胸の中で舌打ちをしながら、彼女を抱きしめた。
「そう……ちゃん?」戸惑いを孕んだ声が、耳元で聞こえた。
「ごめん」そう囁いた途端、目頭が熱くなってきた。どういう涙かは自分でも判らない。後悔やら情けなさやら感謝やら。色んな感情がごちゃまぜになっていて、とうてい一言で表しきれるものではなかった。こみ上げてくる物に邪魔されて、それ以上は何もいえなかった。
「大丈夫だよ」優しい声だった。
気が付くと俺は怜の腕の中で泣きじゃくっていた。
「大丈夫」もう一度彼女は言った。その言葉は不思議な説得力を持っていて、魔法の様に胸の中にじんわりと染みこんでいった。ぽっかりと開いていた大穴が埋まっていくのが判った。怜の優しい腕の中で、彼女の服を涙と鼻水で汚しながら、俺はもう彼女が居ないと生きていけないのだという漠然とした、しかし確信めいた物を感じていた。
しばらくして落ち着いた俺は、怜から体を離し、ベッドに背中を預けて、カーペットの上に腰を下ろしていた。隣で、同じようにして怜が膝を抱えて座っている。妙な気恥ずかしさがあって、しばらくの間如何ともしがたい沈黙が辺りに漂っていた。
このまま先ほどのことを謝って、改めて観戦に行く意思を伝えて部屋を出ることはたやすいだろう。しかしそれだけでは駄目なのだ。本当の気持ちを伝えるなら今しかない。一度大きく深呼吸をしてから、俺は彼女の方を振り向いた。
「怜」
「なに?」可愛らしく彼女は首を傾げる。
「いまから言うことを驚かないで聞いて欲しい」そこで一度唾を飲み込み、「俺は怜が好きだ」
「うん」彼女は頷いた。「知ってる」
「いや、だからその、家族としてということじゃなくて」
「判ってるよ」おかしそうに笑って彼女は、「ずっと昔から、だよね」
俺はどう言って良いか判らずに、こくこくと二回頷いた。
「私もそうだから。でも言い出せる勇気がなかった。だって私とそうちゃんは姉弟になったんだし。もし、そんなことを切り出して、関係が気まずくなったらどうしよう、って」
その危惧は俺の中にもあった。うちにやってきてからの彼女は、俺の姉になろうと頑張っているのが判ったから、だからこの気持ちを打ち明けてしまった瞬間に、それまで彼女が積み上げてきた物が無駄になってしまうんじゃないか、その所為でぎくしゃくしてしまうのではないか、そう考えていままで何一つとして伝えられずに居た。けれど、今日、確信したのだ。彼女の腕の中で、決してこの思いを伝えることが間違いではない、ということを。いま目の前で照れたようにはにかんでいる彼女がそれを証明してくれている。
「私も好きだよ。そうちゃんのこと。でも、私なんかでいいの? 三つも年上だよ? それにさくらのことだって――」
「そんなことは関係ない。俺は、怜じゃなきゃ駄目なんだ」
理屈など必要ない。俺は今、目の前の少女を心の底から渇望していた。いまこの瞬間俺が求めているのは目の前の、彼女以外の誰でもなかった。一瞬過ぎった面影も煙がごとくかき消されてしまう。
彼女を抱き寄せようと腕を伸ばす。掴んだ肩は見た目の印象よりも細くこのまま強く抱きしめたらガラス細工のように壊れてしまうのではないかと一瞬躊躇してしまった。しかしそんな戸惑いを塗りつぶすように、彼女の方から抱きついて来た。それがあんまりにも勢いがあったものだから、俺は彼女に押し倒される形になった。倒れた拍子に打った後頭部が痛かったが、抗議の言葉は出て来はしなかった。俺が何か言う前に、彼女がその唇で俺の口を塞いだからだ。唇が、重ね合わされていた時間はそれほど長くはなかっただろう。静かな部屋の中に響いていた時計の秒針が6つほどその足跡を刻んだところで、彼女の顔が離れた。多分俺はすごく間抜けな表情をしていたと思う。なにせ予想外の不意打ちだったので、彼女の唇の感触すら覚えていなかった。彼女はそんな俺の顔を見詰めて、おかしそうに笑うと、もう一度唇を重ねてきた。今度はしっかりとその感触を得ることが出来た。喘ぐような鼻息も、顔に掛かる彼女の髪の香りも、伏せられた目の長い睫も。目の前にいる彼女の一切合切が愛おしく。先ほど抱いた懸念など忘れ感情にまかせ彼女を抱きしめた。それに答えるように、彼女も息苦しい程に抱きついて来て、重ね合う唇の間からぬらりとした感触が忍び込んできた。それが彼女の舌なのだ、と理解するより先に、本能的に自分の舌を絡ませていた。
今この場で彼女のすべてを奪いつくし、自分の物にしたい。それはまさにオスの本能という奴だろう。口づけを終えた俺達はどちらがいうでもなく立ち上がり、そしてベッドの上へと移動した。そこでも再び貪るように唇を重ね、舌を、唾液を、絡ませ合った。
乱れた髪。潤んだ目。口元に垂れる唾液の筋。上気した頬。荒い息。最早理性などという箍はないも同然の状態だった。ただひたすらに本能が囁くままに、俺達は求め合った。
※※※
どこからか鼻歌が聞こえて来る。とても近いようで、遠いようにも感じる。聞き覚えのある声だったから、誰が歌っているのだろうかと、頭のなかで心当たりを探してみたがどうにも上手く行かない。意識が濃厚な霧に包まれている。その霧の正体が眠気である、ということに気が付くまでにかなりの時間を要してしまった。どうやらまた眠ってしまっていたらしい。鼻歌が鮮明に耳に届く。怜が歌っていたのだ。ヴィヴァルディ作曲の春の第二楽章だ。何故第二楽章を? と思ったが、もしかしたら第一楽章から歌っていたのかも知れない。彼女は幼い頃からこの協奏曲集が好きで、機嫌が良いといつもこの四季の春を口ずさんだり、ハミングする習慣があった。
歌声はすぐ真上から聞こえる。少し調子外れのハミングは第三楽章の陽気なメロディを奏で始めた。頭の下の柔らかい感覚から自分が彼女に膝枕されているのだということを何となく理解していた。いつの間に立場が逆転したのかは判らないが、いずれにせよ彼女の目覚めを待つ間に俺はまた眠りこけてしまって、入れ替わるように目覚めた彼女が今度は俺を膝枕したのだ。俺はもう少し彼女の歌声を聴いていたくて、狸寝入りを決め込んだ。やがて第三楽章が終わった。そこで俺はわざとらしく、寝返りを打つ振りをして、それからゆっくり目を開けた。
「おはよう、そうちゃん」やけに嬉しそうな声が頭上から降ってきた。
「おはよう」眠っている間に喉が乾燥していたのか、酷い声が出た。体を起こして、背伸びをして、それから時計を見た。午後3時を少し回った所だ。冬と比べれば大分日は長くなってきては居るが、それでも既に夕暮れの気配が空の色や影の濃さに漂い始めていた。
「ちょっと冷えてきたね」そういって体をくっつけてきた。
「そろそろ帰るか」
「うん」
※※※
俺達二人の関係が両親にばれるまでそう時間は掛からなかった。決定的な瞬間を見られてしまった訳ではなかったが、日常の中に降り積もったそれまでとは一線を画す違和感が、勘付かせてしまったのかもしれない。
「二人に大事な話がある」真面目な顔で父さんはそういい、隣に座る母さんに一度目配せをした。ちょうど夕飯を終えたばかりで、家族全員がテーブルについていた。俺はテーブルの下で怜の手を握った。いつか来るだろうと覚悟はしていたが、まさかこんなに早くばれるとは思っていなかった。心の準備なんて出来ている訳がなかった。握り替えしてきた怜の手は、驚くほどに頼もしく思えた。その横顔に迷いや恐れといった負の感情は一切見てとれなかった。ただひたすらに真っ直ぐな、切実な意思がその目には宿っていた。俺は握った手のぬくもりを意識しながら、誰にも気付かれないようにゆっくりと深呼吸をした。こわばりかけていた肩が軽くなる。
「これからする質問に、正直に答えてくれ」長い沈黙の後で父さんが言った。「二人は、付き合っているのか?」
「はい」怜が即答した。握った手に力が入る。「真剣に、そうちゃんとおつきあいさせて頂いてます」
妙に他人行儀な言い方は、義理の姉弟などではなく、男と女として付き合っている。そう強調しているように思えた。
こうもはっきりと答えが返ってくるとは思っていなかったのか、父さんはしばらく面食らったように黙り込んでから、「そうか」と唸った。それから俺の方へ鋭い視線を向け、「お前はどうなんだ?」
「俺も、本気です。真剣に、怜のことを愛している」
「どういうことか判ってるのか?」険しい口調で父さんは言う。それも当然だろう、と差し穿つような視線を受け止めながら考える。亡き親友の、大切な一人娘に、自分の息子が手を出してしまったのだ。彼の胸に去来する思いを想像することはそう難くはない。
「判っているつもりです」俺は言う。まだ中学生である俺のその言葉にどれほどの説得力があるか、なんて考えなくても判る。けれど怜のことを本当に愛していることは紛れもない事実なのだから、破れかぶれでもそれを伝えなければならない。けれど次ぐ言葉が上手く出てこない。何か言おうとすればするほど、頭のなかで言葉が上滑りをして、喉にまで上がってこない。やけくそになって睨むように父さんの目を見て、言外に意思を送り続けた。まるで婚約者の父親に面通しにやってきた彼氏のようだと思った。状況的には間違っていないような気もするが、相手が実の父親であるというところが大きな相違点だ。
一分くらいにらみ合いが続いたところで母さんが「まあまあ」と苦笑しながら割って入った。「別に反対しようって訳じゃないんだから」
言われて父さんは気まずそうに「ああ、」と頷いた。「怜もまあ、うちの娘だし、なんだ。ついそういう気になってしまったというか」
はいはい、と言い訳を冷淡に受け流す母さん。
「まあそういうことだから。もちろん、何か問題があるような付き合い方をしていたんなら反対しようとは事前に話していたんだけど、大丈夫そうね」
ほっと息を吐いて、怜と顔を見合わせた。初めはきょとんとした表情をしていたが、やがて嬉しさが滲み、溢れて破顔して抱きついて来た。
ごほん、と母さんが咳払いをする。
苦笑を浮かべながら怜は離れた。
「一つだけ守って貰いたいことがあります」母さんは言う。「仲が良いのはいいけれど、まだ二人とも学
生、子供です。しっかりと節度を守ってけじめをつけて、健全に交際するように」
「はい」と俺達は声を揃えて頷いた。
「ほんとうに仲が良いのね」と母さんは苦笑を浮かべた。
「昔からそうだったじゃないか」と父さんも同じように笑い、「二人ともずっと離れようとしないから、これは将来嫁のもらい手も、嫁いでくる相手の心配もしなくて済む、なんてよく話してたもんだ」
「あったわねぇ、そんなこと」懐かしむように眼を細めてから、「まさか本当にそうなるなんて」と冗談めかした口調で言った。
「もう、まだ私たち付き合い始めたばかりなのに」と怜は顔を赤くして俯く。
「けどあなたたちが上手く行かない未来が全く想像出来ないっていうか、ねえ」
母さんの視線を受けて、父さんも「そうだな」と頷く。
俺も怜と上手く行かなくなって別れる想像なんて全く出来ない。けどこれはまだ付き合い始めたばかりの幸せな時期だからであって、そのうち相手の嫌な部分が見えてきたりしてそれでちょっと気まずくなったりすることもあったりするのだろうか。けれど俺と怜は昔から互いのことをよく知っているし、五年近く一つ屋根の下で暮らしてきたし肌も合わせた。もうお互いのことで知らないことなんて、別段気に掛けるようなことじゃない、些末な事柄程度なんじゃないか。そう考えるとやっぱりこの先関係がぎくしゃくして、なんて未来は想像出来なかった。
「ということは、二人は実質婚約者同士ってことかしら」母さんが弾んだ声で言った。
「婚約者」怜は放心したように呟いた。顔はゆでだこのように真っ赤になっている。このまま放って置いたら頭から湯気が出てくるんじゃないかというくらいだ。たっぷり呆けてから彼女は「ふつつか者ですが」と頭を下げた。「よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。こんな愚息ですが」と母さんも頭を下げる。
俺と父さんは二人のそのやりとりを苦笑交じりに眺めていた。
その後は昔話で盛り上がり、そうしてその日の夜は更けていった。
このようにして俺達二人の関係はあっさりと認められてしまったのだった。
※※※
今日は帰れそうにないという電話が掛かってきたのはちょうど夕飯を食べ終えてすぐのことだった。両親は二人とも、同じ会社に勤めていて、それなりに大事な役職を任されているようでこういうことはこれまでもよくあった。今日は何か重大なトラブルが発生していて、朝からその対処につきっきりだったらしい。あんまり無理をしすぎないように言ってから通話を終えた。
「お父さんから?」
「今日は二人とも帰れそうにないってさ」
「そっか。何かあったのかな」
「そうらしい」
二人で居間に戻ってソファに並んで腰掛ける。しばらく会話もなくテレビを見ていたが、やっている番組がどうしようもないくらいつまらない物だったので、食後の満腹間と相まってだんだんと眠気が忍び寄ってきていた。
「ねえ」
怜が話しかけて来たが、そんな訳だからすぐには反応できなかった。はっと我に返って「なに?」と振り向くと彼女は何か企んでいる顔をしていた。
「膝枕、してあげるよ?」
「さんきゅ」
迷いなく答えて俺は彼女の膝に頭を預けた。
うっすらと目を開けたまま見える天井も彼女のあまりみることのない角度からの顔はぼんやりと滲んでいて、それが眠気のせいなのか、薄目だからなのか判らなくなってくる。
くすくすと笑う声が上から降ってくる。
「何か面白いのやってた?」
「面白いのはそうちゃんの方」
彼女が言いたいことが判らなかったが、眠気が邪魔して言及する気にはなれなかった。
そのままぼーっとしているとまた何か思いついたらしく、子猫のような好奇心を目に浮かべて「ちょっと立っていい?」と言ってきたので俺はのそのそと体を起こした。怜は急ぎ足に部屋から出ていって、しかしすぐに戻ってきて隣に腰を下ろした。
「さ、どうぞどうぞ」膝をぽんぽん叩く彼女。もう片方の手に耳掻き棒が握られている。どうやらあれを取りに行っていたらしい。おとなしく彼女の膝の上に片方の耳をしたにして頭を乗せた。
「なるべく丁寧に頼むよ」
「漫画家の指裁きをなめないでね」
よく判らない自信に満ちた返しに一抹の不安を覚えつつ、まな板の上の鯉に徹することにした。
しかしいざ始まるとこれが思いの外気持ちいい。どうやら口だけではなかったらしい。痛くはない、かといっておっかなびっくりという訳でもない絶妙な力加減で耳掻き棒が動かされている。
「どう、気持ちいい?」
また睡魔が押し寄せてきていて、声を出すのも億劫だったので右手を軽く挙げてそれに答えた。
手を止めて、おかしそうに怜が笑った。
「今度はなにが面白かったの」俺は訊いた。
「こうしてると私の方が年上で、お姉さんなんだなぁって思えてきて」
「そりゃ怜の方が三つ年上だし。そらそうでしょ」
「でもほら、普段はあんまりそういう風に自覚する機会がないっていうか」
「それは自分が悪い」
「それはそうだけど」
「自覚はあるんだ」
「自覚して甘えてます。でもこうして甘えられる側になるのも悪くないかな、って。だからもっと甘えてくれてもいいんだよ?」
「頼りがいがあったらな」
「あっ、ひどーい。そんなこというなら耳掻きしてあげないわよ」
「冗談だって」自分が勝手に始めたことだろ、と思ったがそれを口に出すと喧嘩になるので飲み込んだ。「正直さ、怜って俺が甘えようとしたらいくらでも甘やかしてくれると思うんだ」
「うん。甘えてきたそうちゃんを追い返す冷徹さは私にはないもん」
「はっきり言い切るなよ」俺は苦笑してから話を続ける。「でさ、ずっとそうするのも多分悪くはないと思う。それはそれで幸せそうな気がする。けどそれじゃあ駄目なんだ」
「どうして?」
「いや、まあそこは男のプライドっていうかなんというか。俺はさ、怜を幸せにしてやりたいから。だから、なんだろ、上手く言えないけど、そういうなにもしなくてもなれるだらだらとした幸せはもっと後に取っておきたいんだ」
「じゃあやめる?」
「え?」
「耳掻き」
「いまは例外」
そういって、俺はもそもそと寝返りを打って、反対側の耳を上に向けた。
「あ、こら。まだ右耳終わってない」
「大丈夫」
「なにが」
「なんとなく」答えて俺はあくびをした。
怜の吐いたため息が耳にかかって、少しぞわぞわっとした。それからすぐに耳掻きは再開された。
「ねえそうちゃん。覚えてる?」眠りに落ちるかどうかというところで彼女の声が聞こえた。「私たちがつきあい始めた頃のこと」
「まあいろいろあったからなあ」
「最初の春を過ごして、二回目を迎えて、今年で三回目」怜が今どんな顔をしているのか、無性に気になった。なぜだか声のトーンが寂しげだったからだ。「私たち、これからもずっと一緒で居られるかな」彼女の手が止まった。耳掻き棒が、耳から離れる。
「当然だろ。何言ってるんだよ」
「だよね。でも時々不安になるの。こんなに幸せでいいのかなって」
「幸せになっちゃダメな人間がこの世に居るわけないだろ。だからいいんだよ」
「でもそうちゃん。だって、私は、さくらを」
「怜は悪くない。そのことで責められるべきは俺だ」俺は体を起こした。
さくらさんを裏切ったのはこの俺なのだから。元から怜のことが好きだったこともある。けれど一時の寂しさに耐えきれずに、理性を捨て去り、安楽を求め不義理に走ったのは間違いなくこの俺なのだ。怜はそれに巻き込まれたにすぎない。
「そんなことないよ。私も同じだから。私だって、親友としてさくらのことを応援していたの。なのに、自分を抑えきれなかった。だから私だって同じ裏切り者なの」
「それでも――」
怜がのこれまで歩んできた道の険しさを考えれば、どれだけ卑怯な手を使って幸せになったって、誰も文句は言えやしないだろう。例え神様だってだ。
そんなことを口にしようとした俺に、彼女は優しく唇を重ね合わせ、その先を言わせなかった。
「ありがと」穏やかな表情とは裏腹に、目には涙が浮かんでいた。俺は彼女を強く抱きしめた。
※※※
その日は五月にしてはひどく蒸し暑い日曜日だった。昨夜降った雨の所為だろう。水溜まりには晴れ渡る空の青が映り込み、新緑の木々は日差しを受けて目が痛いほど鮮やかだ。丘の頂上に着くと、いくらか湿気はマシになったような気がしたが、日差しのまぶしさが増した様に感じられた。
久しぶりに訪れたあの東屋にさくらさんは居た。彼女から呼び出されて来たのだから当然だ。心構えはできていたつもりだが、それでも後ろ姿が見えた瞬間に、心臓を鷲掴みにされるような緊張が全身を捉えた。しばらくその場に張り付けられたように動けなくなった。東屋の屋根のしたで、彼女が顔をうつむけたのが判った。時間を確認しているのかもしれない。そろそろ来る頃だろう、と。
やがて痺れを切らしたのか、彼女が振り返った。その仕草に一切の迷いがなく、目があっても動揺の色のひとかけらも感じ取れなかったのは、もしかしたら俺が既にすぐそばに居ることに気がついていたからかもしれない。
俺は小さく会釈をして、東屋に向かった。
「久しぶりですね」
「ええ」短く応えて、彼女は目で座るように促した。
彼女の隣に腰を下ろした。緊張で胃がどうにかなりそうだ。
「怜とは、どう?」
俺はどう答えようか迷ったが、嘘や気休めを言っても仕方がないので「順調です」と本当の事を答えた。
「そう」
俺は彼女の何かに耐えるような痛々しい表情を見ていられなかった。そればかりではない。最後に会った時よりも、彼女は酷く痩せていて、魂が抜けだしたように、生気が感じられなかった。
これが自分のしてしまったことなのだと突きつけられているような気がして、何を話していいのか判らなくなった。正直に言うと逃げ出したくなった。けれどそうしなかったのは、彼女に対する申し訳程度の義理なのか、それとも単に足がすくんでいるだけなのか。いや、きっと両方なのだろう。
「どうかしたの?」
「いえ」
「今日はただ、あなたの顔を見たかったから来てもらったの」
俺は彼女の方をみれずに、ずっと外の風景を眺めていた。だから彼女がこちらにもたれ掛かってくるまで、一人分あけていたはずの距離がなくなっていたことに気が付かなかった。
「不思議ね」
確かに不思議だ。また彼女の温もりを感じられるなんて。
「こうしていると辛いはずなのに、胸が痛いのに、あなたの肩に乗せた頭の角度があまりにもしっくりくる所為かしら。気持ちが安らかになるの」
彼女は泣いていた。
「宗平君が一番辛い時期に逃げてしまった私は、確かに恋人失格なのかもしれない。だから、私は怜のことを悪く言えないし、あなたの元気な姿を見れていまとても安心しているの。それが怜のお陰なら、私は彼女に感謝しなければならない」
「さくらさん……」
「ねえ宗平君。もう恋人にはなれないけど、でも、私は、友人として、あなたの近くに居たい」
断る理由なんてなかった。あるいはそれは、彼女に対する幾ばくかの未練があったからなのかもしれない。俺は彼女からの申し出を快く受け入れた。
「さくらさんの方こそいいんですか? 俺はあなたを裏切ったんですよ」
などと白々しいことを言い。
彼女は俯き、「結果的にあなたを見捨ててしまった私にとってはそれで尚、贅沢なことだから」
それに、私はバカな女だから。
彼女はそう呟き、体を離した。それなのに彼女が頭を乗せていた右肩から重さが消えることはなかった。
「今日はありがとう」別れ際、彼女はそう言って微笑んだ。いくらか顔色が良くなっているように見えた。
「こちらこそ」俺は小さく頭を下げた。
「なんだか変な感じね」くすりと彼女は笑う。
「そうですね」俺も笑った。
「それじゃあまた」
坂の向こうへ彼女の姿が消えていく。俺はその背中を見えなくなるまでずっと見守り続けた。
※※※
夜は静寂の中で更けてゆく。先ほどまで隣でしゃべり続けていた怜は、いつの間にか眠ってしまっていた。彼女の重さを体の左側半分で受け止めながら、その寝顔を覗き見た。穏やかだ。無防備で、安心しきっている。彼女の頭を優しく撫でる。絹糸のような髪の手触りが、心地よい。この髪は怜の自慢の一つでもあった。そして俺はそんな彼女の髪を愛した。子供の頃から怜の髪に触れるのが好きだった。こうして撫でていると、どうしようもないほどに愛おしさが募ってくる。
思えば、彼女が髪を伸ばすようになったのも、小さい頃に俺が長い髪の方が好きだと言ったからだ。彼女が和装にこだわるようになったのも、似た様な理由だ。
何もかもが俺の好みで、だから時々怖くなる。これは幻なんじゃないかと。もちろんそんなことがないことは判っている。時々好みの違いで意見が食い違うことがあるし、小さな喧嘩ならしょっちゅうしている。でも、それでも不安になることがある。さっき怜が言っていたことがよく判る。俺も同じように、幸せすぎて不安なのだ。
こんなこと、さくらさんに言ったらきっと、「贅沢な悩みね」とため息混じりに呆れられるに違いない。
さて、これからどうしよう。頭を撫でながら考える。当分目覚めそうな気配はない。もしかしたら朝まで起きないかもしれない。それはそれでいいかもしれない。俺も眠たくなってきた。
「おやすみ、怜」
彼女の眠りを妨げぬよう、小さくささやいて、俺は目を閉じた。彼女の寝息と重さと体温を確かに感じながら、それに抱かれるように、意識は安らかな眠りへと落ちていった。
了
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