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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第二章
14/55

Broken Love Was Piled Up. As snow…Chapter3"Die together. and we will become immortal 4"


        4




 耳が痛くなるような程の静寂の中に居るような気がした。実際には電車が揺れる音や周囲の話し声でお世辞にも静かとは言えないのだけれども、何となくそんな感じがして、まるで世界中の何もかもから突き放されたかのような居心地の悪さを感じていた。理由は今更考えるでもなく、先ほどのやりとりと、そして隣で俯いたまま何も話さない夏井の存在がそうさせていた。尤も俺も何も話していないのだから、向こうも同じような居心地の悪さを感じているに相違ない。

 行きの時とは反対に、目的の駅が近づく毎に人の気配が少しずつ減っていく。それでもまったく人が居なくなるということはない。けれど老人や、中年太りをした女性、それに退屈そうにスマフォの画面をのぞき込む学生服の少年など、そう言った人々がまばらに座席に点在しているのを見ると、その間延びした空間に居た筈の大勢を想起して余計に寂寥感を覚えてしまうのである。

 自分が住んでいるところがそれほど田舎であるとは思っていない。少なくとも最寄り駅という概念が存在しているし、バスの本数もそこそこある。父さんの実家が本当のど田舎にあるのだが、あそこと比べると十分に都会ではある。流石に県庁所在地や地域の中心になっている都市と比べると幾らか格は落ちるけれども。むしろそう言った所へ通う人々の生活基盤となっている地域でもある。

 などと、冷静になったつもりで故郷の分析をしていると、不意に手に何かがふれた。

 何事かと思ったら、遠慮がちに夏井の指が、俺の手の甲にふれていた。 

「手、握って良い?」

 俺が気付いたと見るや、すぐさま彼女はそんなことを言って、上目遣いになった。

 俺は黙り込んだまま答えなかった。何を考えているのか判らないし不意打ちだったので上手く反応ができなかったのだ。

「答えてくれないなら、勝手に良いように解釈するから」

 夏井の手が、遠慮がちに俺の手を包み込んだ。柔らかくて、暖かい。

「手、やらかくなったね。前に触らせて貰ったときは手のひらがもっとゴツゴツしてたのに」

 彼女の指は、俺の手のひらを撫でるように動き続けていた。まるで、かつてそこにあったはずの大切な何かを探し求めるかのように。

「あの時、私笑ったの覚えてる?」

「なんでそんな風になるんだって笑ってたな」夏井の方を見ずに俺は答えた。

 もう一年以上も前の事だ。どんな話の流れだったかは覚えていないけれど、夏井に手のひらを触らせてくれと頼まれた事があった。俺の手のひらを見て彼女は「うわあ」と声を漏らしたあとに、指の付け根辺りの皮が厚くなった所を指で撫でて大いに笑った。それからまた触り、笑って、最後に「すごいね」と感心した声で言ったのを覚えている。

 だから、

「でも本当は、私、三島君のゴツゴツした手、好きだった」

 と彼女が言ったとき全く意外な言葉だとは思わなかった。

 手のひらを撫でる指が止まった。代わりにその小さな手は、俺の手を力強く握り始めた。微かなふるえがそこから伝わってくる。それはまるで彼女の心の有様を伝えているかの様に思えた。すすり泣く声が聞こえてくる。

「なんで泣いてんだよ」

「だって。三島君。もう、好きなことできないから」

 野球のことを言っているのだろう。

「今更何言ってんだ。とっくにそんなの受け入れてるよ」

 けれど諦めた訳でもない。腰は痛いし、肩は昔の様に上がらないけれど、リハビリとしてトレーニングは続けているのだから。

「けど、ずっと見てたから。隣で、ずっと。だから、判るの。三島君、すごく傷ついてるって。お姉さんでも、相川先生でも、癒せなかった大きなキズがあるって」

 何を知った口を。

 吐き出しかけた言葉をぐっと腹の底に押しとどめた。言ったところでなんになる。だが見当違いの憐れみも、気にくわないといえば気にくわない。だから俺は上手い反論を考えた。考えて考えて、気がつくと目的の駅に着いてしまった。夏井は手を握ったまま離さない。そのまま俺たちは電車を降り、改札を抜け、バスを待った。路面にうっすらと雪が積もっている。まだそれほど遅くない時間ではあるのに、すっかり辺りは薄暗く、街灯に灯りがともっていた。

 車が通り過ぎる音。雑踏と呼ぶには寂しすぎる往来から届く申し訳程度の人の気配。ダウンジャケットの衣擦れ。控えめな吐息。風に飛ばされる落ち葉の乾いた音。雪が降る音。静寂から逃れるようにそれらを意識し、むしろこの二人だけの空間に生み出された沈黙の深淵へと引き込まれて行ってしまう。あがけばあがくほど身動きが出来なくなる底なし沼のような沈黙。まるで考えた先に答えなどないのだと言われているような気がして、俺は唇を噛んだ。夏井のそれは憐れみ等ではなく、本当にそう心配しているからで、つまり俺自身気がついていない心の傷があるということなのだろうか。しかし、一体何だって俺自身が判らないようなことを夏井が判ると言うのだ。

 本人に問えば良いのだ。ふと思い浮かんだその考えを、しかし実行に移すことが出来なかった。その責を、降り積もる雪に、出鼻をくじくようなタイミングでやってきたバスに、或いは俺の手を引っ張ってさっさと立ち上がった夏井に、とにかく自分以外の何かに転嫁するにはあまりにも道理がなさ過ぎて、俺は自分自身の意気地のなさが腹立たしかった。つないだ手と反対側の手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめながら、座席に座った。

「さっきはごめんなさい」

 バスが走り出してすぐだった。かすれた声で夏井が謝罪の言葉を口にした。そば屋での振る舞いについてのことなのだろう。俺は今更のようにそのことを思い出して、「なんであんなことしたんだよ」と返した。しかしすっかり怒りの火種は自分自身に移っており、あのことに対してもう深く追求する気にはなれなかった。

「やきもち」俯きがちに夏井は応えた。

 なんだその理由は。俺は思わず言葉を失ってしまった。

「三島君は私とデートしてたのに、こんな素敵なプレゼントくれたのに。なのにあんな風にお姉さんのことばっかり考えてて、そんなの我慢できるわけないじゃん。私、結構独占欲強いんだよ?」

 理屈も糞もあったもんじゃない。けれどそういう物だ。他ならぬ自分自身もまた理に適わない男女関係を続けているのだから、不本意ながらそういう思考は理解出来ないわけでもない。

「だから、困らせたかった。でもあれはしちゃいけないことだったって、いまは反省してる。信じてもらえないかもだけど」

「別にもういいよ」俺は言った。それよりも一つ気になることがあった。「なんでさくらさんが、相川さくらだって判ったんだ?」

「それはね、大島先輩の”相川先輩”の話を聴いていると時と、相川さくら先生の話をしている時の雰囲気が一緒だったから。とっても大切な人のことを考えてる顔だった。だからね、ピンと来たの」

「女の勘ってやつか」

「違うよ」そう言って夏井はこちらを見た。「三島君の表情って凄く判りやすいから、そんなのじゃなくても、三島君のことをよく知ってる人なら誰だって気付くよ」そう言って夏井は微笑んだ。「お姉さんほどじゃないだろうけど、私はずぅっと三島君の顔を見ながら生活してたんだもん。判らないわけないでしょ」

 その瞬間、また胸の奥で言いしれぬ何かが大きく跳ねた。愛おしそうにこちらを見つめる夏井の顔から目が離せなくなる。

「だから判るの。三島君が抱えてるキズも」

 その目は明らかに何か確信があること物語っていた。けれど見透かされている、という不快感は不思議となかった。

「多分、秋頃から。何があったのかまでは判らないけど、あの頃から三島君ちょっと変わった」

 俺は内心はっとした。思い当たることがあったからだ。

「でも、今日なんとなく判った。三島君を傷つけたのはお姉さんだって」その目に宿った光は果たして義憤であった。「お姉さんの進路の話をしているときだけ、三島君すごく辛そうに見えたから。これはきっと私じゃないと判らない表情の変化だったと思う。でも間違いないって確信してる」

「だから電車の中であんな事言ったのか?」

「うん」夏井は頷いた。それから夏井は優しげな微笑を浮かべて、「やっぱりそうなんだ」

 そこで俺ははっとした。まんまと誘導尋問に引っ掛かった形になってしまった。

「私はね、許せないの。事故の後三島君の支えになったのは確かにお姉さんなのかもしれない。でも、だからってこんなのは絶対に駄目。きっとお姉さんはこれからも、そうやって三島君を傷つけるかもしれない」

「それはそれで仕方ないよ」俺は言った。「そう言うのも込みで俺は怜と一緒に生きるって決めたんだ」

「本当に?」まるで俺が何か誤魔化しているとでも言いたげな目をしていた。

「ああ」俺は少し苛立ちながら答えた。なんだってそんなところで疑われなきゃならないんだ。

「だったらなんで、そのことお姉さんとちゃんと話し合ってないの?」

 ただの推測でしかないはずだ。俺が怜と話し合えていないことなんて一言も夏井には言っていない。だが、これまでのやりとりからその解を導き出したのだ。そしてその流れで放ったからこそ、その言葉は俺の胸の奥にある蟠りを確かに捉えた。そしていままさにそれを白日の下へと曝しだしたのだ。

「黙れ」やっとのことで絞り出した声がそれだった。胸の奥をさらけ出され、自分勝手な怒りを抱き、それを彼女にぶつけたのだ。

「図星なんだ」彼女は言った。どうしてか、彼女は嬉しそうにしていた。

「黙れって言ってるだろ」

 俺は夏井を睨んだ。

 その視線を、彼女はある種の愉楽をもって受け止めていた。

「なんだかんだ言って、三島君にはまだ迷いがあるんだよ。だから相川先生との関係も断てないし、私の誘いも断れない」

「夏井。頼むから。あんまり怒りたくないんだ」

 睡眠不足のせいなのか、車内の暖房が利きすぎているせいなのか、頭がくらくらする。

「三島君、いま怒ってるんだね」

「お前、わざとか?」

「そうだよ」何でもないことのように彼女は答える。「まだやきもち焼いてるから。三島君を困らせたり怒らせたりして、独占しているの」そう言って夏井は満面の笑みを浮かべた。「だって、私に対して怒っているってことは、少なくともその間は私の事だけを考えてくれてるってことだし」

 俺の手を握った指に強く力が込められる。その指先から伝わってくるのは狂気じみた執念だった。

 逃げ場はない。二人きり、バスの中で隣り合わせ。俺はただ、夏井が迸らせるむき出しの愛情に曝され続けるしかないのだ。最早恥も外聞も投げ捨て暴露されたその感情と、数刻前に胸をときめかせた姿が不思議と重なり合い、俺は魔法にかけられたように身動きがとれなくなった。受け入れるわけではない。抵抗が出来ないのだ。一瞬無防備になったその間隙をついて入り込んだ夏井の想いが、知らぬ間に、心に築き上げた彼女に対する防壁に、内側から楔を打ち込んでいたのだ。

 次の停留所が近づいていることを知らせる車内アナウンスが流れた。それは夜明けの鶏声のごとく、金縛りになっていた心と体を解放した。

「次でおりなきゃだね」残念そうに夏井は言ってボタンを押した。

 バスを降りるときも相変わらず手はつないだままで、初老の運転手の微笑ましそうな表情になんだか申し訳ない気持ちになった。そんな表情を向けられるような初々しいそれではないのだ。

「すごい。このままだときっと明日の朝にはかなり積もってるよね」

 辺りはすっかり雪景色に覆われていた。その上遠くが全く見通せないほど降っている。

「明日と言わず今夜には雪国だよ」俺は言った。「それはそうといつまで手をつないでるつもりだ?」

「駐輪場まで。だって寒いし、こうして三島君とふれあってるとすごく幸せだから」

 言ってることはかわいいのにやってることが禍々し過ぎてめまいがしそうだ。

「ね、こんな天気の時に言うのもあれなんだけど、ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」

「嫌って言ったら?」

「三島君の女性関係を周りに言いふらす」真面目な顔で夏井は言った。「三島君は、たぶん自分がどう思われようが自業自得だから仕方ないって思うかもしれないけど、お姉さんや相川先生が悪く言われるのは嫌なんだよね」目が完全に本気だ。ようやく掴んだ弱みをこれでもかというくらいに利用するつもりでいるらしい。けれどそれだけではないようで、「それに、ほら、話すって言ったでしょ」とそば屋でのやりとりを持ち出して、「それに相応しい場所に行きたいの」と言うのである。そう来られると、確かにそこを追求しようとした手前、退くに引けない部分も出てくる。

「判ったよ」俺は答えた。

「ありがと、三島君」夏井は嬉しそうな笑顔でそう言った。

 すっかり薄暗くなった町中を、雪を踏みしめ、雪まみれになりながら自転車を押して歩いた。夏井は黙り込んで何も喋らない。息づかいや何気ない所作の端々から緊張していることが見て取れた。俺は少し不安だった。この期に及んで一体何に緊張していると言うのだろうか。とんでもないことを企んでいるのではないか、と危惧していたのだ。

「ここ」

 角を曲がってしばらく歩いたところで、夏井が立ち止まった。

 俺は思わず「え?」と驚いてしまった。そこは昔、公康やかっちゃんとよく遊んでいた公園だったからだ。わざわざ何故こんなところを指定したのか。公園の中に入っていく夏井の背中に訝る目を向けずには居られなかった。

「こないだ、ここで会ったよね」夏井が言った。

「そうだったな」

「それよりも前に、会ってるって知ってた?」

「それよりも前?」いつのことだろうか。「夏井とここではち合わせたのはこないだのが初めてじゃなかったっけか」

「あ、三島君はもしかしたら私と中学で出会ってからのところから考えてるのかもしれないけど、それよりもずっと昔だよ?」

 夏井はベンチの雪を手で払ってそこに座った。

「すっかり風景は変わったけど、でもなんとなく面影は残ってるね」懐かしむように彼女は言った。「あそこの壁のところで、出会ったんだよ。私たち」

 公園の一番奥まった場所には、ペンキでサッカーゴールが書かれたコンクリート壁がある。ボール遊びが禁止されているようなので、いまではそこに向かってシュートを決めて歓声を上げる子供の姿は見られないが、俺が幼かった頃はまだそうやって遊んでいる子供はそれなりに居た。

「私は一人で、どうしても家にいたくないから、お父さんが何かの景品で貰ってきたサッカーボールをもってこの公園でずっと時間を潰していた。退屈で、孤独で、寂しくて。いくら壁に向かってボールを蹴ってみても楽しくなくて。そんなとき、三島君が声をかけてくれた。一緒に遊ぼうって」

「待て、夏井。どういうことだ。なんでお前がそのことを当事者みたいに語ってるんだ」

 あの壁のところで出会った人物は確かにいた。だがそれは夏井ではないはずだ。

「公康君はすぐに気がついたよ。お姉さんも判ってるみたい。気づいてなかったのは三島君だけ」

「待て待て待て。仮にお前がそうだとして、だとするとおかしいだろ」

「何が?」

「いや、お前はその、女の子なわけだ。でもかっちゃんは男だろ?」

 そう夏井が語った出会いの相手とは、かっちゃんの事に相違ないはずだ。この公園でそんな風にであって一緒に遊ぶようになった奴はあいつしかいない。

「やっぱりそこも気づいてなかったんだ」くすくす笑って夏井は、「子供なりに思うところがあって、男の子に憧れてそんな風に振る舞ってただけだよ。かっちゃんは女の子。ほら、私の名前って香奈でしょ。そのまんまじゃ完全に女の子だから、それっぽいあだ名で呼んでくれって頼んだの」

「じゃあ本当に?」

「だからそうだって言ってるでしょ? 宗平?」そう言って彼女は小首を傾げて微笑んだ。「ふふ。この呼び方、久しぶり過ぎてちょっと恥ずかしいな」

 とても嘘を言っているようには思えない。そもそも俺は夏井にかっちゃんの話をしたことはないのだ。公康はどうだろうか。でも、仮に会話のどこかで漏らしていたとしても出会いの際の具体的なエピソードまでは話さないだろうし。ということはやはり本当なのか。俄に信じ難い。

「まだ信じてない?」

「だってだな。かっちゃんって真っ黒に日焼けしたスポーツ万能少年だぞ。それがどうやったらお前みたいに女の子らしい魅力にあふれた中学生になるんだよ」

「小学校の六年間。ずっと後悔しながら宗平のことを想いながら、恋する乙女として生きてきたからかな?」照れながら彼女は言った。

「なあ一つ聞いて良いか?」

「うん。なに?」

「なんで最初にそれ言わなかったんだよ。中一の一番最初の日に俺たち顔会わせてるんだぞ」

「それはね。気づいてほしかったの。出会った時みたいに宗平から声を掛けてきて欲しかったから、ずっと待ってたの。そしたら全然。でも昔の事とか関係無く仲良くなっちゃって、なんていうか、打ち明けるタイミングを見失ってた感じかな。それでも一ヶ月くらいで公康君は気がついたんだけどなあ。もしかしてって言ってきたのがそれくらいだったから、実際にはもっと前から気がついてたのかも」

「マジかよ」

 ということはあいつもそれだけずっと黙ってたってことだよな。

「離ればなれになってた六年間。一日だって宗平のことを忘れたりしなかったのに。宗平は結構私の事忘れてたでしょ。公康君言ってたよ。なんだかんだ面影はあるって」

「それはまあ、その。否定出来ないな。うん」

「宗平ってちょっとドライなところあるよね」不満げに言って夏井は自分の頭に積もった雪を払った。「すごい雪だね。こんなに降ってるところを見ると、あのときのクリスマス会を思い出さない?」

「おまえが引っ越しするって打ち明けた時か」

「うん」

「答えられるなら、でいいんだけど」

「なんで引っ越したのかってこと?」

「ああ」

「親が離婚したの」振りしきる雪の中に視線を泳がせながら彼女は言った。「私はお父さんに引き取られて、その後すぐに引っ越したの。宗平たちと離ればなれになるのがショックで、連絡先のこととかすっかり忘れてて、気が付いた時には遅くて。あのときはすごく後悔したなあ。こっちに戻ってきて再会できたから良かったけど、多分ずっと向こうにいたままだったらって考えたら、なんだか少し怖くて。会えないまま、気持ちを伝えられないまま、大人になって、そのうち私は宗平のことを忘れてしまっていたんじゃないかって」

 夏井は笑っていた。いや、或いは悲しみで顔がひきつっているだけのようにも見えた。

 彼女はずっと片思いを続けてきた初恋の男の子に再会し、想いを告げたのだ。けれどもう手遅れだった。長年の悲願を叶えたというのに、現実は彼女の純真な恋心を裏切った。けれど彼女はそれにあらがっている。彼女の胸の中に降り積もった想いは、深く降り積もった雪が自らの圧力で氷となるように、固く澄んだ一つの狂気へと姿を変えたのだ。あるいは彼女がこの町を離れていた六年間に積もった想いそのものがすでに壊れていたのかもしれない。ただ、最後の一押しとなったのは言うまでもなく学園祭での一件だろう。あのとき、俺と怜は、夏井を壊してしまったのだ。

「ねえ宗平。このままここで私たち、明日の朝まで一緒に居たら、凍えて死んじゃうかなあ」

「なにバカなこと言ってんだよ」

「結構本気だよ?」こちらを見据える瞳に、戯れの色はなく、どれだけ見つめ返しても見透かせない深い黒を宿していた。「相川先生の二作目の最後がこんな風なの。何も知らなかった頃はなんかすごくドラマティックで、けど怖いって思ったけど、いまならあのシーンを相川先生がどんな気持ちで書いたのか判る気がする」

 彼女はゆっくりとした動作で立ち上がり、雪を払うとこちらの手をさしのべた。

「死んで、私と永遠になりましょう」

 それはさくらさんの小説に出てくる台詞だった。作中では相手の少年はその手を取り、ヒロインの少女と命尽き果てることで禁断の恋を成就させた。

 だが俺はその手を取ることはできない。俺には怜が居るのだ。

「残念だけど夏井。俺はおまえのその気持ちにはやっぱり答えられない」

 そこで何故か夏井は、また笑顔を浮かべた。正真正銘、喜色満面。錯覚でそう見えている可能性など全く否定出来るほどだ。

「中途半端に答えてくれるくせに、こういうところだけはちゃんと線引きするんだね。ずるいよ、宗平は」そう言って彼女はぎらぎらと光る目で俺を睨みつけた。「知ってるんだよ? 今日私に見とれてたの。普段の宗平と違ってたからすぐ判った。なんでいまさらになってそんな風になるわけ? なんでもっと早く私の事をそう言う風な目で見てくれなかったの? そんな風にされたら私、諦められないじゃん。何がしたいの宗平は。私を苦しめたいだけなの? ねえ、私、宗平に何かした?」

 そして彼女は乱暴に抱きついて来た。

 バランスを崩して、後ろに倒れそうになる。慌てて踏ん張ろうとしたが、その瞬間腰が痛んで下半身から力が抜けて、受け身もとれないまま仰向けに倒れた。背中を強く打ち付けて、肺の中の空気が押し出されたみたいになって、息が苦しくなる。酸素を求めて短い呼吸をする。それを妨害するように、夏井は強引に唇を重ねてきた。頭を少しだけ浮き上がらせていたせいで、軽く後頭部を地面にぶつけた。意識がふっと遠のく。もしかしたら倒れた時にも頭を打っていたのかもしれない。酸欠という訳ではない、間違いなく、軽い脳しんとうだ。俺は手のひらに爪が食い込むくらい拳を握りしめて、思いっきり自分の太股を殴りつけた。ここで意識を失ったら、今の夏井なら本当に雪の中で心中しかねない。二回三回と殴りつけるうちに、なんとか意識をつなぎ止めることに成功した。けれどめまいがひどい。世界がぐるぐる回っているみたいだ。気分が悪い、吐き気がする。呼吸が楽になった。夏井が唇を離した様だ。けれど体の上に感じる重さは相変わらず、むしろこちらに身を委ねるように力が抜けて、余計に存在感を増した。

「このまま二人で、雪に埋もれたら、きっと明日の朝には凍死してるよね」俺の胸に顔を埋めたまま彼女は喋っているらしい。体中に声が響いているような感覚がする。「好き。大好きだよ。宗平。あの女にだって、相川先生にだって、負けない。世界で一番、宗平のことを愛してる」

 陶酔しきった声。

 甘美で艶美。

 相変わらず朦朧とした頭の中でそれはまるで万華鏡のように目が回るような煌びやかさで響いた。

 好き、愛している。

 なんども繰り返される。

 脳髄が溶けるような陶酔。

 正常でなくなった脳が目の前にある馨しい響きに救いを求めるがごとく、手が勝手に動き、彼女の体を抱きしめようとした。


「そこまでよ」

 

 唐突に、その声は静寂を切り裂いた。音を吸い込まんばかりの雪の静寂の中にあって、まるで鐘を打ち鳴らすようにどこまでも突き抜ける、それは怒声だった。

「帰りが遅いと思ったら、まさかこんなことになってたなんて」

 燃えるように朱い着物を纏い、怜はこちらへやってくる。

「悲劇のヒロインを気取ってるところ悪いけど、それは私の役所だから。わき役は引っ込んでなさい」

「どうして」忌々しげに夏井は声を振り絞った。

「ここにいるのが判ったのかっていいたいのかしら。生憎、私にはそうちゃんがどこにいるかなんてことはすぐに判っちゃうの」そう言って怜はにっこりと笑む。

「あともう少しだったのに。なんで邪魔するのよ!」

「あと少しも何も、そうちゃんが私の最愛の人である以上、あなたに希望なんてみじんも残されていないのよ? 現実を見なさい。頭の悪い小説に感化されるにしても限度を超えてるわ」

「もしかして気づいてないの? 宗平は私にも気があるのに」

「知ってる」殊更騒ぎ立てることでもない、とでも言いたげな表情で、「私にそうちゃんのことで判らない事なんて、一つもないもの」

 その言葉に、夏井は、「何を偉そうなことを!」とキレた。「自分の行動がその最愛の人を深く傷つけたっていうのに、それに気づかずよくもそんなことをぬけぬけと!」

「私が、そうちゃんを?」

 怜が眉を顰める。

「やっぱり気付いてなかったんだ」

 夏井は怜を侮蔑する。その視線に射殺すほどの敵意を込めて。

「なにを言ってるの。私がそんなことするわけないじゃない」怜はそう言いながらも少しばかり狼狽えているように見えた。

「よかれと思ってやったことが、全部いい結果になるとは限らないんですよ?」

 そう夏井はあざ笑う。相手を見下しながら自嘲しているようにも見えた。

「宗平の優しさに甘えすぎなんじゃないかな。きっと深い絆で結ばれていて、決して離れることなんてないって思っているのかもしれないけど、付け入る隙なんていくらでもあるんだから」

 怜は言い返さない。悔しげに唇を噛んで夏井を睨んでいる。自分にとって分が悪いと断じて、その瞬間の敗北を認めたのだ。

 だが、転んでただで済む女ではない。本来の怜は我が儘で自分が一番なお姫さまなのだ。度し難いほどに。

 ずかずかとこちらに接近すると、「いつまでそこにいるつもり?」と俺の上に馬乗りになっている夏井を下駄の底で蹴り飛ばした。夏井が雪の上に転がる。反動で怜も尻餅をついた。

 夏井は信じられない物を見るような呆然とした表情を浮かべていた。それに対し怜は悠然と立ち上がる。

「色々言いたいことはあるし、さっきのことに関してはあなたが正しいんでしょう。でも、そうちゃんが苦しんでるのに独り善がりに溺れてそれが見えないあなたに言われる筋合いはないわ」

 怜は俺の顔をのぞき込んで、それから少し険しい表情を見せた。

「もしかして、頭打ったの?」

 俺はうなずいた。相変わらず気分が悪くて声を出す気力すら湧いてこない。

「念のため、救急車呼ぶね。ヘタに動かすと怖いから」

 袖の中から携帯電話を取り出して、本当に119にかけた。

 通話を終えると「もう少しだけ待っててね」と優しい声で言い、夏井を睨みつけた。

「そうちゃんはね、去年のあの日、ひどく頭を打って、命を落としていてもおかしくないような状態だったの。仮に助かったとしても二度と目を覚まさないかもしれない。もし奇跡が起こって意識を取り戻したとしても日常生活をいままで通り送れないくらいの重い障害が残るかもしれなかった。でも、あり得ないほどの奇跡が起こって、そうちゃんはいまここにいるの。もし、また頭を打って意識を失ったとしたら、それがたとえ強い衝撃でなかったとしても、蓄積されたダメージが影響して、今度はもう奇跡が起きないかもしれないってお医者さんは言ってた。どういうことか、判るわよね?」

 夏井の顔が青ざめる。

 俺も内心青ざめていた。確かに気をつけろという話は退院するときに聞いていたが、改めてその理由を認識していかに自分が薄氷の上で生きているのか思い知らされたからだ。

「最悪のことが起こるなんて思ってない。きっとそうちゃんは無事だって信じてる。でももし、何か悪い結果が出たとしたら、そのときは、あなたのことを恨むから。泣いて許してくれって喚くことすら出来ないくらいに呪ってあげる」

「私は、そんな。知らなかったから」

「それで済む問題じゃないでしょ?」

 救急車のサイレンが近づいてくる。

 俺は顔に降りかかる雪の冷たさを感じながら安堵していた。ともかくようやく人心地つくことができる。少し大げさじゃないかとは思ったけれど、どのみち腰がやられてて動けないのだから、遅かれ早かれ病院の世話になることには違いなかったので有り難い判断でもあった。

 やれやれ、と思っていると怜に誘導された救急隊員がやってきて担架に乗せられた。車内は暖房が利いていて冷えた体にはちょうど良かった。怜と夏井も一緒に乗り込んだ。救急車が走り出す。怜が救急隊員に過去の事故のことを説明していることが聞こえる。だがどうにも、遠く、薄い膜を一つ隔てた向こうの出来事のように感じられる。目の前で夏井が何か言っているようだが上手く聞き取れない。ただ必死な表情を浮かべていることは判る。なにをそんなに必死なのか。見れば怜もぎょっとした表情でこちらを見ている。何か声をかけようかと思ったが、とにかく体がだるい。やはり声を出す気力はなく、瞬きをしようと瞼を閉じたまま動かなくなる。そのまま自分の体がなんだか曖昧になるような感覚のあと、意識が途絶えた。





 つづく

次はエピローグ。また少し間が空くかもしれない

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