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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第二章
17/55

Broken Love Was Piled Up. As snow… Epilogue 3"Scars"


 街を吹き抜ける風には相変わらず雪の気配が残っており、見上げた空には鈍色の雲が重く垂れ込めていた。せっかく先日積もった雪も融けてきたところだ言うのにまた降るのだろうか。そう考えると少し憂鬱な気持ちになってくる。雪そのものは嫌いではないけれど、特別好きというわけでもない。

歩道橋を登り切ったところで、私は足を止めた。。

 前方に続く通りの向こうに彼の入院する病院が見える。

 ここからあの白い建物を見つめるのは一年ぶりだ。私の心の内なる所のさらに奥に潜んでいた臆病な何かが足を竦ませて、ついに彼との面会の機会を得ることが出来なかった。

 いまにして思う。

 何をそこまで恐れていたのだろう、と。

 あのとき私は自分の所為で彼が事故に遭ったと罪悪感を背負って、まるで悲劇のヒロインを気取っていた。

 でもきっと彼は私を罵らなかっただろ。事実彼は責める必要はないと言ってくれた。それに救われたといえばそうかもしれない。けれど、同時にもう私は彼のすぐ隣に居られなくなったということを、その時初めて深く実感したのだ。一時の感傷で私は大切な物を手放してしまった。

歩道橋を渡りきると銀杏並木が続いてく。すっかり葉の落ちた並木を歩いていると肌で感じる温度以上に寒々しい気持ちになる。

病院の手前には川が流れていて、当然そこに架かる橋を渡らなければその先へ行くことは出来ない。

 あの頃はどうしてもこの橋が渡れなかった。

 川は古来より此方と彼方を隔つ境界であったと以前興味本位で手に取った本に書いてあったことを不意に思い出して、然もありなんと得心した。確かにこちらとあちらでは世界が違う。病院というのは良くも悪くも、生と死に最も近い場所である。多くの命が生まれ、そして失われている。この橋はそんな世界へ踏み込むための唯一の関門であり、そこに踏み入る資格を持たない穢れた輩を追い払う守護でもあるのかもしれない。

 なんてよく判らないことを考えながら私は思案していた。果して見舞いに行っていいものか、と。受験が終わるまでは会わないと約束したのはつい先日のことなのであり、それを言い出したのは私の方なのだから、そう簡単に反故に出来ることでもない。

 私は橋を渡らずに、堤防沿いの遊歩道を歩いた。ここにも銀杏が植えられ並木をなしている。しばらくしないうちにクリーム色の褪せたベンチが見えてきた。銀杏に背を向け、川を眺めるように設えられている。天候の良い時であれば近所のお年寄りなどがここに腰掛けてゆったりとした時間の流れに身を任せているのだけれど、すっかり冷え込んでいる今日の天気では人っ子一人居ない。人間嫌いな私にとっては好都合だ。

 ベンチに腰掛けて、川の方へ視線を落としてから、対岸へ目をやった。そうしてしばらく悩んで居ると、対岸から橋を渡ってくる少女の姿が見えた。

 とても背の高い少女だ。

 少し距離があるので顔はよく判らない、けれどどこかで見たことがあるような気がした。彼女は大きな紙袋を手にしていた。

 きっとお見舞いの帰りなのだろう。あの中には果して何が入っているのだろうか。ふとそんなことを考えた。持って帰っているのだから見舞いの品というわけではないだろうし、病室の整理をしたのか、着替えを持ってきた帰りに元々使っていた衣類を持ち帰っているのか。あるいは第三者から送られたちょっとやっかいな見舞いの品を頼まれて持ち帰っているのか。

 けれどなんだか様子がおかしい。少女は橋の中程で立ち止まると、そのまま欄干の方へ向きを変えた。

 俯いていて表情は見えないが、あれは恐らく泣いている。私はそう直感した。

 次の瞬間、彼女は川へ向かって紙袋を投げ捨てた。

 その拍子に袋の中の物がにわかに宙に躍り出た。

 川面を吹き抜ける風に煽られ一度翻ったそれはマフラーだった。

 私は思わず立ち上がっていた。一体何を思ってあの少女は橋の上から、しかも泣きながらマフラーを投げ捨てたのだろう。その心情を考えないわけにはいかなかった。同情したのではない。なんだか次の作品で使えそうなシチュエーションだと思ったからだ。

 彼女は流れてゆくマフラーを呆然と見つめていた。その姿から読み取れるのは、取り返しのつかないことをしてしまった後悔と、これでいいのだ、という諦観であった。なんとなく私はその姿に共感を覚えた。そして一つの可能性を考える。もしかしたら彼女は好きな男の子のお見舞いに来ていたのかも知れない。けれど既にそこには先客がいて、知りたくない事実を知ってしまった。想いを伝えぬまま恋に破れて、そしてその想いの結晶を投げ捨てたのだ。

私は橋の方へと歩いて行った。少女はこちらに気がついた風ではなかったが、再び歩き始めた。私は橋に至る途中で足を止めて、彼女の横顔を見ていた。瞳から零れる涙を拭こうともせずに、前を睨むように見据えて歩いている。その気丈な振る舞いに胸が震え、思わず貰い泣きしそうになった。

 少女の姿を見届けてから、その足取りを追うように病院から離れていった。。



何か目的があるわけでもなく、寂れた商店街をぶらついていると一軒の文房具屋が目に飛び込んできた。その時一つ名案を思いついて急ぎ足でその文房具屋へと向かった。民家の一部を店舗として使っているような昔ながらの店構えで、蛍光灯から発せられるジィーっというノイズと、石油ストーブの上に乗っけられた薬缶から蒸気が漏れる音以外には何も聞こえない。奥に番台があって、年代物のレジスターが置いてある。けれど人の気配がない。電気がついているし鍵も開いていたのだから留守という事はないだろう。とりあえず私は目当ての物を求めて店内をぐるりと見渡した。学習ノートなどが並べられた棚のすぐそばにそれを見つけた。薄紅色の便箋と、隅に花柄が印刷された封筒のセット。それを手にして番台へと向かった。

番台の上には『不在の際はこちらを鳴らしてください』という但し書きと共にベルが置いてあった。私は遠慮がちにそのベルを鳴らした。余韻が消えきらないうちに奥から「はーい」という声が聞こえてきて70歳は超えているであろ腰の曲がった老婆がやってきた。

「あの、これ」と私は番台の上に商品を差し出した。

 老婆はにっこりと嬉しそうに笑った。

「あなた若いのにお手紙なんて書くのね」

「ええ、まあ」

 私は苦笑を浮かべて応えた。こんな風に話しかけられるなんて思ってもみなかったので上手く言葉が出てこなかった。

「あなたみたいな若い人たちはいまはほら、メールとかそう言うののでしょ?」

「そう、ですね。でも結構手紙のやりとりもしてますよ」

 いまの私には無関係の世界だけど、授業中に手紙でメッセージを交換する女子は沢山居る。かつては私にも回ってくることもあったが、正直あんまり思い出したいことではない。

「でもあんまりこう言うところに買いに来ないでしょ?」

「まあ確かにそうかもしれませんね」ああいうのはショッピングセンター内のお店とか百円均一とかそう言うので買っているのだろう。

「だから珍しくってね。はい、216円ね」

 会計の後しばらく引き留められて話し相手にされていた。

 老婆は終始ご機嫌だった。

 私が商品を買っていたことが嬉しかったというよりは、客と話をするのが好きな様子だった。

 そんな相手だからか、こんな口下手な人間で申し訳ない、という気持ちが終始ついて回って、私はとにかく逃げ出したかった。それでも急に辞するのは失礼なので一応話には付き合って、適当なところでわざとらしく時計を見て、切り上げて店を出た。

なんだかどっと疲れてしまった。店に居たのは十分足らずでそれほど長居した訳でもないのに、もう数日分のコミュニケーションを一気にしてしまったような疲労感に襲われていた。

 十分人と話したので人気のない場所に逃げたくなった。そこで浮かんだのがあの丘である。少し遠いけどぎりぎり歩いて行ける距離のはずだ。




 なんだかんだで一時間近くは歩いただろうと思う。坂道の手前にあるコンビニで一度休憩してから丘の頂上にある広場を目指した。日当たりが悪いこともあってか、道の端や歩道の外の草むらには雪が綺麗なまま残っていた。空気もなんだか冷え冷えとしている。

もし誰か居たらどうしよう、と少しばかり心配していたのだけれど、結局それは杞憂に終わった。

 相変わらず、この広場に人影はない。

 ここは私と彼にとっての大切な思い出の場所。

 いつ来ても、あの頃のままで邪魔な人影が見えないというのはちょっとだけ嬉しくも、過去に囚われたままの私の心を映し出しているようにも思えて胸がきゅっと苦しくなる。

私はいつもの東屋に向かい、テーブルの上に買って来たばかりの一式を広げ、バッグの中からボールペンを取りだした。

 文章はとにかく頭の中に浮かんできた。彼に伝えたいことが多すぎるのだ。書くスペースは限られている。だからしっかりと吟味しながら文字を綴った。

書き上がった手紙を封筒に収た時、あることに気がついた。

 彼に会わないということは、つまり自分で渡す手段がない。当然のことだけど今の今まで失念していた。

 どうしようかと考えたが、すぐに答えは出た。

 大切な手紙を託せるような相手なんて私には一人しか居ない。

思い立ったが吉日。私はすぐに丘を降りた。

 逸る気持ちに急かされた足取りは穏やかでは居られない。

 息が切れるのもお構いなしに駆け下りた。

 そのままこの町を横切るように流れている川の方角へと向かった。

 汗が額に浮かんで、髪が乱れる。でも気にせず走る。

 ただ胸の中にあったのはこうして走らずには居られない焦燥と、そして高揚感だった。

 この道を彼がかつてジョギングコースとして走っていた。そこをいま私は走っている。ただそれだけのことなのに、どういうわけか胸が浮くように幸せで、でも同時に息が詰まって酸欠になって倒れそうなほどの切なかった。

 あの日に私は大切なものを手放して、置き忘れてきてしまった。

 もしあの時こんな風に走れたら、いまの私はきっと想像もできないくらいに幸せだったに違いない。けれど、同時に小説家としての未来はなかっただろうとも思う。デビュー作を発表して時の人となり、一年もたてば名前も忘れられて古本チェーンで作品が投げ売りされて、それでおしまいだ。もしかしたらその後にもう一つくらい作品を発表したかもしれない。けれどそれはきっと売れなかっただろう。私の創作意欲は現実にはかなわないことへの羨望から生まれている。決して手にすることができない幸せな未来。それを求めて私は私の世界を創作し、言葉にして、文字として具現化しているのだ。だから、後悔している一方でいまの自分が生まれたあの選択を、いまはもうやり直したいなどとは思えなくなっていた。

 あのイヴの夜に、たった一人寒さに凍えながら待ち続けた私。病院の前で怖じ気づいて惨めに踵を返した私。親友に彼を奪われ叱責され、感情のままに己に刃を突きつけた私。食事が喉を通らなくて滑稽なほどやせ細っていた私。それらすべてがいまの私にとっての原風景なのだ。

 彼の家が見えてきた。一度足を止めて、膝に手をついて、荒くなった呼吸が落ち着くのを待った。もうすっかり汗だくで、あまりにも苦しくてお昼ご飯と数時間ぶりに再会を果たしそうなほど、とにかく危険な状態だった。とはいえこんな往来でへたりこんでしまうことは私のプライドが許さなかったので、なんとか耐えて、深い深呼吸を何度もして、私は歩き出した。

 玄関の前で立ち止まり、チャイムを鳴らそうと指を伸ばした。けれどふとあることに思い至ってすぐに引っ込めた。

どうも中から人の気配がしない。

 すっかり自分の世界に浸りながら、まるで物語の主人公になったような気分でここまで来たのだけれど、よく考えてみたら必ずしも怜が居るとは言い切れないのだ。出不精であるけれど、彼女だって出かけるし、何より彼の見舞いに行って長時間家を空けるなんてことは改めて考えてみなくてもありそうなことだ。しかしそれをすっかり失念していた。

 流石にこれで誰も居なかったらちょっとしんどい。

嫌な予感は的中した。

 二度三度とチャイムを鳴らしても誰かがやってくる気配がない。まさか居留守を決め込んでいる訳でもあるまいし。一応ダメ元で携帯に電話しても出なかった。

私は途方に暮れて立ち尽くしていた。最悪このままここで待つしかない。走っている間にかいた汗が冷えて急に寒くなってきた。風邪を引くリスクはかなりあるけれど、背に腹は変えられない。このまますごすご帰るなんてことはできない。

「何人ん家の前で深刻そうな顔して突っ立ってるのよ」

 急に背後で声がした。。

「怜!」

 反射的に振り返る。

「そんな大声で言わなくても私は私よ」

 彼女は面倒くさそうにため息をついた。何かいつもと雰囲気が違う。疲れているというか、妙にやつれている様に見える。

「残念だけどそっちはいま留守よ?」

「でもあなたが帰ってきたじゃない」

「帰ってきたんじゃなくて、不審者がいたから様子を見に来ただけよ」やれやれと言いたげな表情で彼女は言った。「それじゃあ私は忙しいから」

「ちょっと待って」

 急にどこかへ行こうとした彼女を呼び止めて、前に回り込んだ。

「なによ」

 相変わらず邪険にされている。普段から憎まれ口を叩き合っている仲ではあるけれど、流石にこんな風にあしらわれるとむっとする。けれど今日はこっちからお願いしに来た立場なのだからこらえなければならない。

「あなたにお願いがあって来たのよ」

「そうちゃんのこと?」

 どうやら彼女にはお見通しらしい。

 彼女はまたため息をついた。そのとき私は、彼女が普段とは違う大人しめの柄の着物を着ていることに気がついた。

「もしかして、急な仕事の依頼が来てお見舞いに行けなくなったの?」

「ご明察」げんなりした顔で彼女は答えた。「せっかく親友のあなたが察してくれたのだから、そうね、ちょっと愚の相手になってもらうわ」

「私に拒否権は?」

「あるわけないでしょ。ほら、立ち話もなんだからこっちついてきて」

 彼女が向かったのはすぐ隣の、浅井と言う表札の下がった家だった。彼女はまるでそこが自分の家であるかのように無遠慮に敷地に入って玄関へ向かった。私は庭に入ったところで立ち止まってしまっていた。

「あの、怜?」

 呼び止めると彼女は気怠げに振り返った。

「そういえばここのことまではあなたに話してなかったわね」そう言って彼女は先ほどまでとは打って変わって、柔らかく微笑んだ。女の私でも思わず見とれてしまいそうなほど綺麗な微笑だった。そして彼女はその優美な口元を崩さずに、「ここは私の実家よ。だから遠慮することなんて何もないわよ」

「あなたの、実家?」

「両親が事故で他界して、それから色々あってそうちゃんの家に居候することになったって言う所までは話してたわよね?」

「ええ、それは知ってる」

「実はね、私、本籍はこっちで名前も三島怜を名乗ってるだけで、本当は浅井のままなのよ。学校では事情を考慮してもらって三島怜で通ってるけど」

「そう、だったんだ」

 突然の告白に私はどんな反応をすれば良いのか判らなかった。

「この家と土地は私が相続して、私が面倒を見ているの。手放すっていう選択肢ももちろんあったわ。むしろ当時の年齢を考えればそうする方がよかったのかもしれない。けれど手放してこの家がなくなってしまったら、ここで過ごした時間も、お父さんとお母さんと暮らした想い出が全部色あせてしまいそうで、だから我が儘を言ったの。幸い、まあ色々事情があって事故を起こした相手方から金銭的に支援を受けられることになってて、そうちゃんの家に負担をかけることなく維持できているんだけどね」

 遠くを見る目で語る彼女の表情は、私の知らない顔をしていた。初めて彼女に会ったとき、私は思った。この先生涯においてこの彼女より美しく可憐な女性に会うことはないだろう、と。けれど、いままさにその彼女自身が童心の様な無邪気さと憂いを持ってしてそのまぶたに焼き付いた残像をかき消してくれた。

きっと今の彼女こそが本来の姿なのかもしれない。

「ほら、速く中に入りましょう。風邪ひいちゃう」

「うん」

 家の中には不思議と生活のにおいが染みついていた。

「定期的に掃除しに来てるし、そうちゃんと喧嘩したときなんかはよくこっちに来てるの」笑いながら彼女は話してくれた。「それに、今日みたいに仕事が修羅場ってるときもね」

「こっちにも仕事部屋があるのね」

「むしろこっちの方が良い環境が揃ってるの」

「そうなの? でもあなた基本的にはあっちで仕事してるわよね」

「それはそうちゃんが居るからよ。それにね。私がこっちに籠もると、そうちゃん心配してベランダから様子を伺ってくるの。それがね、見てると可愛いんだけど心配かけてるって思うと胸が苦しくて」

「あ、その話はもういいわ。ちょっとイラッと来るから」

「そう? それは残念」そう言って彼女は扉を開け中に招いてくれた。広々としていて、テレビとソファがある。奥にはダイニングキッチンが見える。どうやらリビングらしい。「そこのソファに座ってて、なんか持ってくる」

 私は少なからず驚きながら彼女を見守っていた。まさか彼女はこんな風に持て成してくれるだなんて思っていなかったからだ。彼女のことは親友だとは思っているけれど、こういう部分ではかなりずぼらで気の利かない方、というよりはあえてぞんざいにしている様に見えていたからだ。ところがいまの彼女は愚痴の相手になれという割には普段と比べるとトゲが少ないし、甲斐甲斐しさまである。別人じゃないかと言うくらい完璧な美少女である。

 ココアの入ったマグカップを二つ、トレイに乗せて彼女は戻ってきた。それからまたキッチンの方へ行き、今度はトレイに切り分けたバームクーヘンのお皿を乗っけていた。

「ねえ、原稿のやりすぎてどうにかなったんじゃないの?」丁寧にテーブルの上にカップとお皿を並べる彼女を見て、私は思わずそんなことを口走ってしまった。

「持て成されといて失礼なこと言うのね」彼女はある程度私の反応を予想していたらしく、苦笑混じりに答えた。

「だって」

「ここに居るとね、なんとなくこうなっちゃうの」そう言って彼女は懐かしそうに、「お母さんがすごく厳しい人で礼を失するようなことをしたらそれはもう凄く怒られたんだから。それにあなたはちょっと特別だから」

「特別」

 そう言われると妙に気恥ずかしい感じがして、まともに彼女の顔を見れなくなる。

 彼女も自分で言って照れているようで少し顔が赤い。

「そ、それじゃあ一口頂くわ」

 変な雰囲気になりかけたところろで、誤魔化すように私はバームクーヘンを一口食べた。バターとミルクの風味が豊かでとても甘い。でもくどさは不思議と感じなかった。きっといいお店で買った物なのだろう。それからココアのマグカップに口をつけた。漂ってくる甘い香りとは対照的にビターな味わいで、それが口の中に残っていたバームクーヘンの甘みと合わさって絶妙のハーモニィを奏でる。流石、伊達に健啖家ではない。味わいへのこだわりもかなりの物らしい。

「おいしいでしょ」私の顔を見て、彼女は嬉しそうにいった。「私のお気に入りなの。でもお店は教えてあげない」

「いいわよ。自分で見つけるから」私は言った。「あなたの行動範囲なんて高が知れているもの」

「言うわね」

「事実でしょ? 宗平君から聞いたわよ。外食する以外ではほとんど家に引っこもってるって」

「だって外出する理由がないんだもの。美味しい物食べたいとき以外は」そう言って彼女はバームクーヘンにかぶりついた。フォークで切り分けもせず、そのまま突き刺して大きく口を開いてそこへ放り込む。まるで子供のような無邪気なかぶり付き方である。しかし不思議と下品ではないのが彼女の持つある種の魔力と言う物なのだろう。しかし、それにしても、なんて幸せな食べっぷりなんだろうか。目尻は優しく垂れ下がり、口角が少し持ち上がり、その二つの曲線がいかに幸福であるかを雄弁に物語っていた。やがてそれが徐々に元に戻って行き、優雅な所作でココアに口をつけ、マグカップを置いたところでほう、と息をつき、彼女は品定めをするような目になって私を見つめた。

「それで、どんな用事なの?」

 私はカバンの中から封筒を取りだした。

「これを、宗平君に渡して欲しいの」

「自分で行けば良いじゃない」彼女は呆れ顔になった。しかしなんとなく事情を察したようで、面倒くさそうに手元に封筒を引き寄せた。「山羊になっちゃだめかしら」

「プリントアウトした没原稿なら沢山あるから後で送ってあげる。いまなら送料は無料よ」

「そんなの食べたらおなか壊しちゃう」怜は楽しげに言った。「心配しなくてもちゃんと届けるわよ」

「たのんだわよ。絶対だから」

「判ってるってば。まああんまり説得力はないかも知れないけど」

 彼女は自嘲気味に笑い、目を伏せた。

私は彼女の言葉を否定することは出来ず、かといって肯定することも出来なかった。

 親友だと思っている。いや、思いたい。けれどどうしても、彼を奪われたという事実が素直にそう認めてしまうことを妨げている。

会話が途切れて気まずい空気が流れた。用も済ませた訳だし、これ以上悪くなる前に辞する、という選択肢が頭の中に浮かんだけれどなぜだかそれを選ぶことは出来ず、残っていたバームクーヘンを一口食べた。なんだかとても居たたまれない味がした。

「そういえば、こんな時期にいったいなんの仕事が舞い込んだのよ」

「え? ああ」彼女は何か考え事をしていたらしく、不意を突かれたように目を見開いてから「冬の新刊にイラスト寄稿してくれって知り合いから。一応同じ雑誌で描いてる人だし、お世話になったこともあったから断りづらくってね。というか話してるうちに私の方も乗り気で描くって言っちゃって自分で退路を断ってしまったというか」

「仕事ってそっちの話だったの?」

「当たり前よ。自分本来の締め切りは余裕を持って間に合わす主義だもの」

 彼女は同人誌を描いている。それもプロの漫画家になる以前からだ。元々商業誌にデビューするきっかけも同人イベントで出版社の人間から声をかけられたからだと聞いている。尤も、そのときは話を断ったそうだが、そのあとそこの出版社が刊行している漫画雑誌主催の新人賞に原稿を送って賞を取りデビューしたと言う流れなのでスカウトからデビューという訳ではないのだけれど、何かしら裏ではあったのかも知れないと私は思っている。

 彼女が商業誌デビュー早々に売れ、順風満帆なのも同人活動で築いた地盤があるという面が少なからず影響している。

 流石に去年の冬は新刊を出していないが今年は出すらしい。彼女の弁からするに既に完成させているのだろう。尤も、彼女自身はは即売会の会場へは行かない。飽くまで覆面作家として活動しているのでブースに立っているのは代理の人間だ。スカウトしようとした出版社の人も最初はその人物を怜だと思っていたらしい。なので後日怜と会った際に大変驚いたそうだ。

「そういえばまだ隠してるの?」

「当たり前でしょ。表の仕事の方はそのうち話すつもりだけど、こっちは流石に」

「まだ全然話してないんじゃない」

「うるさい。私にだって色々あるのよ。色々」彼女は急に不機嫌になって、「もうこの話は終わりね」

 どうやらあまり触れられたくない話題だったらしい。以前はこんな反応をしなかったのに。なにか彼との間にあったのだろう。それにしたってどうして頑なに漫画家としての自分を彼に見せたがらないのか。どうせもう怜がプロの漫画家であることを彼は知っているのだから隠す必要がどこにあるのだろうか。まあ、同人の方に関しては確かに、彼に知られたくないと思う気持ちは判らないでもない。どれだけ愛していて信頼している相手にだって隠しておきたいことの一つや二つはあるものだ。

 とりあえず用事も終わり、彼女もなんだかんだお喋りに満足している様だったのでそろそろお開きにしようか、というタイミングで外から賑やかな話し声が聞こえてきた。隣の、宗平君の家の方からだ。

「あ、いけない」そう言って怜は立ち上がった。「ちょっと行ってくる」

「ちょっと怜、どこ行くのよ」

 一人だけ取り残されても困るので彼女の後を追いかけた。

向かった先は彼の家である。その玄関先に見知らぬ少女が三人たたずんでいた。いや、よく見ると一人は顔見知りだった。

 その一人は私の顔を見ると同時に「あ」と声を漏らしてその驚きを隠す様に口元に手をやった。私は愛想笑いを浮かべて怜の後ろに隠れた。別に仲が悪いというわけではないが、かといって特別に親しいわけでもない。でもただの顔見知りというほど他人でもないし、友人と言い切れるほどでもない。なのでどう接すれば良いのか、人見知りの私には判らなかったのだ。

「あ、そっか。雪ちゃんとさくらって知り合いだっけ」怜がそういえば、という風にぽんと手をたたいた。

 三島奈雪と知り合ったのは二年前の夏のことだ。怜が同人活動をしているということを知り、初めて足を運んだ同人イベントでで出会った。人混みに怯えながら向かった先で待ち構えていたのが怜ではなく代理でサークルスペースに立っていたゲームに出てくる巫女さんのキャラクターのコスプレ姿の三島奈雪だったのだ。以後、怜の新刊を買いに行くたびに顔を合わせることになった。二ヶ月前のイベントで顔を合わせた、それ以来になる。

「ちょ、ちょっといい?」奈雪はこちらに来ると他の二人に背を向けるようにして声を潜め「私がコスプレやってること黙っててもらえるかしら」

 私は思わず笑いそうになったのをこらえて「ええ」とうなずいた。そういえば、初対面の時から一貫して彼女は何らかのコスプレ衣装をまとって売り子をやっていた。今日は流石に普通の格好をしているが。なるほど。彼女も家族に隠れてそういう活動をしているらしい。

「あの、雪姉様。その方は?」

 背の小さい女の子がそう言って怪訝そうに私を見た。

「怜ちゃんを通じて、ちょっと知り合ったお友達」

 そう言って彼女はこちらに目配せする。

「あ、ええ、そう。ちょっと縁があって」私は笑って見せたがきっとぎこちない表情をしていただろう。こういう目つきがするどい子はなんだかちょっと苦手だ。

「ふうん」と彼女は吟味するように私を改めて見つめてから「三島花音です。雪姉様がお世話になってます」と丁寧にお辞儀をした。

「あ、いえ。こちらこそ」

「私は三島月子」唐突に、花音ちゃんのすぐ後ろに立っていた少女が言った。なんだかミステリアスな雰囲気で、年下なのか年上なのかよく判らない。「よろしく」

「よろしく、です」

 私のぎこちない対応が可笑しかったのか、怜がくすくすと笑っていた。奈雪は巣立ったばかりの雛を見る様な優しい目をしていた。なんだか釈然としない感情はあったが、反論できるほどしっかり対応出来ていないのでただただ悔しいばかりだったけれど、一方でこういうのも悪くないと思っている自分もいた。

 ほう、と息を吐いてから私は二人を見た。

「相川さくらです。怜と、奈雪さんのお友達、なのかな。一応そういう感じでお世話になってます」

 ちら、と怜の方を見ると相変わらずくすくす笑っていた。

「あ、あの。もしかしてあの、相川さくらさんですか?」花音ちゃんがおずおずと、しかしある種の確信を抱いて訊ねてきた。

 どう答えようか考えあぐねていると、奈雪が「そうだよ」と言って、それから私の背中をとん、と押した。「花音ちゃんが大好きな相川さくら先生本人です」

 驚いて振り返ると、奈雪がしてやったりと言った表情を浮かべていた。そして正面に視線を戻すと花音ちゃんがキラキラと目を輝かせながらこちらに熱い視線を送っていた。

 一般人から向けられるこう言う視線にはすっかり慣れていたけれど、この状況ではいつもの様にあしらうことが出来ない。

 怜に助けを求めたが、彼女は黙って首を横に振るばかりで、月子さんに一縷の望みを託してみたけれど、あまり興味がなさそうにスマホを弄っていたのでとうとう私は諦めて、「サインしましょうか?」と営業スマイルを浮かべた。そこからしばらく様々な質問責めにあったのは言うまでもない。




「今日は本当に疲れたわ」

 今日一日の疲れがどっと押し寄せてきて、思わずため息をついてしまった。

「お疲れ様」

 隣を歩く怜がおかしそうに笑った。

 あれから今度は宗平君の家にお邪魔して三姉妹を交えてのお茶会となった。とにかく花音ちゃんが色々話しかけてくるので、その相手をするのに精一杯で正直どんなことを話したのかあまり覚えていなかった。そうこうしているうちにいつの間にか外は暗くなっていて時刻は19時を過ぎていて、流石にそろそろ夕飯の支度をしなければならないという頃合いで今度こそ本当にお開きとなった。「そういえばどうやって帰るつもり?」と怜が訊ねてきたので「まだバスはあるから」と私は答えた。すると怜がバス停までついてくると言い出し、こうして女二人でだらだらと夜道を歩くことになったのである。

「そういえばさくら、あなたちょっとヤキモチ焼いてたでしょ」

「なによ突然」

「私が雪ちゃんと話してる時、らちらちらこっち見てたじゃない」

「あなたたちに助けを求めていただけよ」

 からかわれているのが判ったので私は少しムキになって答えた。しかし実際のところ二人のことが気になっていたことは確かだった。怜が自分以外の人間と談笑していることが何故だかとても衝撃的だった。しかし考えてみればサークルの売り子を任せるような仲であり、そもそも彼女も三島家の一員である以上、血縁的には他人でも実質従姉妹同士と言って差し支えない関係なのだから、当然と言えば当然なのだけれど。何故だかうまく割り切ることが出来なかった。

思えば怜は私にとってかなり特別な存在だった。苦痛でしかなかった学校生活を変えてくれた恩人であり、気兼ねなく接することの出来るたった一人の親友であった。また勉学に於いては常に彼女はトップを走り私はそのすぐ後を追いかけ続けていた。ライバルといえるほど対等ではなかったけれど、少なくとも互いに競い合う意識はあった。

 それ以外にも競い合っている部分はあった。例えば彼女は背が高くてかわいいというよりは綺麗な顔立ちなのに対し、私は背が低く童顔で美人よりはかわいいと言われることが多い容姿であり、そう言ったある種の女としての魅力でもライバル意識を持っていた。

 だが互いに男子にモテたいという気持ちがないことは共通していた。今にして思えば彼女は宗平君のことしか見ていなかったのだから、周囲の男子に興味がないのも当然なのだけれど、そのことが判るまではとにかく不思議だった。私は私で妄想や想像ばかりが先走って理想の男子像のハードルが青天井だったので周囲の男子は全く眼中になかった。

 彼女と一緒に学校生活を過ごすようになってから半年ほど経った頃には、ただの友人同士ではなく一線越えた関係ではないか、という噂が流れ始めた。無論そんなことはないのだけれど、けれどそう噂されたって仕方がないくらい私たちはいつも一緒だった。

 私が見ていた世界の中で彼女はいつもひとりぼっちだった。学校一の美人であり不思議な気品を漂わせていた彼女は高嶺の花として周囲から見られていた。彼女はその立ち位置を利用していつだって一歩引いたところで見下すように周りを見ていた。尤も、普段は猫を何匹も被っていた上に、運動神経が壊滅的なのを逆手に取ってそれを親しみやすさの材料とし、完全に浮いた存在にならないギリギリのラインを保っていた。けれど私にだけは違う顔で接して、とうてい普段の猫を被った状態では漏らさないような愚痴や、少々どころではないディープな趣味のことなどを話してくれた。そんな訳だから自分が彼女にとっても特別な存在だと思うのも無理からぬことであった。

「さくらってもしかしたら私よりも独占欲が強いタイプなのかもね」

 その言葉を私はあえて否定しようとは思わなかった。実際、怜のことも、そして宗平君のことも、特別な存在として独占したい気持ちがあったからだ。けれど彼のことに関しては自分の馬鹿な行動で取り返しのつかない状況を招いてしまった。

 だからだろう。余計に怜への執着が大きくなった。特に、私の自殺未遂の一件から、彼女はこちらの顔色をうかがうようになった。以前は私の方が彼女の顔色を気にしていたのだから、立場がまるっと逆転してしまったことになる。それと時を同じくして、独占欲だけではない、もう一つ、支配欲が首をもたげた。彼女を支配して、私との関係を切れなくしてしまいたい。私だけの親友にしたい。一度壊れてしまった関係だからこそ、自分に主導権が移ったからこそ、そのような考えが顕在したのだ。あるいは以前から心のどこかにあった考えなのかも知れない。自分に向けられる愛情を親愛を、すべて自分だけのものにしたい。こんなことを考えている様では、私たちのあらぬ噂に対する否定も、説得力に欠けてしまうではないか。自己嫌悪が急に襲ってきて私は一度大きくため息をついた。

 バス停に到着したけれどバスが来るまではまだ十五分ほど時間があった。私たちはベンチに座ってバスを待った。

「春から寂しくなるわね」怜が言った。

「受験もまだなのに気が早いこと言うのね」

「どっちにしろ出て行くんでしょ?」

「まあそうだけど」

「私にはあなた以外の友達が居ないから」寂しそうに彼女は目を伏せた。

「宗平君がいるじゃない」少なからず嫉妬を込めながら私は言った。

「それとこれとは別。さくらには話せないけどそうちゃんに話せることがあるのと同じ様に、さくらにしか話せないようなことも沢山あるんだから」

 そう言われて悪い気はしない。でもなんだか照れてしまって恥ずかしくて、上手く言葉が返せない。怜も同じように黙り込んでしまった。おかげで妙な沈黙が訪れた。

 それからしばらくして、緊張した語調で彼女が言った。

「前から気になってたこと、一つだけ、訊いてもいい?」

 走り去る車のヘッドライトが照らし出した彼女の横顔は、その陰影よりも深い不安に彩られていた。私は一度つばを飲み込んでから彼女の言葉を待った。

「私はあんなことをしたのに。なのにどうして仲直りしてくれたの?」

 その問いかけに、私はしばらく何も答えられず黙って俯いていた。沸騰しそうになった感情を抑えようとする。早くバスが来ればいいのになんて消極的な考えが脳裏にちらつく。

 一度深呼吸をしようと息を吸って吐き出そうとしたとき、私の喉は私の意に反して声を発した。

「許した訳じゃないわよ」

 空気が揺らぐように彼女が動揺したのが見て取れた。

「けど私にとってはたった一人の大切な友人だもの。それに自分に非がない訳でもない。だからあなたが全面的に悪いとも言わない。けど、心の中ではどうしても許せない。あんな裏切り許せるわけがない。でも、私にはあなたしかいないから。あなたのことが好きだから。だから仲直りするしかないじゃない」

 怜は唇を噛んで足下に視線を落としていた。

「出来れば以前のような掛け値無しの関係で居たかった」私は言った。嘘偽りのない本音だ。私にとって生まれて初めての、たった一人だけの心を許せる親友だったからこそ、そう思うのだ。

「それは、私だって」

 震える声で彼女が言ったその言葉が、私の心を深く抉った。。

「それならどうしてあのとき、私の背中を押してくれなかったのよ!」

 どれだけ沢山空気を吸っても足りないくらい胸が苦しい。こみ上げてきた感情が茨のように心に巻き付いてくる。

「あのとき、あなたに相談したわよね。どうしたらいいかって。そしたらあなた、落ち着くまでしばらく待とうって、そう言ったじゃない」

 確かに私はあの時何も出来なかった。いや、しなかった。けど、だからって行動しようと考えなかった訳ではない。今となっては完全に言い訳だけれど、でも確かに私は、一度彼女に相談したことがあったのだ。あれはそう。彼が退院する一週間ほど前だった。どんな顔をして彼に会えばいいのか。そのようなことを私は彼女に相談した。すると彼女はこう言ったのだ。

「いまは精神的にも不安定だから、もう少し落ちついてから会ってあげて」

 しかし蓋を開ければその間に彼女は彼を奪い去っていた。

それだけではない。彼に渡して欲しいと怜に託したチケットを、あろうことか私の存在を伏せ、二人の関係を深めるのに利用したのだ。

「取られるのが嫌だった」抑揚を殺した声が静かに響いた。いままで聞いたことのない類の無機質な声色に、一瞬、ぞくりと背筋を冷たいものが撫でた。「そうちゃんは私の大切な、生きる理由だったから。諦められなかったの。だから私はあなたを裏切った」

 口元に浮かんだ冷笑は果たして己だけに向けられたものだろうか。まるでこちらのことまであざ笑っているように見えた。

 カチンと来た。

 頭にカッと血が上る。気が付くと私は彼女の頬を力の限り叩いていた。いつの間に立ち上がったかすら記憶にない。目の前には頬を抑えてうつむき、涙を流す怜が居て、私は肩で息をしながら泣いていた。とにかく胸の奥からこみ上げてくる熱くてドロドロした想いが抑えきれなかった。だからもう一発ぶった。彼女はベンチの上に崩れ落ちた。顔を伏せて肩をふるわせている。その姿を見ているうちに段々熱が冷めてきた。入れ替わるように、すべて終わってしまった、という絶望感が押し寄せてきた。

 にわかに周囲が明るくなる。バスが近やってきたのだ。

 私は逡巡した。このバスに乗るべきか否か。もしここで、このまま彼女と別れてしまったら私たちの溝は決して埋められない物になる。

 空気が抜ける音がして昇降口が開く。

 ぐっと唇を噛む。

 バスへ向かって歩み出そうとした。

 瞬間、左腕を掴まれた。

 ぎょっとして振り返る。

「待って」と掠れた声が顔を隠すように垂れた前髪の隙間から聞こえた。

 バスの方を見ると運転手が困ったようにこちらを見ていた。私は愛想笑いを浮かべて手で「行ってください」というジェスチャをした。ドアが閉まって、バスがゆっくりと動き出す。

 走り去るバスを見送ってから、

「ねえ、怜、そろそろ手をーー」

 離して。

 そう言葉にしようとして、思わず悲鳴を漏らしてしまった。

 顔を隠す前髪の中の相貌が異様にギラつき、私を見つめていたからだ。それだけではない。口元にはひきつったような笑みが張り付いていてまるで狂人の如くすがりついてくる。

 私の腕を掴んだまま彼女は立ち上がった。その拍子に私は彼女の方へ引っ張られ、胸の中に飛び込むような形になった。腕を掴む力が消えたと思うのも束の間、息苦しい程の力で抱き締められた。

「怜、あなたどういうつもり?」

 私はおびえていた。彼女のこんな姿は初めてだ。このままどうなるのか見当も付かない。

「どこにも行かないで」

 何の感情も読みとれない囁き声が頭上から響いた。

「ごめんなさい。私が悪いの。あなたを裏切った私が。なんでもする。だから、友達のままでいてください」

 そのとき私は気が付いた。彼女の表情の本当の意味に。笑って居るのではない。恐怖で引きつっていただけなのだ。

「どんなこともするから、ひとりにしないで。いらない子じゃないから。見捨てないで。ひどいことしないで。おねがいだから。ごめんなさい」

 その幼子のような言葉の羅列が私に向けられた物だとは思えなかった。背筋に冷たい汗が流れる。

 急に怜の体が震えだした。それが寒さ故のことではないのは明白だった。

 怯えている。

 それも尋常じゃないほどに。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 誰に対する謝罪なのか。一心不乱につぶやき始めた。

「怜!」私は彼女の名前を呼んだ。何がなんだか理解は出来ないけれど、どうやら私の行動のいずれかが、彼女の中のある種のトラウマを呼び起こしてしまったらしい。「大丈夫だから、私はここにいるから」

 優しく包み込むように、私は彼女を両の腕で抱いた。彼女はもっと図太い人間かと思っていた。親友を出し抜いて略奪愛を成就させたのだから。けれど、どうだろう。まるで硝子細工のように繊細で、か弱いではないか。彼女が見せたその脆さを、私は愛おしく思った。そして同時に優越感を抱いた。いまの彼女は私の胸先三寸で如何様にも出来るのだから。私は自分の口元が笑みを浮かべていることに気がついた。私はなんて人間なんだろう。そう思いながらも不思議と自己嫌悪の波が押し寄せてくることはなかった。

「さくら?」

 呆けたような声。どうやら現実に戻ってきたらしい。

「ああ、そうか。私」そう言って彼女はこちらに身を委ねるように、ふっと体の力を抜いた。急なことだったので私はあわてて踏ん張った。「ごめんなさい。迷惑かけちゃったみたいね」

「そうね。出来れば自分で体を支えて欲しいんだけど」

 20センチ以上も身長差があるのでさすがにちょっときつい。

「腰が抜けちゃって、とりあえず、ベンチに座らせてくれたらあとは大丈夫だと思うから」

 下手くそな社交ダンスをするように移動して、怜をベンチに座らせた。一メートルくらいの距離なのにもの凄く疲れてしまった。彼女の隣に腰を下ろしてため息を吐いた。なんだかもう、先ほど激昂したのがどうでもよくなってきた。

「あれ、なんなの」私は単刀直入に切り込んだ。

 怜はすぐには答えなかった。そう易々と答えられる事ではないことは判っていたので、返事は期待していなかった。

「両親が事故で死んで、それからそうちゃんの家に引き取られるまでの間に、親戚中を盥回しにされてた時期があったの」

 予想に反し、彼女は滔々と語り始めた。

「うちの両親はね、お互いの実家から交際を反対されてて、それを押し切って駆け落ちして結婚したの。だから、あんまりよく思われてなくてね。おまけに家同士が先祖代々凄く仲が悪くて。お父さんの実家も、お母さんの実家も、そっちの息子が誑かしたから、いやいやそっちの娘が誘惑したんだろ、って言う風にいがみ合ってて。分家の人たちも似たような感じだった。そしてその憎悪が全部私の方に降りかかってきたの」

「そんな。あなたに罪はないじゃない」

「ううん」彼女は首を横に振る。とても悲しそうに。「私はあの人たちから見れば、罪の象徴というか消してしまいたい汚点というか。とにかくお互いの心情にとって存在することすら許されない存在だったの。だから酷い扱いを受けて。人としての尊厳も何もかも踏みにじられて。沢山否定されて。だんだん思うようになったの。言われるまま私は罪を認めるから、これ以上虐めないでって。でもそんな態度をとるようになったらますます酷くなってね。もうダメかな、って思ってた時にそうちゃんのお父さんが乗り込んできて、私を連れ出してくれた。そうちゃんとも再会出来た。でももう、その頃には私もおかしくなってて、安心した、とか嬉しいとかって感情もなくってしまっていて。気が付けばどうやったらそうちゃんたちに迷惑をかけずに姿を消すことが出来るのかってことばっかり考えるようになってた。すっかり洗脳されちゃってたんだと思う。私はこの世に居ちゃいけないって」

 彼女の肩が小刻みに震えている。

「怜、もういいわよ。それ以上無理して話してくれなくったって」

「ありがとう。さくらのそういう所好きよ。あなたは不器用なだけで優しい子だって私は知ってるから」

「そう言うことをこの状況で言わないでよ。不安になるじゃない」

「大丈夫だってば」怜は苦笑を浮かべた。いつの間にか震えは止まっていた。「そうちゃんが私を生まれ変わらせてくれたから。あの悪夢の中で砕けて粉々になった私という人間の、そのかけらを拾い集めていまの私にしてくれたの」

 一点の曇りのない眼差し。それはまるで神を語る敬虔な宗教者の様だった。

「だから本当はずっと私だけのそうちゃんで居て欲しかった。でもそうちゃんは私と本当の姉弟になろうとしていたから、私もそうなれるように努力してた」

 話の潮目が変わった。そう感じて私はゆっくりと息をはいた。気づかぬうちに肩に入っていた力が抜けていく。

「そして、そうちゃんに連れられて、あなたがうちにやってきた」

「そう言えば、どうしてあなた、私に彼を紹介してくれなかったのかしら」私は以前から抱いていた疑問をぶつけてみることにした。「散々溺愛している話は聞かせてくれていたのに」

「独り占めしたかったの。それだけよ。だって、そうちゃんが隠してたエッチな本とかDVDに出てくる女の子って、みんなさくらみたいな子だったんだもの」

「なによそれ」

「本心ではずっと、私はそうちゃんの恋人になりたかったの。そうちゃんが私のことを本心では異性として意識していたことを知っていたから、諦めて私の事を異性として見て向き合ってくれるのを待とうと思ってたの。だから、なるべく他の女の子が近づかないようにしてた。さくらみたいに外見が完全に好みの子ならなおさらね」

 彼女の告白に私は呆れを通り越していっそ清々しさを感じていた。

 結局の所、彼女の中では友情よりは彼への愛の方が優先されるのだ。けれどまあ、なんとなくその気持ちは理解出来ない訳でもない。怜と宗平君が血が繋がっていない、という事を知ったのはあの事故の後だったけれど、例えその事実と怜の気持ちを正しく理解していたとしても、私は彼を優先しただろうから。そう言った部分では私たちは似たもの同士なのかもしれない。

 けほ、けほ、と彼女が咳をした。空っ風のように乾いた咳だ。経験上、こういう咳をするとき彼女は必ず翌日には体調を崩して寝込むのだ。

「随分と冷えてきたわね」

 先ほどあれだけ力一杯ぶった手前、なかなか上手く話を切り出せず、そう言ってからわざとらしく息を吐いた。

「相変わらず不器用ね」怜がくすくすと笑う。

「いいじゃない、別に。まあその、それはそれとしてだけど。ごめんなさい。流石にちょっとやりすぎたわ」

「そうねえ。まだほっぺた痛い。しかも両方」そう言って両頬に手をやる。

「さっきも言ったけど、私はあなたを許せない。けど、嫌いにもなれない。だから、なんていうか虫の良い話なんだけど、これからも友達でいて欲しいっていうのが本音といえば本音かしら」

「私はね。そうちゃんのことも、さくらのことも、どっちも手放したくないから。こっちこそ都合の良すぎる話なんだけどね。だって私がひっかき回してめちゃくちゃにしちゃったんだから。でも、こんな私とこれからも友達でいてくれるっていうのなら、それはもう感謝してもしきれないくらい有り難いし、嬉しいことだから」

 そう言うと彼女はすっくと立ち上がった。

「これからもよろしくお願いします」

 彼女が差し出した右手を、しばらく呆然と見つめてから、ようやく意図を理解した私は慌てて立ち上がると、その手を取った。

「こちらこそ」

 私はなんだかほっとしていた。もし彼女を振り切ってバスに乗っていたらきっともう私たちの関係はダメになっていただろうと思う。

 けれど、なんだろう。

 妙な違和感が胸の中に蟠っていた。

 どこか白々しいというか、まるで最初からこうなることが決まっていたんじゃないかという予定調和のような物を感じていた。

 にっこりと微笑む彼女のその瞳の中に映る漆黒の深淵がそう思わせるのか。あるいは、あまりにも簡単に和解してしまった自分に対する言い訳のためにそう思いこんでいるだけなのか。いずれにせよあまりスッキリはしない。

 でも事情を考えれば爽快な結末を迎えることが難しいのは自明のことで、結局私たちはもう以前のような無邪気な親友同士には戻れないのだ。最終的な原因が彼女にあるにせよ、そのきっかけを作ったのは自分の愚かさなのだから、一方的に責めるわけにも行かない。

 胸の奥に何かがつっかえたまま取れない感覚。虚しいというか切ない。一瞬涙が浮かびそうになって、慌てて瞼をぎゅっと閉じた。

 怜が咳をした。

「とりあえず行きましょうか」私は言った。「どうせもう帰る足もないんだし。一晩泊めてもらっても良いかしら」

「いいけど、明日終業式よ?」

「朝一のバスに乗れば平気だから」

「そっか」そう言って怜はほほえんだ。「花音ちゃん喜ぶわよ」

「お手柔らかにお願いしたいわね」私は苦笑した。

 私たちはお互い手を繋いだまま歩き出した。

「一年ぶりくらいになるかな」

 懐かしむように怜が言った。

「相変わらずあなたの手は冷たいわね」

 私も思わず懐かしくなってしまった。いつ、どんな時でも彼女の体温は私よりも低い。

 二年前。周りが敵だらけでどうしようもないほど追いつめられていた私に差し伸べられた手もやっぱり少しひんやりしていた。私はその感触をいまでもよく覚えている。その温度が好きだったから、私は彼女と友達になれたんだと思う。

 いまだけは昔の二人に戻ろう。言葉に出して示し合わせた訳でもないけれど、自然とそんな雰囲気になって、私たちは仮初めの無邪気さを演じながら在りし日を偲んだ。




              了

お久しぶりです。今回でこのエピソードは一応終わりです。番外編みたいなのをいくつか考えているので次はそれを書きたいです。今回のサブタイトルはXの曲名からです。なんとなくなので深い意味は多分ないです。

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