第7話「蕎麦が食べたい、と書いてありました」
光が消えて、足の下に石の床があった。
冷たかった。天界の磨かれた白い石とは違う。黒く、ざらついた、見覚えのある石だった。
玉座の間だった。
田中は立っていた。ひとりで。
天井は高く、暗かった。燭台の火が揺れていた。壁の紋章。柱の影。見慣れた場所だった。
田中は一歩、踏み出した。
足音が響いた。
そこで気づいた。
玉座の間が、きれいだった。
颯が来たとき、ここはもっと暗かった。埃もあった。燭台の火も半分は消えていた。
今は違った。床が磨かれていた。燭台は全部ついていた。
玉座の横に、花が置いてあった。
魔界の花だった。黒い花弁に赤い筋が入った、名前のわからない花。水を入れた壺に、丁寧に活けてあった。
田中はしばらく花を見ていた。
「……誰が」
言いかけたとき、玉座の間の横の扉が開いた。
入ってきたのは魔族だった。
体格は田中より小さいが、人間よりは大きい。灰色の肌。短い角。黄色い目。手に掃除用の布を持っていた。
魔族は田中を見た。
止まった。
布を落とした。
「——魔王様」
「あ、うん。ただいま」
魔族は動かなかった。3秒ほど動かなかった。それから振り返って、廊下に向かって叫んだ。
「魔王様がお戻りになった!!」
声が廊下に響いた。反響した。
足音が聞こえてきた。1つ。2つ。5つ。10。数えきれなくなった。
玉座の間に、魔族たちが集まってきた。
最初に来たのは、角の長い魔族だった。鎧を着ていた。兵士だった。次に来たのは小柄な魔族だった。厨房の前掛けをしていた。その後ろから、翼のある魔族、牙の長い魔族、目が3つある魔族。
次々に入ってきた。
全員が田中を見ていた。
田中は立っていた。何を言えばいいかわからなかった。
「……あの」
「魔王様!!」
最初に叫んだ灰色の魔族が、田中の前に走ってきた。
「ご無事でしたか!勇者が来た後、お姿が見えなくなって、皆で探して——」
「あ、うん。大丈夫。ちょっと天界に行ってて」
「天界」
「うん。用事があって」
魔族たちがざわついた。
「勇者に連れていかれたんですか」
「いや、連れていかれたというか、一緒に行ったというか」
「一緒に」
「うん。勇者の佐藤さんと」
ざわつきが大きくなった。
「……魔王様」
声が低かった。
魔族たちの後ろから、一人の魔族が歩いてきた。
背が高かった。田中とほぼ同じか、少し低いくらい。黒い肌に白い髪。目が鋭く、他の魔族とは明らかに雰囲気が違った。
「ガザン」と田中は言った。
ガザンは田中の前で立ち止まった。
「……お帰りなさいませ」
「うん。ただいま」
「勇者と天界に行かれたとのことですが」
「うん」
「ご説明いただけますか」
田中は少し考えた。
「長くなるけど、いい?」
「構いません」
田中は話し始めた。
転生ミスのこと。天界に乗り込んだこと。書類を書いたこと。行列に並んだこと。大臣に会ったこと。
ガザンは黙って聞いていた。他の魔族たちも聞いていた。
田中が話し終えると、しばらく静かだった。
「……つまり、魔王様は」
ガザンが言った。
「うん」
「本来は魔王ではなかった、と」
「そうなんだよね」
「農村に行くはずだった」
「うん」
「天界のミスで、ここに来た」
「うん」
「3年間」
「……うん」
ガザンはしばらく田中を見ていた。
「……それで、印鑑を取りに戻られたんですか」
「そう。転生先の変更手続きに、管理者の承認印が必要で」
「管理者というのは」
「魔王城の管理者。つまり俺」
「ご自身で、ご自身の転出届を承認される」
「そうなる」
ガザンの目が少し細くなった。
「……天界というところは、そういう場所ですか」
「そういう場所だった」
ガザンは何も言わなかった。
田中は玉座に向かって歩いた。引き出しに手をかけた。
開けた。
印鑑があった。登録証があった。
その隣に、紙が一枚あった。
田中は手を止めた。
紙を取り出した。
折りたたまれていた。表に「魔王様へ」と書いてあった。
開いた。
手紙ではなかった。書式だった。
「魔王城月次報告書(第1棟〜第7棟)」
報告者:ガザン(城務統括)
【城内状況】
・第1棟:異常なし。玉座の間の清掃は毎日実施。
・第2棟:兵士の交代勤務、通常通り。
・第3棟:厨房運営、通常通り。小麦粉の在庫が残り少ないため、発注申請書を別途添付。
・第4棟〜第7棟:異常なし。
【勤怠】
・病欠:2名(風邪)。有給申請:3名(承認済み)。
・遅刻:0名。
【その他】
・魔王様の不在中も朝礼は継続しております。
・回覧板は第7棟まで回っております。
・花は毎日替えております。
田中はしばらく報告書を見ていた。
「……ガザン」
「はい」
「これ、いつから書いてる」
「魔王様が不在になった翌日からです」
「毎月?」
「月次です。月次報告書ですので」
田中は報告書をもう一度読んだ。
「朝礼、やってくれてたんだ」
「魔王様が始められたので」
「回覧板も」
「魔王様が作られたので」
「有給申請の書式も」
「魔王様が導入されたものです」
田中は少し黙った。
「……俺、そんなことしてたっけ」
ガザンは少し間を置いた。
「されていました」
「なんか、自然にやってただけで」
「はい。自然にされていました」
ガザンは田中を見た。
「魔王様」
「うん」
「歴代の魔王で、朝礼をされた方はいません」
「そう?」
「部下の名前を覚えようとされた方も」
「普通に覚えたけど」
「回覧板も、有給も、月次報告も。すべて、魔王様が初めてです」
田中は何も言えなかった。普通にやっていただけだった。市役所でやっていたことを、そのまま。
「……ガザン」
「はい」
「歴代の魔王って、どんな人だったの」
ガザンは少し黙った。
「魔王様は、奥の部屋をご覧になったことがありますか」
「奥の部屋?」
「玉座の裏に、歴代魔王の私室がございます」
田中は振り返った。玉座の後ろの壁に、目立たない扉があった。
「……あったっけ」
「ございます。私が案内してもよろしいですか」
「うん」
ガザンが扉を開けた。
小さな部屋だった。窓がなく、壁際に棚があった。棚には古い書物や巻物が並んでいた。奥に小さな机と椅子があった。机の上に埃が積もっていた。この部屋だけ、誰も掃除していなかった。
「……ここは」
「歴代の魔王が使っていた部屋です。ここの物を動かすことは、代々禁じられています」
田中は棚に近づいた。
一番手前に、革の表紙の本があった。表紙に金字で書いてあった。
「魔王業務手引書」
田中は手に取った。開いた。
最初のページに、太い字で書いてあった。
「本書は、魔王としての基本的な振る舞いを記したものである。後任は必ず熟読のこと」
田中は次のページをめくった。
第一条 玉座には深く座ること。
浅く座ると威厳が3割減る(実測値)。
足は必ず組むこと。組まないと「疲れている」と思われる。
田中は自分の座り方を思い出した。普通に座っていた。背もたれに寄りかかることもあった。足は組んだり組まなかったりしていた。
第二条 勇者が来たら笑え。
推奨:「ファーハッハッハ」
非推奨:「ハハハ」(威厳不足)「フフフ」(不気味すぎる)
笑いの秒数は3秒以上5秒以内が適切。
田中は颯が来たときのことを思い出した。「あ、そう」と言った。笑っていない。
第三条 部下の名前は覚えなくてよい。
「者ども」で統一することを推奨する。
個別に名を呼ぶと威厳が損なわれる恐れあり。
田中は全員の名前を覚えていた。灰色の肌の魔族はレン。厨房の前掛けはモル。角の長い兵士はダグ。覚えようとしたわけではない。窓口にいたとき、来る人の名前を覚えるのは当然のことだった。
第四条 勇者との戦闘は第3形態まで用意すること。
第1形態で敗北した場合:報告書(様式A)を天界に提出。
第2形態で敗北した場合:報告書(様式B)を天界に提出。
第3形態で敗北した場合:報告書は不要。
なお、第3形態に変身する方法は各自で習得すること。
田中はページをめくる手を止めた。
「……第3形態って何」
「変身です」とガザンが言った。「歴代の魔王は戦闘時に姿を変えていました」
「俺、変身できないけど」
「存じております」
「知ってたんだ」
「はい」
「3年間、何も言わなかったね」
「言う必要がございませんでした。魔王様は戦闘をされませんでしたので」
田中は手引書を閉じた。
どの項目も、一つも実行していなかった。
「……ガザン」
「はい」
「俺、全部やってなかったんだね」
「はい」
「それでよかったの?」
ガザンは少し間を置いた。
「歴代の魔王は、この手引書の通りに振る舞いました。威厳を保ち、部下の名前を呼ばず、勇者が来れば笑い、戦い、倒し、また次の勇者を待ちました」
「……うん」
「魔王様は、何一つされませんでした」
「……うん」
「それでも——いえ、だからこそ、この城は回りました」
田中はしばらく黙っていた。
手引書を棚に戻した。
その隣に、別の本があった。
革の表紙ではなかった。紙を綴じただけの、薄い冊子だった。表紙に手書きで書いてあった。
「記録」
田中は手に取った。
日記だった。
日付はなかった。ただ、文章が並んでいた。
「今日も勇者が来た。3人目だ。倒した。また来るだろう。いつまで続くのかはわからない」
「部下に名前を聞いてみた。嬉しそうだった。手引書には覚えなくてよいと書いてあるが、聞いた方がいい気がする。なぜ今まで聞かなかったのだろう」
「今日は何もなかった。何もない日が一番長い」
「天界に問い合わせた。返事はなかった」
田中の手が止まった。
もう一度読んだ。
「天界に問い合わせた。返事はなかった」
次の行を読んだ。
「自分がなぜここにいるのか、聞きたかっただけだ。返事はないのだろう」
田中はページをめくった。
「書類を送った。転生先の変更を申請した。農村を希望した」
田中の指が、止まった。
農村。
田中と同じだった。
「書類は届いたのかわからない。返事はない。電話も繋がらない。もう何回かけたか覚えていない」
「手引書に書いてあることを全部やった。威厳を保った。笑い方を練習した。戦い方も覚えた。全部やった。でも、ここにいる理由がわからない」
田中はページをめくった。
字が変わっていた。最初のページより、少し丸くなっていた。疲れたのか、力が抜けたのか。
「部下の名前を全部覚えた。147人。覚えてよかった」
「今日、部下が花を持ってきた。きれいだった。こういうこともあるのか、と思った」
田中は顔を上げた。玉座の間の花を見た。
黒い花弁に赤い筋。
同じ花だった。
田中はまた日記に目を落とした。
「ここにいる理由が、わからなくなった。わからないまま、ここにいる。それだけだ」
最後のページだった。
余白に、小さく書いてあった。ほとんど読めないくらい小さく。
「蕎麦が食べたい」
田中は日記を閉じなかった。
その一行を、しばらく見ていた。
蕎麦。
魔界に蕎麦粉はない。田中はそれを知っている。この日記を書いた人も、知っていたのだろう。知っていて、書いた。最後のページの隅に。
「……ガザン」
「はい」
「この日記を書いた魔王、どんな人だった」
「私が仕えるよりも前の方です。直接は存じ上げません」
「いつ頃の人?」
「6代前かと。数百年前になります」
「……この人は、どうなったの」
「記録では、勇者に倒されたとあります」
田中は日記を見た。部下の名前を覚えた人。花をきれいだと思った人。蕎麦が食べたかった人。
天界に問い合わせて、返事がなかった人。
田中は日記の最初のページに戻った。
「記録」の文字の下に、さらに小さい文字があった。最初は読み飛ばしていた。
「この日記は処分してよい。ただし、手引書と一緒に残す場合は、次の方のために」
「次の方」ではなかった。
消して、書き直した跡があった。最初に書かれていた言葉が、うっすら透けていた。
「次の被害者」。
田中は日記を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
ガザンも何も言わなかった。
田中は日記を棚に戻した。丁寧に、元あった場所に。
部屋を出た。
玉座の間に戻ると、魔族たちがまだ立っていた。全員が田中を見ていた。
灰色の魔族——レンが、まだ掃除の布を拾っていなかった。厨房のモルが、手を前で組んで立っていた。兵士のダグが、直立していた。
「……みんな」
「はい」
「仕事、戻っていいよ。俺は用事が済んだらまた天界に戻るから」
誰も動かなかった。
「あの」とレンが言った。
「うん」
「魔王様は、戻ってこられるんですか」
田中は少し止まった。
「……どういう意味?」
「天界で手続きをされたら、魔王ではなくなるんですよね」
田中は答えられなかった。
印鑑を取りに来ることしか考えていなかった。手続きが終わったら、自分はどうなるのか。魔王でなくなったら、ここには——
「……転生先が変更になったら」
ガザンが言った。
「魔王様は農村に行かれるんですか」
「……たぶん」
「そうですか」
ガザンはそれだけ言った。
静かだった。
田中は玉座の間を見た。磨かれた床。灯された燭台。花。
「……ガザン」
「はい」
「花、きれいだね」
「ありがとうございます。第5棟の庭で、担当が毎朝摘んでおります」
「毎朝」
「魔王様がお好きだったので」
「俺、花が好きなんて言ったっけ」
「言われていません。ただ、以前お花を見て『きれいだな』とおっしゃったので」
田中は何も言えなかった。
一度だけ、何気なく言った言葉を、この人たちは覚えていた。
日記を書いたあの人も、花をきれいだと言った。数百年前に。
同じ花を見て。同じことを思って。
「……ありがとう」
「いえ」
田中は印鑑と登録証を鎧の内側にしまった。報告書も一緒にしまった。整理番号の紙と、そば打ちセットの書類と、申請書と処理票の隣に。
鎧の内側が、少し重くなった。
「……戻ります」
田中は言った。
「天界に、戻ります。手続きを終わらせてくるから」
「はい」
「終わったら——」
田中は言いかけて、止まった。
「終わったら?」とガザンが言った。
「……終わったら、報告します」
ガザンは小さく頷いた。
「お待ちしております」
田中は転送陣に向かった。エリエルが渡してくれた帰還申請書を取り出した。記入した。記入欄は少なかった。
田中は帰還申請書を転送陣の紋様の上に置いた。光り始めた。
「魔王様」
振り返った。
ガザンが立っていた。その後ろに、魔族たちが並んでいた。
「小麦粉の発注、どうしましょうか」
田中は一瞬、何を聞かれたかわからなかった。
「……え?」
「報告書に書いた件です。在庫が少ないので、発注の承認をいただきたいのですが」
田中は少し笑った。
「承認します」
「ありがとうございます」
転送陣の光が強くなった。
田中は光の中に立った。
最後に見えたのは、掃除の布を拾い上げたレンと、厨房に戻り始めたモルと、ガザンが小さく頭を下げる姿だった。
光が包んだ。
消えた。
玉座の間に、田中の姿はなかった。
花だけが、静かに揺れていた。




