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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第二章
10/55

Broken Love Was Piled Up. As snow... Chapter2"Miss Lonely Heart"

 期末テストが終了し、短縮授業に入ってから久しく、とうとう二学期の終わりが目前に迫ってきていた。

「雪降ってきたね」

 窓の外、グラウンドを見下ろして公康が小声で呟いた。

「週間予報じゃこの先三日ほど降るみたいだぞ」俺も声を潜めて答える。

「へえ。沢山降るのかな」

「どうだろう。大雪になるようなことは言ってなかったから、大したことはないんじゃないか」

「そっか」

「なんだよ。大雪にならなくてがっかりって顔してるぞ」

「そんな顔はしてないけど、でもちょっと期待外れかな」

「お前雪好きだもんなあ」

「沢山降ると遊べるし、学校も休みになるでしょ」

「こんな時期にそんなに降られても困るけどな」

「まあ午前中だけだもんね。昼からはこうして自主勉強」

 図書室の中には同じように暇を持て余した受験生たちの姿がちらほら見られた。

「そういえば今日は香奈ちゃん来ないんだっけ?」

「ああ、何か用事あるらしい」

「用事かあ。多少のことなら後回しにしてでも顔出しそうなのに、よっぽど重要なことなんだろうね」

「まあやる気になってくれて助かってるよ。第一志望が北高だって聞いた時は大丈夫かこいつ、って思ったけど。期末テストの結果も良かったみたいだしなんとかなりそうな感じで良かったわ」

「はは、僕らも負けずに勉強しないとね。教えてた方が落ちた、なんてことになったら洒落になんないよ」

「だな」

「まあそれはそれとして、もうすぐ冬休みだね」

「一年って早いよなあ」

「ていうより部活やめてからあっという間だった気がするね」

「ああ、それで?」

「うん。クリスマスなんだけど。香奈ちゃんが何か企んでるみたいなんだよね。たぶん今日もそれで帰ったんだと思う」

「何かあるとして、やっぱり俺も行かなきゃダメかなあ」

「香奈ちゃんの目的は十中八九宗平だし、来ないってなったら結構気まずいんじゃないかな。他の参加者たちが」

「でもクリスマスはちょっとマズイなあ」

「ああごめん。言い方が悪かったみたいだね。正確には23日辺りに計画してるみたい。ほら、今年の23日は月曜日だから土日と合わせて三連休でしょ?」

「それなら大丈夫だな。多分」

 今のところその近辺で予定している事は何もない。

「せっかくだからお姉さんも連れてきたら?」

「いや、公康、それは一番やっちゃいけないことだろ」

「冗談だってば」公康は苦笑した。「それにしても宗平って、妙なモテかたするよね」

「どういう意味だよ」

「だってさ。相川さんとは相変わらずなんでしょ?」

「まあ、それは」

「それに香奈ちゃんもお姉さんがいるって知っていながらぜんぜん諦めてないし」

「何が言いたいんだよ」

「うん。なんていうんだろ。僕にはいまいちよく判らないけれど、宗平には何かそういうオーラがあるのかもね。一度好きになったらなかなか離れられなくなるような」

「勘弁してくれよ」

「そうは言うけど、相川さんのことはまんざらでもないんでしょ?」

「いや、それはだな」

 痛いところをつかれて俺はしどろもどろになってしまう。正直なところさくらさんと一緒だとものすごく居心地がいい。どうにかしなければならないと判っていても、そう言う行動に強く出ることが出来ない。自殺未遂の一件が響いていることもあるが、それだけではないことは自分がよく判っている。単純に、彼女のことがまだ好きなのだ。

「いまはまだ問題ないかもだけど、きっとそのうち、どれだけ上手く立ち回っても、綻びっていうのかな、どこかで歯車が狂い出すと思うからいまのうちにどうにかしておいた方がいいんじゃない?」

「出来たらやってるっての」

 俺は吐き捨てるように言って、先ほどからまったく変化のないノートに目を落とした。問題集の数式がまるで未知の言語のように見えてしまってこれっぽっも捗らない。

「例えばだけど、落ちたら助かりようもない断崖絶壁で、相川さんとお姉さんの二人が絶体絶命の状況だったとして、宗平はどっちを助ける?」

「藪から棒に何言ってんだよ」

「宗平が考えてること当ててみようか?」

「判るもんならどうぞ」

「最悪自分がどうなってもいいから二人とも助ける」

 概ね当たっていたので俺は咳払いで誤魔化すフリをして、シャープペンシルを指でくるくる回した。

 流石は公康。その行動から図星と見抜くや「絶対に一人しか選べないとしたら?」と追撃してきた。我ながらいい幼なじみを持ったものだ。

「そこまで言われたら、さすがに怜を選ぶぞ」

 ただ実際に、そんな状況に陥ったとして、果たしてちゃんと選べるか自信はない。いずれ怜を選ぶにしろ、結論がでるまでに二人とも失ってしまうかもしれない。

「僕の言いたいこと、なんとなく判ってくれた?」

「ああ」俺はうなずく。相変わらず回りくどいことをする奴だ。「けど、どうしたらいいんだろう。本当に判らないんだよ」

「まあ僕は当事者じゃないから具体的なことは言えないけど、宗平は優しすぎるからそこをなんとかすべきなんじゃないかな」

「やっぱりそうなのか」

「やっぱり?」

「いや、前に似た様なこと言われてたから。けどいざそう振る舞おうと思ってもいまいちどうすればいいか判らなくて」

「それはちゃんと自分で考えるべき部分だね」

「けどさ、夏井にはちゃんと怜と付き合ってるから無理だって伝えたんだぞ」

「ケースバイケースって奴じゃないかな」

「他人事だと思って」

「実際そうだし」

「薄情者め」

 とはいえ最終的にどうにかしなければならないのは確かなので何かしら決断なり判断なりしなければならない。

 ため息を吐いてノートを閉じた。

「今日はもう帰るわ」

「勉強する気分じゃないって顔だね」

「その通り」

 机の上に広げていた勉強道具をまとめて通学用バッグに詰め込む。そのまま俺たちは図書室を後にした。

 帰路についた俺たちは別段なにか話す訳でもなく黙って歩いていた。雪は止んでいたが空には未だ低く雲が垂れ込めている。なんだか憂鬱にさせられる天気だ。

「そういえば前から聞こうと思ってたことがあったんだけど」

 躊躇うようなそぶりを見せながら公康がこちらを振り向いた。

「小学校に上がる前くらいのことなんだけど、覚えてる?」

「そりゃあ覚えていることもあるし、忘れてることもあるだろうけど」

 なんだろう。俺は少し、胸騒ぎの様なものを感じていた。そういえば以前、そう、文化祭の時に怜に同じ様なことを訊かれたことがあった。

「かっちゃん、って覚えてる?」

「ああ、そりゃ一応は覚えてるぞ。短い間だったけど一緒に遊んでた仲間だったし。けどそれがどうかしたのか?」

「いや、なんでもないんだけどね。ちょっと気になったから。それにほら、かっちゃんが引っ越すって言い出したのがちょうど今くらいの時期だったじゃない」

「そういやそうだったな。あいついまはどこで何やってんのかねえ。引っ越し先とか連絡先も何にも言わないまま居なくなったからなあ」

「案外近くに居たりしてね」

「なんだよそれ」

「さあ?」とぼけた風に公康は言った。。こいつは俺のことをよく知っているが、同じように俺だって公康のことをよく知っているのだ。何かを誤魔化していることは見れば判る。

「お前何か知ってるだろ」俺は言った。

「そうだなあ」と公康は口元に手をやり考え込んでから、「多分宗平も知ってるよ。気付いてないだけで」などと意味深なことを言ったが結局それ以上のことはしゃべらなかった。

 いつもの場所で公康と別れた。帰宅してすぐ普段着に着替えた。バッグに必要な物を詰め込み近所のバス停へと向かった。次のバスが来るまでの間、俺はずっと空を見上げていた。相変わらず降るのか降らないのかどっちつかずな空模様で、時折雪片が一面に舞い降りたかと思うと、すぐに降り止んで、さっきまでの光景が嘘だったのようにすら思えてしまう。白日夢の様だ。けれど停留所の屋根の下に舞い込んでくる雪片の温度が現実であることをしっかりと主張している。

 バスがやってきた。

 平日の昼下がりということもあってか、車内は閑散としていて、暖房が効きすぎている割になんだか寒々しく感じられた。真ん中より少し後ろ、通路の右側、窓際の席に座った。

 向かう先は隣町。目的地はさくらさんの家だ。インフルエンザでダウンしてから、ずっと熱が下がらずに学校を休み続けているらしい。

 このまま冬休みまで粘る積もりなんじゃないの、とぼやいていた怜の横顔を思い出す。怜は外での振る舞いは完璧だが、その実人間に対する好き嫌いがとても激しいこともあって、彼女が友人と認識している相手はさくらさんしか居ないのだ。そんな訳で学校の方ではかなり退屈している様だった。今日も本当なら怜がお見舞いに行く予定だったのだが、急に近日中に仕上げないといけないイラストの仕事が舞い込んできたとかで俺にお鉢が回ってきたという訳だ。俺もさくらさんの事は心配だったので、突然の代役も快く引き受けたのだった。



 降りる予定のバス停がアナウンスされ、俺は降車を知らせるボタンを押した。直にバス停が見えてきた。料金を払ってバスを降りた。

 途中にあったスーパーに寄って病人でも食べやすそうな物をいくつか買い込んだ。予算は怜から預かっていた。一通り買い物を済ませると俺は目的地へと向かった。

 住所は知っていたのでそれを元にスマホの地図アプリで場所を確かめ見慣れぬ町並みを歩く。

 流石にさくらさんの家の近辺というだけあってか、なんだか町並みが少し上品に感じられる。それでいておそらく昔からあまり建物の配置が変わっていないのだろう、蔵がある家も三々五々ではあるが見られ、昭和か大正の、古き良き、という幻想を抱かせるには十分な趣がそこかしこに残されている。

 そしてその中でも一際大きく目立つ家、それが相川家の邸宅である。敷地を巡る白い漆喰の塀は燻したようにくすみ、ここに人が住むようになってからの長い年月のすべてを見てきたとばかりに佇み、この土地での権威を見せつけるが如堂々たる門構えと共にここに住む者が決して並々なる庶民に非ずと威圧を以て訴えかけてきているようにさえ感じられた。

 思わず圧倒されかけたがこれが初めてというわけでもないし、以前見た怜の両親の実家の方がとんでもなかったので、それと比べてみればまだ大丈夫だ、と言い聞かせながら門に取り付けてあったインターホンのチャイムを鳴らした。

 しばらく待ってもなんの返事もなかったのでももう一度ボタンを押した。もしかしたら寝ているのかもしれない。あるいは、とあまり縁起の良くないことを考えてしまって急に不安になってきた。ポケットの中の携帯を握りしめながら、インターホンのスピーカをじっと見つめた。

 だが返事はない。さくらさんの携帯に電話してみたが出ない。意を決して門をくぐった。広大な庭の明媚に目をやる余裕もない。踏破し、玄関の引き戸に手を掛けた。鍵はかかっていなかった。

「おじゃまします」と奥に向かって少し大きな声で言ってから中に入った。

 脱いだ靴を土間にきっちりそろえて、廊下の奥へと歩いていく。

 一度だけ怜と一緒に来たことがあるので、おぼろげに間取りの記憶がある。この先の突き当たりで右に折れた先に二階へ続く階段があるはずだ。さくらさんの部屋は二階の廊下の一番奥にある。

 階段の前に来た。改めて携帯をかけてみたがやはり出ない。再度嫌な予感が脳裏をよぎった時だった。二階で物音がした。扉を開け閉めしたような音だ。そして跫が続く。階段の上に、人影が現れた。

「あ、えっと、おじゃましてます」

 一瞬俺は戸惑ったが、そう言って会釈をした。

「そ、宗平くん!?」さくらんは思いっきり驚いていた。頭が寝癖だらけで大爆発していた。わたわたと頭を押さえながら「ちょっと待って!」そう言うと彼女はばたばたと、おそらく部屋に戻った。

 俺は階段に腰掛けて待てと言った彼女の言葉通り、大人しく待っていた。しばらくそうしているとメールの着信音が聞えてきた。さくらさんからのメールだ。開いて、「大丈夫だから、いいよ」という文面を見て俺は階段を上った。

 部屋の前でさくらさんが待っていた。

「体調、大丈夫なんですか?」

「だいぶマシにはなったわ。でも本調子じゃないわね」

「まだ熱が?」

「ええ。医者からは心因的なことで免疫力が落ちてるんじゃないかって言われたわ。そんなことより、立ち話もなんだから入って頂戴」

 招かれるまま俺はさくらさんの部屋に入った。背後で扉が閉まる音がした。と、同時に彼女が背中に、ぶつかるようにして抱きついてきた。

「ごめんなさい」彼女はか細い声で言った。「ずっと心細かったから」

「怜も最近こっちに来てなかったみたいですしね」

「忙しいんでしょ?」

「どうもそんな感じです」

 彼女が腕をほどいた。俺は振り返って抱きしめたくなったが、ぐっとこらえて、そのまま立ち尽くしていた。彼女は俺の脇を通り抜けてベッドに腰を下ろした。

 彼女はいかにも期待はずれ、というような表情を浮かべながら「楽にしてくれていいわよ」と言った。

 俺はカーペットの上に敷いてあった座布団の上であぐらをかいて座った。それからぐるりと部屋を見回した。年代物と見える鏡台と勉強机に、本がぎっしりと詰まった本棚が二つ。部屋の真ん中に置かれた座卓の上には小物の一つもない。女の子の部屋らしいギミックは一切見あたらず、どこもかしこも余すところなく殺風景な部屋だった。

「なに持ってきてくれたの?」

 さくらさんの声で我に返った。

 俺は買い物袋の中身を、一つ一つ座卓の上に並べていった。

「なんだかこの前の怜と似た様な物ばっかりね」彼女は不満げに言ってから、「でもありがと。一人だけだとこういうのでも助かるから」

「ご家族は、まだ戻られないんですね」

「年明けまで帰ってこないって。一人娘がこんなになってるのに、本当、薄情な連中だわ」

 憎まれ口をたたくその表情が、どこか寂しげに見えたのは気のせいではないだろう。彼女は明確に自分の親を憎んでいる。反面、どこかで愛を求めているのかもしれない。

「今日は、どれくらいここにいるつもり?」彼女が言った。

「そんなに長居するつもりはありませんけど、夕方過ぎくらいまでなら全然平気ですよ。あんまり遅くなると怜が怖いんで」

「そう。なら安心。しばらくここにいてちょうだい。ずっと一人で寂しかったから、いま宗平君に帰られたら反動でもっと寂しくなっちゃうもの」

 弱々しい笑みを浮かべて彼女は言った。

 それからしばらく俺は彼女の話し相手になった。とりとめのない、大して意味があるわけでもない雑談を、彼女は心底楽しんでいた。本当に寂しかったのだろう。話しているうちに、俺もなんだかここから離れ難くなってきた。けれど帰らなければならない。気がつくと時計の針は午後六時を少しすぎた所を指していた。

「それじゃあそろそろ」と言って立ち上がろうとした。けれどさくらさんに服の裾を掴まれて、僅かに腰を上げた中途半端な体勢で彼女を見た。

「帰らないで」いまにも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

 一瞬心が揺らいだ。

 その瞬間に生まれた隙を待っていたかのように彼女に押し倒された。そして彼女制する為に開いた口を、唇でふさがれた。

 荒々しいキスだった。怜と違って不器用で不慣れ。けれどひたむきなで悲愴を湛えていた。

「今晩だけでいいから、一緒に居てほしいの」

 潤んだ目で、頬を上気させ、唾液がべったりとついた唇をふるわせて、人恋しさにおぼれている。そんな姿を見せつけられて、俺の理性は焼ききれる寸前だった。彼女が病人である、という事実があと一歩踏み出さない理由になってくれていた。

「良いって言うまでここから動かないから」

「でも、もう時間が」

「明日、土曜日でしょ?」

「怜が待ってるから」

「そう言うと思った」

 さくらさんは寂しそうにそう言うと、静かに立ち上がった。

「それじゃあ失礼します。その、お大事に」

「ええ」

 正直未練がないかと言えば嘘になるが、ともかくいまはそれに流されていい身分ではないのだ。だから俺は少しだけ勢いをつけてドアノブに手をかけて、扉を開けようとした。

 しかし開かない。まるで鍵がかかっているかのようにびくともしない。よく見ると鍵穴がこちら側についている。そういえば、さっきこの扉を閉めたのはさくらさんだったはず。

 ぎょっとして振り返った。

 さくらさんがベッドの上で艶やかに微笑んでいた。

「さくらさん。この鍵は」

「勉強や原稿に集中出来るように、こっそり取り付けて貰ったの」

「そうじゃなくて、鍵がかかってますよ」

「私が施錠したんだもの。当然よ」

「流石に怒りますよ」

「軽蔑する?」

「そうですね」

「それは悲しいわね」

「だったら早く開けてください」

「いや」真剣な顔で彼女は答えた。「でも一つだけ條件があるわ」

「なんですかそれは」

「私を抱いて」

 まるで冗談のような一言。けれどもそれが冗談でもなければハッタリでもないことは、彼女の表情を見れば一目瞭然であった。とにかく覚悟を決めた目をしていた。これからどんな罪を犯そうともまるで後悔しない。次の瞬間には地獄に落ちてもいい。目は口ほどに語ると言うがまさにいま、彼女は無言のうちに、その決意と覚悟で俺を圧していた。

 足が竦む。口の中がカラカラに乾く。喉に絡みついたねばっこい唾が言葉を抑え付け腹の底から上がってこない。

 とにかく恐怖にとりつかれていた。何故急にこんな感情に襲われなくてはならないのか。俺は必死に考え、そして彼女の目を必死に見つめ返していた。目をそらした瞬間、俺はもう俺でなくなってしまう様な気がしたからだ。彼女の目の奥に見える激情のさらに奥の奥、そこに一点渦巻く紛れもない負の感情を見いだした。それは呪詛の念であった。

 彼女が立ち上がった。一歩一歩、ゆったりとした足取りでこちらを向かってくる。後ずさりしようにも、背後は鍵のかかった扉。逃げ場はない。ただ唯一出来る抵抗として、俺は彼女の目をにらみ続けた。だがふと、視界になにか光る物が見えて、一瞬そちらに気を取られた。そして息をのんだ。目一杯に刃を伸ばしたカッターナイフが彼女の右手に握られていた。

「夜長姫は言っていたわ、好きな物は、咒うか殺すか争わなければならないって」

 ゆっくりと彼女の右手が上がってく。刃先がこちらに向けられて、ピタリと止まった。

「自分勝手なのは重々承知してる。私が悪いって事も判ってる。それでもやっぱり私はなたをあきらめられないし、あきらめたくもない」

 差し向けられた刃が静かに近づく。

「ダメですよ。俺はその期待には応えられない」

 刃先が、みぞおちあたりに軽く触れて止まった。それでも俺は彼女の目を見つめていた。

「知ってる。だから私は力尽くであなたを手に入れようと思った。私があなたを愛していることを証明しようとした」そう言って彼女は視線を逸らし、自嘲した。「でもここまでやっておいて、怖じ気づいてしまったわ」手の震えが、突きつけられた刃先を介して伝わってくる。「私はあなたを咒っているわ。ありったけの呪詛を込めてあなたを愛している。でも足りない。届かない。怜に勝てない」

 チキチキチキとカッターの刃が引っ込んでいく。カッターをカーペットの上に投げ捨て、俯き、「ごめんなさい」と彼女は掠れた声で言った。「どうかしてた。宗平君にこんなことするなんて」

 その姿はまるで浄玻璃の鏡ですべてを見透かされた罪人のように気の毒に思えた。その時俺が抱いた感情は、まさしく憐れみだった。それを向けることは彼女を侮辱することに他ならないはずだ。けれど俺は目の前の、年上のかつての恋人が憐れでしかたなく、突き動かされるように彼女を抱きしめた。

 どうして抱きしめられたのか判るのだろう。彼女は腕の中で僅かに抵抗した。けれどすぐにあきらめて、こちらにすべてを委ねてきた。やがて啜り泣く声が聞えてきた。ただでさえ小柄な彼女の肩が、いつも以上に小さく感じられた。このまま雪解けのように消えて居なくなってしまうのではないかと危惧してしまった。だから強く抱きしめた。さくらさんは己のことを自分勝手と言った。でも俺だってそれは同じだ。こんな風にするのはきっと良くないことだ。けれど俺は俺の都合でさくらさんを抱きしめて、慰めようとしている。自分勝手でどうしようもない。そういう意味では俺たちは似たもの同士で惹かれ合っているのかもしれない。

「怜と話してみます。さくらさんの看病を一晩するってけど、なにも特別なことは起こりませんから」

「うん」さくらさんは答えた。「いまそれで充分よ。ありがとう。愛してるわ」



 幸いもしもの時のために着替えは用意していたので、最大の問題は怜の許可が下りるかどうかという所だったが、すんなりと一晩泊まり込む許可を得られて俺は拍子抜けしていた。怜のことだから渋りに渋ってなかなか許してくれないと思っていたので、なんだか妙に怖くなってきた。こういう場面で彼女がすんなり聞き入れる時は大抵なにかあるのだ。どんな思惑があるのかは判らない。判らないから恐ろしい。人間が真っ暗闇を恐れるのと似ている。いまさら後悔したって遅いが、それでも自分を呪いたくなる。ため息をついて包丁を置いた。みじん切りにしたショウガと青ネギ、それに一口大にした鶏の胸肉。鶏肉は冷凍してあったのを解凍して使っている。食材を切り終えた頃にちょうど湯が沸く。そこに差し入れの為に持参したパックのご飯を入れてしばらく煮込む。焦がさないようにかき混ぜているとだんだんとろみが出てくる。水分を吸った米が膨らんで嵩が増えてきた。そろそろ良いだろう。鶏肉とショウガを鍋に入れて醤油と塩、鶏ガラスープの素で味を調え火が通るまで煮る。器に盛りつけ、ごま油で風味を付けて、青ネギをちらせば完成だ。居間のこたつで待っているさくらさんの所へ料理を運ぶ。

「いい匂いね」弾む声で彼女は言った。俺が一晩泊まると決まってからずっと機嫌が良い。「中華風のおかゆなのかしら。あまり食べたことのないおかゆね」

「ちょっとしっかりした物が食べたいってリクエストだったので、味付けは少しだけ濃くしてます」

「どんな味かしら。楽しみだわ」そう言って彼女はレンゲでおかゆをすくい、息を吹きかけて充分冷ましてから口に運んだ。

 俺はその姿をただ黙って見守っていた。なんてことはない。いつもの癖だ。いつも怜が美味しそうに俺が作った料理を食べてくれるから、その姿を見るのがいつの間にか一つの楽しみになっていた。怜のリアクションはきわめて明瞭だ。食べ物を口に入れた瞬間に目を輝かせ、しっかり咀嚼してから飲み込み、「美味しい」と言うとそこから何がどう美味しいのかをとにかく語る。ひとしきり語った後はもうただ、一心不乱に、しかし丁寧に平らげておかわりをする。見ているだけで口元が綻ぶ食べっぷりだ。それに対してさくらさんはとても静かだった。元々熱があって赤らんでいた頬の色が少し増して、ほう、と一息ついてからもう一口食べ穏やかに笑むと「いい味ね」と鈴を転がすような声で言う。俺にとってはとても新鮮なリアクションで、はっと息を飲んで思わず見とれてしまった。

「どうかしたの?」彼女は首をかしげた。

「いえ、なんでもないです」

「そう? それはそうと、宗平君は食べないの? 冷めちゃうわよ」

「ちょうど食べようとしてたところです」

「その割にはずっと私の事見てたけど」

「習慣なもので」俺は照れながら言った。

「なるほど」そう言って彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、「じゃあ怜と私の食べた時の反応を比べて、どっちの方が嬉しかった?」と難問をふっかけてきた。

 しばらく考えて、「甲乙付難し、です」

「男らしくない答えね」不満そうに彼女は言った。けれどすぐに表情を和らげて「まあいいわ。勝ってもないけど、負けてもいないから」と今度は一転満足げだった。

 俺はそれに曖昧な笑みを浮かべて話を有耶無耶にした。あまり掘り下げようとすると思わぬ墓穴を掘ってしまいそうだったからだ。

「ねえ、やっぱり料理が出来る女性って魅力的なのかしら」

「急にどうしたんですか」

「巷ではそういう女の子の方がモテるって言うでしょ?」

「まあ出来るに超したことはないんじゃないですかね。やっぱり」

「そうよね。ねえ、受験が終わったら、私に料理を教えて欲しいのだけれど」

「別にそれは良いんですけど」

「なにか言いたげね」

「怜に対抗しようとしてません?」

「あの子に勝つとしたらそこしかないでしょ」

「勝ち負けで言うなら多分現状でも勝ってますよ」

 怜の料理センスのなさははっきり言って異常だ。美貌と頭脳と才能を天から与えられた代償として料理の才は一切授らなかったのかホットケーキはおろか、ゆで卵すら危うい惨状であるから、一般的なレベルであるなら勝負の土俵に立つ以前の問題なのだ。

「いえ、私もあんまり料理は出来ないから。ちゃんと勝ち誇りたいじゃない」

「言わんとしてることは判りますけど、そういう動機で俺を頼りますか」

「あなたしかいないのよ。怜は論外だし、それ以外の友達なんて一人か二人いる程度で、その子達も普段全然料理とかしないそうだから。それに、怜に勝ちたいって事だけじゃないのよ。ほら、大学受かったら一人暮らしする予定だから。ちょっとくらい自炊出来る様になっておいた方がいいでしょ?」

「それは確かにそうですね。じゃあ判りました。俺で良ければ力になります」

「ありがとう。ところで場所は宗平君の家でいいわよね。うちじゃ絶対にダメだろうし」

「ええ、でも怜が」

「大丈夫よ。作った物食べさせておけばあの子も溜飲下げるでしょ」

「ああ、それはまあ」否定出来ないので苦笑を浮かべた。

「そうだ。宗平君」と彼女は言った。それから躊躇うように一度視線を泳がせてから「もうすぐクリスマスよね」

「そういえば、そうですね」

 急に空気が重たくなった気がした。

 一年前のクリスマス。正確にはクリスマスイヴだが。それは俺や怜やさくらさん、あるいはその周囲にとって大なり小なり何かしらの影響と変化を与えたある種の分水嶺とも言うべき一日だった。

「何か、予定はあるのかしら」その言葉の中には一匙の希望と、覆しようのない諦観が含まれている様に思えた。まるで自分の希望を踏みつぶしてくれと言われている様にさえ感じる。

「怜と過ごす予定です。あとは、そうですね。その前に仲の良い友達とクリスマス会もやる予定です」

「そう。楽しそうね。クリスマス会というとあの子も来るのかしら」

「あの子?」

「あなたに告白した同級生の子」

「ええ。というかあいつが企んでる事なので」

「大変ね。あなたも怜も。ただでさえ私が居るって言うのに」

「自覚はしてるんですね」

「まあそうなるわね」寂しそうに彼女は言った。「私は、どうしようかしら。どうせ年明けまでは一人だし、なんでも出来るけど、なにも出来そうにないわ」

 どんな言葉を期待しているのか。自らを嘲るように笑みを作る彼女にかけるべき言葉が見つからない。気休めならいくらでも思い浮かぶが、それではきっとなんの慰めにもならないし、中途半端な慰めも、やはり彼女の為にならない。などとこうしていま同じ食卓を囲んでいる状況で考えてもあまり説得力はないかもしれないが、だからと言って過ちを重ねて良い訳もない。ぐっとこらえて喉に蟠っていた言葉を粥で押し流す。そのまま飛び出してこないように二口三口と食べる。これでいいのだ。期待を裏切られた憂いを纏う彼女の姿に心動かされそうになりながら自分にそう言い聞かせた。

 食事を終え、洗い物も片付けてしまうともうやることがない。さくらさんが風呂に入っているので話し相手すらいないので手持ちぶさたなんてものじゃない。テレビを見るにしたって気持ちが落ち着かずに見ていても頭に入ってこない。何気なく突っ込んだジーンズのポケットの中で指先に触れる物があった。携帯電話だ。取り出して、画面を見た。メールの着信を知らせる通知が表示されていた。ロックを外して、通知をタップしてメールを開く。

「お母さんと焼き肉食べてます」という文面とともに、網の上で肉を焼いている風景を撮影した画像が添付されていた。

 夕飯は適当にインスタントラーメンで済ませると言っていたのだが、ちょうど良いタイミングで母さんが帰ってきていたらしい。

 スリープ状態にして仰向けに寝転んだ。ため息をつこうとして口を開いたらあくびが出た。こたつに入っているとどうしても眠たくなる。食後だと言うことに加えて、こうも退屈だと余計に睡魔は意識の狭間からするりするりと忍び込んでオセロみたいに覚醒している部分を侵して行く。だんだん意識が希薄になっていく。ここまでくると自我やそれに根ざした意思で眠りの誘惑を覆すのは困難になってくる。故に、少しくらいはいいだろう、と目を閉じて睡眠に身を任せたのである。

 どれくらい眠っていたのかは定かではない。頬に何かが触れる感触で目が覚めた。

「あ、起きちゃった」とがっかりしたような声が聞えた。

 重いまぶたを無理矢理開けて、薄目で見た視界の中一面にさくらさんの顔があった。寝ぼけた頭で状況を理解しようと努める。とりあえずお互いの吐息を感じられるほどの距離で顔を向き合わせていることは確かだ。

 またマズイ状況になっているのではないか。そう思った瞬間に一気に意識が覚醒した。

「なにしてるんですか」

「そんなに怖い顔しないでよ。お風呂から上がってきたらあなたが寝てたから、寝顔を見てただけよ」

「なにかしてませんでしたか?」

「してないと言えばしてない」目を泳がせて彼女は答える。

「したと言えばしてるって事ですか?」追撃を試みる。

「それよりも、ほら、宗平君もお風呂入ってきて」彼女はそう促して、ひらりと躱した。いや、強引に躱した。

 携帯で時間を確認してみると、どうやら眠っていたのは三〇分程度だったらしい。しかしこたつで眠ってしまった所為か体が些か重たく感じる。自然と気持ちが風呂を求める。起き上がって、こたつから出た。

「部屋に戻って寝ててくださいよ。せっかくもう治りかけてるのにこたつで寝て悪化なんてしたら大変ですから」

「そうね。じゃあ待ってるわ」

「ええ。あ、そうだ。俺はそこのソファでもいいんで。適当に何か掛け布団でも用意してもらえれば」

「ダメよ。あなた腰が悪いんだから。ちゃんとしたところで寝ないと。前にそれで立てなくなって病院送りになったって怜から聞いたわよ」

「そんなことも、あったと言えばあったかも」

 さくらさんが大きなため息をついた。

「とにかくソファで寝るのは却下よ。絶対に許しません。あとこたつで寝るのも駄目だから」

「判りました。とりあえず風呂上がってから考えましょう」

「そうね。じゃあ部屋で待ってるわ」そう言ってから彼女はふと思い出したように「お風呂掃除はしてくれなくてもいいわよ」

 さくらさんの家の風呂は流石にお金持ちの家だけあって広い。そしてなにより木の浴槽。つまり檜風呂である。ほのかに香る爽やかな檜の香りに包まれながら、足を伸ばしてのびのびと入れる浴槽で湯につかる。なんだか旅行に来たような気分だ。凝りかけていた体が溶けるように解れていく。

 入浴を終えると湯を落とした。体を拭いて服を着て、浴槽を洗い、換気扇を回した。こういう木の風呂は管理が大変だと聞いたことがある。さくらさんは別にいいと言ってくれたが、使わせて貰った礼儀としてこれくらいはしておきたい。

 風呂掃除に思いの外時間をかけてしまった。さくらさんの部屋に行くと、彼女は退屈そうにベッドの中で本を読んでいた。

「すみません。遅くなりました」

「お風呂掃除してたの?」

「ええ、まあ」

「宗平君ってちょっと面倒くさいところあるよね」

「そう思いますか」

「うん。でもそういう所も割と好き」

 さくらさんは本を閉じて体を起こした。そして掛け布団をめくって、ぽんぽんと自分の隣を叩いた。

 俺はその真意を計りかねてきょとんとしてしまった。

「一緒に寝ましょう」

 さくらさんはにっこり微笑んだ。

 俺はまたしても反応に窮した。

「見ての通り私のベッドはちょっと大きめだから、二人寝るくらいなんてことないわ」

「そういう問題じゃないくてですね」

「大丈夫。一緒に寝るだけよ。それとも宗平君は私と一緒に寝て、何も起こさない自信がない、ということなのかしら」

 安い挑発である。こんなもの乗ったら負けだ。けれど躱すのも負けのような気がした。

「判りました。けど、絶対何も起こらないですから」

 そう宣言して俺は電気を消して、彼女のベッドへと乗り込んだ。

 彼女に背中を向けて、目をつむる。眠れ、眠れ、と念じてみるが余計に目が冴える。なんだってこんなに緊張しなくてはいけないのか。やたらと早鐘を打つ心臓に戸惑いながら背後に感じる彼女の気配を消し去ろうとした。しかしそうすればそうするほど意識してしまう。

「宗平君」

 ささやくような声が聞えた。

「もしかしてもう寝ちゃった?」

 彼女が寝返りを打つ気配がした。恐らくこちらを向いている。背中に彼女の手が触れた。肩胛骨の辺りから、腰に向かって背骨に沿うように動く指先の感触に、思わず変な声が出かけた。

「なんですか」たまらず俺は言った。

「よかった。まだ起きていたのね」

 嬉しそうな声。きっと穏やかな笑みを浮かべているに違いない。

「少し、お話しましょう」

「早く寝てください。さくらさん、一応まだ病人なんですから」

「実はもう熱はないって言ったらどうする?」

「どうもしません。それならそれで、ぶり返さないように寝てください」

「冷たいのね」

 悲しげに彼女は言った。

「明日朝一で病院行って熱が下がったって診断書書いて貰いましょう」

「そうね」それから彼女は「もっとそっちに行っていい?」と弱々しく言った。

 俺は黙っていた。突き放すにしても気の毒だと思ったし、受け入れる訳にも行かなかったから。

 もそもそと布団が揺れて、背中に柔らかい物が触れた。首筋には吐息を感じる。体を密着させてきたのだ。

「こっちを向いてくれなくってもいい。何も答えてくなくても。だからここにいて一晩だけ甘えさせて。夢を見させて。寂しいの。寂しくて凍えそう」

 俺は沈黙を守っていた。振り返ってはいけないと思った。そこを一つのボーダーラインと見定めて、情を殺して冷徹に努めた。やがてタイマーをセットしていたエアコンの暖房が消え、部屋の空気が冷え冷えとしてきた頃、静かな寝息が聞こえ始めた。俺は寝返りを打った。寝顔は見えない。さくらさんは体を丸くして眠っていたから、見えるのは彼女の頭のつむじだけだ。起こさない様にそっと髪を撫でた。怜と違って癖毛な彼女の髪はふわふわと柔らかくて、まるで子犬みたいだった。不意に彼女の右手が何かを求めるように、のろのろと動き始めた。見守っていると、その手は俺の左手首を掴んだ。そして顔の方へと引き寄せると、俺の親指を口に含んで、まるで乳離れしたばかりの子供の様に吸い始めた。これには参ってしまった。強引にふりほどこうとすると間違いなく彼女を起こしてしまう。何せ手首を握る力は強いし、指を吸うにしてもえらく熱心だ。時折甘噛みも交えてくる。あきらめて眠ろうと思ったけれど、指を吸われながら寝るなんて経験は今までしたことはなく気持ちが落ち着かないので眠れたもんじゃない。

 明け方になってようやく解放された。親指はすっかり白くふやけてしまっていた。そこから少しでも寝ようとしたがまだ気持ちが乱れていて眠気が来ない。寝ることを諦めた頃には午前七時になっていた。朝食の用意をしよう。布団を抜け出し、部屋を後にした。

 洗面所で顔を洗う。水が凍えそうなほど冷たい。おかげで眠れず疲れ果てていた神経が蘇った感じがする。持参した歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨いて、髪型を整えてから台所へ向かった。朝食の準備を進めていると、背後に遠慮がちな気配を感じて、包丁を置いて振り返った。パジャマ姿のまま、癖毛を爆発させたさくらさんが恨めしそうに立っていた。

「起きたら一人だったからちょっと寂しかった」

「起こすのは悪いかな、と思いまして」

「目が覚めるまで一緒に居て欲しかった」

 なかなかわがままなことをおっしゃる。

「朝ご飯作ってるの?」

「もうしばらくかかりそうなので部屋で待っていてください」

「いや」彼女は言った。「あなたが料理しているところ、見ててもいい?」

「別にかまいませんけど」俺は答えた。

「けど?」彼女が首をかしげる。

「頭、爆発してますよ」

 俺がそう言うと、彼女はわさわさと自分の頭を触って状態を確認するなり、顔を真っ赤にして逃げるように台所から出て行った。

 よっぽど手を焼いてるらしく二〇分ほど経っても戻って来ない。その間に俺は味噌汁を完成させてしまう。

 冷凍されていた鮭の切り身を焼いているとさくらさんが戻ってきた。すっかり髪型が整えられていて、服も着替えていた。暖かそうなクリーム色のタートルネックのセーターにジーンズというラフな出で立ちで、こういう格好をすると彼女の胸の大きさが際立ち、なんとなく目のやり場に困って俺はすぐに背を向けた。

 背後で椅子を引く音が聞えた。

 ちら、と様子をうかがうとダイニングテーブルに頬杖をついてこちらをじっと見つめていた。先ほどとは打って変わって上機嫌そうに見える。

「寒くないですか」振り返らずに俺は言った。

「暖房つけたからすぐに暖かくなるわよ」

「そうですか」

「暖房嫌いなの?」訝るような口調。

「いえ、勝手につけるのもどうかと思いまして」

「そんなこと気にしなくて良いのに」笑いが混じっている。「変なところで真面目よね。宗平君って」

「そうですか?」

「うん。でもそう言うところ、可愛くて私は好き」

「可愛いって」

「ふふ。だってあなたは年下なんだもの。それも三つも年下。可愛いに決まってるでしょ」そう言って彼女は可笑しそうにころころと笑った。「私、童顔で小柄だけど立派な年上のお姉さんなのよ?」

「それはまあ判ってますけど」俺はなんだか恥ずかしくなってきて、口調がぶっきらぼうになる。

「本当に?」その声は明らかに面白がっていた。

「どうでしょう」俺は応えた。「でもさくらさんも年上とは思えないくらい、可愛らしい所がありますし」

「それはどういう意味かしら」

「いえ、寝てる間の事なので」

「待って宗平君。私寝てる間にあなたに何かしたの?」不安そうに彼女は言った。

「えっと、その、指をですね」

「ゆ、指?」彼女の中で不安が確信に変わったように声が狼狽している。

「ええ。俺の指をしゃぶってましたよ」

 がたん、という物音が響いて、俺はびっくりして振り返った。椅子が倒れていて、さくらさんは立ち上がって、これ以上ないくらい真っ赤になった顔で口をぱくぱくさせていた。

「大丈夫です。口外しませんから」

「う、嘘よね?」

「いえ。おかげで一睡も出来ませんでした」そう言って俺は肩をすくめた。

 さくらさんは両手で顔を覆うとその場にしゃがみ込んだ。そしてそのまま微動だにしない。まるでこの世の終わりだと言わんばかりの嘆きっぷりである。

「あの、大丈夫ですか?」

「恥ずかしくて死にそう。ていうか死にたい」顔を手で覆ったまま彼女は言った。「治ったと思ったのに」

「前科あるんですね」

「以前、修学旅行の時に怜に」

「うわあ」本当にちょっと引いてしまった。

「そういうリアクションやめてちょうだい。あのとき怜にレズなんじゃないかって疑われて本気でヘコんだの思い出すから」

「すみません」

「謝らないで。余計惨めになるから」

「どうしろっていうんですか」俺はため息をついた。

「いっそ殺して」

「無茶言わないでください」

 そのとき、グリルのタイマーが小気味良い音を鳴らした。鮭が焼けた様だ。

「さくらさん」

「なに?」

「とりあえず朝ご飯にしませんか? あとは盛りつけるだけですし」

「せっかく作ってくれたのに申し訳ないんだけど。そんな気分じゃない」

 そう彼女が言い終わるのと同時に、くるるる、とおなかが鳴る音が響いた。

「ごめんなさい。お腹は空いてます」そう言って彼女は床に手をついて、俯いたまま「やっぱり食べる」とまるで神の御前で罪を吐露するかのように重々しく言った。「あなたの朝ご飯、実はすごく楽しみにしてたの」

「じゃあ盛りつけるんで待っててください」

「こたつに入って待ってるわ」

 そう言って彼女はふらふらと立ち上がり、そのまま不安定な歩調で居間へと向かった。

 ちょっとやりすぎたかもしれない。何とも言えない罪悪感がこみ上げてくる。後で何かフォローしなければ。

 朝食をテーブルの上に並べてからさくらさんを呼びに居間へ向かった。

 だが彼女の姿が見えない。

 部屋中を見回して、もしや、と思いこたつの布団を捲り、中をのぞき込んだ。猫みたいに丸くなっているさくらさんと目が合った。

「あの、用意できましたよ」

「そう」そっけなく彼女は言った。何か言いたげな目とその口調。完全に拗ねていた。

「暑くないですか」間が持たなくなったので俺は適当な言葉をつなぐ。

「暑い」

「すみません。ちょっとやり返す積もりだったんですけど、やり過ぎました」

「宗平君って意地悪よね」彼女は言った。「私もちょっとからかったのは事実だけど、どっちかというと褒めてたのに」

「俺も、からかいはしましたけど、可愛いって言ったのは嘘じゃないですよ」少しムキになってそう返した。

 彼女はため息をついた。嬉しそうにも悲しそうにも見える表情で、「お互い様ということで、いいんじゃないかしら」

 俺は頷いた。

 さくらさんがこたつから出てきた。

「そういえば言い忘れていたことがあったわ」改まって彼女は言った。「おはよう。宗平君」

 俺もつられて居住まいを正して「おはようございます」と応えた。

 しばらくそのまま二人で見つめ合っていたが、どちらともなく笑いだし、ひとしきり大笑いしてからダイニングで朝食を食べた。

 食事を済ませた後は洗濯物を干した。俺が昨日来ていた服は持ち帰るためにバッグに仕舞ったので大した了ではない。俺が干している間、さくらさんはずっと縁側でその様子を眺めていた。何が楽しいのか、彼女は上機嫌でとても幸せそうだった。けれど干し終わり、俺が戻ってくると寂しそうに空を見上げて「当たり前よね」と独り言を言ってから「ごめんなさい。こんなことまでさせてしまって」

「いいんですよ。好きでやったことなんで」俺は言った。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、名残惜しそうに庭を一瞥してから俯き、「それじゃ出かける準備をしてくるわ」

 その横顔がいまにも泣き出しそうに見えたのは気のせいだろうか。

 逃げるように去る彼女の背中を見送り、ただ立ち尽くしていた。

 居間で待っていると支度を終えたさくらさんがやってきた。

 目配せだけでやりとりをして、二人で玄関へ向かった。

 俺もさくらさんも、何もしゃべらない。なんだか夢が覚めてしまった後のような味気ない気持ちに襲われて、少し戸惑っていた。

 彼女を病院まで送った後俺はそのまま家に帰るつもりだった。

 二人だけの時間に終わりが迫ってくる。

 そのことに名残惜しさを感じていたのだ。

 彼女が玄関の引き戸に手をかけた。からからから、と音を立てて戸は辷っていく。先に彼女が出た。その後に続いて俺も外に出た。外は柔らかな日差しが降り注いでいた。どこかで小鳥が鳴いている。見上げた空は青空で、凍えそうなほど澄み切っていた。雪の予報などなかったかのようだ。

「まるで夢が覚めたみたいね」

 庭の飛び石の上を歩いていると急に彼女がそんなことを言った。俺はつい今し方考えていたことと同じ事を口に出した彼女に内心ヒヤリとした。

 彼女は悲しげに微笑を浮かべた。

「実は夢を見ていたの。あなたと一緒に暮らしている夢を。夢の中で、私は専業の作家として活躍していて、あなたは主夫として私をそばで支えてくれているの。二人は深く愛し合っていて、そろそろ子供を作ろうか、なんて話をしているところで夢から覚めた。けれどベッドにはあなたの体温と匂いが、少しだけ残っていて、もしかしたら夢が現実になったんじゃないかって一瞬思ってしまったの。馬鹿みたいな話でしょ? それからもずっと夢の中に居るみたいだった。あなたが料理を作っている姿も。他愛もない小競り合いも。二人で食べた朝食も。まるで夢の続きのようだったわ。けれどあなたが洗濯物を干し終えた時に、その中にあなたの物が一つもなくて、そこで現実に引き戻されて悲しくなった。自分が勝手に夢を見て、あり得ない期待をして裏切られたってだけの情けない話なんだけどね」

 丁字路にさしかかった。右に曲がれば俺の帰り道、左に曲がれば病院へ向かうバスが来る停留所がある。

「あなたはあっち」と右の方をさして彼女は言った。

「病院まで送りますよ」

「いいの」彼女は言った「幸せな夢はもう覚めてしまったから。現実を見なきゃだめだから」

「そうですか」

「それにね、いい加減あなたに甘えっぱなしなのも駄目だと思うの。だから、これからしばらく会うのはよしましょう」

「しばらく」俺は呟いた。

「ええ。だってあなたには怜がいるんだもの。それにもう決めてるの。受験に成功しようが失敗しようが、高校を卒業したらこの町を離れるって。だからあなたが居ない環境にも慣れておかないといけない」

「じゃあとりあえず受験が終わるまでは会わないようにしましょう」俺は言った。

「あなたに料理を教わらなくちゃならないものね」彼女は嬉しそうに笑った。「じゃあそれまでは他人の二人、ということで」

 俺は頷いた。それからバッグのストラップを肩にかけ直して、「それじゃあ、行きますね」

「ええ。さようなら。宗平君」

「さようなら。さくらさん」

 ちょうど横断歩道の信号が青になった。とうりゃんせのメロディが鳴り響く中、俺は横断歩道を渡り帰路へとついた。その時だった「一つ言い忘れたことがあったわ!」とさくらさんの声が聞えた。足を止め、振り返った。

「メリークリスマス!」

 普段の彼女からは想像も出来ないような大声と満面の笑みでそう叫んだ。

 俺は大きく息を吸い込んで、

「メリークリスマス!」

 と大声で帰した。

「あともう一つ!」彼女は叫ぶ。

「なんですか!」大声で訊ね返す。

「良いお年を!」彼女はとても楽しそうだ。

「良いお年を!」鸚鵡返しに俺は大声で言った。

「受験がっばってね!」

「さくらさんも!」

 それから彼女はぺこりと一礼すると、こちらに背を向け歩き始めた。

 その後ろ姿を見守ろうかと思ったが、なんだか未練がましいような気がして、踵を返した。帰ろう。怜が待っている。



 


 つづく




書きためてた分をがっつり九割くらい書き直してたらかなり遅くなりました。次もちょっと時間かかるかもです。

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