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深さと重さと  作者: 遠野義陰
序章 
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序章1 "序章に終わる恋"



 毎晩のジョギングコースは、まず家を出て川沿いの道を目指す。そして川の流れに沿いながら2キロほど走ったところで進路を東に変更し、町外れの丘へ向かう。それほど高くはないが勾配は急なので、足腰を鍛えるにはもってこいの場所だった。このコースに変えたのは一月ほど前のことだ。それまではひたすら川沿いを走り、今進路を変更している地点よりもさらに5キロ先にある橋を渡り、対岸を遡ってくるコースを走っていた。しかし同じ道のりを走ってばかりの状況にだんだん飽きてきたので、新しいコースを開拓しようと思い、気まぐれに丘を目指した末での発見だった。

 ここまで走ってくると、意識の中から余分な物がそぎ落とされていって、ただ無心に走ることが気持ちよくなってくる。勾配を駆け上がっていく足の負荷さえも心地良い。坂を登り切り、丘の頂上へ到達すると一旦そこで休息をとる。頂上には申し訳程度の広場があって、そこには展望台を兼ねた東屋と自動販売機がある。いつもそこでスポーツドリンクのペットボトルを買い、東屋のベンチで一休みしてから、軽くストレッチをし、復路に出る。

 いつも通りのルーチンをこなそうと、スポーツドリンクを片手に東屋へ向かおうとして、足を止めた。そこに人影があったからだ。いつもはこの時間に誰かがいることなんてまずない。誰も好きこのんでこんな場所に、しかも日が暮れてから来ようなんて思わないからだ。田舎だから、展望台から見れる夜景もたかが知れている。むしろ昼間の明るい時間の方が、大自然というわけでもないが、それなりの田園風景を拝めるので、楽しめるというものだ。

 近づいて行くと、だんだんその人影がセーラー服を着た女子高生であるということが判ってきた。ということは隣町にある高校の生徒だろう。この近くある学校でセーラー服を女子生徒の制服として採用しているのは、そこしかない。近辺にもう一つ高校が、そして三つほど中学校があるが、どこもブレザーの制服が採用されている。

 しかし女子高生がこんな時間にこんな場所で一体何をしているのだろうか。東屋のそばに自転車が停めてあるのを見るところ、彼女はあれに乗ってここに来たのだろう。丘を登る坂道を、自転車を漕いで登るのは大変だから、恐らく降りて、自転車を押しながら歩いて登ってきたに違いない。

 声を掛けるべきか迷っていた。もし何かの事件に巻き込まれたとかそういうのだったら、放っておく訳にもいかないし、或いは、高校生だ、もしかしたら彼氏と待ち合わせでもしているのかもしれない。それなら見て見ぬ振りをしてさっさと水分補給だけ済ましてジョギングを再開するべきだ。

 逡巡しながら、また一歩東屋に向かって足を踏み出した。その瞬間、足下で何かが割れるような音が響いた。慌てて足をどけると、そこにプラスチックの欠片が落ちていた。

 東屋の方に目を向けると、そこにいた女子高生が立ち上がり、こちらを見ていた。そばに街灯が立っているが、東屋の屋根の影の中に居て、顔までは判らなかった。

「誰?」という声がした。涼やかな声だった。

 逃げ出すべきだという考えと好奇心の間で板挟みになった足は、地面に釘付けになったかのように動かなかった。

 気まずい沈黙が流れる。

 しばらくどうするべきか考えていたが、やがて耐えきれなくなって「そっちこそ誰ですか」などとけんか腰に言葉を発してしまった。

「もしかして、ここはあなたの場所だった?」影の中で女子高生が問いかけてくる。

 俺は勢いで「はい」と答えていた。

「そうだったの」落胆したように俯いたのが判った。

 途端に、急に悪いことをしてしまったという思いが胸に湧き上がってきた。それもそうだ。別にここは俺の場所じゃない。馴染みの場所ではあるけれど、ここは公共の場所だから、俺が権利を主張してどうこう出来る訳でもないのだ。

 そんな思いからか、思わず「でも」と言っていた。

「あなたなら良いです」

 自分でも何を言っているのか半分判っていなかった。気持ちと口だけが先走っていたのだ。

 また沈黙が降りた。吹き抜ける風に転がされた枯葉が、乾いた音を立てた。

「本当に?」という返事があったのはそれからたっぷり1分ほど置いてからのことだった。

「はい」頷きながら俺は言った。「それと、俺も、そこ、いいですか?」

 なんでそんなことを口走ってしまったのかとすぐに後悔した。

「ええ」

 たっぷり間が空いてから、返事があった。

 どうせ断られるだろうと高を括っていたので完全に当てが外れてしまった。こうなってしまったらもうどうしようもない。俺はペットボトルを握りしめながら東屋の方へと歩いて行った。

 東屋の中には一脚のベンチが置いてある。木で作られた、大人が4人くらい座れるベンチだ。俺と彼女は、それぞれ両端に座り、二人分の空白を挟んで互いに話しかける機会を窺っていた。

 見ず知らずの女子高生とこんな場所で一緒になるシチュエーションなんて、これまで一度も考えたことがなかったからどうしたらいいのか判らなかったのだ。それは彼女も同じようだった。時折横目で向けられる視線の中に、初めて見る使い方の判らない道具を手渡された様な戸惑いが浮かんでいるのが判った。 

 言葉が出ないのにはもう一つ理由があった。それは彼女がとても綺麗だったからだ。東屋の屋根が、くすんだ水銀灯の明かりから切り取った夜陰の中で、彼女の横顔は言葉を失わせるほどに美しく見えていた。ぼうっと浮かび上がったおでこから鼻先を経て顎へいたる稜線は、まるである種の計算式で理想的な数値を算出して形作ったような完璧さがあった。そればかりに気を取られているとだんだん相手が人間ではないような気がしてきて恐ろしくなってくる。しかし切れ長の大きな目に浮かび揺れている感情の存在に気が付くと、今度は急に身近に感じられて、もう何年も昔から知り合いだったんじゃないかと思わせられもする。

 兎にも角にもこのままではダメだ。勇気を振り絞って何か話しかけることにした。

「あの」

 という声がユニゾンしたのはその直後だった。

 互いに顔を見合わせる。一瞬何がどうなったのか判らなかったが、すぐに同じタイミングで同じ言葉を発してしまったのだと気が付いた。それまでの反動だろう。きょとんとした彼女の顔を見ていると、急におかしくなってきて、思わず笑い出していた。それは彼女も笑っていた。

 ひとしきり笑ったあとで彼女がこちらを見ながら言った。

「あなた、よくここに来るの?」

「ええ。といってもここに来るようになったのはほんの一月ほど前のことなんですけど」

「あなたが来てるの北中の体操服よね」

「知ってるんですか?」

「私もこの辺りの人間だもの。当然よ。まあ卒業生じゃないけど。私は東中」

「そうなんですか。えっと……」

「さくら」こちらの意を汲むように、彼女は名乗った。「相川さくら、っていうの。字は、キャッチャーの相川と同じ。って判るかな、これで」

「野球お好きなんですか?」

「まあそこそこ。私の友達が好きでね、それで影響されていつの間にか知識がついていたの。そういうあなたも?」

「ええ。というか、野球やってますから」

「へぇ、北中の野球部というと、確か凄いピッチャーがいるところでしょ?」

「それも、野球好きの友人からですか?」

「そうよ。聞いてもないのにべらべら喋ってくる子でね。本当、一緒に居ると大変よ」

「なんだか判ります。うちの姉がそんな感じだから」

「お姉さんがいるのね。それはそうと、あなたの名前は? 私だけ名乗って、それだけなんて不公平じゃない」

「すみません。俺は、三島宗平っていいます。三島由紀夫の三島に、宗教の宗という字と平って字を合わせて宗平です」

「なんだか少し古風な響きがあるわね」

「そうですか?」

「それに、三島かぁ。私の友達が同じ苗字なのよね」

 へぇ、と頷きながら恐らくその友達は俺の義姉、三島怜のことだろうと確信していた。怜は野球が好きだし、好きなことについて喋り出すと止まらないところがある。それに彼女が話す内容の中に、度々「さくら」という名前の友人が登場していたからだ。

「あなたの顔を見るに、多分私と同じ事を考えている」神妙な顔でさくらさんは言った。「確認の為に聞くけど、あなた、そのお姉さんに『そうちゃん』って呼ばれてない?」

 俺は頷いた。

 やっぱり、という顔になり、「そしてそのお姉さんの名前は怜。怜という字は、楽天の永井怜と同じ」

「間違いないです」

 そう答えた瞬間に、これまで張り詰めていた物が一挙に緩んでいく感じがした。肩に入っていた余計な力が抜けて、思わず大きく息を吐きだしていた。

 さくらさんは初対面の相手だけれど、怜の話を通じて間接的に知っていたのだ。赤の他人であるが、完全にそう言う訳でもない。彼女の口から俺の呼び名が出て来たことから、彼女も怜から俺のことを聞かされていたに違いない。

「まさかあなたが、あの『そうちゃん』だったなんてね」

「怜がどんなこと吹き込んだか判らないですけれど、俺はいたって普通の、石を投げれば当たるようなどこにでもいるような男子中学生ですからね」

「ええ、心配しないで」おかしそうに笑いながら彼女は、「そこはちゃんと判ってるから。けど、話で聞いていたよりもずっといい男ね、あなた」

 俺は苦笑して、「ありがとうございます」

「あら、お世辞じゃないわよ。あんまりそういうの得意なタイプじゃないから」

「尚更反応に困ります」

「ふふ。面白いわね、あなた」

 さくらさんが立ち上がった。

「私も何か飲み物買ってくるわ。勝手に帰らないでね」

 そう言われて、傍らに置いていたスポーツドリンクの存在を思い出した。もう晩秋というか冬なのでぬるくなってはいないが、それでも表面にうっすらと雫が浮かんでいる。俺はキャップを開けて、ボトルに口を付けた。冷たい液体が食道を通って胃に落ちていくのが判る。ここまで走ってきて汗を掻いていた所為で、一気に半分くらい飲んでいた。

 ほう、と人心地ついた頃、さくらさんは戻ってきた。両手で大事そうにホットココアの持って、今度は一人分の隙間を空けて、ベンチに座った。

 彼女が缶を空ける音を聴きながら、俺は眼下に広がる夜景を見おろしていた。夜景と言っても、人家が少なくぽつぽつと街灯の灯りが目につく程度で、他は殆ど闇に覆われている。面白味のない風景だ。

「さくらさんは、どうしてここに?」

 すぐに答えは返ってこなかった。躊躇うような沈黙がしばらく続いた。その間も俺はずっと夜景を見詰めていた。冬の夜は音がない。耳が痛くなるような静寂の中で、彼女の息づかいをははっきりと感じる取ることが出来た。

「別に、話したくないのなら、それでいいですよ。共通の知り合いがいるとは言え、初対面ですし。そこまで無理に立ち入ってしまう、っていうのも、よく考えたらちょっと不躾だったかな、って」

 そう言って俺はさくらさんの方を見た。

「そう。私も、こんな事初対面の年下の男の子に話していいのかな、って少し迷ってたの」

「深刻そうですね」

「そうでもないけど。でも間違ってはない感じかな」

 さくらさんが立ち上がった。

「今日はありがとう。あなたと話せただけでも、大分気分が楽になった。機会があったら、また」

「はい。気をつけて下さいね。この辺り、街灯があっても真っ暗ですから」

「何かあったら大声を出すから。頼りにしてるわよ」そう言ってさくらさんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 俺は「出来る限りのことはします」と返して苦笑した。

 彼女が自転車にまたがり、坂を駆け下りていくのを見届けてから、俺はペットボトルの中を一気に飲み干した。ゴミ箱にペットボトルを捨てて、再び走り出した。坂を下りながら、そういえば逆方向だなと、自転車に乗った後ろ姿を思い出していた。

 翌日も彼女はそこにいた。そしてまたその次の日も。雨の日以外は、ずっとあの場所に来ていたんじゃないだろうか。或いは、雨が降ってもあそこに居たかもしれない。少なくとも俺がジョギングに出て、あの丘に登ると必ず彼女は東屋のベンチに座っていて、俺はいつもその後ろ姿を確認してからスポーツドリンクを買い、東屋に向かった。ここに来る度に彼女と話すことが、いつしか日課となっていた。

「最近家族と上手く行っていないの」

 彼女と会ってから一ヶ月が経とうという頃だった。いつもよりも弱々しく、背中を丸めてベンチに座った彼女の口からその言葉が発せられたのは。明らかに彼女は疲弊していて、まるで傷ついた小動物の様に肩を震わせていた。

 その日は雪が降っていて、確かにいつもよりも寒かったが、それにしても彼女の震え方はいささか大げさに見えた。しかしそれが演技でないということは、彼女の血の気の失せた顔色から知ることが出来た。

 俺は一体どんな言葉をかけ、行動すべきなのだろうか。街灯の灯り中を漂う雪片を見詰めながら、慎重に考えていた。

「もしかして、だからここに来るようになったんですか?」散々悩んだ挙げ句の言葉がこれだった。もう少し考えれば気の利いた言葉の一つや二つ出てきたのかもしれないけれど、空気の重たさに耐えきれなかったのだ。

 さくらさんは小さく顎を引いて、頷く動作をした。

「あなたと最初に会った日。あの日、父と喧嘩をしたの。将来のこととかそういうのが原因で。あんまりにも酷いことを言われた物だから頭に来て、家を飛び出して、目的もなく自転車を走らせていたら偶然この場所に辿り着いたの。尤も、ここの存在自体はずっと昔から知っていたけれど、普段意識をするような場所じゃないから、あの夜そこの坂を自棄になって自転車を漕いで駆け上がってくるまでは本当に忘れてしまっていた。ここは人の気配がどこにもなくて静かだから、一人になるにはうってつけの場所だった。しばらくこのベンチに座って気持ちを落ち着かせようとしていたんだけど、上手く行かなかった。冷静になろうとすればするほど、逆にふつふつとお腹の底から怒りが湧き上がってくるのよ。けれどそれを解消する手段がなくて、どうしようか、って考えていたところに、あなたが現れたの」

 そこまで言って彼女は一旦話を区切った。街灯の灯りの中を舞う雪の密度が濃くなっている。地面も白く雪の覆われ始めていた。

「不思議なことに、あなたと話しているとそれまで抱いていた苛立ちとか怒りとか、そう言った感情が、煙が吹き飛ばされるみたいに消えていったの。それが、多分私が毎晩ここに来る目的の一つなんだと思う」

「今日も、喧嘩、したんですか?」

「大喧嘩」その声には、とても恐ろしい怪物の名前を口にするような怯えが混じっていた。「私、どうしたらいいんだろう」

 そんなこと訊ねられても、何も答えが思い浮かばない。しかしここで逃げる訳にもいかない。彼女に話すよう水を向けてしまった時点で既に退路は断たれているのだ。

「もし、話して貰えるなら、でいいんですけど、もう少し詳しく事情を聞かせて下さい」

 こうなったらいっそ深く踏み込んでしまえ。開き直り、半ばやけになりながら俺は訊ねた。

 さくらさんは俯いたまま、しらばらく何も言わなかった。その長い沈黙の間に、俺は墓穴を掘ってしまったのではないかと不安になってきた。

「二つあるわ」

 白く濁った吐息と共に、固い声が彼女の唇から漏れた。

「一つは進学のこと。志望校も決めていて、進学するつもりで勉強しているのだけれど、父は進学に反対していてね。高校を出たらそのままうちの会社に入って、秘書として働けって」

「うちの会社?」

 さくらさんは頷いた。「うちの父親、会社の経営者なの。そんなに大きくはないんだけど、でもそこそこ業績は良いみたい。うちは、子供が私だけだから、婿養子を取らせて、それで後を継がせようと考えているみたいなの。父の中ではもう既に結婚させたい相手を決めているみたいで。だから多分、私が大学に進学して四年間も親元を離れるようなことは避けたいんだと思う。その間に変な気でも起こされたら困る、とか考えているんでしょうね」

 元々そんなつもりなんてないのに。とさくらさんは吐き捨てた。

「それからね、私、小説家になるのが夢だったの」

「小説家、ですか」

「ええ。作品を書いて、賞に応募してっていうのを高校生になってすぐの頃から続けてたの。一ヶ月ほど前にね、出版社から連絡が来たの。あなたの作品が最優秀作品に選ばれました、って」

「それってつまり」

 さくらさんが頷く。

「けど、さっき話したような事情があるから、私が作家になることに父が猛反対して、思いつく限りの罵声を浴びせられて、それで頭に血が上って思いっきり父の顔面を殴ってそれで家を飛び出してきたの。これはほんの1時間ほど前の話ね」

「殴ったんですか?」全然、そんなことをするようには見えないので俺は驚いていた。裏を返せばそれだけ譲れない物があったということなのだろう。

「完全に我を忘れていたわ。殺人事件に発展しなかったのが不思議なくらいよ」

 そういってさくらさんは自嘲気味に笑みを浮かべた。先ほどよりは多少、顔色が良くなっているように見えたが、相変わらず体は震えていた。そこで俺はようやく、彼女がセーラー服の上に何も羽織っていないことに気が付いた。きっと父親と口論して殴って、そのままの勢いで飛び出して来てしまったのだろう。

「いまからうちに来ませんか?」

「え?」

「変な意味ではないです」俺は慌てていった。「ただ、その、いつまでもこんな所に居るわけにもいかないし」

 雪はもうかなり積もってきている。降り止む気配もまったくない。ここは豪雪地帯などではないので、何メートルも積もったりしないだろうが、それでも20センチも積もれば大分歩きにくくなる。積もったばかりの新雪を踏みしめながら歩くのは思いの外骨が折れるのだ。

「ありがとう。でも、いいの?」

「ええ、今日は俺と怜しかいませんし。怜は、まあ反対しても説得します」

「ごめんなさい。私なんかの為に」

「困った時はお互い様、って奴です」

「便利な言葉よね、それ」ふっと笑みを浮かべてさくらさんは、「そう言われると、とても断りづらくなるんだもの。特にこういう状況で言われると、つい、甘えたくなる」

 その時、俺とさくらさんの間にあった一人分の空白がなくなっていたことに気が付いた。彼女の顔が、すぐ目の前にある。上目遣いになった、大きくてつぶらな、潤んだ瞳が、こちらを見詰めていた。

 俺は狼狽え、思わず顔を逸らした。いつの間にこんなに距離が近づいていたのだろうか。多分、雪の積もり具合を気にして居た所為で、気が付かなかったのだと思う。けど俺を動揺させた理由はもっと別の所にある。

 つい、甘えたくなる。そう言って彼女が浮かべた表情に垣間見えた、艶やかさというのだろうか、いままで見たことのなかった彼女のその顔に、胸が一度、大きく脈打った。

「それじゃあ、そろそろ」俺は逃げるようにそう言い、立ち上がった。そして一歩だけ、彼女から距離を取った。

 彼女は不思議そうに俺を見上げていたが、一度おかしそうに笑んでから「うん」と頷いて立ち上がった。

 道中は、特にこれという会話はなかった。ただ黙々と、雪の降る中を二人で歩いた。踏みしめる度に雪は、ぎゅっぎゅっと悲鳴を上げ、その合間に彼女が押している自転車から聞こえる、車輪が回る乾いた音が妙に軽やかに響いた。

 俺は少し緊張していた。隣を歩く彼女の息づかいに気を配りながら、それがばれていないかと、そんなよく判らない心配ばかりしていた。

 家の前に到着した頃にはもう10時を回っていた。いつもより30分ほど遅い帰宅である。さくらさんの自転車は玄関横の軒先に停めてもらった。

 玄関の鍵は開いていた。もうこんな時間だし、家には怜しかいないから、不用心だなと思ったがあまり人のことは言えないと苦笑し、一度さくらさんの方へ振り向いた。彼女は僅かに肩をこわばらせていたが、顔は殆ど無表情に近い、あくまでクールな印象を振りまこうとしていた。もしかしたら学校ではそういうキャラなのかもしれない。

 そんなことを考えながら「ただいま」と家の中に向かって言った。

 ばたばたと足音が聞こえてきた。右手に見えている戸が開き、怜が慌てた様子で姿を現した。

 長い黒髪を揺らしながら早歩きでこちらに向かってきた彼女は、ぶつかるように抱きついてきた。きっと俺の後ろに居たさくらさんのことには気付いては居ないのだろう。

「どこ行ってたの?」泣くのをこらえているような、鼻に掛かった声だった。

「ジョギング」

「いつもはもっと早く帰ってくるじゃない。心配したんだから」

「ごめん。ちょっと特別な事情があったんだ。それに、雪も降っていたし」

「特別な事情?」

 そこで怜が体を離した。ようやくさくらさんの存在に気が付いたらしい。まるで縄張りを侵された猫の様に眼を鋭くしながら「なんでそこにいるのよ」と声のトーンを低くした。

「彼に、ね」

 その短い答えで場の空気が凍り付いたのは言うまでもない。二人は親友だと聞いていた筈なのに、どうしてこんなに険悪なムードが漂っているのだろうか。もしかしたら、実は喧嘩をしたばかりなんじゃないだろうか、とも思ったがそれならそうと、さくらさんの方から言ってくるはずだし。

「今晩、一晩だけでいいの。泊めてちょうだい」

「ダメ」

 相手の事情も聞かずに切り捨てる怜に、さくらさんはとりつく島がないと言いたげな目で、俺を見た。

「なあ、俺からも頼む」

「どうして?」

 さくらさんと一度顔を見合わせた。話してもいいのか、という確認だった。彼女はゆっくりと一度頷いた。

 俺は、怜にさくらさんがどうしてうちに来たのか、かいつまんで事情を説明した。但し、あとでどんなことを言われるのか判らないので、ほぼ毎晩のように同じ場所で待ち合わせるように会っていたという事実は伏せた。

「まあ、そういうことなら」

 思いの外素直に引き下がってくれた。まだ何か言いたげな表情をしていたが、それ以上何も言って来ることはなかった。くるりと踵を返すと、そのまま出てきた戸の向こうに歩いて行った。 

「友人同士、なんですよね?」振り返って、訊ねた。

「ええ」さくらさんは頷いた。「けど、ある意味天敵でもあるかもしれない」

「天敵?」

「互いにね、気を許しつつも一方では牽制し合っているのよ。正直自分でもよく判ってないわ。けど、彼女と私は友人同士なの。それだけは間違いない」

 さくらさんを居間に案内した。怜の姿は見当たらない。自分の部屋に戻ったのだろうか。さくらさんにソファに座るよう勧めて、俺は台所へと向かい、ホットココアを作った。それからリビングに戻り、マグカップを彼女の前に置き、俺もソファに腰掛けた。

「ありがとう」そう言って彼女はマグカップを手に取り、淹れたばかりのまだ熱い液体を啜った。マグカップをテーブルの上に置いた彼女は、何かおかしなことにでも気が付いた様に、ふっと笑った。

「どうしたんですか?」

「あなたと居ると、一生分の『ありがとう』と『ごめんなさい』を使い果たしてしまいそうな気がして」

「一生分も何も。そういう言葉は死ぬまで尽きないと思いますよ」

 さくらさんは柔和に笑んで、「それもそうね」

 いままで見たことがなかった表情だった。その瞬間に、また胸が高鳴った。またあの感覚だ。急に彼女の事が、もう何年も昔から知っている昔なじみの様に感じられて、俺はどうして良いか判らなくなった。会話が続かない。

 彼女の方も、俺の戸惑いを感じ取ったのか、沈黙の中にどうしようもないぎこちなさが溢れてしまっていた。

 きゅーっと何か可愛らしい音が聞こえてきたのはその時だった。

 はっとして、俺とさくらさんは顔を見合わせた。彼女の顔がみるみる赤くなっていく。

「これは、その」

 彼女は何か言い訳をしようと試みたが、しかしすぐに諦め、俯いた。

「もしかして、晩ご飯、食べてないんですか?」

 さくらさんは無言で頷いた。

 俺は立ち上がり、台所へ向かった。コンロに乗せたままの鍋の蓋を取り、中を覗き込んだ。二日持つように多めに作って置いたカレーは予想通りまだ沢山余っていた。炊飯器の中の米もまだ充分ある。

 居間に戻ろうと振り返ったら、柱の陰からこちらを見ていたさくらさんと目が合った。

「カレーありますけど、食べますか?」

 彼女は頷いた。



 カレーを温めていると怜がやってきた。相変わらず何か含みのある目でこちらを見るだけで、何も言いはしない。そのままさくらさんの対面に座って、テーブルの上に突っ伏した。

「何か言いたいことがあるなら、言ったら?」とさくらさん。先ほどお腹を鳴らして顔を真っ赤にしていたと人物と果たして同じ人間なのだろうか、と疑りたくなるほど凜としていて、冷たい声色だった。

 怜は顔を一度顔を上げたが、またすぐに突っ伏してしまった。何をしに来たのか判らない。もの凄く機嫌が悪そうで、それを問うのも気が引けて、とりあえず彼女の事は後回しにした。

 さくらさんがカレーを食べている間に俺は客間を片付けて、押し入れの中から来客用の布団を一組出した。ほとんど使われることなく、ずっとほったらかしにしてあったので、ほこり臭くなっていないだろうかと心配だったが、それは杞憂だった。俺が気が付いていないだけで、定期的に干されているのかもしれない。

 廊下に出るとなにやら話し声が聞こえてきた。怜とさくらさんが話しているのだ。喧嘩というほどではないが、飛び交う言葉の語気は強い。何となく面倒なことに巻き込まれそうな気がして、一瞬躊躇したが、このまま姿をくらますことなんて出来る訳もないので、意を決してダイニングに戻った。

 俺が戻ってきた途端に、それまで交わされていた会話がなくなり、水を打ったように静かになった。二人とも何事もなかったかのように澄ました表情で、こちらを見ていた。

「そうちゃん」沈黙を最初に破ったのは怜だった。「一つ訊きたいことがあるんだけど」

「訊きたいこと、って?」

「さくらとどういう関係なの?」

「どういう関係、ってそりゃ知り合い、というか多分、友人?」

 さくらさんの視線に気が付いて急に気恥ずかしくなってきて、曖昧な言い方になってしまった。だがこの一ヶ月間の交流で、確かに俺とさくらさんは友人同士と言って差し支えのない関係にはなったと思う。それなのに、どうしてだろう。俺が答えた途端に、さくらさんの目が寂しげに伏せられたのは。

「友人」と怜は繰り返した。それから注意深く、俺の顔を見詰めた。そうすることで隠された真実を発見出来ると信じて疑わない取調官のように、じっくりと観察してから、ふいに諦めたように視線を外した。

 さくらさんの態度もそうだが、怜も今日は何かおかしい。そのことに俺は少なからず動揺していて、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。一体なんだっていうんだ。

「ねえ、宗平君」恐る恐る吊り橋の上に踏み出していくような、不慣れな語調でさくらさんが俺の名前を呼んだ。そういえば、彼女が「宗平君」と俺のことを呼ぶのはこれが初めてだということに気が付いた。このタイミングでそう呼ぶことに何か意味でもあるのだろうか。多分彼女なりに何かあるのだろうが、あまり深く考えないことにした。

「なんですか?」

「呼んでみただけ」くすっとさくらさんは笑った。

「ああ、はい」

「ごめんなさい。からかうつもりはなかったんだけど」とおかしそうに彼女は言う。「改めて呼んでみたら、なんだか変に恥ずかしくって」

 幾分彼女の頬が赤くなっているのは気のせいだろうか。振り向いて真っ正面から見るのが恐ろしいくらいの殺気を孕んだ怜の視線を受けながら、俺はそうであって欲しいと願った。

「それで、その。こんなことを言うと図々しく思われるかもしれないけれど。お風呂を、その……」

「すみません。気が利かなくて。怜、案内してあげて。あと着替えも貸してあげてくれないか?」

 怜が無言で立ち上がった。そのまま廊下の方へ歩いて行き、扉の前で立ち止まった。機械的な動作で振り返り、「ついてきて」

 さくらさんが頷いて立ち上がった。

「あ、そうだ」とさくらさんはこちらを振り向いた。「カレー、美味しかったわ。ごちそうさま」

 


 流しで洗い物をしていると怜がやってきた。彼女は椅子に座って、テーブルに突っ伏して、一週間分の幸せ吐き出すような溜息を吐いた。

 俺は泡だらけの手を洗って、蛇口の水を止めた。

「もしかして怒ってる?」

「怒ってない。でも機嫌は悪い」

 それを怒っているというんじゃないか。と思ったが口には出さなかった。

「そうちゃんって、いっつもそうなの?」

「何が?」

「判ってないなら、いい」また溜息を吐いた。「さくら、可愛いもんね」

「まあ、美人だよな」

「背は低いけど、スタイル良いし」

「怜、どうしたんだ?」

「どうもしてないもん。私はそうちゃんのお姉さんらしく、色んな事を心配してるだけだから」

 どう考えてもそれだけではないのは、その拗ねた口調から明らかだった。

 よくこういうことがある。例えばクラスの女子がどうした、とか(それが本当に些細な日常の何気ない瞬間の事であっても)そういう話題がでると決まって彼女は機嫌が悪くなる。だから毎晩会っていたことも伏せた。彼女はそういう話が俺の口からでると、とても判りやすく焼き餅を焼くのだ。面倒臭いと思うことも正直ある。いちいちそんなことに突っかからなくても良いじゃ無いか、と言いかけたことは数え切れないほどだ。

 でもそうしなかったのはそれが無駄だと知っているからだ。かつて俺と怜が、姉弟ではなく幼馴染みだった頃から、現在まで、変わらずにずっと彼女は焼き餅焼きで、多分それは彼女の生まれもっての性分なのだと思う。だからどれだけ時間が経っても、彼女が人間的にいまよりずっと成長したとしても、きっと変わらないだろう。

 そしてそんな彼女を、俺は愛している。

 だがその想いを言葉にし、彼女に届けることは、いまは出来ない。俺達は幼馴染みではなく、姉弟なのだ。一度立ちはだかったモラルという壁のあまりの強固さに、高さに怖じ気づいて、二の足を踏み、前に進めずに居た。

 諦めるという選択肢がないわけではなかった。初恋など叶わぬ物なのだから、と無理矢理納得しようとしたこともあったが、そんなことで誤魔化すことは出来なかった。

 多分、それは怜も同じなんじゃないかと俺は思っている。ただの自惚れかもしれないけれど、それでも彼女はやっぱり無理に姉として振る舞おうとしている。そういう風に俺の目には映っていた。彼女のその姿を見ていると、余計に想いを口にし難くなった。頑張って俺の姉になろうとしているその努力を踏みにじってしまうことになるんじゃないか、と。そんなことを考えた末に、俺も最大限、彼女の弟として振る舞ってきた。

「大丈夫だよ。別に怜が心配するようなことなんてないから」

 だから俺は彼女の真意を汲み取りながら、見て見ぬ振りをした。

「まったくない、っていうのもどうかと思うけど」

 独り言のように怜が呟いた。わざと聞こえるように言ったのだろう。横目でこちらの反応を伺っていた。

「まあ確かに。さくらさんは綺麗だし、結構話も合う人だけど。でも今のところはそういう風には見てないよ」

「いまのところは」彼女はその部分だけを繰り返し、何とも言えない笑みを浮かべた。嫌味ったらしい笑みを作ろうとしたのだろうけど、それが上手く行かずに、頬が引き攣ったような表情になってしまっていた。

 見てられなくて、俺は彼女から目を逸らした。

「別にいいだろ、そんなこと。怜には関係ない」俺は突き放すように言った。余計なことを詮索して、首を突っ込んでくる鬱陶しい姉に対する反応というのは、きっとこういう物に違いない。もう少し嫌悪感を漂わせても良かったかもしれない。尤も、そんなこと絶対に出来る訳がないのだが。俺がこういう返し方をする度に、彼女が傷ついたような目をするからだ。いつ頃からか俺はそれも直視出来なくなった。どうしても罪悪感に押し潰されそうになるから、それから逃げるためには致し方なかった。

 その度に思うのだ。

 これから彼女にどう接して、一緒に暮らしていけば良いのだろうか、と。

 ここ一年ほどで、その迷いは急速に俺の中で大きくなっていた。果たしてどう振る舞うことが彼女にとって、あるいは自分自身にとって最善なのか。時々、もう諦めてしまえと思うこともある。けれど、それはこれまで本当の姉になろうと努力してきた彼女に対する裏切りにもなってしまう。

「そんな努力は必要ない」

 そう言ってしまえるだけの度胸も、度量も、いまの俺にはなかった。ただ臆病で、彼女の事を本当に思いやってやれない、意気地なしの自分が、たまらなく嫌だった。

 黙っていると怜はわざとらしい欠伸をして台所から離れて行った。

 洗い物を済ませると俺は何かに追い立てられるように自分の部屋に逃げ込んだ。灯りも点けないままベッドに身を投げ出した。仰向けになって、薄闇の中に浮かぶ天井を見詰めながら、どうするべきか考えていた。いまはまだ答えが出せないことが判っていても、そうでもしなければ、このやり場のない気持ちを鎮めることも出来やしない。

 本当はどうしたいのか、なんてことは考えるまでもない。俺は怜のことが好きなのだ。幼い頃からずっと。物心がついた頃には彼女に既に惹かれていた。異性としてはっきりと意識しだしたのは小学校の4年生くらいになったころだろうか。二次性徴を迎え、日毎に変わっていく彼女の姿を目の当たりにし、それまで抱いたことのない未知の感情が萌芽していた。最初は戸惑った。どう考えてもそんな物を上手に扱えるほど俺は賢くなかったからだ。だからその時期は怜とあまり話さなかったことを良く覚えている。時間と共にそれがなんであるかを理解し始めると、俺はまた彼女と話せるようになった。ただ、それ以前とそれ以降では、明らかに何かが変わってしまっていた。それまでは何の気兼ねなく触れられていた、彼女の髪や手が、急になんだか遠い存在になってしまったようで。彼女に手を握られる度に、心臓が跳ねて、顔が熱くなった。その度に、俺達は姉弟なのだ、と自分に言い聞かせ、こちらの胸の裡にある本心を気取られないようにするので精一杯で、そこに本来存在している筈の甘酸っぱさであるとか、切なさみたいなものを感じる余裕などなかった。そもそも姉弟として生きるのなら、そんなものに浸っていい訳がないのだ。

 廊下を歩く足音が聞こえてきた。遠慮がちな歩調で刻まれるそれは、扉の前で止まった。すぐに扉がノックされた。

「そうちゃん、お風呂空いたよ」

 怜の声だ。俺は、判った、と答えたが、すぐには起き上がらなかった。彼女が扉の前から立ち去るのを待ってから、着替えを用意し風呂場へ向かった。


         

 風呂上がり、喉が渇いたので何か飲もうと台所へ向かうと、先客が一人居た。

 テーブルに頬杖をついて考え事をしていたらしい。さくらさんは俺が来たことにも気が付かずに、熱心に物思いに耽っていた。

 声を掛けるべきか迷っていると、不意に彼女が顔を上げた。目が合ったので「寝ないんですか?」ととりあえず何か言ってみた。

「あんまり、眠たくなくて」

「慣れないところだと寝れないタイプなんですか?」

「そうじゃないの。寝ようと思って目を瞑るとね、今日のこととか、これまであったこととかが、切れ間なく浮かんでくるの。そのうち暗くなった部屋の闇の中にまでそれが浮かび上がってきて、どうしようもなくて。だからこうして明るい所で途方に暮れていたの」

「そういうこと、時々ありますね」

「いつも、どうしてる?」

「目を瞑っていればそのうち眠れるって、念じてますね。こういうときに邪魔してくる悩みって、結局考えてるだけじゃどうにもならない類の物ですから」

「そうね、どうにもならない」こちらの言葉を恣意的に切り取り、それを投げやりな口調でこちらに叩き付けて来た。

「でもやれるだけやるべきだと思います」

「出来ることなんて、何もないわ」

「でも、だからって逃げてるだけじゃ何も変わらないんじゃないですか」

「じゃあどうしろっていうのよ!」

 突然彼女が声を荒げた。それは大海原に一人投げ出されてしまった遭難者の様な、途方に暮れた怒声だった。すがるような目で、彼女は俺を睨んでいる。

「とにかく、話し合うしかないと思います。頭に血が上らないように冷静なままで、膝をつき合わせて、しっかりと」

「簡単に言ってくれるわね」

「知ったような口を利いてしまっていることは謝ります。けど、そうするしかないと思います。少なくとも今みたいに逃げているだけじゃ何も自体は好転しないし。もしかしたらより悪化してしまうかも知れない」

「けど、もしちゃんと話し合って、その上で本当に理解し合えないって判ったら、私はどうしたらいいの?」

「ならその時はその時よ」

 不意に背後で声がした。振り返ると怜が居た。いつからそこに居たのだろうか。彼女は不愉快そうに腕を組み、壁に凭れながらさくらさんを睨んでいた。

「うだうだ考えて悩んでみる前にとりあえず行動しなさいよ」

「別に何もしてなかったわけじゃない」

「でもちゃんと話し合ってないんでしょう? なら何もしてないのと同じよ」

 ねえ、と怜が同意を求めるように、視線を向けてくる。と、同時にさくらさんもそんなことないだろう、という目でこちらを見てきた。

 二者択一の選択を迫られて、俺は迷わず怜の意見に重ねるように、「逃げずに向き合うべきです」

 そもそも言いたいことはすべて怜に言われてしまっていたので、俺の口から出せる意見なんてその程度のことだった。さくらさんは頼りにした当てが外れてしまったことに、少なからず動揺してみせたが、ある程度は予想していたのだろう、大きく溜息をついた。

「そうよね」

 彼女のか細い声に一瞬自分のなかで意見が割れかけたが、ここは鬼にならねば、と踏ん張り反対勢力を弾圧して、さくらさんと改めてまっすぐ顔を向き合わせた。

「もしそれで困ったことがあったら、いつでもうちに来て下さい。うちの両親、結構家を空けてることが多くて。それに多分、居たとしても大して詮索なんてしてこないタイプですから。怜もご存知の通り出不精が服を着て歩いているような性格してるんで」

「あなたは?」

「俺は、その、だいたい毎晩同じコースを走ってますから」

「そう。ならあそこに行けば会えるのね?」

 ええ、と頷きながら俺は背後におぞましい気配を感じて、思わず身震いしてしまった。何がどうなっているかはだいたい想像がつくので、敢えて振り向きはしない。さくらさんが俺の背後を見ながら、やけに楽しそうな笑みを浮かべながら、挑戦的な目つきをしていることも、詮索したりなどしない。君子危うきに近寄らずというし。いや、むしろ危険の真っ只中にいる分、四面楚歌、というか虎穴の中に放り込まれてしまっているといった方が正しいのではないか。

「あそこって、どこ?」  

 現実逃避に浸ろうとしていた頭が急に、サァーと冷えて俺は否応なしに、血の繋がらない姉と、その友人の板挟みに遭っているという無慈悲な現実に引き戻された。出来ることならこのまま物理的に逃げ出したい気分だ。しかし背後の、廊下に出る戸は怜に確実にブロックされているだろうし、かといってリビングに逃げたところでどうしようもない。この家に俺と怜が住んでいる以上、避けようのないことなのだ。

 あらめて俺はさくらさんと出会った時からいままでのことを、嘘偽りなく怜に話した。

「へぇ、本当に仲が良い友人同士なのね」

 俺の隣の席に座った怜は、棘のある口調で、威嚇するようにさくらさんを睨んだ。

「ええ、とっても」

 対するさくらさんも、彼女は彼女でどういうわけかことを鎮めようという誠意が感じられない笑顔でそれに答えた。こんな風に嫌味ったらしいことが出来るなら、家族との直談判くらいどうにでもなるだろう、と言いかけたがなんとか飲み込んだ。自分まで、あらぬ方向から油をぶっかけるような事をしては意味がない。

「怜も、宗平君と仲が良いのね」

 恐らく肉親――姉弟であることを狙った棘なのだろう。怜は俺に体を密着させるようにして座っていた。とても、普通の姉弟の距離感ではない。しかし実際に俺達は普通の姉弟ではないのだ。

 怜は動じず「だって、そうちゃん?」と肩に頭を載せてきた。

 にこにこと仮面のような笑みを浮かべていたさくらさんの、頬が一瞬引き攣った。そしてすぐさま反撃に出る。

「でも、度が過ぎると不健全だと思うの」

 男子中学生相手に、女子高生二人でこんなやりとりをしている時点で既に不健全だとは思うのだが。いっそそういう内容を口にして、二人とも敵に回して逃げてしまえばいいのではないか、という破滅的なアイディアが脳裏を過ぎった。無論、行動には移さなかった。さくらさんに関しては未知数だが、怜は一度へそを曲げるとなかなか元には戻らないからだ。後でどんな見返りを要求されるか判った物じゃない。

「宗平君も、迷惑よね」

 実はさくらさんはもの凄く酷い人なんじゃないかと、その時俺は思った。この状況でそんな質問に答えられる訳がないじゃないか。

「あら、そうちゃんはさくらの方こそ迷惑だって思ってるわよ」

「そういう風に出しゃばってくることこそ、迷惑なんじゃない?」

「私は弟思いの出来た姉だから、変な女に引っ掛からないように守ってるだけよ」

「怜、あなたに前から言おうと思ってたんだけど、そういう風に出来た姉、だとかなんとか自己評価高すぎるのもどうかと思うわよ」

「人見知りが激しいふりして、猫被って、いっつもおどおどしてるあなたよりマシよ」

「別に猫なんて被ってないわよ。それに人見知りでもないし」

「私がいないとファミレスで注文出来ない奴のどこが人見知りじゃないって?」

「別にそれはただ、あの呼び出すボタンを押すタイミングが判らないだけよ」そう言って唇と尖らせたさくらさんと目が合った。「ってそうじゃないでしょ、怜」

「なにが?」

「宗平君とあなたのその姉弟とは思えない距離感についてのことよ」

 いつの間にか関係ない方向にそれていた筈の話が元に戻ってきてしまった。そのまま永遠に仲良く口げんかをしてくれていれば良い物を。

「なんでさくらさはそんなことをいちいち気にしているのかしら」

「なんで、って別に。ただちょっと気になるだけよ」顔を赤くしながらさくらさんは言う。

「心配しなくても、私たちは姉弟だから、大丈夫よ」唐突に怜はそう言い放った。それまでとは違う、感情の見えない声色だった。ただ、「姉弟」という部分だけが不自然に強調されていて、それがまるで自分に言い聞かせているようで、俺は胸の奥をつかれるような鋭い痛みを感じ、唇を噛んだ。

 立ち上がった怜は、わざとらしく欠伸をしてみせて、「それじゃ」とダイニングから出て行った。俺はすぐに怜を追いかけたくなったが、彼女があんな風に振る舞ったのだから、引き留めたりなんかしたら、それが無駄になってしまう。そう、俺達は"姉弟"なのだから。

「さっきはごめんなさい」さくらさんは恥じ入る様に俯き、上目遣いにこちらをうかがい見る。

「いえ、こっちこそ。怜って昔から負けず嫌いなところがあるから」俺は胸の内の動揺を気取られぬよう、注意しながら答えた。

「そうみたいね。びっくりした。あそこまで対抗してくるなんて。普段以上でびっくりした」そう言ってから彼女は頬杖を着き、「高校に入ってからずっと怜と付き合ってて、なんとなく相手のことをよく知ってる気がしてたけど、そうでもなかったみたい。面白いわね」

「学校ではどんな風なんですか?」

「そうね。私が言うのもなんだけど、まるで深窓の令嬢って感じかしら。窓際の一番前の席がよく似合う、五月の風に靡く純白のカーテンと、窓から飛び込んでくる日射しの中に佇んでいる、そんな空想がぴったりな感じ」

 よく判らないけど何となく判るような気もしたので、とりあえず俺は頷いた。彼女がお嬢様である、ということに関してはそれほど間違ったことではない。彼女の、今は亡き本当の両親は、どちらも良家の出身だったからだ。尤も、英才教育のような物を受けてはいなかったが、そういう血が流れている所為だろう、時々はっと息を呑むほど凜とした佇まいに遭遇することがある。

「そんな儚げな空気を纏っているせいかしらね。誰彼問わず、勝手に彼女の周りに人が集まって、彼女のお願いをなんでも聞くようになるの。お姫様、なんて揶揄するクラスメイトもいるわ。あれはなんていうのか、そう、究極の無防備」

「はあ」

「高嶺の花すぎて誰も最終的な境界を越えてこようとしないことを良く理解している、っていうのかな。だから誰も彼女の核心に触れられないし、窺い知ることすらもできない。そんなのと一緒に居る物だから、彼女のおこぼれに預かって楽をすることはあっても、モテたりはしないのよね」

 確かに怜は綺麗だ。美人なんて言葉が陳腐に思えるほどに。だから高嶺の花、とい印象を抱くのも致し方ないのかも知れない。もっとも、俺は小さい頃からずっと彼女と一緒だったし、彼女が満足に部屋を片付けることさえ出来ないズボラな人間だということもよく知っているので、いまいちピンとこなかった。どうやら学校と家では大分違った人間を演じているらしい。

「そういえば、どうしてさくらさんは怜と仲良くなったんですか?」

「別に、これというきっかけがあった訳じゃないの。たまたま本屋さんで出くわして。取ろうとしてた本が二人とも同じ作家のでね。そこからなぜだか意気投合してしまったの」

「さくらさんは、さっき言ったような抵抗はなかったんですか?」

「私はまあ、家の事情で、お高くとまったお嬢様を相手にするのは慣れてたから」

 自分もその一人だし、とさくらさんは苦笑した。

「それにしても宗平君も可哀想ね」

「何がですか?」

「あんな美人といつも顔を合わせてたんじゃ、無駄にハードル上がってるんじゃない?」

「そんなことはないと思いますけど」

「じゃあ、私と怜、どっちが綺麗だと思う?」

 ここはとりあえずさくらさんの方が綺麗だと答えて置いた方が良いだろう。あまり事態をややこしくしたくない。

 しかし打つはずだった、逃げの一手が俺の口から発せられることはなかった。怜のことが頭にちらついて、答えようとする度に本当の事を言ってしまいそうになったからだ。

 俺が口を半開きにして、困り顔になっているのを彼女はどう解釈したのだろうか。

「冗談よ、冗談」さくらさんは苦笑を浮かべた。「そんなに真剣に悩んでくれるのね。てっきり、怜だ、って即答すると思ったのに」

「さくらさんも充分お綺麗ですよ」ここにきてようやくおべんちゃらの一つが口に出せるようになった。「こういうのは好みの問題ですから。さくらさんの方が綺麗だって、答える人も必ず居ます」

 すぐにしまったと思った。避けたと思った墓穴に自分からはまりに行くアホがどこにいるんだ。

「宗平君は、言ってくれないのね」

 演技などではなく、本当にがっかりしているように見えた。

 何かフォローしなければならないと思っても、こういう時にうってつけの言葉が見つからず、二人とも黙ったまま、気まずい空気が流れた。

「ねえ、私、髪伸ばしたら似合うと思う?」

 唐突な質問の、その真意をはかりかねて、俺はどう答えるべきか迷ったが、これこそ無難に躱すべきだろう。

「さくらさんならどんな髪型でも似合うと思いますよ」

 お世辞半分、本音半分と言ったところだ。さくらさんは美人だから、髪を伸ばしても似合うに決まっている。けれど怜みたいに顔の輪郭が顎に向かって細いタイプではなく、どちらかというと可愛らしい丸顔の部類なので、怜の様に凜とした風にはならないだろうと思う。どちらにせよ、一般的なレベルよりは遥かに高いことに違いはない。

「そう、ありがとう。少し検討してみるわ」

 まんざらでもなさそうに言う彼女の、ほんのり椛の散った頬に、俺はまたどきりとさせられた。




「宗平ってなんかそういう、よく分かんないけど引き寄せる力みたいなのがあるよね」

 土曜の練習は午前だけで終わった。スパイクの裏についたグランドの土を落としながら昨夜の愚痴を聞いていた公康はそう言って邪気のない笑みを見せた。

 栗原公康は俺の幼馴染みだ。家はそれほど近所という訳ではないが、いつも同じ公園でキャッチボールをして、小学生になってからは同じ少年野球のチームに入り、そして同じ中学の野球部に入った、正真正銘の腐れ縁という奴だ。公康はうちの事情を良く知っているので、忌憚なく話すことが出来る。そしてさくらさんのことを相談した末に返ってきた答えがそれだった。

「どういうことだよ」

「吹奏楽部の夏井とか」

「夏井?」

「よく音楽室からこっち見てるでしょ」

 夏井香奈は同級生だ。一年の頃から同じクラスで、席も隣同士だ。一応友人と呼べる範囲に入っている女子だ。

「そうだっけ?」

「やっぱり気が付いてなかったか」

「むしろなんで公康は気付いてたんだよ」

「というか、多分知らないの宗平だけだと思うよ?」

 そんな訳ないだろう、と反論を口にしようとしたところで「そうだそうだ」という声が割り込んできた。

 武知国彦がにやにやしながら倉庫の中から出てきた。うちの野球部はあまり部室を使わない。バックネット裏に倉庫があり、練習道具などはいつもそこに保管しているし、バックネットと倉庫の間にはそれなりに広く空間が空いていて、そこには屋根がありベンチがある。この一連のスペースが実質部室としての役割を持っているのだ。また、倉庫の正面にも腰掛けるのにちょうど良い高さの石垣があるため、ここで練習後に道具の手入れをする者も居る。俺と公康の様に。

「あれは絶対三島のこと見てるぜ」隣にやってきた国彦は、俺の肩に手を置いてそんなことを言った。

「まさか」

「僕もそう思うな」

 だよなぁ、とうなずき合う二人。しかしそんな風に注目される謂われがないので、納得しようにも出来るわけがない。それに、うちにはもっと注目されるべき男が居るのだ。

「江島を見てるだけだろ」

 江島聡はうちの野球部のキャプテンだ。中学生でありながら身長は一七〇センチ台後半と恵まれた体格で、その長身から投げ下ろされる直球は一三〇キロを優に越える。バッティングセンスも一級品で、今年の夏、全国大会一歩手前まで行けたのも彼の活躍があったからに他ならない。そんな選手だから当然色んなところから注目を集める。練習試合の度に、恐らくどこかの名門校のスカウトであろう見知らぬ大人を必ず見かけるし、それ以上にグラウンドのフェンス越しに黄色い歓声を上げる女子が目立つ。天は二物を与えず、というが彼は抜群の野球センスと同時に、アイドルのような整った顔立ちをしていた。

「まあその線は否定しきれないけど」と公康。

「いや、でも江島が風邪で休んでた時の練習でも、あいつこっち見てたぜ」

「そういえばそうか」

「でもそれが、なんで俺を見てるってことになるんだよ。もしかしたら国彦、お前のことかも知れないだろ」

「俺はないない。だって話したことねぇもん、夏井と」

「じゃあほら、伊藤とか」

 伊藤隼人は一年生だ。もう冬とはいえ、まだ小学生の頃の幼さが顔立ちに多く残っているが、顔のパーツはよく整っており、上級生から結構人気があるらしい。

「ていうかお前は、なんでそんなに認めたがらないんだよ。ふつう中二の男子なら舞い上がるところだぜ。夏井ってめっちゃ可愛いし」

「宗平は美人だけは見慣れてるから、案外ピンとこないのかも」

「あー、そういえば三島の姉ちゃんってすっげぇ美人だもんな。毎日女優かアイドルかと顔合わせてるようなもんか。そりゃ感覚も麻痺するわけだ」

 憐れむような国彦の目線に俺は少しむっとしたが、こんなことで突っかかるのもくだらないので言いかけた反論を飲み込んだ。

「三島の姉貴がどうかしたって?」

 声がした方を見ると、江島がこちらにやってくるところだった。学校指定の青いウインドブレイカを着込んでいる。

「綺麗だよな、って話」と国彦。

「ああ、」と多分すぐに思い出せなかったのだろう、生返事を江島は返した。

「で、話は変わるけど、江島君二組の夏井は知ってるよね」と公彦が言う。

「それがどうかしたのか?」

「よくうちの練習見てるけど、誰を見ているんだろうなぁ、っていう話をしていたわけ」

「そりゃ三島だろ」

 だよな、という二人の声がまた重なる。

「いや、お前のことかも知れないだろ」と俺は江島を見る。

「俺じゃあないよ。見られるのには慣れてるから、誰が誰を見てるのかってのは何となく判るし。それに少なくとも自分のこと見られてて判らない訳がない」

「イケメンはやっぱり違うな、言うことが」膝をぱん、と叩いて国彦が言う。じじくさい動作だ。

「どう思う?」と公康。

「見てるってことはつまり三島のことが好きなんじゃないの?」江島の口調はいかにも他人事という風に投げやりだ。「それ以外にあんな熱心に見入る理由もないし。三島、お前心当たりないのかよ」

「ない」

 きっぱりと断言すると、三人分の白い目が俺に集中した。でもそんな風に見られてもないものはないのだからしょうがない。

「お前ってそういうとこ鈍いタイプだったりするのか?」呆れ顔で江島が言った。

「知るか」だんだんこの話が面倒臭くなってきて、テキトーに言葉を返した。

「宗平はお姉さんのこと以外眼中にないんだよ」

「あー、シスコンの手本みたいな奴だもんな、お前」

「そういえばそうか」

 公康の放った爆弾発言に、得心がいったとばかりに頷く江島と国彦。ある意味では正しいのだが、多分この二人が認識している事実と実態には、似て非なる違いがあるのは言うまでもないだろう。

「別にそういう訳でもねえよ」一応名誉のために反論だけはしておく。「俺は年上が好きなんだ」

 間違ったことは言ってない。が、彼らには苦し紛れの言い訳に聞こえたようで、適当にあしらわれてしまった。

「あ、そうだ。そいうえばさ、宗平の家にそのお姉さんの友達が泊まりに来てるらしくて」

「へえ、あの美人のお友達、となるとやっぱり?」と国彦。

「もしかして、あの相川さんか?」と江島。

「あれ、江島くんは知ってるの?」

「いや、北高に行った先輩から、練習試合の度にとんでもない美人二人組が試合を見に来るって聞いてて。その名前が相川と三島。三島方は多分こいつの姉貴だろうから、つまりそうなんだろうな、と」

「江島って妙に詳しいよな、そういうの」感心したように国彦が言う。「お、雪だ」

 ぱらぱらと雪が降り始めた。それをきっかけに雑談は終了して、俺と公彦はさっさと道具を片付け始めた。「やべぇ、そういえば昼から用事があったんだ」と国彦は慌てて帰り支度を始め、気が付くと江島も居なくなっていた。


「多分だけど、文化祭の準備あったでしょ。あれだと思うんだよなぁ」

 校門を出たところで公彦が独り言のように呟いた。

「なにが」

「夏井が宗平に惚れた理由」大まじめに彼は言う。「自分が係りって訳でもないのによく手伝ってたし」

「あれは不可抗力って奴だよ」

 今年の文化祭で、うちのクラスはお化け屋敷をすることになった。特にこれといったトラブルもなく準備の方は滞りなく進んでいたのだが、文化祭一週間前になって、突然クラスで風邪が大流行した。自分の持ち場でだけ仕事をしていたのでは到底間に合わないぞ、という降って湧いた緊急事態に、他のクラスから応援を呼んで来たりしてなんとかその場を凌ぐことが出来た。俺はお化け屋敷のセットを作る班に割り振られていたのだが、大工の息子が居てくれたおかげでそこでやることはもう殆どなかった。だからあまり進捗状況の宜しくなかった衣装作りを手伝うことになったのだ。そこで孤軍奮闘していたのが夏井だった。

「困っていたところに颯爽とやってきて、びっくりするくらい手際よく手助けをしてくれた、っていうそれだけで理由にはなるとは思うんだけど」

「男が裁縫してるのに惚れるか?」

「判らないよー。最近はそういうのが良いってのも聞くし」

「どこ情報だよ、それ」

「さあ? ていうか、それよりも困ってるところを助けて貰ったっていうのが重要なんじゃないかな」それに、と公康は可笑しそうに、「いっつも席替えしたら隣同士になるじゃないか。そういうところで何か運命を感じたっていうのもありそうかな」

「なんだよそれ」俺も吹き出してしまう。「けど確かにあれは何かあるなって思ってもしかたないな」

 何せ一年の時から夏井とは、ずっと席が隣同士なのだ。籤を引く度にそうなるのだから、何かしら、運命の悪戯が働いているとしか考えられない。恐らくこの偶然がなければ俺と夏井が友人同士になるなんてことはなかったんじゃないかと思う。

「まあ宗平はお姉さん以外の人には興味ないみたいだしね」

「うるせー。けど怜は俺の姉さんなんだから、そういうのじゃ駄目なんだよ」

「でも血が繋がってる訳でもないんだし」

「駄目なんだよ。怜がそういう風にしようって頑張ってるから。台無しに出来るわけないじゃんか」

「そっか。大変なんだね」

「まあな」と、そこで俺はふとさくらさんのことを思い出す。「そう、大変なのがもう一つ」

「お姉さんの友達のこと?」

「鋭いな、お前」

「何年幼馴染みやってると思ってるんだよ。宗平の考えてることくらい言われなくてもなんとなく判るって」

「なんとなくかよ」

「ていうかさっき自分で話したじゃん」

「そういえばそうか」

「それで?」

「いや、どうしたらいいかなあって」

「どうするもこうするも、流石にそれは本人次第なんじゃないかな。だって他所の家庭のことに口出し出来ないし」

「だよなあ」

 そうなのだ。あくまでこれはさくらさんの家の事情であって、俺が深く立ち入ってとやかくいえる話ではないのだ。ましてや俺はまだ中学生だ。俺の言葉に一体どれほどの力が、説得力があるというのか。

 二人でうんうん唸りながら曲がり角を曲がったところで、「あっ」という声が目の前から聞こえて顔を上げると、さくらさんがそこに居た。紺色のセーラー服を身に纏い、肩に通学用の鞄を提げている。

「知り合い?」公康が言った。

「知り合いというか」

「もしかして」

 察しが良い親友で助かる。俺は頷いて、それからさくらさんに「奇偶ですね」と言った。

「そうね」と彼女はそっけなく答える。「ちょうどあなたに用事があったから。わざわざあなたの学校まで行く手間が省けたわ」

「あ、そういえば今日用事があったんだ」急にわざとらしい声で公康が言った。振り向くと悪戯っぽい笑みを浮かべて、「じゃあ先に帰ってるね」と言い残し走り去っていった。

「今の子は?」とさくらさん。

「俺の親友です」

「いいお友達ね」

「ええ。それで、用事ってなんですか?」

「いえ、その。ちゃんと真剣に話し合ってみたの。そしたら、なんとか小説家になることは認めて貰えて」

「そうなんですか。良かったですね」

「うん。それで、なんだけど」言いにくそうに口ごもる。心なしか、頬が紅く染まっている。「宗平君のアドバイス、っていうか背中を叩いて押し出してくれたからだと思うの。上手く行ったのは。だから、そのお礼がしたくって」

「そんなの、別にいいですよ」

「いえ、させてちょうだい。じゃないと私の気が済まないから」

「じゃあ一回家に帰ってからでいいですか?」

 練習用のユニフォームは、グラウンドが濡れていたこともあってどろどろに汚れてしまっている。それでなくても汗をかいているし、なによりこんな姿ででかけるのは何か場違いだ。

「ああ、ごめんなさい。気が利かなくて」さくらさんは本当に申し訳なさそうにしていた。どうしてそんなに大げさなんだろう、と疑問に思ったが聞いてどうなることでもないのでなにも言いはしなかった。

 それから俺は帰路に着いた。隣を歩くさくらさんは、なにも話しかけてこないが、しかし何か言いたそうにこちらをちらちらとみることがあった。

「どうしたんですか?」

 俺が訊ねると彼女は焦ったように、視線をそらした。そのまま何事もなかったかのように黙り込むのかと思いきや、「普段と雰囲気が違うから」とこぼした。

「雰囲気ですか?」

「意外とかっこいいんだなあ、って」

「なんですかそれ」俺は苦笑した。

 さくらさんは照れ隠しのように笑って、「なんでしょうね」

「さくらさんも、雰囲気いつもと違いますね」

「そう?」少しだけ彼女の目が動揺したように揺れた。

「前髪の分け方がいつもと違う、のかな」

 さくらさんは驚いたように目を見開いた。「判るの?」

「なんとなくそんな感じがしたってだけだったんですけど」

「うん。正解。昨日、転んでおでこを柱にぶつけちゃったのよ。それでたんこぶができてしまったから」そういって彼女は前髪を持ち上げた。確かに気の毒なくらいはっきりとおでこの、髪の生え際あたりが腫れていた。

「大丈夫なんですか? それ」

「心配してくれてありがと」さくらさんはなぜかうれしそうだ。「ちょっと腫れてるだけだから大丈夫よ」

「けど、そんなに。あ、もしかして」

「そのもしかしては多分間違ってるから、余計な心配も無用よ」

 父親と言い争いになって、それで手を挙げられたんじゃないかと心配したのだけれど、言う前に本人に否定されてしまった。

 家に着くと、俺はさくらさんをリビングで待たせて、着替えを用意してから浴室に向かった。

 熱いシャワーを頭から浴びていると脳裏に先ほどみたばかりのさくらさんの顔が浮かび上がってくる。照れたように笑う顔。嬉しそうな表情。俺の心配を杞憂だと切り捨てた時の少し慌てた顔。それらのすべてが鮮やかに頭の中で咲き乱れる。

 胸が高鳴っていた。俺は同じ感覚を知っていた。怜のことがどうしようもなく愛おしい時、同じように何気ない相手の姿が、一挙手一投足が、色鮮やかに脳裏によみがえり、胸が高鳴り、同時に息ができないほどに苦しくなる。

 シャワーを止めたとき、俺の中に一つの確信が浮かび上がっていた。それは疑いようのないほどに強固な真実だった。

 俺はさくらさんに惹かれている。

 正直戸惑いは大きい。まさか怜以外の女性に心を奪われることになるなんて、考えたこともなかったからだ。けど、これでいいのだろう。これでやっと、怜のことを諦められる。

 服を着替えてリビングに向かう。さくらさんはソファに腰掛け、文庫本を読んでいた。本から顔を上げた彼女と目があった瞬間、俺はかけようと思っていた言葉を見失ってしまった。もう見慣れているはずの彼女の顔が、先ほどまでとはまったくの別人のように思えたからだ。

 まるで違う。客観的にみれば怜の方が美人なはずなのに、いまはさくらさんこそがこの世界で最も美しい存在であるように思えて、頭が酷く混乱していた。

 扉を開けたままの姿で突っ立っている俺をおかしく思ったのか、さくらさんは不思議そうに「どうしたの?」と首を傾げる。

「いえ、その、なんでもないです」

「そう。ならいいの。てっきり私、何かおかしなことをしてるんじゃないかと思って」

「そんなことないですよ。さくらさんはいつも通り綺麗だし」

「ふぇっ?」急に間抜けな声を出して、さくらさんは固まってしまった。俺も自分が言ったことを改めて頭の中で繰り返してみて、恥ずかしくて死にたくなった。なにを言ってるんだ俺は。

「あ、あの、宗平君」目を白黒させながらさくらさんは「私って、綺麗なの?」

「はい。とっても」

「怜よりも?」

「はい」

「ほ、本当に?」

 今度は無言でうなずいた。

「怜よりも……」そうつぶやいた彼女は、心ここにあらずと言った様子で、ぼんやりと熱っぽい目で俺を見つめていた。

 その姿に俺は、何ともいえない艶やかさを覚え、心拍数が高くなるのを感じていた。耳のすぐ後ろで、どくどくと鼓動が響いている。

 俺はまるで、彼女の目に引き寄せられるかのように、ソファの方へと歩き出していた。

 俺が目の前にたつと、彼女の目の色が僅かに変化した。期待と不安の入り交じったそれが求めている物がなんなのか。俺は一度唾をごくりと飲み込んでから、彼女の両肩に、手を置いた。彼女の大きくてつぶらな、潤んだ瞳が目の前にある。赤く染まった頬。紅色の瑞々しい唇は、恥じらうように遠慮がちに突き出されていた。そこに自分の唇を、慎重に重ね合わせた。柔らかい。そう思った。ファーストキスの味、なんて物はよく判らない。けれど確かな感触だけはしっかりと唇に残った。ふれあっていた時間は五秒にも満たないだろう。本当に唇を重ね合っただけのキスだった。けれどいまの俺たちにはそれで十分だった。それだけで、今まで互いの間にあったいくつ物壁をすべて取り払ってしまえたような。確実に、キスの前と後では世界の見え方が変わってしまっていた。

 俺たちは並んでソファに座り、しばらくなにも話さなかった。何せキスなんてしたことがなかったから、この後なにを話せばいいのか判らなかったのだ。沈黙がだんだん気まずくなってきた頃、さくらさんが「ねえ」と話しかけてきた。「もう一度、してくれないかしら」

 赤面した顔を隠すように俯き、指先でスカートの裾を弄ぶその姿に、俺は思わず唾を飲み込んだ。どうしようもないほどに愛おしく、同時に目の前に咲く可憐な花をめちゃくちゃにしたい衝動が沸き上がってきたからだ。鼓動がさらに高鳴る。

「さくらさん」

 俺が呼ぶと、彼女は遠慮がちに顔を上げた。その瞬間に、俺は彼女の唇を奪い去るように、強引に唇を重ね合わせた。

 抱きすくめた腕の中で、抵抗するように身じろぎする。くぐもった声が、鼻息に混じって聞こえて来る。けれど彼女は俺を突き放そうとはしなかった。それどころか俺の背中に腕を回し、息苦しくなるほど強く抱きついてきた。抱き合ったまま、ソファの上に倒れ込む。勢いよく倒れてしまったので、その拍子に唇が離れた。

 荒い息をお互い吐きながら見つめ合っていると急におかしくなってきて、俺はぷっと噴き出し、彼女はくすりと笑み、すぐに耐えきれなくなって笑い転げた。

「ねえ宗平君」笑いすぎてにじんだ涙を拭いながら彼女は、「キスって友達同士でするようなことじゃないわよね」

「多分」

「私ってね、結構勘違いし易いタイプなの」

「俺は、どうでしょうね」

「それに、男の子に対する耐性みたいなのがすごく低いの。ちょっと気になってる相手に優しくされたらそれだけで、自分のこと好きなんじゃないかって思っちゃうくらいに」

「俺は好きですよ。さくらさんのこと」

「……私も、宗平君のことが好き。でも、変じゃないかな。だって私、三つも年上だし」

「関係ないんじゃないですか。それにほら、さくらさんって小柄だから、一緒にいると案外年齢差とか判らないかも」

「そう?」

「多分」

「背が低いのも、たまにはいいことがあるのね」

「もしかして気にしてました?」

「まあ。特に怜と一緒にいると。あの子結構大きいでしょ? 二人で出かけたりすると姉妹に見られてるんじゃないかとか心配になったりするのよね」

 確かに怜は170ちょいある俺と身長がそう変わらないので、女性の中では背が高い部類にはいる。なるほど、二人が一緒に歩いているところを思い浮かべてみると、そう見えなくもない。

「そういえば怜は?」不意にさくらさんが言った。

「昨日、というか今日の明け方くらいまで起きてたみたいだから、多分まだ寝てるんじゃないかなあ」

「もうお昼過ぎよ」驚いた様にさくらさんは言った。

「いつものことですから」俺は苦笑する。けれどそろそろ起きてくる頃だろう。何か食べる物を用意しておいた方がいいだろう。怜は寝起きからがっつり食べるタイプだから。ついでにお昼ご飯も作ってしまおう。

「そういえば、さくらさん。お昼食べました?」

「いえ、まだだけど」

「じゃあうちで食べて行きます?」

「え? いえ、その」

「もしかしてこの後何か用事があるとか」

「そう言うわけじゃないんだけど」

「遠慮なんてしなくていいですよ。それじゃあ作ってきますんで、待っててください」

 冷蔵庫を一通り眺めてから、パスタがあることを確認して、ナポリタンを作ることにした。

 パスタを茹でながら、オリーブオイルでタマネギとピーマンを炒めていると匂いに釣られて目が覚めたのか、怜が台所にやってきた。

「お昼なに?」寝起き然としたけだるそうな声だ。

「ナポリタン」

「ベーコンは沢山入れてね」

「判ってる」

「あと、なんでさくらが居るの?」

「帰りに偶然出会って」

「そうちゃん。さくらと何かあった?」

「どうして?」

「さくらの雰囲気がいつもと違う。それにそうちゃんも、よく判らないけど楽しそう」

 彼女の鋭さに俺は少なからず同様して、パスタを茹でている鍋がふきこぼれそうになっているの危うくを見逃すところだった。あわてて火加減を調整して、なんとか最悪の事態は回避できた。

 ことが落ち着いたのを見計らい彼女は言葉を続けた。「私は応援してるから」そう言って椅子に着き、テーブルに突っ伏した。「二人のこと」

 俺は茹であがったパスタをソースに絡めながら、怜がいまどんな表情をしているのか、ずっと考えていた。きっと笑顔ではないだろう。泣いている訳でもないだろう。まだどんな顔をしていいか判らずに、戸惑っているに違いない。だからきっと人形のように表情を殺して、閉じた瞼の裏に広がっている闇を見つめているのだろう。そんな彼女にかけてやれる言葉を、今の俺は持ち合わせてはいなかった。ただ何度も、これでいいんだ。そう自分に言い聞かせながら、ケチャップの赤に染まっていくパスタを見つめていた。

 

 食事を終えるとすぐに怜は自室に戻っていった。

 またさくらさんと二人きりになる。

「ありがとう。美味しかったわ」彼女は言った。「宗平君ってお料理得意なのね」

「得意っていうか、あれですね。両親が共働きで、遅くなることが多かったから、自然と料理を覚えていったっていうか」

「怜は作らないの?」

「台所に立たせたらだめな人種ですから」

「私と同じね」

「さくらさんもですか」

「レシピ通りに作ってるはずなのに、ちゃんとした物が作れないのよね。どうなってるのかしら」

 それは多分ちゃんとレシピ通りに作れていないだけなんじゃないだろうか。と思ったけどいちいち指摘するのも野暮な気がしたので愛想笑いで流しておいた。

「で、宗平君。この前のお礼をしたいって話だけど」

「あ、そういえばそもそもそれが目的でしたっけ」

「明日、その、で、デートしない?」

「明日、ですか?」

 ちょうど明日は練習が休みなので、一日中空いている。

「大丈夫ですよ。待ち合わせ場所はどこにします?」

「あの丘の上で」

「あそこですか?」

 さくらさんはこくりと頷いた。「あそこがいいの」

 上目遣いで懇願されては、ちょっと遠いんじゃないか、などという異論も吹き飛んでしまう。

「判りました。で、何時くらいにします?」

「9時」

「結構早いですね」

「じゃあもうちょっと遅くする?」

「いえ、さくらさんがその時間が良いっていうなら、俺も九時に間に合うように行きます」

「明日は一日中、あなたと一緒に居たいの。お礼っていうより、私のエゴなんだけど。それでもいい?」

「もちろんですよ」

「宗平君」

「はい」

「好き」



 まだ朝霧が茫洋と町並みを飲み込んでいた。白く濁った大気の彼方で、太陽が丸く浮かんでいるのが見えた。自転車をこぎながら俺はあの丘を目指す。霧で濡れた前髪がおでこに張り付く度に、早く待ち合わせ場所に着きたいと思った。さくらさんもこの霧の中、あの場所へ向かっているのだろうか。あるいはもう到着していて、霧に沈んだ眼下の風景を見下ろしながら、寒さに震えているかもしれない。そう思うとペダルを漕ぐ足に一層力が入った。

 息を切らせながら最後の坂を駆け上がり、頂上に到着したところで自転車から降りた。膝に手を着いて呼吸をただしながら東屋へ目を向けた。そばにさくらさんの自転車が停まっているのが見えた。どうやら先に着て居たらしい。自転車を押して東屋へと向かう。

「すみません。遅くなって」

 俺が言うと彼女は、くすりと笑い、「いいの。時間に遅れたわけでもないし、ただ私が早く来ただけだから」

「いえ、でも待たせてしまったのは事実ですし」

「宗平君。私はね、待ちたかったの」

「え?」

「いつも私はあなたが来るのを待ちながら、そわそわしたり、いろいろ妄想したり。そういう時間が好きなの」

 ちょっと変でしょ? と彼女は照れ隠しのように苦笑する。

「確かにちょっと変かもしれないですね」俺は言う。「けど、かわいいかも」

「ふぇ?」瞬間的に顔が赤くなる。そして恨めしそうに、「そういうのは反則だと思うわ」

 あははと笑って俺はさくらさんの隣に座った。何気なく腰掛けたのだが、彼女は何か不満げな顔をしていた。その原因が分からずに困惑していると、指先で、とんとん、と二人の間にあった隙間を叩いた。

 それでようやく原因が分かり、その隙間を埋めるついでに体を密着させた。するとさくらさんは満足そうに頬をゆるめ、俺の腕に抱きついた。

「あったかい」幸せそうに彼女はつぶやいた。「今日はこのままずっと、日が暮れるまでこうしていたい」

 俺は反対側の手で彼女の頭を撫でた。くすぐったそうに目を細める彼女は、まるで猫の様だ。

 そうして俺たちは何をする訳でもなく、寄り添いあって穏やかな時間を過ごした。

 そして太陽が空の真ん中に至った頃、俺たちは丘を降りて街へと向かった。

「お昼、どこが良いかしら」

「お任せしますよ。俺、あんまり外食しないんで判らないですし」

 彼女につれられてやってきたのは商店街にある喫茶店だった。赤煉瓦の外観が寂れた町並みのなかで一際異彩を放っていた。

「こんなところあったんですね」

 俺が言うと彼女は「知らなかった?」と驚いて見せた。「怜とよく来るんだけど」

「いえ、全く」

「そうなの。まあいいわ。それより早く入りましょう」

 店内の暖房が、冷えた体には心地よい。店内の照明は暖色系で、光量は控えめ。耳に邪魔にならない程度の音量で流れている店内のBGMはどこかで聞いたことのあるメロディのジャズだ。けれど詳しくないので誰が演奏しているどの曲なのかは判らなかった。

 俺たちは一番奥の、角にある席に座った。メニューの冊子を開いていると、ウェイタがお冷やを持ってきた。

「ご注文はおきまりでしょうか」

 俺はさくらさんを見た。

「私のおすすめでいい?」

 俺は頷いた。彼女は「じゃあ」と言ってメニューを指しながら注文を告げた。ウェイタが一礼して去ってゆく。

 その一部始終を、俺は感心しながら見守っていた。

「どうかしたの?」

「この前怜が言ってたじゃないですか。一人でファミレスで注文もできないクセに、とか」

「あああれ」さくらさんはばつが悪そうに苦笑する。「ここは常連だし、マスターが顔見知りだから大丈夫なの」

「じゃあ本当に?」

「宗平君には信じられないだろうけど、私って本当にどうかしてるんじゃないかと思うくらい人見知りなの」

「全然そんな風に見えないですね。最初に俺が話しかけた時だって、動じてる風でもなかったし」

「自分でも不思議なの。普段の私だったら、あんなところで見も知らない男の子に声かけられたら、怖くて一言も言葉を発せられなかったと思う。でもなぜだか宗平君のことは大丈夫だったの。むしろ安心したっていうか」

「不思議ですね」

「もしかしたらこれが運命とか言う物なのかもしれないわね」

「なんですかそれ」

「宗平君は信じてない? こういうの」

 どうだろう。けれど運命の悪戯にならこれまで何度も出逢ってきているからそう言う物があると言われればなんとなくそうなのかもしれない、と思える部分もある。

「私はね、ちょっとバカっぽい話だけど、いつか自分を迎えに来てくれる人が目の前に現れるんじゃないか、ってずっと思ってた」

「ロマンチストなんですね」

「妄想好きなだけよ」話していて恥ずかしいのか、おしぼりを両手で弄りながら、「だから、私は思うの。宗平君がそういう運命の人だったんじゃないかなって」

「俺が、ですか」

 さくらさんは頷いた。「だって、現にこうして、私たちは同じ時間を過ごしているんだもの」

 恋する乙女。そう形容するに相応しい、夢見がちな彼女の姿に、少なからず驚いていた。

 クールで理知的で凛々しい。そんな印象を抱いていたのだが、実際のところはとても可愛らしい人なのかもしれない。俺はもっとさくらさんのことが知りたくなった。何もかもを知り尽くしたい。彼女を自分だけの物にしたい。

「宗平君にとって運命の人も私なのかな」

 その言葉に、不意に怜の姿が脳裏をよぎった。俺にとっての運命の人。それはもしかしたら怜だったのかもしれない。

「もしかして」急に不機嫌そうな目になってさくらさんは、「怜のこと考えてる?」

「そ、そんなことはないですよ」

 焦って否定したが、図星だと言わんばかりのその態度が気に障ったのか、彼女はぷい、と顔を背けて拗ねてしまった。

「怜のブラコンっぷりもそうだけど、宗平君もたいがいよね」

「えっと、それは……」

「私は宗平君の中で、一番になれないのかな」寂しそうに彼女は言う。

「そんなことはないです。その、多分」

「いいわよ。無理しなくても」彼女の指が、お冷やのグラスの縁をなぞった。「だったら私は二番目でもいい。あなたに愛してもらえるならばね」

 運ばれてきた料理はパエリアだった。海老や貝などのシーフードがふんだんに使われたそれはパエリア鍋の中で色鮮やかに視覚から食欲を刺激する。香辛料とニンニク、それに磯の香りが混じった匂いがまた堪らない。小皿に取り分けて、一口食べるとその香りは一層強く、口腔を満たし鼻腔を甘美させた。よくスープのしみこんだお米の触感も、堅すぎず柔らかすぎず、ちょうど良い歯ごたえで、ちゃんとしたお店だからジャポニカ米などは使っていないのだろう。家にある米で作ってもこうは行かない。

「どう? 美味しいでしょ?」

「流石、さくらさんがおすすめするだけありますね」

「ここのマスターね、昔イタリア料理とかエスニック料理とかを勉強するために欧州を渡り歩いて修行してた人なの」

 なるほど、と先ほど見たメニューの冊子を思い出していた。喫茶店にしてはやたらとイタリアンやエスニック料理が多いと思ったのだが、これで得心が行った。

「そういえば顔見知りって言ってましたけど」

「うん。私の叔父なの」

「へえ」

「叔父もね、家の反対を押し切って料理人になった人だから」

「ちょっと憧れてたり」

 照れ笑いを浮かべながらさくらさんは頷いた。「自分もこういう生き方ができたらいいなって、思ったことは何度かあるわね」

「その一歩を、ようやく踏みだそうとしている訳ですね」

「そうね。私も叔父みたいにしっかりと自分の足で立って、生きてるようにならないと。隣にはあなたもいるのだし」言ってから彼女は、目を白黒させて「私何言ってるんだろ」ごまかすようにお冷やを一口飲んだ。「最後のはなし。いえ、なしではないけど。その、まだ早いわね、流石に。だってまだ二日目だし。私もあなたも、まだ学生だし。ってだから何言ってるのよ私は」

「さくらさん」

「だいたいこの先もずっと一緒に居られるかなんて判らないのに。なに浮かれてるのかしら」

「さくらさん」もう一度、今度は強く呼びかけてみた。彼女の肩がびくっとふるえた。ようやく現実に帰って来たらしい。

「冷めないうちに食べましょう。せっかくのおいしい料理なんですし」

「そうね。でも、あの宗平君。引いてない?」

「そんなことはないですよ。むしろ可愛いなあって。よけい好きになったかもしれません」

「そういう恥ずかしくなることを真顔で言うの、やめてくれないかしら」

「自分の方がよっぽど恥ずかしいこと言ってましたよ」俺は笑って言った。

「いやー、やめて」頭を抱える仕草をして彼女は、「さっきのは忘れてちょうだい。っていうのはなし?」

「ばっちり覚えてますから無理ですね」

「あなた相当意地悪な人ね」

「怜とかにもよく言われます」

「うぅ」

「良いじゃないですか。どのみち、これからお互いのだめな部分とか恥ずかしい部分とかも、見せなきゃならなくなるんですし」

 涙目でにらんでくる彼女を見ていると、嗜虐心がくすぐられて意地悪なことをもっと言いたくなる。

 さくらさんは大きくため息をついた。「なんだか私が年下なんじゃないかって思えてきた」

 食事を終え、店を出た俺たちはゆくあてもなくぶらぶらと歩いていた。

 さくらさんは俺の腕に抱きついたまま、体をぴったりと密着させて、何かに怯える小動物のように小さくなっていた。

「寒いんですか?」

「暖かいからこうしてるのよ」

「はあ」

「さっき言ったでしょ。人見知りだって」

「通行人が怖いとか」

「じゃなくてすごく恥ずかしいの」

「恥ずかしい?」

「宗平君は平気なの?」

「いえ、まあちょっと気恥ずかしい感じはしますけど」実は怜と二人で出かけた時に、よく彼女がこんな風に抱きついてくるから慣れてる、なんてことは口が裂けてもいえないな。そんなことを言ったらまだ拗ねてしまう。

「でもこんな風に抱きついてる方が傍目からしたら余計に恥ずかしい気もしますけど」

「こうしてたら顔が見えないでしょ? それにすごく安心するから。宗平君の匂いっていうのかな。こうしてぎゅってして胸一杯に空気を吸うと、とっても穏やかな気持ちになって満たされるの」

「匂い、ですか。それって喜んでいいんでしょうか」

「私をこんな風に安心させてくれるのはあなただけよ?」

「じゃあ、誇りに思います」

「あ、ねえ。宗平君あそこ」と彼女が指さした先にはバッティングセンターがあった。

「バッセンですか」食後のはらごなしにはちょうど良いかもしれない。財布をとりだして中をみた。確かここで使えるメダルが何枚か余ってたはずだ。

「どうしたの?」

「三回分はただでいけますね」財布からとりだしたメダルを手のひらで弄びながら俺は言った。

 一応新たに2枚メダルを購入してジャケットのポケットにつっこんだ。

「ねえ、宗平君。100km/hって速いの?」

「慣れてないと結構速いですよ」

「じゃあ80km/hにしましょう」

「さくらさんも打つんですか?」

「当然でしょ。こう見えても私、運動は得意なんだから」

 その言葉は本当だったようで、彼女は80km/hのボールを難なく打ち返していた。しかもなぜかプロ野球選手のフォームをマネながら。足を上げ、テイクバックと同時にのけぞるように体重移動させながら、しかし軸足を踏ん張り、力強く踏み込み強い打球を飛ばすその奇っ怪なフォームはまさしく畠山。

 全球打ち終わった彼女は満足そうにブースからできた。

「どうだった?」

「すごかったですけど、なんでそのフォームなんですか?」

「ファンだから」

 実に率直な答えだ。

 その後俺はカッコつけようとして140キロの硬球に挑んだがまともに打てずにブースをでた。出てきた俺にさくらさんは「すごくかっこわるかったわよ」と先ほどのお返しだ、と言わんばかりの笑顔で迎えてくれた。ムキになった俺は何度か再挑戦をして、ようやくタイミングが合ってきたところでメダルがなくなってしまった。

 お疲れさま、とさくらさんが差し出した蒸しタオルを受け取りながら、もうもう一ゲームやろうかと思ったが、手を見るとマメがつぶれかけていたので諦めた。

 くすくすと隣でさくらさんが笑った。

 むっとしながら俺は「なんですか」

「いえ、やっぱり年下の男の子なんだなって」

「ええ、そりゃまあそうですけど」

「あんなにムキになって。ちょっと可愛かったわよ」

「それ褒めてます?」

「さあ?」と肩をすくめて「でもお姉さんの母性本能は大いに擽られたわよ」

 恥ずかしくなってぷい、と顔を背けるとまた笑い声が聞こえてきた。

「恥ずかしいでしょ。可愛いって言われる度に渡しもすごく恥ずかしかったんだから」

 してやったり、と彼女の顔に大きく書いてある。しかしこのままやられっぱなしというのも性に合わない。

「判りました。じゃあこれからはなるべく可愛い、とかそういうことは言わないようにします」

「へ?」その目に確かな焦りの色が浮かんでいた。

「さくらさんが嫌だというなら仕方ありませんね」

「いえ、別に嫌、というわけではないのだけれど。ただちょっと恥ずかしいだけで、むしろそう言ってくれるのはすごくうれしいっていうかーー」そこで俺の意図に気がついたらしい。彼女の顔が一瞬で茹で蛸のように顔を真っ赤になる。「バカ」そう言って彼女はうつむいてしまった。そんな姿がまらなく愛おしくて俺は彼女を強く抱き寄せた。

「やっぱりさくらさんって可愛い」

「ばか」腕のなかで彼女が小さく応えた。

 


 街を歩いているとそこかしこにクリスマスの前触れが見て取れる。普段はみない少し派手な電飾であったり、子供の背丈ほどの樅の木のレプリカであったり。あるいは店から流れてくるBGMもそれらしい物に変わっているところが多い。思えば学校の方も期末テストが終了して、あとは冬休みを待つばかりとなっている。

「クリスマスか」さくらさんも同じことを考えていたのかぼんやりとした表情で町並みを眺めていた。

「来週ですね」

「もうそんな時期なのね」

 夕闇が辺りを覆っている。もうすぐ夜になる。家に帰らなければ、今日も両親が帰ってこないから、俺が食事を作らないといけない。

「ずっとこうしていたいのに。時間って残酷ね」

 街路樹のそばにあるベンチに座り、俺たちは肩を寄せ合っていた。

「そうですね」

「ねえ宗平君。クリスマスイブ、予定空いてる?」

「今のところ特には」

「じゃあ、あの丘で落ち合いましょう」

「いいですよ」

「時間は、そうね。夜が良いわね。いつもあなたがジョギングで来る時間がいいわ」

「結構遅いですよ」

「あそこで夜を明かしましょう。二人で一つの毛布にくるまって」

「寒いと思いますよ」

「大丈夫よ。こんな風に寄り添い合っていれば、きっと寒さなんて平気」

 完全に夜の帳が降りた頃、俺たちはベンチから離れ、駐輪場に自転車を取りに向かった。

「ここでお別れね」彼女が言った。

「寒いから、風邪とか引かないように気をつけてくださいね」俺は言った。

「宗平君もね」くすっとさくらさんは笑った。「それじゃあまた、クリスマスに合いましょう」

「ええ」



 予想に反して玄関先での出迎えはなかった。リビングの電気はついているみたいなので、テレビでも見ているのかもしれない。

 ドアを開けようとして、躊躇いがその手をとどまらせた。今日、さくらさんとデートに行くことは怜に伝えてあった。もしかしたらいつもは出迎えてくれる彼女がこなかったのも、それが原因なのかもしれない。

 じゃあ一体どんな顔をして彼女に会えばいいんだろう。突然そんな疑問が脳裏を過ぎる。

 廊下に突っ立って居ると、不意にドアノブが動いた。俺は慌ててドアの前から飛び退いた。

「おかえり」不思議そうな顔で怜が俺を見ていた。

「た、ただいま」

「どうだった?」

「え?」

「さくらとデートしたんでしょ?」そう言って怜は首を傾げた。「もしかして失敗した?」

「いや、そんなことは全然。むしろ大成功だった」

 俺の答えを聞いて彼女は「よかった」と胸をなで下ろした。「心配だったんだから。そうちゃんはちょっと鈍いところあるし、さくらは人見知りだしで」

「問題はなかったよ。さくらさんも俺相手なら大丈夫だそうだし」

「そっか。で、ちゃんと次のデートの約束はしたの?」

「ああ、クリスマスイブの夜に会う約束をしたぞ」

「へえ、やるじゃない。頑張ってね。応援してるから」

 やはり彼女は少し無理をしているところがあるように見えた。

 俺もきっと自然には振る舞えていないだろう。罪悪感というのだろうか。彼女を置き去りにして自分だけが幸せになろうとしていることに後ろめたさを覚えていた。

 でもこれでいいのかもしれない。こうやって少しずつ慣れていけばいい。怜にだってきっと良い人が現れるに違いない。その時は、俺は全力で応援してやろうと思う。

 怜にせかされて俺は台所へ向かう。今日の夕飯は何にしようか。冷蔵庫をのぞき込みながら、今日の出来事を思い出して、にやけてしまうのをどうしても抑えられなかった。男の俺がにやけながら料理を作っている姿は、きっと滑稽だったに違いない。それでもかまわない。俺はいまとても幸せなのだから。


                   了



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