第5話「字がきれいですね、と魔王は言いました」
「はい、どうぞ」
声は穏やかだった。
颯が扉を開けた。
広かった。
第3課の3倍はあった。天井が高く、窓が大きく、金色の光がまっすぐ差し込んでいた。壁には天界の紋章が掛けられ、床は磨かれた白い石だった。
そして、正面に大きな机があった。
颯は机を見た。
書類がなかった。
一枚も。
机の上には、ペン立てと、決裁印と、湯飲みだけがあった。湯飲みからは湯気が立っていた。
机の向こうに、天使が座っていた。白い髪。穏やかな顔。背中の翼は大きく、手入れが行き届いていた。エリエルやゼファやルカとは、翼の質が違った。
天使は5人を見た。少し驚いたような顔をした。
「……おや」
「天界転生管理省大臣の方ですか」と颯は言った。
「ミカエルです。大臣を務めております」
ミカエルは立ち上がった。5人を順に見た。颯を見た。田中を見た。田中を見る時間が、少し長かった。
「……魔王様ですか」
「田中です。田中誠です」
「それから、勇者様」
「佐藤颯です」
ミカエルは後ろの3人を見た。エリエル。ゼファ。ルカ。
「第38課と、第12課と——」
「第3課です」とルカが言った。
「第3課。そうですか」
ミカエルは椅子を指した。部屋の隅に、応接用の椅子とテーブルがあった。椅子は2脚だった。
田中が数えた。
「5人いるんですが」
「申し訳ありません。来客が珍しくて」
颯は少し止まった。
「……珍しい、というのは」
ミカエルは少し考えた。
「この部屋に直接いらしたのは、就任以来、初めてです」
沈黙。
「……就任は、いつですか」と颯は聞いた。
「12年前です」
颯は部屋を見た。広い部屋。大きな机。書類のない机。湯飲みの湯気。
「12年間、誰も来なかったんですか」
「面会には申請書が必要でして。出していただければいつでもお会いするんですが」
「その申請書の発行が第3課で、第3課は2年間1人で、発行まで辿り着けなかったんです」
ミカエルはルカを見た。ルカは少し身を縮めた。
「……1人?」
「補充の申請を出したんですが」とルカが言った。「第27課に聞いたら第45課に聞けと言われて、第45課に聞いたら——」
「第27課に戻されました」ミカエルが先に言った。
ルカが少し驚いた顔をした。
「……ご存知なんですか」
「知りません。ただ、そうだろうと思いました」
ミカエルは椅子に座り直した。颯たちは立ったままだった。
「下から報告が上がってこないんです」
「報告が上がってこない」
「各課からの報告は、月次で統括課がまとめて私に届けることになっているんですが」
「届いていないんですか」
「届いています。ただ——」
ミカエルは机の引き出しを開けた。中から薄い書類を一枚取り出した。
颯はそれを見た。
『月次報告書(統括課とりまとめ)』
記載事項:「特記事項なし」
颯はその一枚を見た。田中も見た。
「これが毎月届くんですか」
「12年間、毎月」
「特記事項なし」
「はい」
「第3課が2年間1人なのも」
「報告にはありませんでした」
「田中さんの転生ミスも」
「報告にはありませんでした」
颯はゼファを見た。ゼファは何も言わなかった。エリエルは書類をめくっていたが、手が止まっていた。
「……じゃあ大臣は、何をされていたんですか」
颯の声に怒りはなかった。本当にわからなくて聞いていた。
「決裁印を押しています」
「何の」
「各課から回ってくる書類です。決裁欄だけの書類が来て、押して、返す」
「中身は読まないんですか」
「中身がないんです。決裁欄だけなので」
颯はもう一度、机の上を見た。ペン立て。決裁印。湯飲み。
「中身を聞いたことは?」
「聞きました。何度か」
「どうなりましたか」
「管轄外と言われました」
颯は口を閉じた。
大臣が。天界転生管理省の大臣が。「管轄外」と言われている。
田中が一歩前に出た。
「ミカエルさん」
「はい」
「見ていただきたいものがあります」
田中は鎧の内側に手を入れた。
最初に出したのは、整理番号の紙だった。丁寧に折られた、847番。テーブルの上に置いた。
次に、そば打ちセットの書類。お詫びの品。テーブルの上に置いた。
最後に、二枚の書類。転生先希望申請書と、第3課の処理票。
田中はそれを、ミカエルの前に並べた。
「これが、俺の申請書です」
申請書を指した。「希望転生先:農村」。
「これが、第3課の処理票です」
処理票を指した。「配属先:魔村」。備考欄に「申請書の通り転記」。
「これが、3年間のクレームに対するお詫びの品です」
そば打ちセットの書類を指した。
「これが、天界の受付で引いた番号札です」
整理番号の紙を指した。
田中はそれだけ言って、黙った。
ミカエルは二枚の書類を手に取った。申請書を見た。処理票を見た。備考欄を見た。
しばらく、何も言わなかった。
「……申請書の通り転記、と書いてありますね」
「はい」
ミカエルは申請書をもう一度見た。田中の字を見た。「農村」の文字を見た。
それから処理票を見た。「魔村」の文字を見た。
「これは」
ミカエルの声が、少し変わった。
「これは、私の責任です」
静かだった。
テンカン省に来てから、颯が初めて聞いた言葉だった。
「自分の処理は正しかった」ではなく。「管轄外」でもなく。「規則上」でもなく。
責任。
田中はしばらくミカエルを見ていた。
「……ありがとうございます」
颯が田中を見た。
田中は深く頭を下げていた。身長2メートル超の、角のある、赤い目の魔王が、テーブルの前で頭を下げていた。
「田中さん」
「ん?」
「お礼を言うのは——」
「わかってる」
田中は頭を上げた。
「でも、3年間、誰も言ってくれなかった言葉だから」
颯は何も言えなかった。
ミカエルは決裁印を手に取った。
「転生先の変更、スキルの交換、身体スペックの変更。全件、私の権限で承認します」
颯が前のめりになった。
「今すぐですか」
「今すぐです。ただ——」
颯の体が止まった。田中も止まった。
「ただし」と颯は言った。
ミカエルは少し間を置いた。
「……実行するには、各課の処理が必要です。変更指示書を私が発行しますが、それを受け取って実行するのは各課です」
「何課ですか」
「転生先の変更が第3課。スキルの交換が第7課。身体スペックの変更が第11課」
颯は振り返った。ルカを見た。
「第3課は——」
「私です」とルカが言った。
「処理できますか」
「指示書があれば、できます」
颯はミカエルを見た。
「指示書を、今ここで書いていただけますか」
「書けます。ただ——」
颯は息を吸った。
「ただし」
ミカエルの口元が、ほんの少し動いた。
「……指示書の書式が、各課で違うんです」
颯は天井を見た。金色の天界の空が見えた。
「第3課の書式と、第7課の書式と、第11課の書式が必要ですか」
「はい」
「その書式は、どこにありますか」
「各課です」
颯は深呼吸した。もう一度深呼吸した。
「つまり、大臣の権限で承認はできるけど、指示書の書式が課ごとにバラバラだから、各課に書式をもらいに行って、それぞれの書式で指示書を書いてもらう必要があると」
「そうなります」
「統一書式は」
「ありません」
「作れませんか」
「作れます。ただ、書式の変更には各課の合意が必要で——」
「わかりました」颯は手を挙げた。「各課に行きます」
ミカエルは颯を見た。それから田中を見た。
「……あなた方は、帰らないんですね」
「帰れないですよ」と颯は言った。「田中さん、まだ魔王ですから」
田中は何も言わなかった。立っていた。
ミカエルは立ち上がった。机の引き出しから、紙を取り出した。白紙だった。
「書式は各課に合わせる必要がありますが、私の署名と決裁印がある指示書の原本を先に作ります。これを持って各課に行けば、あとは書式を合わせるだけで済みます」
颯は少し驚いた。
「……それは、できるんですか」
「大臣権限です。原本に決裁印があれば、書式は後から整えても法的に有効です」
ミカエルはペンを取った。書き始めた。
颯は見ていた。田中も見ていた。
丁寧な字だった。一画ずつ、迷いなく書いていた。
田中が小さく言った。
「……字、きれいですね」
颯は田中を見た。
「今それ言います?」
「いや、申請書をずっと見てきたから、つい」
ミカエルは書きながら、少し顔を上げた。
「田中様」
「はい」
「あなたの申請書の字も、丁寧でしたよ」
田中は少し黙った。
「……ありがとうございます」
「また礼を言ってますよ」と颯は言った。
ミカエルが書き終えた。決裁印を押した。
指示書を颯に渡した。
颯は受け取った。紙を見た。署名と決裁印がある。大臣の名前がある。
「これを持って、第3課、第7課、第11課に行けばいいんですね」
「はい」
颯は田中を見た。
「行きますか」
「行く」
颯は振り返った。エリエル、ゼファ、ルカ。
「第3課はルカさんがいる。第12課はゼファさんがいる。第7課と第11課は——」
「第7課はゼファの隣です」とエリエルが言った。「第11課は、私の上の階にあります」
颯は少し考えた。
「分担しますか」
田中が少し首を傾げた。
「……分担?」
「田中さんとルカさんで第3課。ゼファさんが第7課。エリエルさんが第11課。俺が全体の確認」
「効率はいいですね」
「颯さん」ゼファが言った。「第7課の書式、私が把握してます。指示書の原本を見せれば、先方も動くと思います」
「エリエルさんは」
エリエルは書類をめくった。今度は何かを調べていた。
「……第11課の担当者は知り合いです。書式も手元にあります」
颯は少し驚いた。
「あるんですか」
「クレーム処理で、各課の書式は一通り集めてあります」
颯はエリエルを見た。ヨレヨレの制服。大量の書類。黒縁眼鏡。
「……エリエルさん」
「はい」
「有能だったんですね」
「管轄内のことは」
颯は少しだけ笑った。
「じゃあ、動きましょう」
ミカエルが声をかけた。
「颯様」
「はい」
「処理が終わったら、ここに戻ってきてください。最終承認は私がその場で押します」
颯は頷いた。
「田中さん」
「うん」
「最初はひとりだったって、さっき言いましたよね」
「うん」
「今、何人ですか」
田中は振り返った。颯。エリエル。ゼファ。ルカ。奥にミカエル。
「……6人」
「行きましょう」
5人が廊下に出ようとしたとき、田中が立ち止まった。
振り返って、ミカエルを見た。
ミカエルは机の前に立っていた。広い部屋に、一人で。
「ミカエルさん」
「はい」
「……すぐ戻ります」
ミカエルは少し笑った。
「待っています」
田中は扉を閉めた。
廊下を、5人で歩いた。




