番外編 blast from the past ep.1 "SECRET LOVE"
1
それは中学に入って迎えた最初の夏の出来事だった。
「なあ、怜。これはどこに置けばいいんだ?」
「んー、それはそこの端にでも寄せておいて」
雨で部活が休みになった日曜日。
俺は彼女の実家の掃除を手伝っていた。
普段はものぐさで何をするにもちんたらしている彼女も、この時だけはまるで別人のようにきびきび働き、いつも俺は驚かせられる。と、同時に普段からもっとこうしてくれればいいのに、とも思う。
基本的に父さんも母さんも仕事大好き人間であり、俺が中学生、怜が高校生になったのをきっかけに仕事で家に居ない時間の方が増えた。結果家事は自分たちでする機会が多くなった。分担してやっているが、怜は料理が全くダメだし、洗濯にしてもたたみ方が雑すぎて見ていられないので気が付いたら俺がその多くを担当することになってしまっていた。彼女の担当はほぼ家の掃除だけである。それだけは唯一マシあのだが、いかんせん時間がかかるのだ。彼女に言わせれば、実家の方は若干雑にやってて、うちの掃除は丁寧にやっているとのことだが、どう考えても塩梅を間違えている。出来れば日常の方で多少の手抜きをしてもらいたいものだ(ただし自室に関しては手抜きどころか完全放置であるのでそれはそれで問題だ)。
「これくらいで良いかなあ」
床を拭いて真っ黒に汚れた雑巾をバケツの縁に掛けて彼女が立ち上がった。
「そっちはどう?」
「おう、完璧」食器棚も納戸もぴっかぴかだ。
「流石そうちゃんだね」そう言って彼女は自分のことのように嬉しそうに笑う。
そう言う風にされると恥ずかしくって背中がくすぐったくなる。
「そう言えば、そこの柱の傷、あれなに?」
俺は照れ隠しで話題を変えた。
「ああ、これ? ふふ。昔ね、突然お父さんが成長の記録を残そうとか言い出して。多分ジョン・レノンか何かに感化されたんだと思う。でも結局これが最初で最後になっちゃった」
リビングの窓際にあるその柱へ近づいて改めてその傷を観察してみた。
怜の傷はちょうど俺の目線の高さくらいにある。それより15センチほど高いところに怜のお母さんの物が、そしてそのさらに20センチほど高いところにお父さんの物が。そう言えば怜も含めてだけど背の高い一家だったなあ、と懐かしさがこみ上げてくる。
「そうだ。なあ怜、せっかくだしいまどのくらいか見て見ようよ」
「えー、なんか恥ずかしい」
「いいじゃんか。ほら」俺は怜の手を引いて柱の所まで連れてきた。
「しょうがないなあ」
そう言って彼女は柱にぴったりと背中をつけた。
俺はマジックを持ってきて、怜の頭の高さのところに印を付けた。そこはちょうど彼女のお母さんの高さと同じくらいの所だった。
「じゃあそうちゃんも」
悪戯っぽく彼女が言った。
「えー」
「ほらほら」
半ば強引に柱に押しつけられ、すっと背筋を伸ばす。怜が柱に印を付ける。
「あ、まだ私の方がちょっとだけ高いんだ」嬉しそうに彼女が言った。
「すぐに追い越してやるから」俺はちょっとだけムキになっていた。
「そうだね」怜は優しく微笑んだ。「期待してる」
それから彼女は懐かしそうに柱に手を当て、「そっか、私ってもうこんなに大きくなってたんだ」と呟いた。
その横顔の儚さに俺は胸がどきっと高鳴った。彼女と姉弟になってから隠そうとしてきた感情が思わず溢れ出してきそうになる。
「ねえ、そうちゃん」
そう彼女に問いかけられた時、不意のことだったから俺は動揺してすぐに反応できなかった。
「どうかした?」不思議そうに彼女が首を傾げた。
「いや、なんでもない」そう言って俺は大きく息を吐いた。
「ならいいんだけど」彼女は思案顔で「そうちゃんって着物好き?」
「着物?」
「うん。着物を着た女の人ってどう思う?」
「いいじゃないか? 怜のお母さんも綺麗だったし。怜も似合うと思うぞ」
彼女のお母さんは、元々良家の出だったこともあってか着物の着こなしが上手だった。
駆け落ちを計画し始めた段階から一年ほどかけて嫁入り道具とばかりにこっそり実家から大量の着物(もちろん自分の物である)を持ち出しておりそれを普段着にしていた。そして生前は週に一、二回市民センターで着付け教室や茶道教室をやって家計の助けにしたりもしていた。そんな訳でどちらかというと母親似の怜であれば間違いなく似合うだろう。
「そう思う?」嬉しそうに彼女は言った。「そっかそっか。えへへ」
「なに気持ち悪い顔してんだよ」
「内緒」
その日の夜、俺はすぐに彼女が何を考えていたのか知らされた、というか見せつけられた。
それまで彼女は風呂上がりにはパジャマ替わりの色気もなにもあったもんじゃないジャージを着て居たのだが、「お風呂あいたよー」とリビングにやってきた彼女は襦袢を身にまとっていたのである。
髪をアップにしてまとめているせいで火照ったうなじが丸見えだし、胸元はの襟の合わせ方が緩くて見えそうになってるし、妙に腰周りのラインがくっきりしていて目のやり場に困った。思春期を迎えたばかりの男子中学生には刺激が強すぎる光景だった。
「どうしたの?」そう言って前屈みになってこちらの顔をのぞき込んでくる。
「いや、なんでもない」見るな、見るな、と言い聞かせながらもちらちらと彼女の胸元を見てしまう。恐らく平均的な基準と比べて小降りすぎるであろう彼女の胸も、こういうシチュエーションではとにかく魅力的すぎてなんだかもう、いろいろやばかった。
「風呂、入ってくる」
俺は逃げるようにリビングを後にした。
この日を境に怜は普段着に和装を選ぶようになったのである。
さて彼女が普段着用している四季折々に合わせた着物であるが、そのほとんどが彼女の母親が遺した物であり、当然最初のうちはそれを着回していたのだが、何せ高価な着物ばかりだったので着用した後の手間も面倒で、うっかり汚した際のクリーニングにしても専門業者に依頼することになるので高くつく。
いつの間にやら自分の小遣いで洗濯が出来るカジュアルな着物を買い、普段はそれを着用し、何かの行事や彼女なりに気合いを入れて外出する時に母の着物を着るようになった。
「お前の姉ちゃんってすっげえ美人だよな」
練習後のグランドにトンボかけをしていた時だった。国彦の奴がにやにやしながらそう話しかけてきた。
「まあな」怜が美人なのは間違いないので俺はそう答えた。
「いいなあ」
「いいだろ」
「マジ羨ましい」
「まあ姉だけどな」
「それでも」
「何の話?」と公彦がやってくる。気が付くと俺たちは一二塁間で三人集まっていた。
「いや、こないだこいつの姉ちゃん見かけてさ。すっげえ美人だったから」
「ああ、そうだね。お姉さん綺麗だよね」そう言って公彦はくすくす笑う。「まあ僕らはもう見慣れてるけどね」
「俺なんて四六時中顔合わせてるし」
尤も普段から無防備すぎるので慣れというものはない。
「俺さあ、一人っ子だし、弟とか欲しいなあとか思ってたんだけどさあ。あんな美人な姉ちゃんいたら良いだろうなあってのに気づかされた」
「気づかんでいいわ」俺は言った。
「やっぱりあれか? 風呂とか一緒に入ったりしてたのか?」
バカな男子中学生であるから当然こういう方向に話題は移っていく。俺はため息を吐いた。国彦にあきれたからではない。つい先日、悪ふざけで怜が背中を流しにやってきたことがあり、その時のことを思い出した自分を落ち着けるためだ。
「そう言えばお姉さん着物を着るようになったんだね」と公康が言った。「この前出会ったんだけど、なんだかおばさんのこと思い出しちゃった」
「あんな風にしっかりしててくれればいいんだけどなあ」
「お姉さんの世話するの好きな癖に」そう言って公康が笑った。
「さてはお前、Mだな」
「うるさい。国彦は黙ってろ。ほら、さっさとトンボ掛け終わらすぞ。あんまりちんたらしてたら先輩に怒られる」
「はは、そうだね」と公康。
「うぇーい」と国彦。
それから俺たちはトンボを用具置きに戻して帰り支度を始めた。
「そういえばそろそろ七夕じゃんか」とバッグを肩に掛けながら国彦が言った。「おまえらどうすんの?」
「どうするって、何が」俺は言った。
「商店街で祭りあるだろ?」
「ああ、そう言えば」
「俺さー、絶対彼女作って一緒に行くって決めてたんだけど、なんか無理っぽいんだよな」
「あと一週間あるだろ。いけるいける。頑張れ」俺は投げやりな調子でそう言った。
「僕はその日ちょっと用事があるから祭りには行けないなあ」と公康が答えた。
「で、お前は?」
「俺は怜と一緒に」
「流石シスコン野郎だ」
「うるせー」
「夏井とか誘ってやんねえの?」
「は? なんでそこで夏井が出てくるんだよ」
「なーんか匂うから」
「席が隣ってだけだしなんもねえよ。なあ、公康」
「あー、そう、なのかな」何か考え事でもしていたのか、歯切れの悪い返事をした。
「でもお前、夏井誘ったら一緒に多分井上も来るぞ」
「だからなんなんだよ」
「夏井も可愛いけど、井上も美人だろ。でっかいけど」
「少なくともお前よりはでかいな」
「俺はコレから伸びるんだよ。見てろよおまえら。絶対ビッグな男になるから」
「おーそうか。期待してる。なったらなんか奢ってくれ」
「まかせろ。ってなんでだよ」
「僕は寿司でいいよ」
「いや、栗原お前まで乗ってくるなよ」
あははは、と笑いながら俺は少しだけ井上のことを考えていた。彼女は夏井の友人で、昔からの腐れ縁らしい。二人して同じタイミングでこっちに引っ越してきた位だからよっぽど強い縁で引かれ合っているのだろう。
活発な夏井とは対照的に、井上はとても大人しかった。こちらから話しかけなければまず言葉を発しないし、話しかけたところであまり会話が弾む相手でもなかった。彼女は高すぎる身長がコンプレックスらしく、いつも猫背で、重たそうな長い髪を肩の前に垂らして生活していた。見た目の印象も実際の印象も暗い。
しかし彼女が醸し出すある種の幸の薄さが一部の男子に受けていた。俺はそこに塞ぎ込んでいた時期の怜と共通する何かを感じていて、だからちょくちょく話しかけていた。
「それはそうと来週から大会だな」と国彦。
「だなあ。まあ俺ら全員背番号もらえなかったけど」
「来年こそは、だね」
「それよりまずは秋の新人戦だろ」
「まあ何にせよがんばるしかないわな」俺は言った。「成るようになる」
「ケ・セラ・セラだね」
「おまえら難しいこと言うのやめろ。俺はバカなんだ」
「国彦、お前自分で言うなよ。バカだけどさ」
「うん。バカだね」
「いや、流石にバカバカ言いすぎだろおまえら」
あははは、と笑い声が響く。
それから途中まで三人で帰っていたが、ちょっと本屋に用事があったので俺だけ途中で別れた。
森書店という商店街にある古びた本屋が俺の行きつけの店だ。店は狭いし建物も古い。品ぞろえは決していい方ではないが、これ、というツボを抑えた本がいつも置いてあって足繁く通っていた。
俺は文庫本の新刊コーナへと向かった。
いつもこの時間は店内はがらがらなのだが、今日は先客がいた。うちの制服を着た、背が高くて髪が長い猫背の女の子。井上だった。
「あ、」と彼女は短い声を漏らした。
「よう。奇遇だな」俺は言った。
彼女の隣に並んで平台に目を落とす。
「井上も良く来るのか?」
「それなりに」と彼女は答えた。「いつもはもっと早い時間に来てるから」
「だから出会わなかったんだな。今日はなんか用事が?」
「図書室で試験勉強してた」
「ああそう言えば期末試験近いもんなあ。やだなあ」
「いいじゃない。三島は成績いいでしょ?」
「うちはまあ教えるのが好きなスパルタ教師がいるから」俺はため息を吐いた。むろん、怜のことである。彼女のその本性を知ったのは中間テスト前のことであった。自分のテストも近い癖に、嬉々として勉強を教えに来たのである。その上質が悪いことに、俺がどうこう、というよりも教えた自分が満足出来るまでひたすらテスト対策のあれこれを詰め込んでくるのだ。おかげで学年でもトップクラスの成績を収めれたのでそれは助かったのだが、正直かなりきつかったのでまたあれが始まるのかと思うとうんざりする。
「そう言えば、井上って普段どんなの読んでるんだ? いっつも休み時間とかに読書してるじゃんか」
「え? ああ、その、こういうの」そう言って恥ずかしそうに彼女が手に取ったのは流行の恋愛小説だった。「変でしょ」
「そうか? 俺も恋愛小説読むしいいんじゃないかな。というか俺が読んでるよりは井上が読んでる方が似合うだろうし」俺は苦笑した。以前鞄の中に入っていたこの手の小説をネタにからかわれたことがあったのだ。
「私はいいと思う」彼女は言った。「恋愛小説好きな男子がいても」妙に熱っぽい口調である。そのままずい、と顔を近づけてきて「三島にも似合うと思う」
「お、おう」
「あ、ごめん」そう言うとさっと後ずさる。
俺はその身のこなしの軽やかさにはっとして、つい思ったことを口にしてしまう。「井上は何か部活入らないのか?」
俺の問いかけに彼女は困ったような表情になって、「私、なんの取り柄もないから」
「そうかなあ」俺は言った。「井上ってめちゃくちゃ運動神経いいだろ。走るのも早いし、手先も起用だし」
「それはまあ、他人よりちょっと良いくらいで、きっと私より出来る人は沢山いるから」
「いや、女子で井上ほど体動く奴はそうそう居ないと思うぞ。だからさ、まあお節介な話だと思って聞いてくれればいんだけど。バスケとかバレーとかやってみたらいいんじゃないかって思うんだ」
「どうして?」
「背が高いから」
俺がそう言ったのと同時に彼女の表情が固まった。そして俺はしまったと思う。自分でもバカなくらい無神経に彼女のコンプレックスに土足で踏み込んでしまった。
「背が高い女子ってどう思う?」手に持っていた文庫本をぎゅっと胸に抱きしめながら彼女はそう問いかけてきた。
「いいんじゃないか。少なくとも、俺から見れば井上のその背の高さは長所になり得ると思う」
「長所に」
俺は頷いた。「それにさ。怜が、ああ俺の姉ちゃんなんだけど、結構背が高くてさ。見慣れてるってのもあるんだけどな」
「あの綺麗な人よね」
「なんだ知ってたのか」
「前に見かけたことがあったから」
なんだか怜の奴そこら中で目撃されてるな。そんなに外にでるタイプじゃないのに。
「けど、私はあんなに美人じゃない」
「何言ってんだ。井上が美人じゃないなんて言ったら世の中の大半の人が怒るぞ」俺は言った。どうもこいつは自己評価が低すぎる。そこにちょっとだけ苛立っていた。「気が付いてないだろうけど、井上って結構男子に人気あるんだぞ」
「私が?」彼女は驚いた様に口を開けた。「うそ」
「マジだ」
「じゃあ聞くけど」彼女は大きく息を吸った。「三島はどうなの?」
「どうって。まあ井上が人気あるのは判るぞ」
彼女はため息を吐いた。
「私の事、そう言う風に見てるの?」
「いや、それはだな」
イエスと答えれば、それはそれでなんだか気まずいし、かといってノーと答えてしまったら言ったことの説得力が大幅に削がれてしまう。
「三島はお姉さんがタイプだったっけ」
しらけた様子で井上はそう言った。
「誰から聞いたんだよ」
「香奈が言ってた」
「間違いはないな。うん」
まあ好きな相手ではあるから好みのタイプであることに間違いはない。実は背が低めで童顔で胸が大きい子も好き、なんて流石にこの状況で暴露出来ない。
「たぶんだけど、私も同系統?」
「かもしれないな」
「ありがとう」彼女はそう言って笑顔を浮かべた。四月に出会ってからすでに三ヶ月弱。初めて見た彼女の笑顔だった。「少しは自分に自信持てるかもしれない」
「あ、ああ」俺としては単に世間話をしていただけで、特に感謝される筋合いがあるとは思えなかったので「どういたしまして」と困惑しつつ答えた。
「それじゃ、三島。また学校で」
「ああ、気をつけて」
井上がレジに向かった。俺はその後ろ姿を見守ってから目当ての本を探した。
家に帰ると浴衣姿の怜がリビングの姿見の前でなにやら難しい顔をしていた。薄紅色の生地に鮮烈な藍色で描かれた朝顔があしらわれた清涼感あふれる浴衣だ。きっと七夕の祭りに着ていくつもりなのだろう。しかし様子を見るところ、これは間違いなく捕まると色々面倒なパターンだ。気づかれないようにこっそり廊下に出ようとしたところで「そうちゃん!」と弾んだ声が背中に飛んできた。
俺は振り返った「なに?」
「これなんだけど、どっちがいい?」
彼女が手にしていたのは簪だった。片方は梅の花をモチーフにした物で、朱と白のコントラストが派手ながらも決して華美過ぎない上品さでまとめられている。対するは漆塗りの一本簪で、深緑の漆玉に花の模様が描かれたとても上品な仕上がりである。
俺は想像してみる。彼女のしっとりとしていて、きめの細かい黒髪にはどちらが合うのか。前者は可憐な少女の魅力を余すところなく引き出すことであろう。この簪をつけて、屋台の焼きそばを頬張っている姿を思い浮かべてみるととても様になっている。もう片方の簪はどうだろうか。それはきっと彼女の美しさをより引き立てるだろうと思う。彼女の黒髪の中にあってそこまで目立つことはないはずだ。けれど、まとめ上げた髪の中で、時折屋台や街灯の灯りを上品に照り返し、絶妙なアクセントになる。きっと暗がりで、一緒に花火を見ている時などであればより一層美しさが増して、俺は多分見とれて目が離せなくなるだろうと思う。
正直甲乙付け難い。
「どっちも似合うんじゃないかな」
「むー。それじゃダメなの。どっちか、そうちゃんが決めて」
「なんで俺が」
「私じゃ決められないから」
「じゃあそっちの派手な方」
どうせ祭りになると色気より食い気が勝つのが常なのだから。それなら活発な印象の方がいい。
「うん。じゃあこっちで決まり」嬉しそうに彼女ははにかんだ。それから簪をまとめた髪の中に差し、袖をひらひらはためかせながらぐるりと一回転。そして満足そうに笑顔を浮かべて「可愛い?」と訊ねてきた。
「すごく似合ってる」
「だよねー。えへへ」
鏡の前で無邪気なままにくるくる回っている彼女はまるで蝶のようだ。無邪気で可憐で見とれてしまう。しかしそれと同時に胸が苦しくなる。姉と弟。そう言う間柄として接しなければならない。本当だったらもっと彼女を誉めてやりたい。自分が彼女を好きだと言う気持ちに任せるままに。けれどそれは出来ないのだ。怜の弟になると決めたその時から。
「そうちゃん?」
気が付くと、怜が心配そうに俺の顔をのぞき込んでいた。
「ごめん。ちょっとぼーっとしてた」俺は言った。
「もしかしてみとれてた?」怜が悪戯っぽく笑う
。人の気も知らないで。
「そうかもな」
「え?」自分で言っておいて何を驚いているのか。怜は目を丸くすると、急に真っ赤になって慌てたように背中を向けた。
「あの。そうちゃん」
「なんだよ」
「私、綺麗?」
「急に何口裂け女みたいなこと言ってんだよ」
「むー。なによそれ。じゃあ正直に答えてくれないと酷いことになるから」
「綺麗だよ」
「そう。そっか。そうだよね。うん。私は綺麗」
「何ちょっと自画自賛してんだよ」
「そうちゃんが褒めてくれたからでしょ?」
まあそれはそうだけど。
「なあ怜」
「なに?」
「俺たち、姉弟だよな」
俺がそう問いかけると、彼女の背中が急に悲しげに見えた様な気がした。
「そう、だね」
声は明らかにトーンダウンしていて、先ほどまでのはしゃぎっぷりが嘘の様だ。
「でも!」と彼女が振り返る。「仲の良い姉弟もいいと思うから。お姉ちゃんにベタベタくっつかれる弟っていうのも悪くないと思わない?」
「悪くはないな」
「だから、だから、これでいいんだよ。私とそうちゃんは仲良し姉弟なんだから」
俺に対する言葉というより、それは自分自身を納得させる為の言葉であるように聞こえた。
仲良し姉弟。
その言葉はまるで免罪符の様に甘く魅力的に響いた。だから俺はすぐにそれを掴んだ。うちに秘めた想いの幾らかを代償として。
「七夕のお祭り一緒に行こうぜ」
俺がそう言うと怜は目をキラキラと輝かせて、「もちろん!」と抱きついて来た。「最初からそのつもりだったもん」
抱きしめたいのを我慢して、彼女を受け止めて、遠慮がちに髪を撫でて、良いにおいがするなあ、なんて考えながら、こみ上げてくる衝動を押し殺す。今し方手にした免罪符が、戒律に姿を変えて感情を縛り付ける。
でも、これでいいのだと納得させるしかない。俺と怜は姉弟なのだから。
2
前日の雨が嘘のように晴れ上がり、梅雨の合間の夏の日差しが強烈に降り注いですっかり真夏日の様相を呈していた。
「あづい」
机に突っ伏してへばっていた夏井が断末魔のような声を漏らした。
「暑いな」
全く風が入ってこない窓の外を眺めながら俺は答えた。
「けど晴れてるし良い天気じゃんか」
「三島くんって暑いの好きなの?」
「わくわくする」
「うわー。ないんですけど」
「暑いからってへばってたら余計しんどいだけだぞ」
「もう限界までしんどいからへばってるんですよーだ」
「一理ある」
「納得するんかい」力のないツッコミが飛んでくる。
「織り姫と彦星的には間違いなく天晴れな一日だよなあ」
「今日七夕だもんね」そう言って夏井は少し遠慮がちに、「予定、あるの?」
「怜と一緒に、商店街の七夕祭りに行く予定なら」
「お姉さんと一緒ってどうなの」
「どうもなにも。いいだろ別に」
「私もその祭り行くんだけど」
「勝手に行けばいいだろ」
「行くわよ。行きますよーだ。このバカ」
「最後の一言は余計だろ。それにバカはお前だ」
「は? なんで私がバカな訳?」
「次、数学だけど。ちゃんと勉強してきたか?」
「何の」
「小テストやるって言ってただろ」
「……して、ない」絶望を絵に描いたような顔で彼女は呟いた。
「まあ頑張れ」俺は素知らぬ振りを決め込んで、窓の外に視線を戻した。特におもしろいものなんてないけど、今学期最後の席替えで掴んだ窓際の特等席なのだから無理矢理にでも楽しまないと損だ。
だがそうも悠長なことは言っていられない。
「三島君。どこ、範囲どこだっけ」
ぐい、と制服のカッターシャツをを引っ張られる。
「もう遅い」俺は言った。「五分もないだろ」
「数学の石川って毎回ちょっと遅れるし実質八分くらいはあるから!」
「そんなもん一緒だろ」
「あんまり成績酷いとお父さんに心配かけちゃうから」そう言って目を潤ませる。それなら普段からちゃんと授業聞くなりしておけよ。
「お前んちのお父さんって確か医者だったよな」
「そうだよ。お医者さんだよ」
夏井の家は父子家庭で、父親は市民病院で外科医をやっている。以前はもっと都会の方のでかい病院で働いていたらしいが、何があったのか、今年度からこっちにやってきた。夏井が引っ越してきたのはその為だ。
「頭良いよな。医者になるくらいだから」
「……言いたいこと判ってきたんですけど」むっとした表情で彼女は言った。
「なら勉強しとけよ」俺はため息を付いてノートを取りだし、ページを開いた。
「いいの?」
「すぐ返せよ」
「ありがとう。三島君!」彼女はノートを受け取るとすぐにそれを写し始めた。果たしてその行為にどれだけの効果があるのか疑問ではあるが、残り数分で出来る悪足掻きと言えばこれくらいなので俺はなま暖かく見守ることにした。
その次の休み時間である。珍しく井上が一人で俺のところにやってきた。
「香奈は?」と彼女は訊いた。
「吹奏楽部の連中とどっかいったぞ」
「そうなの」
「当てが外れたな」俺は言った。
「違う」彼女は首を横に振った。「三島に訊きたいことがあって」
「訊きたいこと?」
「今日、七夕でしょ」
「ああ、商店街のお祭りのことか?」
彼女は頷いた。
「井上も行くのか?」
「そのつもり」彼女は答えた。
夏井が行くのだからそりゃいつも一緒にいる井上がついて行くのは当たり前のことか。
「三島は?」
「俺も行く予定だけど」
「良かったら一緒にどう?」
「え?」
「って香奈が」
「ああなるほど」
どうやら行き違いになっていたらしい。
「それ夏井からも直接言われたんだけど、先約があるっていうか、怜と一緒に行く予定だから。せっかく誘ってくれたのに悪いな」
「えっと、大丈夫」
「それにしても夏井の奴、席が隣なんだからわざわざ井上に頼まなくてもいいだろうに。っていうか自分で言ってきたし」
「そうだね」そう言って井上はぎこちない苦笑を浮かべた。「そうなるよね」
「なんか顔色悪くないか?」
表情の変化に乏しい彼女であるが、最近になってようやくその機微がある程度判るようになってきた。あまり自信はないけれど。
「平気。ちょっと、暑さにやられてるだけだから」彼女が俯き、前髪で顔が隠れる。「ごめん。時間とらせて」
井上はこちらに背中を向けると、足早に教室から出て行った。どこへ行くのか。もうすぐ休み時間は終わるのに。
放課後、練習を終えると俺はまっすぐに家に帰った。なんだかんだ楽しみだったのだ。怜と二人で祭りに行くのが。
普段よりも自転車のペダルを漕ぐ足に力が入る。
「ただいまー」
玄関を開けて俺は大声で言った。
しかし返事がない。てっきり怜が待ち受けているとばかり思っていたので俺は肩すかしを食らった気分で靴箱を確認した。玄関に怜のローファーがあるので家にいるのは間違いない。
うたた寝でもしているのだろうか。よく彼女は帰宅してから夕飯までの間、リビングのソファで眠っていることがある。ソファの上で体を丸くして無防備な姿を晒す彼女を見る度に、こみ上げてくる諸々を抑えるのに苦労させられる。何せこの時期だとブラウスのボタンを幾つか空けて着崩している上に、スカートがめくれるのにも頓着せず寝ているのだ。刺激が強すぎる。
ほう、と息を吐いて覚悟を決めてからリビングの扉を開けた。が、怜はそこに居なかった。ただ彼女の通学鞄がソファの側に置いてあったので俺が来るまでの間にここでくつろいでいたのは間違いなさそうだった。
こうなると後は部屋で浴衣に着替えているという可能性しかない。恐らく髪をセットするのに手間取ったりしているだろうから、しばらくは出てこないだろう。
興奮していた気持ちが少しずつ落ち着いてくる。やれやれと思って俺はため息を付いた。楽しみなのはいいけれど、いまの段階からこんな状態だと怜と一緒に商店街に着いた頃にはバテてしまう。
とりあえずシャワーを浴びて汗を流そう。
一度部屋に着替えを取りに行ってから俺は脱衣所へと向かった。
「へ?」
戸を開けた瞬間、そんな素っ頓狂な声が聞こえてきた。そして俺は目の前の光景を見て凍り付いた。
一糸纏わぬ姿の怜が、湯上がりで火照った肌を晒し、濡れた艶やかな髪を体に張り付かせ、大きな目をまん丸に見開いて、俺を見ていた。
「あ、あの。ごめん」俺は慌てて俯いた。今度は彼女の下半身が視界に飛び込んできて完全に逆効果だったのでさらに慌てて背中を向けた。
「こ、こっちこそ。こんなのでごめん」怜は訳の分からないことを口走った。
「その、空いたら教えてくれ」
「うん」
俺は背中を向けたまま手探りで戸を閉め、リビングに逃げ込んだ。
やばい。
とんでもないものを見てしまった。
どんな顔して一緒に祭りに行けばいいんだ。
忘れよう。なかったことにしよう。と自己暗示を掛けてみても脳裏に浮かぶのは彼女の裸体だけでどうしようもない。それにしても一年くらい前にうっかり同じ様なシチュエーションで遭遇した時と比べると、なんというかかなり色っぽくなったというか、この一年でかなり腰周りや太股の肉付きが良くなっていたように感じる。相変わらず胸は小さいけれども形は良くて、ってダメだ。何考えてるんだ俺は。
とりあえず頭を空っぽにしよう。
ぴん、と体をのばして床に両手をついて。全力で腕立て伏せを繰り返した。
「そうちゃん。お風呂あいたよ。って、なにやってるの」
「青春」俺は答えた。
「バカ」彼女は言った。
俺は腕立てをやめて、彼女の方へ視線を向け、後悔した。さっきのいまで襦袢姿は刺激が強すぎたのだ。おまけに恥じらいで顔を赤くしているのだからどうしようもない。
正座して、ちょっと前屈みになりながら俺は「さっきはその、ごめん」
「気にしないで。ほら、私たち姉弟でしょ?」そう言って怜は笑う。見てて痛々しいほどの作り笑いだ。「それに、私そうちゃんなら嫌じゃないし」
この状況でそう言うこと言うのは反則だろ。
「とりあえず、シャワー浴びてくる」俺は立ち上がった。が、直立は出来なかった。完全にばれてるだろうけど、だからって堂々と胸を張って見せつけるのは流石にどうかと思うので相変わらず前屈みで誤魔化していた。
怜はそんな俺の姿をなんとも言えない表情で見ていた。
「そうちゃん、お腹痛いの?」心配そうに彼女は言った。
バレてなかったらしい。
「あ、そうそう。うんちょっと冷たいもの飲み過ぎた」
「そうなんだ。……あ、」
何かを察したように彼女は目をそらした。
「あ、そうだ。そうちゃんがシャワー浴びてる間に着替えちゃうね」
何事もなかった風を装って彼女はリビングを出ていった。
とても胸が痛くなる気遣いだった。
風呂でスッキリしてからリビングへと戻った。
浴衣姿の怜がソファにちょこんと座ってテレビを見ていた。ニュース番組のスポーツコーナーに熱の入った視線を送っていた。
彼女は運動は苦手だが、スポーツ観戦は好きなのだ。尤も、外出するのがおっくうな人間なのでほぼテレビ観戦になるけれど。でも少年野球の試合は必ず見に来てたし、中学に入ってからも俺が出る訳でもないのに毎回試合を見に来ていた。それにいつの間にかチケットを入手して休日にふらっと球場までプロの試合を見に行ったりしているので野球は別格らしい。ちょうどいまもプロ野球関連のコーナーなのでこれだけ熱心に見ているのだろう。
台所で麦茶を一杯飲んでから怜に声をかけた。
「じゃあ行こっか」
彼女は声を弾ませて玄関へと向かった。
下駄を履き、絣模様の手提げを持って、長い髪を靡かせ、くるりと一回転。
「似合ってる?」
「ああ」俺は頷いた。こないだ確認したばっかりなのに。けどこうやってはしゃぐ彼女が可愛くて、文句なんて出てくるはずもなかった。
隣を歩く彼女がならす下駄の音を聞いているだけで幸せだった。浮かれていた。夜の帳が降り始めた街路には俺たち以外の人影はない。このまま、二人だけの世界になってしまえばいいのに。そうなれば難しい事情なんてそっちのけで彼女を抱きしめることが出来る。イザナギとイザナミ。あるいはアダムとイヴ。いずれも兄妹だった。俺たちもきっとそうなれるはずだ。けどそんな空想はしばらく歩いたところでうち破られる。同じように祭りへと向かう人の姿がちらほらと表れ始めた。
「良いにおいがしてきたね」怜は言った。くんくん、と匂いをかいで「タコ焼きと焼きそばと。多分クレープ屋さんも来てる」
「なんでそんなの判るんだよ」俺は言った。
「人間の嗅覚もバカに出来ないんだから」彼女はそう言って胸を張った。自慢するようなことなのだろうか。疑問に思ったけれど彼女が楽しそうだったので口には出さなかった。
「人が多くなってきたね」
「普段は閑散としてるのに。どっからこんだけ出てくるんだか」俺はため息を付いた。シャッター街同然の商店街が今日はまるで都会の目抜き通りみたいになっている。
突然、右手がひんやりとした温もりに包まれた。俺はびっくりして怜の顔を見た。
「はぐれないように」彼女ははにかんだ。
「もうガキじゃないんだから」俺は照れ隠しでそんなことを言った。
「私からすれば、そうちゃんはいつまでも、生意気で頼りがいがあるけど、すぐにどこかに行っちゃう危なっかしい弟君だもん」
「はいはい」
「照れてる照れてる」可笑しそうに彼女は笑う。
「照れてねーし」
「そうちゃんのそう言うところ、可愛くて私好きだよ」
「うるせー」
でも手は離さない。少しひんやりとした彼女の手から伝わってくる独特の温もりが俺は好きなのだ。幼い頃からずっとだ。だから小さい頃は何かと理由を付けてはよく彼女の手を握っていた。彼女はそれをいやがるどころか喜んで受け入れてくれたので、いつの間にかある種の絆を確認する儀式のようになっていた。
彼女を異性として意識し始めた頃にそれは途絶えた。
「あ、フランクフルトだ」怜が言った。
「食べるか?」
「うん」
食べ歩きの最初のターゲットが決まった。手をつないだままその屋台へと向かう。四十過ぎくらいの中年で筋肉質な男が汗だくになりながらフランクフルトを焼いていた。
「おじさん、一本」彼女は言った。
「一本ね」そう言ってから屋台のオヤジは俺の方を見て「綺麗な彼女だね」と、にやっと笑った。
「もうー。口が上手いんですから」おほほほ、と上機嫌でネコを被って彼女は笑う。「じゃあもう一本買っちゃいますね」
「ああ、いいよいいよ。お嬢さんに免じて一本サービスしたげるから。彼氏と仲良く食べな」
「わぁ、ありがとうございます」
怜は差し出されたフランクフルトを受け取って満面の笑みを返した。
「美人って得すること多いよねぇ」
屋台から離れ、フランクフルトにかじり付きながら彼女はそんなことを呟いた。ご相伴に預かった手前あまり強くは言えないが、「あんまりそう言うこと人前で言うなよ」と釘を差しておいた。彼女は昔から、無意識に敵を作ってはそれを残らず叩きのめしてきた実績がある。さながら台風のような人間なのだ。
「確かにこういうこと言うとみんなちょっと引くんだよね」
「ふつうは思ってても言わない様なことだからな」
「けど周りの人は私に対して言ってきたり、陰口でそんなこと囁き合ってたりするから一緒だと思うんだけど」
「違うんだよ。少なくともそう言うことを考えるような人たちにとっては」
「どう違うの?」彼女は首を傾げた。
「どう違うかっていうのは説明しづらいんだけど、例えて言うなら金持ちが金持ちだって威張ってたら反感買うだろ?」
「ああ、そういうの」
「多分」
「結局僻みとか嫉妬とかなんだね」怜はため息を付いた。「持ってる女は辛いね」
「はいはい」俺は苦笑した。「そんなことより、次どうするんだ?」
「んー。炭水化物。お好み焼きか、タコ焼き。ね、そうちゃんどっちがいい?」
「怜が食べたいのでいいよ」
「私はそうちゃんと同じのが食べたい」
つまり俺に選べということらしい。
目に付いた屋台を順々に見ていく。金魚すくいやら福引きやら、うさんくさいアイドルグッズやら。少し歩くとベビーカステラやクレープ、それにかき氷の屋台が現れた。が、怜が所望している屋台がない。
「ないね」彼女がぽつりと呟いた。そしてその目は少し離れたところにある焼き鳥の屋台に向いていた。否、熱視線を注いでいた。
「あそこ行くか」俺は苦笑した。
「うん」
モモを三本、カワを二本、そしてフリソデとぼんじりとつくねを一本ずつ。計八本の焼き鳥を購入し彼女はとても幸せそうだった。鶏肉は好物の一つであるから当然であるが、それにしても買いすぎである。しかし彼女はこれをぺろりと平らげるとついに目当てだったタコ焼きの屋台を発見してそこで三舟購入した。一つは俺の分だ。
市役所の前の広場に休憩所があったのでそこのテーブルに座って俺たちはタコ焼きを食べた。
「飲み物が欲しいかも」彼女が言った。さっきから味の濃いものばかり食っているのだから当然そうなるだろう。
俺は広場をぐるりと見回した。
「あ、あそこ売店あるな」財布を持って立ち上がる。「買ってくるから待ってて」
「うん。気をつけてね」彼女は心配そうに言った。「迷子にならないでね」
「なるかよ」俺は笑って答えた。
人混みをすり抜けながら売店へと向かう。
その途中、ふと見知った顔を見つけて俺は足を止めた。
頭一つ抜けた長身。猫背で重たそうな長い髪。陰のある大人びた顔立ち。見間違えるはずがない。井上だった。
おーい、と声をかけようとして俺はそれを飲み込んだ。彼女は誰かと話していた。二人組の若い男だ。いかにもチャラそうな見た目で、井上の交友関係に果たしてそう言う人間がいるだろうか。疑念を強めて彼女の様子を、改めて見てみると明らかに困惑して、迷惑していた。
そこで合点が行った。井上の奴は見た目がいいし大人しそうだから(実際大人しい)ああいうののカモにされやすいのかもしれない。
飲み込んだ言葉を今一度俺は腹の底から呼び起こした。
「おーい! 奈々子!」俺はあえて下の名前で彼女を呼んだ。そしてあたかも姿を探していたかのように彼女の元へ駆けていった。
「え?」と彼女は驚いた表情で俺を見た。が、すぐに察したらしく「ごめん。迷子になってた」と普段見たことがないくらいの笑顔を作った。
「こいつらは?」おれは言った。
「知らない人」井上は答えた。
「なんだこのガキ」と男の一人が言った。「邪魔すんなよ」
「そりゃこっちの台詞だ」
「あんだと?」そう言って男が睨んでくる。相方の方は少しさめた目でその様子を見守っていた。
「おい、高城。行くぞ」後ろで見守っていた方の男がそう言った。
高城と呼ばれた男は振り返ると「なんでだよ」と悪態を付いた。
「いや、もう遅いか」
「何が」
その時だった。
「あれ? 高城君と武山君じゃない」と怜の声が聞こえてきたのだ。
その声に、まるで恐ろしい怪物を見つけたかのように高城は表情を凍らせた。
「うちの弟に何してたの?」にっこりと怜が微笑む。一見すれば優しい微笑みであるが、その実目が全く笑って居ない。俺が知る中で最も恐ろしい怜の表情だ。
「いや、その。別になんでもない。っていうか、ほら行くぞ武山」言うが早いか高城は逃げ出すようにきびすを返した。
「俺は最初からそう言ってただろ」あきれたように武山は高城の後を追いかけた。
状況がよく飲み込めないが、ひとまずこれで危機を脱することが出来た。
「あの二人知り合いだったのか?」
「同級生」とだけ彼女は答えた。過去になにがあったかは知らないが、恐らく怜相手になにかしらのちょっかいを出して手酷く返り討ちにされたのだろう。
「あの、ありがとうございました」
俺の後ろで体を出来る限り小さくして隠れていた井上がようやく姿を表した。
「いいえ。そんなの大したことじゃないから」別にあなたの為にやったんじゃないわよ、と言外に匂わせる機械的な対応である。
「それと、三島もありがと」
「いやあ、まあ俺はなんもしてないけどな。追っ払ったのは怜だし」
「けど、三島が声を掛けてくれなかったら、私多分あの人たちを振り切れなかったから」
「それにしてもいくら見た目が大人びてるからって、中一の女の子誘うなんて、あいつらロリコンだったのね」怜はそう言うと含み笑いを浮かべた。なにか悪いことを思いついたらしい。敵と認識した相手には容赦がないのが彼女の本性だ。きっと酷い噂を流すに違いない。
「ほどほどにしておけよ」俺は小声で彼女に忠告をした。
「判ってる。あんまりやると逆上してくるから。それが出来ないように、じわじわとなぶって行くの」とってもいい笑顔で彼女は答えてくれた。
「そう言えば夏井は?」
これ以上この話題を続けると気が滅入ってきそうなので話題を変えることにした。
「知らない」
井上の答えは意外なものだった。てっきり一緒に来たと思っていたのに。
「待ち合わせ場所に時間通り来なかったから」
彼女は表情の乏しい顔に、ほんのわずかだけ怒りの感情を滲ませていた。
「だからあんなのにナンパされる羽目になった」
内心では腸煮えくり返っているっぽい。
「とりあえず一緒に来るか?」俺は言った。
「いいの?」と彼女は怜の方を見た。
「いいわよ」と怜はにっこりと微笑んだ。
三人で売店に行って飲み物を買った。俺はスポーツドリンクで、井上は麦茶、怜は炭酸飲料とミネラルウォーターを選んだ。
テーブルに戻ると意外な人物がそこにいた。
夏井だった。なんでお前がこんなのところに? と思ったが訊ねるよりも先に彼女は、「遅い」と言ってこちらを睨んだ。一瞬俺に向けられたものかと思ったが、彼女の敵意の視線は怜に向けられていた。
「ほら、これあげるから」と怜は夏井に向けてミネラルウォーターのペットボトルを投げた。
「うわっ」
夏井は慌てて手をばたばた動かしながら奇跡的にそれをキャッチした。
「なにするのよ!」
「席取りしててくれたお礼」
「なんでよりにもよって。これそこの売店で投げ売りされてた奴じゃない」
「ないよりマシでしょ?」
「うー。本当嫌な女」
「そういうの慣れてるから」
「そう言うのが嫌な所なの!」そう怒鳴ってから、乱暴にペットボトルのキャップを明けるとぐびぐびとミネラルウォーターを飲み始めた。「あーもう。美味しいのが腹立つ」
「それはそうと、この子に言うことがあるんじゃない?」
怜は井上の手を引いて、夏井の前に連れて行った。
「あ、」と夏井は気まずそうに目をそらす。「その、なんていうか、浴衣着るの手間取ったっていうか。ほんっとごめんなさい」
「いい。いまはもう怒ってない」
「ほんとに?」
「ちょっと得なこともあったから」
俺が飲み物をおごってやったことだろうか。
夏井はその言葉をどう解釈したのか、一瞬眉をぴくりとさせたが、そこに突っ込むことはなかった。
「とにかく良かったじゃんか。無事って訳ではないけど合流できて」
「うん。三島。ありがとう」
「俺はなんもしてないけどな」
わざとなのか偶然なのか、全部怜のおかげだ。
「あー、お腹すいた」と夏井が言った。「ねえ、お姉さん。それ二つもいらないでしょ?」
「そんな訳ないし、仮にいらないとしてもあなたにはあげないわよ」
「なにもこんなところでまでそんなくだらない言い合いしなくてもいいだろ」
怜と夏井は何故か仲が悪い。不思議なことに初めて顔を合わせた時からすでに険悪だったのだ。
「ね、三島君。これから私たちと一緒に回らない?」
「残念だけどそうちゃんは私と一緒だから」
「お姉さんはちょっとブラコンがすぎるんじゃないですかぁ? 姉弟でそんなにべたべたくっつくのって変だと思うんですけど」
そう言われて怜は言葉に詰まった。姉弟という言葉を免罪符にしている俺たちにとって、それは結構効く言葉だった。特に怜にはかなり効いたらしく、激しく貧乏揺すりを始めた。それに加えて下唇を少しだけ噛んでいる。不機嫌になった時の彼女の癖だ。
「それに、三島君にはお礼をしたいし」
「お礼?」
「ほら、ノート見せてくれたでしょ?」
「ああ、あんなの別にいいのに」
「三島君がよくても私が良くないの」ずい、と前のめりになって顔を近づけてくる。心なしか、頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「とにかくそう言う訳だから、三島君のこと借りていいですよね?」夏井はそう言うと勝ち誇った笑顔を浮かべた。
「好きにすれば?」いつもよりトーンの低い声で怜はそう吐き捨てた。
「ありがとうございます」わざとらしい作った声で夏井は言った。それから席を立ち俺の右手を両手で包み込んだ。「ほら、三島君、行こ?」上目遣いでこちらを見る。とてもあざとい仕草だと思った。横目で怜の様子をうかがうと、ものすごい形相で夏井を睨んでいた。胃がきゅっとすくみ上がる。夏井の方へ視線を戻すと、彼女も彼女で殺気だった目で睨み返していた。救いを求めるように井上を見た。彼女はとても冷たい目で俺たちを見つめていた。目が合うと、井上は察してくれたらしく「香奈、そこのへんにしておいた方がいいよ」と言い、夏井の肩を掴んだ。夏井が無言で井上を仰ぎ見た。その目には反感の色が浮かんでいた。井上は冷ややかな目でそれをはねのけていた。言葉がないまま視線が交わされる。
「判ったから」と夏井が言って俺の手を離した。「そんな目でみないでよ。奈々子怖いよ」
「香奈が悪い」
「もしかして遅れたことまだ怒ってる?」
「得したけど、酷い目にもあいかけたから」
「変なのに声かけられたとか?」
井上は無言で頷いた。
夏井は何かを察したように俺と井上を交互に見て、「そういうこと」とつまらなそうに独り言を言った。
「そうちゃん。付き合ってあげて」
どんな心境の変化が起こったのか、突然怜がそんなことを言った。彼女の表情にはあきらめの色が浮かんでいた。落胆もしている。
「いいの?」と夏井が意外そうに言った。
「あなたがそうしたいって言ったんでしょ?」
「そっちがいいなら私は全然いいんですけど」
「ならいいでしょ。ほら、さっさと行きなさい。私は一人で食べ歩きを楽しむから」
しっしと手を振って怜は早く行けと促す。
「そうだ、言い忘れてた」
三人揃ってテーブルを離れようとした時だった。怜が何かを思いついたように呼び止めた。
「花火の時間には返してね?」
夏井は井上を顔を見合わせた。井上が頷き返す。夏井はそれに対して眉を顰め難色を示した。またしても無言のやりとりが始まった。本当に仲がいいんだなあと俺はそれを見守っていた。
「花火って何時からでしたっけ」夏井が言った。
「八時半」怜が答えた。
「じゃあそれくらいにここに集合ってことでいいですか?」
怜は、そう来たかと小声で呟いてから「時間厳守よ」と言った。
「言われなくても」
悪戯が成功した子供みたいに夏井は笑った。
3
怜と二人で歩いてきた道のりを、今度は夏井と井上と、三人で逆戻りしていた。
「こういう状況を両手に花っていうんだっけ?」顎にちょこんと人差し指をあてながら夏井が言った。
「お前花だったんだな」俺は冗談めかして言った。「小動物か何かだと思ってた」
「なによそれ。じゃあ奈々子はどうなのよ」
「その親か飼い主」
俺は井上を見た。彼女はまんざらでもなさそうに「私が親」と繰り返した。
「もう。そこは否定するところでしょうが」
「けど、香奈って小動物っぽい。というより、小型犬?」
「確かに。きゃんきゃん煩いところとかそっくりだ」
「ちょっと、三島君私の事そんな風に見てた訳?」
「そうだなあ。でもそう言うとこ嫌いじゃないぞ?」
「好きか嫌いかでいうと?」
「まあ好きだな」
「そっかあ。ならしょうがないかなあ。ね? 奈々子?」急に浮かれた様子になって、夏井は井上に同意を求めるように首を傾げた。
「知らない」井上は呆れた様にそう言った。
俺はその二人のやりとりを笑いながら見守っていた。まあ確かに、両手に花と言えばそうだろう。夏井も井上も見た目は良い方だ。けど、頭の片隅には常に怜のことがちらついていて、それが気になって仕方がなかった。
「あ、私あれ食べたい」
夏井がはしゃいだ声を出す。指さした先には綿飴の屋台があった。そうと気づいた瞬間に、焼けたザラメの甘い香りを鼻腔がくすぐる。
俺は井上を見た。彼女は無言で頷いた。その目はとてもキラキラ輝いていた。
「んー、おいしい」
綿飴に一口かぶりついた夏井はとても幸せそうに声を弾ませた。
「甘くてふわふわ」
心なしか穏やかな顔つきになった井上は相変わらず抑揚のない声でかわいらしいことを言っている。
二人がそれぞれ一つずつ綿飴を買って、俺は特に食べたい気分でもなかったので買わなかった。が、夏井におごるのが当然とばかりに、小動物的な目でねだられて、井上にまで謎の期待を込めた熱視線を送られたため、二人分おごる羽目になった。対した値段ではなかったので別にいいのだが。それに二人とも幸せそうなのでそれで元が取れたと考えれば、安い出費だったのかもしれない。
「ね、三島君」
夏井がこちらの顔を覗き込んで来た。
「そう言えばまだ感想聞いてないんだけど」
「何の?」
「ほら」と言って夏井は綿飴を持ってない方の手で浴衣の袖を摘んで小首を傾げて見せた。彼女の、柔らかいセミロングの髪がさらさらと揺れる。「浴衣、似合ってる?」
彼女の浴衣は、薄いピンク色の生地に花柄をあしらった物で、帯の鮮烈な紅色と言い元気の良い彼女にぴったりの物だった
「馬子にも衣装」しかし俺はそう言った。素直に似合っていると答えるのが悔しくてひねくれた言葉が口をついて出てしまった。
「孫?」夏井が怪訝そうに首をひねる。「可愛いってこと?」
俺はため息をついた。「そうだな。似合ってるぞ」
「どの辺が可愛い?」目を輝かせながら夏井は言った。
とても難しい質問だ。変に的外れなことを言うとまるで夕立の空のように機嫌を損ねてしまう恐れがある。慎重に言葉を選ばなければならない。
「そうだな。柄がちょっと派手なところが、普段から元気一杯な夏井によく似合ってる」
「そう? やっぱり私のイメージってこういうのだよね?」
えへへ、と少し照れたように夏井は笑った。
釣られて俺も照れ笑いを浮かべる。
二人して顔を赤くしていると、服の裾をくいっと引っ張られた。井上がまたしての謎の期待を込めた目で俺を見ていた。
「えっと」
井上は何も言わない。が、この流れでこれとなると、恐らく彼女も今日のファッションの感想を聞きたいのかもしれない。別にそう言うことに詳しいわけでもなく、むしろ疎い方なのに。夏井も井上も奇特なことだ。
やれやれと思いながら改めて井上の全身を上から下まで観察した。
今日の彼女は、濃紺の生地を夜空に見立て、大輪の花を幾つも咲かせたデザインの浴衣を着ていた。背は高いけれど体格が大きいという訳ではなく、体の線が細く華奢なおかげだろう。とても和装が似合っていた。正直夏井よりも様になっている。
「いいんじゃないか。井上らしいと思う」
「私らしい」彼女は不思議な出来事に遭遇したみたいに目を丸くした。
「あとやっぱさ。井上ってちゃんと顔が見える髪型の方が似合うと思うんだよな」俺は言った。唯一いまの彼女にある欠点が髪型だった。
「……どうして?」
「いや、単純にそっちの方が綺麗に見える」
「でも」と井上は俯く。
「そうだよ奈々子。せっかくそんな美人なのに、いつもみたいに隠してたらもったいないよ」
「二人とも、そんなに持ち上げても、私なにも出来ないよ」
「持ち上げるだなんて。俺は率直な感想を言ってるだけだぞ」
「でも。私は香奈みたいに可愛くないし」と横目で夏井を見た。
井上の言葉を聞いた夏井はどこか気まずそうに視線を逸らした。
「確かに井上は可愛い系じゃない。けど美人だ。それにスタイルもいい。背が高くて手足がすらりと長いなんて、それこそモデルみたいで凄く綺麗だし、そう言う体型にあこがれてる女性なんて世の中にたくさんいるんだから、もっと自信持てよ」
「でも、あの」気がつくと井上の顔が真っ赤になっていた。しどろもどろになりながら「そん、なこと、ない」と必死に否定しようとする。
「夏井がうちの一年の可愛いの代表なら、お前は美人の代表だ」
「だから、私は、そんなんじゃない」
いつの間にか井上は目に涙を浮かべていた。決して感激している訳ではないのがその様子を見れば一目瞭然だった。彼女は単純に、自分のことを判って貰えていないことに困惑して、あるいは内心では怒っているのかもしれなかった。
「あ、そうだ」と夏井が言った。「奈々子、ちょっとだけ待っててね」
どこへ行くのだろう、と思っていると夏井は俺の腕を掴んでぐいぐいと引っ張り、商店街の路地へと入っていった。
「いきなり何なんだよ」
「奈々子のことでちょっと」
「井上のこと?」
「奈々子ってものすごく自分の評価が低いでしょ」
「びっくりするくらい自分に自信がないよな」
「うん。そこなんだけど」と夏井が悲しそうに俯く。「あれ多分私のせいっぽいんだよね」
「何か心当たりがあるってことか」
夏井は頷いた。「小さい頃から私たちって一緒だったんだけど。大抵、可愛い可愛いってもてはやされるのは私だけで。奈々子は背が高いことをよくからかわれてたんだ。でね、多分奈々子の中では、私の引き立て役みたいな風に考えちゃってる部分があるみたいなんだよね」
「見ようによっちゃお前の方が引き立て役だけどな」
「う、そういう微妙に傷つくこと言うのやめてくんない? まさにああいう体型に憧れてるタイプなんだから」
「ああ、悪い悪い」
「まあその、そんな訳で、三島君には奈々子をほめちぎって貰いたいの」
「あれ以上に?」
「うん」
「でも流石にそれは不自然すぎないか?」
「荒療治だっけ? 強引に治すのって」
「効果あるかなあ」
「三島くんが言うんなら、多分あると思うよ」
「俺が言えば効くってことか」俺は言った。「でもなんで?」
「それは、」そこで夏井は言いよどんだ。余程言いづらい理由なのだろうか、彼女はたっぷりと悩んでから、「女の勘」などととても曖昧な根拠を示した。
「でもさ。さっきふつうに褒めただけで、真っ赤になってたぞ。その上で褒めちぎったら大変なことになるんじゃないか?」
「だから荒療治」
「お前じゃだめなのか?」
「私が言ったら嫌みになっちゃうし」夏井は自嘲するようにそう言った。「奈々子ってね。あんな風だけど結構夢見がちっていうか。乙女っていうか。ほら、いっつも本読んでるでしょ? あれ恋愛小説なんだよ?」
「知ってる」
「え?」意外そうに彼女は目を丸くした。
「こないだ偶然本屋で遭遇したから」
「そう言えば三島君も結構本読んでるね」
「まあな。昔からよく怜が読書しててな。それを真似てるうちに手本よりもはまってた」
「ふーん」急に興味を失ったように彼女はつま先で、足下に転がっていた小石を蹴った。人混みの間を縫うように転がったそれは何にもぶつからず、何事もなかったかのように止まってアスファルトの一部みたいに溶け込んだ。
「まあ。そういう訳だから、とりあえず奈々子の所に戻ろっか。あんまり一人にしてると変なのに絡まれるし」
「もう絡まれたあとだけどな」
「あー。そうだった」
やってしまったという表情を浮かべて夏井はため息をついた。
「奈々子って昔からそうなんだよね。小学生の頃はよく変なおっさんに声かけられたり、いまもそうだけど電車でよく痴漢にあったりしてるし」
「あいつ妙に無防備というか、押して行けばどうにかなりそうな感じで危なっかしい雰囲気あるもんな」
「やっぱり三島君も判る?」
「なんとなくは」
そんなことを話しているとその井上の姿が見えてきた。彼女は幸いにして一人だった。退屈そうに、道ばたの街灯に背中を預けて空を見上げていた。
「奈々子」と夏井が声を掛けても井上は上空を見つめたまま振り向きもしなかった。
「もしかして、まだ怒ってる?」不安げに夏井が問いかけた。
「それはもういい。それよりも」
ほら、あれ。
そう言って井上は夜空を指さした。
「はぇ。すごい」その先を見た夏井が感嘆の声を漏らした。
満点の星空、その中でひときわ目を引く光の帯。それはまさしく天の川。そしてその両の河岸に輝くはベガとアルタイル、即ち織り姫と彦星である。街の灯りでおぼろげではあるが、季節を彩る夜空の象徴を見渡せるのはなんとも贅沢なことだ。曇っていることが多いこの季節にこんなにはっきり、それも七夕に拝めるなんてまたとない幸運だ。後で暗がりでゆっくり鑑賞したいところである。
「あの辺りに鵲橋があるのかな」井上がぽつりと呟いた。
「きっとあの辺りで会っているんだろうさ」
はっとした顔で井上がこちらを見た。顔が赤い。
「私いま、恥ずかしいこと言った」
「それなら俺の方が恥ずかしいこと言っただろ」
「そう?」
「ああ」
それもそうだ、という顔で井上は笑った。
「あの、二人とも何の話してるの? かさがどうこうって」
「七夕の話だよ」
「よく判んないけど晴れてるし、織り姫と彦星は会えたってことだよね」
「だな」
「こんな夜に花火を打ち上げるなんてちょっと野暮な気がする」と井上がまじめな顔で言った。
「言いたいことは判らんでもないけど、まあそれはそれで一興だろ。祝砲的な感じで」
「私は派手なのよりもひっそりした方が好き」
「えー、私はどんちゃん騒ぎで祝って欲しいなあ」夏井が言った。
「香奈は判ってない」井上は不満げだ。
「静かだと寂しいよ?」
「一年に一度きりなんだから。誰かに邪魔されるよりも二人だけで過ごす方が良いと思う」
「そうかなあ。ねえ、三島君はどう思う?」
そう水を向けられて少し考える。けど答えはすぐにでた。
「俺は井上の意見に賛成だな」
「えー」と夏井が悔しそうに言った。「なんか二人って気が合うよね」
一方の井上は無表情のまま目を輝かせている。なんというか、普段静かで躾がよくされている犬がひたすら尻尾だけ振って喜んでいる光景を思い浮かべてしまう。
そんな井上の様子を見て「まあいっか」と夏井はどこか満足げに呟いた。
「それはそうと、これからどうする?」俺は二人の顔を見た。
「そうだなあ。あ、あれ見て」と夏井が屋台のうちの一つを指さした。「射的だって」
「やるか?」
「もちろん!」
「私も」
そうと決まれば話は早い。ちょうど先客はいない様なので今が好機。
「誰からやる?」俺は言った。
「はいはい! 私から」と夏井が手を挙げてぴょんぴょん跳ねる。
「じゃあその次がいい」と井上。
「なら俺は最後だな」
順番も決まったところで早速料金を払って夏井が射的用のライフルっぽい銃を手に持つ。
「うわ、意外と重い」
そんなことを漏らしながら彼女を的を品定めしている。
雛壇の様な台の上には、様々な景品が並んでいる。お菓子や小物から、どうやっても倒せそうにないでっかいクマのぬいぐるみやら、多分絶対に倒せないゲーム機の箱やらと色とりどりだ。
「よし」と呟いて夏井がねらいを定める。彼女の細い指が引き金を引き絞ると、銃口からぽん、と小気味良い音を立ててコルクが飛んでいく。
たん、と音を立てて台の縁に当たった。
「あちゃー、外れたかあ」と悔しそうに夏井が的を睨む。どうやら狙っていたのはデフォルメされたネコの置物だったらしい。
「いい線行ってるぞ」俺は言った。「あと四発あるからいけるだろ」
「よーしやるぞ!」
そう息巻いて彼女は立て続けに引き金を引いた。しかし最初のがまぐれだったのか、全く見当違いの方向にコルクが飛んでいって結局戦果はなにもなかった。
「くっそー。もうちょっとだったのに」夏井は恨めしそうに猫の置物を睨んだ。
「お前猫好きなのか?」
「猫っていうか、ああいう動物の小物って可愛くない?」
「そういうの好きなんだな」
「もしかして取ってくれるの?」
夏井が期待のこもった上目遣いで俺を見つめる。
「香奈。取ったよ」
夏井が狙っていた猫の置物が彼女の目の前に差し出された。
知らない間ににゲームを始めていたらしい井上が見事景品をゲットしていたのだ。
「あ、うん」
景品を受け取った夏井は心なしか呆然とした様子で手のひらに乗せたその置物を見た。
「すごいな井上」俺は言った。
「最後の一発で当てたからそうでもない」
謙遜なのか、あるいは本当に満足していないのか、彼女の答えには何か含みがあった。
黙ってそのまま俺は彼女の顔をじっと観察する。
井上はそわそわしながら、長い前髪をいじり始めた。
「何狙ってたんだ?」
「別に」と言うのと同時に視線が景品台の方へ向けられた。彼女が見た先にはあのでっかいぬいぐるみがあった。
「あれか」
「待って三島」そう言って彼女は俺の服を引っ張った。「別にいいから」
「夏井がとれなかった景品をお前が取ったんだろ? だったら俺は井上が欲しいのを取ってやんないと」
「それ、三島君が欲しいのとれくない?」と呆れ顔で夏井が突っ込んできた。
そう言われるとそうなのだが。
「まあ別に俺はこういうのやるだけで楽しいから」
ぶっちゃけ景品なんて二の次だ。狙った的を射抜けるか否か。それが重要なのだ。
的?
何か違和感が脳裏をよぎった。その元を探るように台へ向かって目を凝らす。
「なあおっちゃん」
「ん? なんだい」
俺は屋台のおっさんの方を見た。
「もしかしてあのデカイぬいぐるみの景品って、頭の上にある的に当てればいいのか?」
「そうそう。よく気づいたなあ」感心した様におっさんが言う。「みんな気づかずに本体狙ってたから気の毒だったよ」
せっこー、と背後で夏井が言ったのが聞こえた。
「兄ちゃんあれがねらいかい?」
「一応」ねらいを定めながら俺は答えた。
「ほーん。で、どっちが彼女なの」
突拍子もない質問に思わず引き金を引きそうになった。
「友達です」
「ほーん」
このおっさん、露骨に妨害しようとしてやがる。
とりあえず無視だ。何言われても豚か何かが鳴いてると思って聞き流そう。
意識を集中させる。
自慢ではないが射的はそれなりに得意だと自負している。小学生の頃は割り箸で作った輪ゴムを飛ばすピストルでよく的当てをして遊んだものだ。その時の感覚を思い出せばいい。この銃は空気圧か何かコルクを飛ばすタイプのモノだ。輪ゴムなんかよりよっぽどまっすぐ飛ぶ。
静かに息を吐いて、吐いて。空っぽになった肺から丹田に向かってゆっくり息を吸い、三分ほど吐き出して止めた。
引き金を引く。
コルクが押し出される手応えが、指や手のひらを通して腕に伝わる。
一発目は的のすぐ横に逸れた。
続いて二発目はぬいぐるみ本体に吸い込まれていき、三発目は的の上に外れた。
一度銃を置いて呼吸を整える。
「兄ちゃん真剣だねえ」にやにやしながらおっさんが言う。「どっちが好きなの」
「どっちでもない」
構え直して深呼吸。
だがいまいち整わない。息を吸って吐く度に視線が揺れて照準が合わない。まるで舟の上で波に揺られているように、頭の中がぐらぐらする。この感覚には身に覚えがあった。そう、あれは確か少年野球での六年生最後の大会でのことだ。九回ツーアウト一打サヨナラの場面で俺の打席が回ってきたのだ。あの時もちょうどこんな風に呼吸が乱れて頭がぐらぐらだった。結局あの時はインコースの球をひっかけて内野ゴロに倒れた。あれはなんだったのか。後になって考えた。そして導き出した結論は極度の緊張状態に陥っていた、ということだった。つまり俺はいまとてつもなく緊張している。なんでここまで緊張してしまっているのか。考えないでも判る。背中に感じるのだ。井上から向けられる並々ならぬ期待を。あいつあんな風に言ってたけど内心かなりあのぬいぐるみが欲しいのだ。だが緊張の原因は俺自身にもある。カッコ付けようと大見得切った手前、なんとしても目的を果たさなければならないと言う、ある種の自縄自縛に陥っていたのだ。無駄にカッコ付けたがりな性分が災いしてしまった。
でもとりあえずやらなきゃならない。井上の期待に応えるのもそうだが、何よりこっちを見ながら勝ち誇ったように腕を組んでいる屋台のおっさんがもの凄くムカついたのだ。こいつに一泡吹かせてやりたい。
そう思って放った四発目。
銃口から放たれたコルクは的の方へ向かってまっすぐに飛んでいく。
ばん、と的を射抜く音が響いた。
「あ、」とおっさんが声を漏らした。とても悔しそうに。
「やった」といつの間にか隣に居た井上が言った。
「三島君! 後一発残ってるよ」と夏井が言った。「私あのキャラメル欲しい」
「この流れでそれ言うか」
「えへ」と笑って夏井は肩をすくめる。「私ってちゃっかりしたところあるから」
「自分で言うなよ」
最後の一発。無駄にしたくはない。
キャラメルは真ん中の段の中央にあった。一番狙いやすい場所だ。
意識を集中させる。不思議なくらい頭の中がすっきりとしていた。いまなら何発撃っても外す気がしない。
引き金を引く。
撃ち出されたコルクがキャラメルの箱を弾き飛ばした。
「今日は良い日だね」とキャラメルを口の中で転がしながら夏井が言った。
「香奈、はしたない」井上はあのでっかいぬいぐるみを幸せそうに両手で抱いている。
射的の後も何軒か屋台を回ってそうこうしているうちに花火の時間が近づいて来たので、俺たちは集合場所の広場に向かって歩いていた。
「三島。これ、大事にするから」と井上が普段見たことのない様な笑顔でそう言った。
「ああ」
普段無表情な彼女が見せた屈託のない純真な笑顔に思わず引き込まれそうになり、返事は自然と生返事になってしまった。
「三島君」と夏井が俺のわき腹を突っついた。
「なんだよ」
「いまちょっと奈々子に見とれてたでしょ」
「香奈。何言ってるの」と俺が何か言う前に井上が割って入ってきた。「からかうのはあんまり良くない」
「いや、でも井上の笑顔って珍しいから見とれたのは事実だ」俺は言った。
「そうだよね」と何故か井上は声のトーンを落としてうつむいた。「似合わないよね」
「いやいや、そういう訳じゃなくてだな」
俺は彼女のネガティブさを嘗めていたらしい。まさかこんな反応をするなんて思いもよらなかった。夏井が俺の方を見て、いけ、と声に出さず唇だけ動かした。
「笑顔、すごく可愛かったぞ」
俺はいますごく恥ずかしい。顔から火が出そうだ。こんなこと怜にだってあんまり言ったことないのに。
「ありがとう。嘘でもそう言ってもらえるとちょっと嬉しい」と全然嬉しくなさそうに井上は言う。そんな反応で、俺も夏井も納得できるわけないし退ける訳がない。
「なんで井上はそう、なんていうか自分が可愛くないって思ってるんだ」
「だって私、背が高いし」抱きしめたぬいぐるみに顔を埋めるようにして井上は答えた。
「それならうちの怜だって背が高いぞ」
「でも、お姉さんはすごく美人だし」
「お前も美人じゃんか」
「私なんか全然」そう言って井上が完全に顔をぬいぐるみに埋めてしまった。泣いているのか肩が震えている。なんでこうなるんだ。
「夏井。ピン留めあるか」
俺は怒っていた。この前自信が持てそうと言ったのはどの口だ。
「え? ああ、うん。予備のが幾つか」
「一個貸せ」
「いいけど……」
夏井がポーチの中からピン留めを取り出した。黒いシンプルなデザインのモノだ。それを受け取って、俺は井上に言った。
「ちょっと顔上げろ」
「いや」
「いいから」
恐る恐ると言った風に井上が顔を上げた。案の定彼女は泣いていた。
「すまん。ちょっとだけ中腰になってくれるか」
身長を気にしている彼女にこんなことを言うのは気が引けたが、この際四の五の言っていられない。
井上は素直に中腰の体制になった。
「ちょっと髪、さわるぞ」
「え?」
彼女が驚くのもかまわず、その前髪に触れた。伸ばしっぱなしな割に手触りがよくて少し驚いた。前髪を片方に分けるようにして、ピン留めを差した。
「よし」
「あの、三島」
「夏井」
俺は夏井に向かって手を差し出した。
「はい」
夏井が手鏡を手渡してきた。
俺はそれを井上の方に向ける。
「可愛いだろ。美人だろ。それがお前だ」
井上は目を白黒させてから、前髪を戻そうとした。しかしぬいぐるみを抱えたままでは手が自由にならない。彼女の顔が耳まで真っ赤になる。今日見た彼女の赤面のなかで一番紅色に染まっていた。
「お前が自分を過小評価するのは勝手だけど、それに心を痛めてる奴が居るってのだけは知って置いて欲しい」
「香奈の入れ知恵なの?」
「それもあるし、俺もそうだから」
「信じて、いいの?」
「当たり前だろ」
「そう」井上は短くそう言ってまたぬいぐるみに顔を埋めた。そしてそのまま膝を地面について肩を震わせた。
ちょんちょん、と背中を突っつかれる。振り向くと夏井が複雑そうな顔俺を見ていた。
「三島君って結構荒っぽいんだね」声を潜めて夏井は言った。
「ちょっとカッとなった」
「そっか。なんていうか、口説いてるみたいだったよ」
「え。マジで」
「その反応、奈々子にちょっと失礼だよ」じとーっとした目で睨まれる。
「いや、別にそういうつもりじゃないというか。つもりじゃなかったから、意外だったというか」
「判ってる」と夏井はため息をつく。「三島君はそう言う人だもんね」
「判ってくれたか?」
「女の敵」じとーっとした目で睨まれる。
「いや、だから」
「冗談だってば」悪戯っぽく夏井が笑う。上目使いで愛嬌たっぷり。そういう態度を取るそっちはそっちで男を惑わす男の敵なんじゃないか、と思ったが胸の内で留めておいた。
「ちょっと奈々子と二人になりたいから、三島君はお姉さんのところに行って来て良いよ」
「いいのか?」
「うん。ちょっと女の子同士で話したいことがあるから」
「そっか」
「来年は一緒に花火見ようね」
「ああ」
来年はもっと大勢で来てもいいかもしれない。公彦や野球部の連中に、夏井の井上以外の友達も何人か合わせて。きっと賑やかになるだろう。
二人に別れを告げて俺は広場へと向かった。
辺りをぐるりと見回す。
人でごった返す広場の中で、俺はすぐに怜を見つけることが出来た。彼女は少し人混みから離れたところにあるベンチに座ってホットドッグにかぶりついていた。
すぐに俺は彼女の元へ向かった。気持ちが逸って小走りになっていた。
「ごめん。待たせた?」
「んー、全然」そう言って怜は微笑んだ。「そうちゃんがそのうち来てくれるって思うとこうして時間を潰してるのもなんていうか楽しかったから」
「そっか。なら良かった」
「ねえそれより、このやりとり、なんか待ち合わせしてたカップルっぽくない?」
艶やかに怜は微笑んだ。
「何言ってんだよ」
俺は熱くなってきた顔を隠すように、横を向いて、そのまま彼女の方を見ないようにベンチに腰掛けた。
「顔赤くなってる」楽しそうに怜が言う。
「うるさい」
「可愛いなあ」
きゃっきゃと笑いながら怜は俺の腕をとった。そしてこちらの肩に頭をちょこんと乗せた。
「ちょ、なにしてんだよ」
「いいでしょー。別に」
「良くない」
「なんで?」
「ほら、姉弟だし」
「仲良しだからいいの」
ぎゅっと抱きついた腕に力を込めて、ぐいぐいと体を押しつけてくる。これ以上はもう距離を縮めることは出来ないのに。それでも彼女はまるでまだまだ二人の間には空間があるかのように、その不可視の距離を詰めようとする。
俺は逃げるでもなく、こちらから歩み寄るでもなく、ただなすがままされるがまま、ぼんやりと夜空を見上げていた。
「空、綺麗だね」怜が言った。「彦星様と織り姫様はきっと出会えたんでしょうね」
「きっと今頃は仲良くデートでもしてるんじゃないか」
「良いなあ」
「そうか?」俺は言った。「一年に一度しか会えないんだぞ」
「でもその一度会えた時には絶対に愛し合えるじゃない」
確かにそうだなあ。と俺は夜空に浮かぶ白い帯を遠く見つめる。
いつでも会える。すぐそばに居るのに。その思いを通い合わすことが出来ない。そんなことと比べればあるいは大した悲劇ではないのかもしれない。
沈黙が俺たちを包み込んでいた。お互いに言いたいことを言わず、腹の底に押し込んで、代わりに重たい息を吐いて、それが音を押しのけているように、雑踏も何も感じない静寂が訪れていた。
不意に、腹の底を揺さぶるような衝撃が走った。それが打ち上げられた花火の大音響によるモノであると気がついたのは、夜空に大輪の花が二輪三輪と浮かんでは消えた、そのすぐ後だった。
「そうちゃん」
耳元で彼女が囁いた。
潤んだ瞳で俺を見つめていた。
絡まり合った視線が離れなくなる。
今目の前にある空間こそが、彼女が埋めようとしていた距離なのだ。ほんの10センチほど。何かに背中を押されればたちまちになくなってしまいそうな短い距離。なのに、それが途方もなく遠く感じられてしまった。
姉弟。
その言葉がまるで見えない壁のように目の前に立ちはだかり、ある場所から先へ進むことが出来なくなっていた。
夜空から降り注ぐ色彩の閃光が彼女の横顔を美しく照らし出す。その頬に触れたい。その唇を奪いたい。彼女をこの腕の中に抱きしめて、すべてを奪い尽くしたい。
ふつふつと沸き上がる欲望に負けそうになった時、俺は無理矢理彼女から顔をそらし、夜空を見上げて叫んだ。
「たーまやー!」
力の限り、やけくその絶叫は思いの外よく響いて、ぎょっとした視線が幾つかこちらに向けられた。
「かーぎやー!」
怜が叫んだ。
「たーまやー!」
「かーぎやー!」
花火が夜空に打ちあがる度に俺たちは叫んだ。
切なさで泣きたくなるのをごまかすために。胸の苦しさで窒息しそうになるのを防ぐために。腹の底の底まで息をすって、喉が吹っ飛びそうなくらいの声で、すべてを誤魔化そうとした。
この気持ちを忘れて、こんな思いをしないで済むまでには果たしてどれくらいの時間が必要になるのだろうか。
きっとどちらかに恋人が出来れば、その時には、この歪な関係に終止符が打たれて、初めて本当の姉弟になれるのかもしれない。
そうなると、多分置いて行かれるのは俺の方だ。怜は綺麗だし猫を被っていれば愛嬌があって可愛いから、きっとモテるはず。その気になれば彼氏なんてすぐ作れるはずだ。そしていずれは結婚してうちを出て行く。
俺はどうだろう。いまはまだ怜に抱いた想いが強すぎて他の誰かに惹かれるなんてこと考えもつかない。
もしかしたら怜がいなくなった後も、俺はずっと引きずり続けてしまうかもしれない。
花火を見上げる彼女の横顔をちらりと盗み見る。そして俺は胸の中で、言葉にできない言葉をつぶやいた。
好きだ、と。
※※※
「花火始まったみたいだね」香奈が言った。「ここからでも見えるかな」
彼女はベンチから立ち上がって、滑り台の上に上った。「すごい、ここ特等席だね」
彼女の元気の言い声が、人気のない公園の中に響く。
私はぬいぐるみを抱き抱えたままじっとその姿を見つめていた。目元がひりひりする。自分でもおかしいくらいに泣いたせいだ。どうしてあんなに涙が出たのか自分でも判らない。ただ、彼に容姿をほめられて、それがただの気遣いでも、おべっかでもなく本心からのモノであると気がついた瞬間に、心の中でせき止められていた何かが決壊した。
何か、と濁してみたけれど、それが何なのか検討はついていた。ただそれを認めるためにはとても大きな勇気が必要だった。
「奈々子もこっち来なよ!」香奈が言った。「綺麗だよ!」
笑顔で手を振る彼女に私は「ここでいい」と答えた。
花火は見えない。けど音は聞こえるし、楽しそうな香奈の姿も見える。いまの私にはそれで十分だった。
香奈が滑り台から降りてきた。
「ほら、行くよ」
私の手を取って引っ張る。
「ちょっと待って」
私はぬいぐるみをベンチに座らせた。ごめんなさいちょっとだけ待っててね、と心の中で囁いた。
彼女に連れられて滑り台の上に登った。
瞬間、夜空に光が咲くのを見た。遅れて、遠雷のような重低音が響く。
「三島君も見てるのかな」香奈が言った。横顔が寂しげに見えるのは気のせいではないだろう。
「ごめん。私のせいで」
うつむいた私の手を握って香奈は、「いいの」と優しく言った。「奈々子と一緒でも楽しいから」
「香奈」
「まあ欲を言えば三島君が一緒の方がもっと楽しかったかもだけど」香奈はてへっと笑った。愛嬌のある可愛らしい笑顔。私には出来ないことだ。
「香奈のそういう正直なところ、嫌いじゃない」私なりに苦笑を浮かべてそう言った。「どっちかというと好き」
「ありがと」香奈はちょっとだけ照れくさそうだった。「私も奈々子のこと好きだよ」
「知ってた」
「私ね。不安だったんだ。引っ越して、全然違うところの中学に通うって決まった時。昔住んでた場所だけど、もう何年も昔のことで、もう全然知らない場所みたいなものじゃない。だからちゃんと馴染めるか不安で、それに奈々子と離ればなれになることがすごく怖かった」
「私も」
今年の春にいきなり引っ越すことが決まったのだ。理由は急な転勤だ。うちの親も、香奈のお父さんも都会のそれなりに大きな病院に勤めるお医者さんだった。香奈と出会ったのも、小学校に上がる頃に香奈が引っ越してきたからだったし、私自身も幼い頃に引っ越しを経験していたので覚悟はしていたことだった。でもそうと決まった時は泣きわめきたいくらい怖くて不安だった。
香奈以外に友達らしい友達が居なかった私は、きっと香奈と比べて失うものは少なかったかもしれない。けれど一番失いたくない大切なものを失うことになるのは一緒だった。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、二人だけのお別れ会をやったのを覚えている。お互いの宝物を交換しあって、離ればなれになってもずっと友達だからと何度も約束した。
しかしそのすぐ後に同じ県の同じ町に引っ越すことが判って、今度は安心して二人で抱き合いながら大泣きした。
「奈々子が居てくれてよかったって思ってる」
「そのままそっくり返すよ。その言葉」
香奈と一緒に同じ夜空に浮かぶ花火を見ることが出来る。運命の悪戯に感謝しなくてはいけない。
「運命だよねこういうのって」
香奈の大きく円らな目に、花火が映り込んできらきらと輝いている。
「奈々子と一緒だったし、それに、宗平にまた逢えた」
彼女の横顔がほんのりと赤く染まる。三島のことを宗平と呼ぶ時は決まってこんな恋する乙女の表情になる。
「不安と言えば宗平のことも不安だったんだ」香奈は言った。「嫌な奴になってたらどうしよって」
「でも全然そんなことはなかった」私は言った。
香奈は頷いた。「私のことは覚えてなかったみたいだけど、でもあの頃よりずっと格好良くて惚れ直しちゃった」
えへへ、と照れたように彼女は笑う。
三島宗平は不思議な男の子だと思う。確かに顔はそこそこ良いけれど、特別気が利くとか人間的によく出来ているということはなく、その辺りは至って平凡だ。どちらかと言えばいつも彼と一緒に居る栗原の方が、背が高くて今風のメガネ男子のイケメンといえる風貌だし、気が利くし気だても良いし、運動神経も良い。
でも三島の方が何か惹かれる物を持って居た。何なのかはよく判らない。でも、なんとなく他の男子とは違う雰囲気があった。どことなく陰があるというのだろうか。何か秘めた物があるんじゃないか。そしてそれは一体何なのか知りたくなる、そういう魅力だ。
初めて彼に会った時、私は少なからず違和感を覚えた。というのも、彼の話を何度も香奈から聞かされていて、そのイメージが頭にあったからだ。
孤独でひとりぼっちだった香奈を救った王子様。爽やかでヤンチャで格好良くて負けず嫌い。それが香奈の思い出話の中の三島の姿だった。
実際の三島は、確かに負けず嫌いだったり、男子の中ではかっこいい部類だったりでそれほどイメージからかけ離れていた訳ではなかったけれど、でも何かが決定的に違っているような違和感があった。それこそが、彼を彼たらしめている陰の部分だった。
正直に言うと私は香奈の思い出話に出てくるその少年に密かに恋心を抱いていた。それはおとぎ話の王子様に恋をするような荒唐無稽な恋だった。
私はよく遠くの空を見つめながら考えていた。いまその宗平という少年はどんな風に生きているのだろうかと。たくさん想像して、未だ見ぬ想い人へ思いを募らせた。
現実をみよう。そう自分に言い聞かすこともあった。でも悉く失敗した。想像上の人物に恋をするなんてバカのすることだ。そう思っていたので、引っ越し先が決まった時は好機だと思った。これでようやく幼い恋心を縛り付ける幻を振り払うことが出来る。だってそうだ。何度も何度も繰り返された思い出話なんて良かったことの詰め合わせで、美化されているのだから、現実を知れば幻滅するはず。
実際、彼と初めて顔を会わせて以降はそんな想像をすることはなくなっていた。
内心ほっとしていた。
彼は香奈がずっと想い続けてきた大切な人なのだ。そんな人を私が好きになって良いはずがない。想像上の彼に恋していた頃はずっと香奈に対してある種の引け目を感じていた。私なんかが彼を好きになってしまって申し訳ない、と。
そんな手前勝手ではあるけれども、親友同士だからこそ言えない気苦労から解放されたのだから気持ちが楽になるのも当然だった。
なのに、どうしてだろう。いま、また同じ様なことを考えている。
いや、理由なんて判りきっている。
私はまた彼に恋をしたのだ。
今度は本物の彼に。
彼が悪いのだ。私はそう思う。だってあんな風に言われて、私の事をちゃんと見て褒めてくれて、励ましてくれて。それで好きになるな、って言う方が無理な話じゃないか。
胸の奥の方がちくちくと痛くなる。香奈が隣にいるのに、私は何てことを考えているんだろう。
「でもびっくりしたなー」と香奈が言った。「急に奈々子泣き出すんだもん」
「ごめん」
「いいの、私のせいでもあるから」
「そんなこと言ってたね。どうしてなの?」
「奈々子にもっと自信もって欲しくて、それで協力して欲しいって言ったら、宗平ったら本気で奈々子のこと口説くようなこと言って」
あはは、と私は苦笑する。「でもあんな風に褒めてくれる人、香奈以外でいままで居なかったからちょっと嬉しかった」
「ねえ奈々子」香奈が言った。「もしかして、宗平のこと好きになっちゃったりした?」
冗談めかした口調なのに、その目はとても真剣だった。
頭の中で葛藤が渦巻く。口の中がからからに乾いていく。
「そんなことない」私は言った。「だって三島は香奈が小さい頃から好きだった人だから。私は香奈のことを応援してるから」
「そっか」香奈は嬉しそうに微笑んだ。「ありがと。やっぱり持つべき物は親友だね」
抱きついて来た香奈を受け止めながら、取り返しの付かない事をしてしまった、と後悔していた。
「私、絶対卒業までに宗平に告白するから」
「うん」
「絶対に断られないように、外堀を埋めて平らにしてからするんだ」
「うん」
「余所見が出来ないくらい私の事を好きになるようにしてやるんだ」
そうだ。
こんなに彼のことを想っている親友を裏切れるはずがない。
私はぎゅっと香奈を抱きしめた。
「香奈も三島も私のにとってとても大切な存在なの。その二人が幸せになれるなら、それは私の幸せとも言える。だから私は香奈のこと応援するから」
花火が終盤にさしかかっている様で、何発もの花火が絶え間なく打ちあがり、夜空を彩る。
それはまるで香奈の決意を後押しするように、その先にあるであろう未来を予見しているかのように、直視するのが辛いくらいに鮮やかな光景だった。
最後の煌めきが闇に消えて、ゆらゆらと靄のような煙が漂う。ここまで火薬のにおいが届いてきそうなほど、身近で心に訴えかけてくる物があった。
「帰ろう」と香奈が言った。
「もうちょっとだけここにいる」私は言った。
「もう花火終わったよ?」
「余韻に浸りたい」
私は嘘をついた。本当は一人になって泣きたかったのだ。
「一人で大丈夫?」
心配そうに香奈が私を見た。
「うん」
「でも奈々子って昔から変な人に狙われやすいし。今日だってナンパされてたんでしょ?」
「心配してくれてありがと」私は言った。「でも大丈夫ここからだと家もそんなに遠くないし、何かあったら家の人に迎えに来て貰うから」
「なら大丈夫、かなあ」
「私よりも自分の心配した方がいいんじゃないかな」
「へ? 私?」
「普通は香奈みたいなタイプの方が危ないと思う」
「あー、言われてみれば」そう言って香奈はくすくすと笑った。「お互いに狙われやすいタイプなのかも」
彼女のお気楽な様子を見せられたせいだろうか、すっかり毒気が抜けてしまった。空を見つめてももう靄も霞も何もない。
「やっぱり一緒に帰る」私は言った。
「そだね」嬉しそうに香奈は頷いた。
帰り道、私たちは手を繋いで歩いた。
いつも決まって香奈の方から私の手を掴んでくれる。彼女の手の温もりと隣に居る安心を感じる度に思うのだ。きっとここが私にとっての安住の地なのだろうと。失ってはいけない聖地だ。だからさっきの質問に正直に答えなかったことはきっと正解だったんだと思う。もし本当の事を言っていたら、私の左手はぬいぐるみを掴んでいてきっと片手で抱えている今よりもずっと歩きやすかっただろう。でもその代わり大切な居場所を失った痛みや悲しみに咽び泣いていたかもしれない。
だからこれでいいのだ。
胸の痛みを押さえつけるように何度も何度もそう言い聞かせ、溢れてきそうになる涙を必死に我慢した。
「香奈」私は言った。「がんばって」
「うん」香奈は頷いた。「絶対に幸せになってみせるから。見ててね」
まぶしい笑顔。
羨ましかった。妬ましかった。こんな風に感情を無邪気に感情を表現出来る彼女が。
決して私が手に入れることが出来ない宝物。親友の私だけに見せてくれる彼女の本当の笑顔。
だからどれだけ胸が痛くても、どれだけ切なくて苦しくても。私はこの笑顔を守らなくちゃならない。それこそが彼女の親友になることが出来た自分に課せられた使命なのだと、そう思うのだ。そしていつかその笑顔が彼に向けられる日まで、私はここを守り続ける。
了
今回は過去篇的な感じで番外編。慣れない感じの作風に挑戦してみた。番外編としてのタイトルはガンマ・レイのベスト盤から、このお話のタイトルはガルネリウスの楽曲から、それぞれ拝借しました。深い意味はない。ちょくちょく番外編を間に挟んで行きたいです
それではまた次回