Broken Love Was Piled Up. As snow… Epilogue 1 "三島本家の三姉妹"
1
「お前知ってたのか」
「まあね」
俺の問いに公康はきまずそうに答えた。
俺達は病院の中庭のベンチに座っていた。真冬の午後、それも数日前に雪が降ったばかりで日陰には未だに白い塊が残されている。流石に人影は少なかった。
「悪気があった訳じゃないんだ」
「判ってるよ。あいつのために黙ってたんだろ」
「うん」
力なく公康は微笑む。
心中を察して余りある物がある。俺は重たい溜息を吐き出した。こいつは夏井の事が好きなのだ。色んな事を判った上でこいつは傍観者に回っていたのだ。
「それはそうと、勝手にこんな所に来て大丈夫なの?」
「検査のために入院してるだけだからなあ。特に脳の方は大丈夫だったし」
「腰は? そっちの方が悪いんでしょ」
「まあ痛いのは痛いけど」
「だった早く戻らないと」
「お前過保護だよな」
「そうかな」
「別に大したことはないんだから」
重ねて言うが、飽くまで検査入院である。あの後運び込まれたのがあの事故以来世話になっているこの病院だった。偶然ではなく、恐らく怜がここへ運ぶように言ったのだろうということは想像に難くない。そして頭部のCTなんかを撮ったりして、特に緊急を要するような異常がないことが判ったので俺はさっさと帰れると思っていたのだが、主治医が「ちょうど一年だし、明後日が今年最後の定期検診の予定だったから、せっかくなので検査入院してがっつり調べよう。ベッドも余っているから」と言うような事を言って一週間入院する羽目になったのである。彼に言わせれば事故当時のあの状態から、脳になんの後遺症も残さず生還して日常生活を送っている俺は相当に好奇心がくすぐられるらしい。モルモットにされている感じもあるが、それで健康状態を細かくチェックして貰えるのだから安い物だ。私的な探究心に依るところが大きいからか、費用も格安だ。
「お前にこんなこと訊くのもさ、」
「ああ、香奈ちゃんのこと?」
俺は頷いた。
「すごく落ち込んでたよ。多分ちょっと時間が経ってから凄い後悔したんだろうね」
「そっか」
「あと井上さんが怖かった」
「井上が?」
「うん。あの二人があんな風になってるの初めて見たかな」
「ん? 俺に対して怒ってるんじゃないのか?」
井上は夏井の幼馴染みで、かなり夏井に対して過保護なところがあった筈だ。
「ああ、そっか。うーん。どうしようかなあ」
公康は困り顔で天を仰いだ。まるで子供がどこからやってくるのか訊ねられた大人のような仕草だ。
「宗平はさ、お姉さんとか相川さんのことで手一杯だから見えてないだけだと思うんだ。だから宗平は悪くないと思う」
「話が見えてこないんだけど」
「まあそのうち判る、ていうか多分ここ数日中に判ると思うから」
「不吉なこと言うなよ」
「何となく察したみたいだね」公康は言った。そして気の毒そうに「頑張ってね」
「ああ」俺はがっくり項垂れてまた溜息を吐いた。一度お祓いに行ったりとかした方がいいかもしれない。
「それじゃあ僕は用事があるからそろそろ帰るね。宗平もこんなところにずっと居たら風邪ひいちゃうから早く病室に戻った方がいいよ」
去って行く公康の背中を見送ってから俺は中庭を後にしようと立ち上がった。ふと、木陰の下で溶け残った雪の塊を見つけてそちらへ歩いて行って踏みつけた。しかし固く凍てついていて滑った靴底が表面を薄く削るだけでびくともしない。蹴ってみると石のように固くて爪先が痛い。それでも俺は、急にふつふつと沸き上がってきたよく判らない感情を殺すために、何度か踏みつけ、蹴りつけた。
病室の前まで来たとき、中が妙に騒がしいことに気が付いた。余っていたということで個室を用意して貰えたのだ。なので他の患者の見舞いの者が騒いでいるということはまずない。よくよく耳を澄ませてみると声の一つは怜の物だ。恐る恐る中を覗く。その瞬間、俺のベッドに腰掛けて談笑していた怜と目が合った。まるで俺がこんな風に中を覗くのが判っていたかのようだ。
「あ、そうちゃん」
彼女がそう言うと他の三人が一斉にこちらを見た。
「あ、帰ってきた」
「トイレにしては長かったなあ」
「入院してる癖にどこほっつき歩いてたんですか」
三者三様の言葉が飛び出して俺は軽く困惑した。
「なんで奈雪姉さんたちがいるんだよ」
俺がそう言うと、奈雪姉さんはにっこり微笑んで、「花音ちゃんが宗くんのこと心配だからって」
その言葉を受けてセミロングの髪の気の強そうな目の女の子は「姉さん! 別に私はそんなわけじゃないから!」と食って掛かった。
「一番狼狽えてたのは姉さんだったけどねぇ」その様を面倒臭そうに見ながらおっとりとした声でふわっとした癖毛と優しそうな少し垂れ目が特徴的な女性が言う。「あんなに慌てた姉さん見たのは一年ぶりだったからあたしもちょっと焦ったな」
俺は少々混乱しながら三人のやりとりを見守っていた。
この三人は俺の従姉妹である。
長女三島奈雪、次女三島月子、三女三島花音。それぞれの名前から一文字ずつ取って三島本家の雪月花などと親戚間や地元で呼ばれている評判の美人姉妹だ。奈雪姉さんは長い黒髪に透き通る様な白い肌。伏し目がちな睫毛は憂いを帯びて艶やか。一つ一つの所作が流麗で楚々としており、まさに絵に描いたような大和撫子。月子姉さんは奈雪姉さんとは対照的に癖毛で、それでいてマイペース。悪く言うとだらしない。その上独特の感性で世界を捉えて生きている。その性格を表すかのように、癖毛の髪は何となく適当にまとめているだけだし服の着こなしもルーズなのに何故かそういうスタイルであるかのようにまとまって見える。そして三女の花音は肩甲骨の辺りで切りそろえたしっかりと手入れのされたセミロングの髪と、まっすぐ切りそろえられた前髪の下から覗くガーリィなおでこが愛らしい、しかしその下の柳眉に飾られた双眸は凜として鋭く言動もちょっとキツイ女の子だ。その上結構気が短い。決して悪い子ではないのだけれど、真面目すぎる性格が災いしていると言えるかもしれない。ちなみに、奈雪姉さんは怜と同い年の三つ上で、月子姉さんは二つ上。そして花音は一つ下だ。
「宗兄様」せきばらいを一つして、花音がこちらに向き直った。「ご無事でなによりです」
「なあ花音。その宗兄様ってのはやめてくれないか。恥ずかしい」幼い頃にそう呼ばれていた時期があり、ここ数年は普通に名前で呼ばれたりしていたのだが、今年に入ってからまたこの呼称が復活したのだ。一貫してそう呼ばれていたなのならまだよかったのだが、一度変わって時間がそれなりに経過してから戻ったのでなんだか気恥ずかしいのだ。
「しかし、宗兄様は私より一つ年上なのですから、兄様は兄様です」当然のことを諭すように彼女は言う。
「いや、でも」
「ここは譲れません」
目つきがするどくなった。こうなったら変に逆らうと面倒くさいことになる。
「あ、はい」俺はあきらめることにした。
「と言うわけで宗兄様。怜さんや私たちを待たせて一体どこをほっつき歩いていたんですか。看護師さんに訊けば今日の検査はもう終わったって言うじゃありませんか」
険しい剣幕でずい、と詰め寄ってくる。心配してくれていたことの裏返しであろうことは判るので、嬉しいといえば嬉しいのだが、未だに何で三人が揃って田舎から出てきたのか頭の中で整理できていない状態だったので俺は困惑顔になるしかなかった。
「花音。落ち着いて。宗平が困ってる」月子姉さんがそう言って花音の頭に手を置く。
「判りました。そうですね。宗兄様にも宗兄様なりの事情があるのですから」
あっさりと引き下がってくれて俺は内心ほっとしていた。別にやましいことなんて一つもないので追究されても腹は痛くないのだが、こういう時に一旦スイッチが入ると本人も引っ込みがつかなくなってとにかく長くなるのだ。
花音は視線を和らげ、「とにかく、本当にご無事でなによりでした」と言った。控えめな笑みを浮かべている。その姿はまるで野辺に咲くアヤメの花を思わせる。
「ところで月姉さん」
「なあに?」
「どうして私の頭に手を置いたままなのですか」
「ちょうど良い高さだから?」
「私の頭を肘掛けみたいに使わないで下さい!」
「それじゃあ顎を置いてみるね。……あ、以外と良い高さ」そう言って月子姉さんはちょうどいい高さの段差を見つけた犬のように花音の頭に顎を置いた。
「だからやめてくださいってば!」そう言って花音は頭の上で両手をばたばたさせて月子姉さんを追っ払った。
そんな妹二人のじゃれ合いを見ながら奈雪姉さんは口元を手で隠してくすくすと笑う。
その隣で怜はやれやれと言った風に肩を竦めた。
俺はじゃれ合う二人を横目に、ベッドに戻った。
「相変わらずだな、あの二人は」
「相変わらず仲良しでお姉ちゃんは安心かな」そう応える奈雪姉さんの表情はとても穏やかで母性に溢れている。
「でこぼこコンビって感じよね」怜はそう呟くなり袖の中からメモ帳を取りだしてペンを走らせ出した。何かネタが浮かんだらしい。
「ところで、怜ちゃん」
「なに? 雪ちゃん」
「こないだの読み切り読んだんだけど、アレに出て来たヒロインってもしかして私?」
「え? あ、うーん。そうかも、しれない」
「心配しなくても出演料とかは請求しないから」そう言って奈雪姉さんは鈴を転がすように笑う。「でも怜ちゃんの漫画ってそういうの多いよね」
「あの、雪ちゃん。この話はまた後から、別のところでしよ? ね?」
「うん。いいけど」
急に焦りだした怜に、奈雪姉さんは怪訝そうに首を傾げながらもそう頷いた。
それから彼女はこちらを向いて、にっこりと微笑んだ。
「宗くんが元気そうで良かった。また去年みたいになってたらって、すごく心配だったんだから」
「まあその、心配かけてごめん。それと、わざわざ来てくれてありがとう」
「宗くんは従弟だし、私からしたら弟みたいなものなんだから、なにかあったら駆けつけるのは当然のことだよ」
弟みたいなもの、という表現に、俺は一瞬どきっと胸がざわめいた。ときめいたとかそういう甘酸っぱい物ではない、不用意なことを言わないかという危惧によることからだ。俺と奈雪姉さんの関係はただの従兄弟同士と言うには少々複雑な事情があり、少なくとも月子姉さんと花音はそんことを知らないはずだった。俺の表情から何を考えているのか悟ったらしく奈雪姉さんは空笑みを浮かべて誤魔化した。
「ならば私からすれば宗兄様はお兄様の様な、否、お兄様であるということですね」急に花音が目を輝かせながら入ってきた。「そうなのでしょう? 雪姉様」
「ふふ。本当に、あなたは宗くんの事が好きなのね」楽しそうに奈雪姉さんはころころと笑う。微妙な雰囲気を悟られなくてよかったと俺は胸をなで下ろした。危うく藪を突っつくところだった。
「べ、別にそういうことではありません。ただ私は妹として宗兄様をお慕いしているだけですから」花音は顔を真っ赤にして俯いた。とても判りやすい。彼女は自分はクールだと思っているそうだが、気の毒なくらいに喜怒哀楽が顔に出るタイプなのだ。
「従妹なのに、それはそれでどうかと思う」月子姉さんが言った。俯いた花音の頭に顎を置きながら。「あたしは年下の従弟としてちゃんと見てるから、安心して」
「あの、月姉さん。いい加減にして頂けませんか」
「花音ちゃん、可愛いんだもの」
「可愛かったら顎置きにして良いってどういう理屈ですか。前から思ってたんですけど月姉様はおかしいです」
「それがあたしよ?」
「ええそうですね。もう、調子狂うなあ」
またじゃれ合いが始まった。
「うちの姉妹ってこう見えて月子が一番常識人だったりするのよねえ」まるで他人事のように奈雪姉さんは笑っている。「ちょっと変なところはあるけれど」
「それを常識的って言って良いのかどうかは怪しいところね」怜は苦笑を浮かべていた。
騒がしい三人が居なくなると病室が急に静かになった。ちなみにあの三人は今日からしばらくうちに滞在するらしく、また来ると言って帰って行った。それから俺達はベッドに並んで腰掛けて幸せな退屈を過ごしていた。
「そういや、奈雪姉さんたち学校はどうしたんだろう」
「自主的に少し早めに冬休みに突入してきたんだって」
「サボって来た訳か」俺は溜息を吐いた。「他の二人はともかく、奈雪姉さんは受験生だろ。大丈夫なのか?」
「雪ちゃん頭いいから大丈夫でしょ」
「でもなあ」
「本当は嬉しい癖に」拗ねたように怜は言う。「相変わらず、そうちゃんは色んな子に好かれてるね」
「花音の事か?」
「私とそうちゃんの関係知っていながらあれって、結構な逸材よ」
「自覚してないだけだろ」
「そんなことはないわよ。というより、むしろ自覚しちゃってるからこそ妹ってのに拘ってるのかも知れないわね」神妙な面持ちで彼女は言った。「幸せになった分誰かが不幸になるっていうけど、なんだかここ一年で痛い程実感できた気がする」
「それでも、周りが不幸になったとしても、怜には幸せになる権利がある」俺は彼女をそっと抱き寄せた。「だって怜はそれまでにとんでもない目に遭ってきたんだから」
「うん。ありがと。そうちゃん」俺の肩に頭を載せて彼女は微笑んだ。「でも私だけ幸せになっても仕方がないから、ちゃんと二人で幸せになろうね。そうちゃんがいないと私は生きていけないんだから」
何を大げさなことを、と切って捨てることが出来ないのが、俺と怜の関係のある種の異常性を現しているかもしれない。そして俺はそれを愛し、彼女がそうするように依存している。いまならはっきりと判る。失意のどん底に居た俺に手をさしのべてくれたあの日から、俺はもう怜が居ないと生きていけない体になってしまった。けれど、一方で目移りしてしまいそうになる自分も居て、それが自分でも全く解せない。でもどこかで俺は安心して甘えているのかもしれない。どうやっても怜は俺から離れていかない、と。
だから俺は、彼女が漫画家になったことを黙っていたことがショックだったのだ。そして未だに俺の前で漫画の話をしたがらないことに、苛立ちがないと言ったら嘘になる。不安じゃないなんて強がりでも口に出来ない。ただ気を遣っているだけなのか、遠慮しているだけなのか。いや、それだってそんな余所余所しい事はして欲しくない。それに、彼女はまだ、過去を一人で背負っている。恋人同士となって、婚約までして、それでもまだあの頃の事を話してはくれない。それだけ辛い過去だということは判る。けれども、だからこそ俺はそれを一緒に背負ってやりたいのだ。背骨が折れそうなほど重たいかもしれない。それでも二人でなら大丈夫なはず。
しかしそんな思いも言葉にはならない。言い出せない自分がとても情けなく思えた。目の前の、幸せそうな彼女の顔が一瞬でも曇るかと思うと、でかかった言葉がすぐに腹の底へと戻っていくのだ。散々不義理を働いておきながら都合の良い話だ、と自分でも思う。
「明日も来るね」そう言って彼女は病室から出て行った。名残惜しい気持ちはあったがいつまでも引き留めているわけにも行かない。
急に病室ががらんとして広くなったように感じた。最初は個室にしてくれて有り難いと思ったが、今はその申し出を断れば良かったと少し後悔していた。
俺は怜が持ってきてくれた差し入れの中にあった一冊の文庫本を手に取った。フーケーの『ウンディーネ』だった。俺は思わず苦笑を浮かべた。警告なのか嫌がらせなのか。どっちにしても行動自体は他愛もなく微笑ましいのだが、どうやら結構怒っていたらしい。こりゃあ後で何かしっかりフォローしておかないとおっかないな、などと考えながらページを開いた。
続く
このタイミングで新キャラ投入です。一応このエピソードのエピローグなんですけどたぶん本編並に長くなりそうです。続きはたぶん来週くらいになります。それでは