第2話「天界の入口は整理番号が必要でした」
光が戻ってきたのは、5分後だった。
颯と田中は玉座の間で待っていた。
田中は棚の前からようやく離れ、玉座に座り直していた。颯は床に腰を下ろしたまま、剣を膝に立てていた。
そば打ちセットの書類が、田中の膝の上にあった。
誰も何も言わなかった。
「……戻りました」
光の中からエリエルが降りてくる。来たときと同じヨレヨレの制服、同じ量の書類。ただ、抱えている束が来たときより少し厚くなっていた。
「許可は出ましたか」と颯は立ち上がりながら聞いた。
「それが、ですね」
エリエルは書類の束をごそごそと探り始めた。
「上に確認しましたところ、天界への来訪自体は、前例がないわけではないということで」
「じゃあ行けますね」
「ただ、手続きが必要でして」
颯は止まった。
「……手続き」
「はい。こちらの書類に記入いただければ」
エリエルが差し出した書類には、こう書いてあった。
天界転生管理省 天界来訪一時許可申請書
(第38課経由・要上長承認)
颯は書類を受け取った。全部で4枚あった。
田中は玉座から降りてきて、颯の隣に立った。書類を覗き込んだ。
「記入例はありますか」
颯より先に田中が言った。
「……え?」
「見本がないと書き方がわからないので」
エリエルは書類の束をごそごそし始めた。
「え、あの、通常は記入例なしで……」
「項目が多いので確認だけでも。あと、鉛筆で下書きしてからボールペンで清書すべきですか、最初からボールペンで書いて問題ないですか」
「た、田中さん」
「ん?」
「落ち着いてますね」颯が言った。「少し」
「書類は慣れてるから」
田中は書類の1枚目を手に取り、老眼鏡のように少し離して見た。
「『来訪目的』の欄、どこまで書けばいいですかね。転生ミスの件を全部書いたら欄が足りなくなりそうで」
「……概要だけで」とエリエルが言った。
「概要だと審査で差し戻されませんか。以前、申請が簡略すぎるという理由で1回返ってきたことがあって」
「それは……場合によっては」
「では詳細も書いた方がいいですね。別紙添付は可能ですか」
「あの、田中さん」
「うん」
「書き方より、まず書いてください」
「わかった」
田中は床に座り込んで書き始めた。
颯はエリエルを見た。
「移動しながら書けますか、これ」
「移動、というのは」
「天界へ向かいながら、ということです」
「……それは安全上の観点から」
「田中さん」
「ん」
「歩きながら書けますか」
「無理」
「ですよね」
颯は剣を鞘に収め直した。
「どのくらいかかりますか」
「丁寧に書けば30分ほど」
「田中さんは丁寧に書きますか」
「書く」
「……30分です」と颯はエリエルに言った。
「はい」
玉座の間に、書類に向かう魔王と、それを見守る勇者と、小さくなっていく天使だけが残された。
35分後、田中が立ち上がった。
「書けた」
「30分、と言いましたが」
「丁寧に書けば、と言ったのはそちらです」
颯は返せなかった。
「住所欄に魔王城の正式名称がわからなくて調べてた」
「……それで5分かかったんですか」
「うん」
「……魔王城に正式名称なんてあるんですか」
「あった。『煉獄魔城・第1から第7塔複合施設』」
颯はしばらく黙った。
「魔王城なのに、都営住宅みたいな名前ですね」
「第2棟と第3棟のあいだに駐輪場あるよ」
エリエルが書類を受け取り、確認し始めた。1枚目をめくり、2枚目をめくり、3枚目で手が止まった。
「……魔王様」
「うん」
「こちらの『来訪同行者』の欄に佐藤颯様を記載いただいているんですが、同行者の方にも別途、同行者申請書へのご記入が必要でして」
沈黙。
「……今聞くんですか、それ」と颯は言った。
「書類に記載がありまして」
「最初に言ってください」
「申し訳ありません」
エリエルはまた書類をごそごそした。出てきた書類は3枚だった。
颯は受け取った。深呼吸した。
「記入例はありますか」
エリエルが少し固まった。
田中が颯を見た。が、何も言わなかった。
「……お渡しします」とエリエルが言った。
「お願いします」と颯は言った。
天界の入口に着いたのは、それからさらに40分後のことだった。
エリエルの光に包まれて、颯と田中は地上から天へと移動した。颯は浮遊感と眩しさで目を細め、光が晴れるのを待った。目の前の景色が見えたとき、颯は思わず首を傾げた。
——思ったのと違う。
雲の上に広がっているのは、白く輝く建物だった。柱が高く、天井は高く、入口の門は荘厳で、その彫刻は精緻だった。見上げれば空は金色に輝いていて、どこからか光が降り注いでいる。
どこからどう見ても、天界だった。
ただし。
「……あの行列は何ですか」
颯は入口の前を指さした。
荘厳な門の前に、受付カウンターが設置されていた。カウンターの前に、天使が1人座っていた。その前に、長い長い行列ができていた。
入口の脇に、小さな機械が一台置いてあった。
田中がそちらへ歩いていった。
「田中さん」
「番号、引かないと」
機械から紙が出た。田中はそれを受け取り、颯に見せた。
整理番号 第847番
「……受付は今、何番ですか」と颯はエリエルに聞いた。
エリエルは遠目にカウンターを確認した。
「……第12番かと」
颯は田中を見た。田中は番号札を見た。
「とりあえず並びましょう」
「うん」
行列の最後尾は、翼の疲れた天使が1人、書類を抱えて立っていた。颯と田中とエリエルは、その後ろに並んだ。
並んだ瞬間だった。
最後尾の天使が颯を見た。田中を見た。また颯を見た。そのまま、さりげなく半歩前に進んだ。
前の天使に詰まって、玉突きのようにその前の天使も半歩進んだ。さらにその前の天使も。誰も何も言わなかった。誰も振り返らなかった。気づいたら颯と田中とエリエルの前後に、不自然な空白ができていた。
行列に並ぶ魔王。その隣に剣を佩いた勇者。その後ろで書類を抱えてヨレヨレの天使。
窓口に向かって、3人、おとなしく一列に並んでいた。
田中はその間もずっと、整理番号の紙を丁寧に折って鎧の内側にしまっていた。
「……みんな離れてますよ」
「ああ。よくある」
よくあるのか、と颯は思った。
「多い日は200人ほどになることも」とエリエルが言った。
「受付は1人ですか」
「通常は3名体制なんですが、現在2名が別件対応中でして」
「別件って何ですか」
「上に確認します」
「それ、いつ頃わかりますか」
「……上に確認します」
颯は深呼吸した。確認する先が同じだった。
しばらく進まなかった。颯は遠目にカウンターを見た。受付の天使が書類の束と格闘していた。来訪者と何か話しながら、書類をめくり、何かを確認し、また書類をめくっている。
「どうやら来訪者の書類に不備があったようで」とエリエルが言った。
「記入漏れが1箇所あると、その場で書き直していただく必要がありまして」
「書き直す時間も待ち時間に含まれますか」
「含まれます」
颯は剣の柄を握った。怒りではなく、ただ何かを掴んでいたかった。
前を向くと、田中が列の先頭の方を見ていた。真剣な目をしていた。
「……どうしたんですか」
「あの書類、3枚目の右上、提出先の欄が空欄になってる気がして」
「見えるんですか、あの距離で」
「目はいいから」
「指摘しに行くんですか」
「……いや、やめとく」
田中は正面に向き直った。颯は田中の横顔を一度見てから、前を向いた。
「田中さん」
「うん」
「……メールの自動返信、正しかったんですね」
「どういう意味?」
「現在大変多くのお問い合わせを、って」
窓口が止まった。
列の先頭に立っていた来訪者が、書類を持ったまま固まっていた。どこに記入すればいいか、わからなくなっているらしかった。
「次の方、どうぞ」
受付天使が声をかけた。来訪者は動かなかった。
「次の方、どうぞ」
動かなかった。
「あの、次の方——」
「少々お待ちください」
声が出たのは田中だった。
列の後ろから、反射的に、田中が言っていた。
受付天使が顔を上げた。列の全員が振り返った。
静かになった。
田中は自分が言ったことに、1拍遅れて気づいた。
「……あ、すみません。癖で」
「田中さん」颯は静かに言った。
「うん」
「客側です、今日」
「……そうだね」
受付天使は田中を見ていた。2メートル超の、角の生えた、赤い目の存在を、まじまじと見ていた。
「あなたは……魔王様、では」
「まあ、そう、です。はい」
「な、なぜ魔王様が天界の受付に」
「色々ありまして」
受付天使が、すっと立ち上がった。
「……魔王様のご来訪でしたら、特別窓口にご案内できます」
「特別窓口?」と颯は言った。
「来賓対応の窓口が、別にございまして」
颯はエリエルを見た。
「……管轄外でしたか」
エリエルは書類の束の後ろで、少し小さくなった。
「……はい」
「そうですよね」
颯は受付カウンターを振り返った。行列は相変わらず動いていない。
整理番号の紙が、田中の鎧の内側にある。
「整理番号はまだ必要ですか」
「特別窓口につきましては、第38課の管轄外でして」
田中は整理番号の紙を、そっとしまい直した。
特別窓口は、入口の門を入ってすぐ右にあった。
通常の受付カウンターとは比べ物にならないほど立派な造りで、椅子が3つ並んでいた。担当の天使が1人、颯たちを見て立ち上がった。
「お待ちしておりました。田中誠様のご来訪については、上から連絡がございまして」
「連絡が届くんですか」颯は言った。「天界って」
担当天使は間を置いた。
「……特別窓口には届きます」
「クレームの窓口には届かなかったのに」
「それは……管轄が異なりまして」
颯はエリエルを見た。エリエルは前を向いていた。
「最初から特別窓口に来ればよかったですね」と颯は言った。
「そうだね」と田中が言った。
「……でも、それを教えてくれる人が誰もいなかったんですよね」
エリエルは書類をめくり始めた。何かを調べるわけでもなく、ただめくっていた。
担当天使に案内されて、颯と田中とエリエルは廊下を歩いた。
廊下は長かった。両側に扉が並んでいた。扉にはそれぞれ番号が書かれていた。
第1課。第2課。第3課。
田中の足が止まった。
扉を見ていた。プレートの文字を、じっと見ていた。
「……『第3課』って書いてありますね」
「はい」と担当天使が振り返った。「第3課ですが」
「読めますね、ちゃんと」
「……はい」
「『農村』と『魔村』も、読み分けられますよね、普通」
担当天使の顔が止まった。
「あ、いえ、私は第12課の者なので、第3課の業務については——」
「そうですよね。関係ないですよね」
田中はプレートをもう一度だけ見た。それから何事もなかったように歩き始めた。
颯は担当天使の顔を見た。何を聞かれたのか理解しかけて、理解したくなさそうな顔だった。
「……あの、なにかあったんですか」担当天使は颯に聞いた。
「田中さんが魔王になった理由です」
担当天使はもう一度、第3課の扉を見た。田中の背中を見た。
何も言わなかった。
言えなかったのだと颯は思った。
田中は廊下を歩きながら、前だけを見ていた。颯は何も言わなかった。
案内されたのは、廊下の奥にある小さな会議室だった。
テーブルが1つ。椅子が4つ。窓の外には金色の空が広がっていた。
「担当者がまいりますので、少々お待ちください」
案内の天使が言って、出て行った。
颯と田中とエリエルは椅子に座った。
静かだった。
颯はテーブルを見た。
「……椅子、1つ多くないですか」
田中が数えた。「本当だ」
颯はエリエルを見た。
「他に誰か来ますか」
エリエルは書類をめくった。
「規則上、会議室の椅子は4脚セットでして」
颯は余った椅子を、そっと壁側に向けた。
エリエルはまた書類をめくり始めた。何かを調べるわけでもなく、ただめくっていた。
どこからか聞こえてくる換気扇の音だけがやけに大きく聞こえた。
颯はテーブルの上に、そば打ちセットの書類を置いた。
田中はそれを見た。それから立ち上がり、書類を自分の手でテーブルの中央に動かした。椅子に座り直し、背筋を伸ばした。
身長2メートル超の魔王が、会議室の椅子に座って、ただ正面を向いていた。
颯はその横顔を見た。
威圧感は変わらない。変わらないのに、いつの間にか、この人の隣にいることが颯には普通になっていた。
扉の向こうから、足音が聞こえてきた。




