第3話「申し訳ありませんの後には、必ず『ただし』がつきました」
足音は、一つだった。
颯はテーブルの上のそば打ちセットの書類を見ていた。田中は正面を向いていた。エリエルは書類をめくっていた。何かを調べるわけではなく、ただめくっていた。
扉が開いた。
入ってきたのは、若い天使だった。エリエルと同じか、少し上くらいに見えた。制服に皺はなく、書類を胸の前で両手に抱えている。
部屋に入るなり、深く頭を下げた。
「お待たせいたしました。田中誠様のご案件、引き継ぎを受けました、第12課のゼファと申します」
誠意のある頭の下げ方だった。
颯は小声で田中に言った。
「……謝れる人が来ましたよ」
「初めてだ」と田中も小声で返した。
ゼファが顔を上げ、椅子を引いて座った。書類をテーブルに広げ始めた。丁寧な所作だった。
颯は警戒を緩めなかった。
謝れる、は、直せる、ではない。
「では、申請内容を確認させていただきます」
ゼファが書類を手に取り、申請番号で案件を引こうとした。束をめくった。もう一度めくった。少し手が止まった。
「……その申請」
声が出たのは田中だった。
「番号順に並んでいないので、第3申請から引いた方が早いですよ」
ゼファの手が止まった。颯が田中を見た。
「……田中さん」
「ん?」
「今、どっちの立場ですか」
「いや、見てたら」
「見なくていいです」
しかしゼファは田中の言う通りに引き直した。案件が出てきた。
「そっちのフォルダは転生後変更の束なので、転生先変更とは別です」と田中が続けた。
ゼファがまた手を止めた。また、田中の言う通りだった。
颯は深呼吸した。
「田中さん」
「うん」
「被害者がやる作業じゃないですよ、それ」
「癖で」
「癖で担当者の仕事しないでください」
田中は静かに頷いた。それからそっと口をつぐんだ。
ゼファは少し間を置いてから言った。
「……あの、田中様。もう一点だけ。スキル付与の申請書なんですが、添付書類の綴じ方が第7課と第11課で書式が違っていまして、どちらに合わせれば——」
「受け取り側に合わせた方がいいです。最終的に判断するのが第11課なら第11課の書式で」
田中が答えていた。颯が田中の肘を軽く叩いた。
「……また答えてますよ」
「聞かれたから」
「ゼファさん」
「はい」
「聞く相手が違います」
ゼファは少し固まった。それから何かに気づいたような顔をした。
「……申し訳ありません」
「田中さん」
「うん」
「膝の上の手、組んでますよ」
田中は自分の手を見た。確かに、窓口に座っていた頃の姿勢になっていた。
「……癖で」
「何回目ですか、それ」
田中は手を解いた。膝の上に置き直した。少し経って、またいつの間にか組んでいた。颯は何も言わなかった。
書類が全部並んだところで、ゼファが言った。
「転生先の誤入力、スキルの誤付与、身体スペックの誤設定——全件、事実と認定されております」
颯が前のめりになった。
「では、変更できますか」
「ただ——」
「ただし、ですね」
颯が先に言った。ゼファが少し止まった。
「……はい」
「何ですか」
「変更権限が各課に分散しておりまして。一括で変更できるのは大臣室のみでして」
「大臣に直接連絡できますか」
「大臣室への連絡は申請経由でして」
「申請して、どのくらいかかりますか」
ゼファは書類をめくった。
「……通常、3ヶ月から6ヶ月ほど」
颯は剣の柄から手を離した。怒りではなかった。怒るより先に、疲れた。
「大臣に、直接会いに行けますか」
「会えます。ただ——」
「ただし」と田中が静かに言った。
ゼファが間を置いた。
「……はい」
「……慣れてきた」と田中は小声で言った。
「慣れないでください」と颯も小声で返した。
「大臣へのご面会には、所定の申請書が必要でして。発行元が第3課になります」
しばらく、誰も何も言わなかった。
田中はテーブルの中央に置かれたそば打ちセットの書類を見ていた。
颯はゼファを見た。ゼファは手を膝の上に置いたまま、静かに田中を見ていた。申し訳なさそうな顔だった。
「あの」とゼファが言った。
「なんですか」
「一点、ご確認なのですが。お詫びの品の配達が完了しておりますので、本件は解決済みの扱いになっておりまして」
颯が顔を上げた。
「解決済み?」
「はい。規則上、お詫びの品の受領を以て、苦情案件は完結となります」
「田中さんの転生先は変わってないですよ」
「はい」
「スキルも変わってないですよ」
「はい」
「身体も変わってないですよ」
「はい」
「何が解決したんですか」
「お詫びの品が届いております」
颯は一度口を閉じた。開けた。閉じた。
「……もう一度聞きます。田中さんの人生は何も変わってないんですけど」
「お詫びの品が届いております」
同じ答えだった。
颯はそば打ちセットの書類を、二本指でそっと持ち上げた。少し持ち上げて、また置いた。
「……つまり、そば打ちセットが届いた時点で、田中さんが魔王にされた件は終わりと」
「規則上は」
颯はエリエルを見た。エリエルは書類をめくっていた。
「エリエルさん」
「は、はい」
「知ってましたか、この規則」
エリエルは少し黙った。
「……お詫びの品の配達完了を以て案件完結とする旨は、第38課の業務マニュアルに記載がございます」
「それで田中さんに、そば打ちセットを持ってきたんですか」
エリエルは書類の後ろで、少し小さくなった。
颯は深呼吸した。もう一度深呼吸した。
「田中さん」
「うん」
「怒っていいですよ」
田中はそば打ちセットの書類を見ていた。怒っていない。怒ることすら、もうやめてしまったような顔だった。
「……俺さ」
「はい」
「前の職場で、窓口やってたとき」
「はい」
「毎日、怒ってる人が来るんだよ。書類が通らない、手続きが遅い、たらい回しにされた、って」
颯は黙って聞いた。
「で、俺はずっと思ってた。窓口の人間に怒鳴っても、制度は変わらない。制度を作った人間に届かないと、何も変わらないって」
田中は顔を上げた。赤い目が、ゼファを見た。
「ゼファさんに怒っても意味がない。あなたは誠実に来てくれた。ありがたいと思ってる」
ゼファが少し目を伏せた。
「でも」
田中は立ち上がった。鎧が微かに音を立てた。
「制度を作った人間には、言わなきゃいけない」
颯は田中を見た。
気弱な男だった。泣く天使をなだめてしまう男だった。加害者側の組織に「ご足労おかけしました」と頭を下げてしまう男だった。
その男が、立っていた。
「大臣に、会わせてください」
「申請が必要でして」
「わかりました。書類をください」
「発行元が——」
「第3課ですね」
「……はい」
「第3課、廊下にありましたね」
「ありましたね」と颯も立ち上がった。
エリエルは書類をめくる手を止めた。
「……私も、行った方がいいですか」
「田中さんの申請を最初に受け取ったのが、そちらの課ですよね」
エリエルは黙って立ち上がった。
ゼファが書類を整え、立ち上がった。
「私も同行させていただけますか。第3課の管轄ではないのですが」
「なぜですか」
ゼファは少し間を置いた。
「……このまま終わりにしたくないので」
颯は一度、田中を見た。田中は何も言わなかった。ただ、ゼファを見ていた。
「わかりました」
廊下を、4人で歩いた。
田中が足を止めたのは、第3課のプレートの前だった。
颯は覚えていた。さっき通ったときも、田中はここで立ち止まった。
「ノックしてくれる?」
「します」
「俺がやると、たぶん」
「わかってます」
颯がノックした。しばらく間があった。
「……はーい」
のんびりした声が返ってきた。
颯は扉を開けた。
横長の部屋だった。書類の山が、棚ごと床ごと積み上がっていた。窓際の棚が窓の大半を塞いでいて、部屋の奥は薄暗い。奥に長机が一つ。天使が一人、両腕を枕にして書類に突っ伏していた。
颯は振り返った。
「寝てます」
田中は颯の横をすり抜けて部屋に入った。
積み上がった書類の束を、少し眺めた。棚の側面に貼られた付箋を読んだ。「要確認(第8課返答待ち)」「★至急★(2年前)」「不明案件仮置き」。
田中は「★至急★(2年前)」の付箋に指を触れた。剥がしはしなかった。
「……ゼファさん」
「はい」
「俺の申請、最初にどこに届きましたか」
「第3課です」
田中は手を離した。
「……起こしましょう」と颯が言った。
「うん」
そのときエリエルが小さく咳払いをした。
「第3課の書類発行は、平日の午後3時から午後5時の受付時間でして」
「……今、何時ですか」
「午後2時47分です」
沈黙。
「あと13分ですか」
「受付時間になれば、規則上は対応の義務がございます」
「規則上は」と颯は繰り返した。
田中が鎧の内側から整理番号の紙を出した。847番と書いてあった。
「これ、どうすればいいんですかね」
颯はエリエルを見た。エリエルはすでに書類をめくり始めていた。
「整理番号の破棄につきましては、破棄申請書に番号・取得日時・破棄理由を記入の上、第41課へ——」
「破棄するのに申請がいるんですか」
「規則上」
ゼファが少し口を開いた。「ちなみに破棄申請書の発行元は——」
「後で考えます」颯が言った。
田中は整理番号の紙を見た。折り目を丁寧に合わせた。鎧にしまった。
「……破棄するのに手続きがいるなら、持ってた方が楽だな」
「それ、窓口職員の発想ですよ」
「癖で」
4人は第3課の扉の前に並んだ。
颯は腕を組んで壁にもたれた。田中は扉の横に立った。エリエルは書類を抱えたまま、少し離れた場所にいた。ゼファは田中の隣に立っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
扉の向こうで、物音がした。
全員が扉を見た。
ごそ、という音。椅子が軋む音。
それから、静かになった。
颯はゆっくりと田中を見た。田中もゆっくりと颯を見た。
「……起きましたかね」
「……どうだろう」
颯は扉を少し開けた。覗いた。
長机の天使は、体の向きを変えて、また突っ伏していた。
颯は扉を閉めた。
「……寝直しました」
「手痺れたんだろうね」と田中は言った。
「……田中様」とゼファが言った。
「うん」
「今まで、窓口の天使に強く言えなかったと伺いましたが」
「うん」
「この扉の向こうが、最初に書き間違えた課です」
田中はしばらく扉を見ていた。
「……知ってる」
「怒っても、いいと思います」
田中は少し笑った。笑うと、角のある顔がさらに怖くなった。
「怒る相手は、この先にいるから」
颯は前を向いたまま、少しだけ口元が動いた。
午後3時。
颯がノックした。今度は、少し強く。
「……はーい。はーい。今開けまーす」
扉がゆっくりと開いた。
天使がのんびりした顔で立っていた。目をこすった。書類の跡が頬についていた。颯を見た。その後ろの田中を見た。
角。黒い鎧。赤い目。天井に届きそうな身長。
天使は瞬いた。
「……え」
「大臣への面会申請書の発行をお願いします」と颯は言った。
「えっと、あ、はい。ちょっとお待ち——」
「少々お待ちください」
田中が言っていた。
颯が振り返った。天使が固まった。ゼファが目を見開いた。エリエルが書類をめくる手を止めた。
沈黙。
田中は、自分が何を言ったのか、1拍遅れて気づいた。
「……すみません、癖で」
「田中さん」
「うん」
「客側です」
「……そうだね」
第3課の天使は、自分の課に来た魔王と勇者を交互に見ながら、慌てて書類の山を掻き分け始めた。
颯は部屋の中を見た。書類の山。「★至急★(2年前)」。突っ伏して寝ていた天使。
ここだった。
田中誠の人生が変わった場所。
「農村」が「魔村」になった場所。




