第5話 戻らぬ日常
「え、こんなのどこから」
すくなくとも、朝には無かった。来客があるからと、今日は久々に寝間着から私服に着替えた。点滴の針が刺さったままだったから、多少恥ずかしかったが看護師さんに手伝ってもらった。
だから、服にこんなのがついていたら、他の人も分かると思うんだけど。あれか。もしかして、ここに来るまでに変な目で見られてたのは、俺がどうこういうよりも、この札のせいか。
「すまん。ありがとう」
とにかく、神谷がずっと俺に差し出したままのそれを受け取る。
ほんと、なんだコレ。
俺は自分の目の前にそれを持ってきた。
見た目は、長方形の作りがしっかりとしたカードのようだ。材質は紙のようにしっとりとして、プラスチックか金属のようにがっちりしている。振ってみると、柔らかくしなった。
縁は金色に近い不思議な色合いの文様が刻まれていた。中央に描かれているのは朱い羽だ。筆で描かれているように、濃淡が細やかで、繊細さを感じるのに力強くもあった。
何もかもが分からない。このカードがなんなのか。何で俺の体に、こんなのがくっついていたのか。
ただ一つ俺に言えるのは。
綺麗だな。そんなシンプルな感想だけ。
「……ダイくん、ユーダイくんっ!」
「うわっ」
力強く肩を揺すられた。いつの間にか、背後に回り込んだ神谷が俺の体を揺さぶっている。
なんなんだ、と俺は文句でも言おうと思って振り返ったが、思ったよりも真剣な表情の神谷を見て言葉が詰まった。
「だいじょうぶ?」
「……なにが?」
思わず呆けた声が出た。神谷の目に、心配の色が浮かんでいる。意味が分からなかった。
「だって、ずっと声をかけてるのに無視をしてさ」
「ああ」
それは悪いことをした。どうやら、俺は自分が思っていたよりも集中してしまっていたらしい。
「で、それはユーダイくんの?」
俺の無事を確認したからか、神谷はいつもの調子に戻っていた。それで、結局ユーダイくん呼びなんだな。別に良いけど。
「俺のじゃ無いけど」
「けど?」
ちらり、とカードを見る。図柄がろうそくの火のごとく揺らめいたように感じた。それはまるで、生きているかのように。触れていると、指先に熱まで伝わってくるような。
ああ、まずい。また見入ってしまう。
「……とりあえず、持っておくよ」
これを手放したくないと思ってしまうのは、なぜだろう。視線を離すと胸がざわつく。俺は、ポケットにそいつをつっこんだ。
「そ。それならいいけど」
神谷は興味を無くしたのか、あくまでも素っ気ない態度だった。
その後、とくに会話も弾まずに時間になった神谷は帰っていった。それを見送った後に、病室に戻る。
ベッドに腰掛けて、ポケットからカードを取り出した。
「ほんと、なんだコレ?」
先ほどと、ちょっと図柄が変わっているように見えるのは気のせいだろうか。俺は、備え付けの棚を開いて、そいつをしまい込んだ。
やはり、得体の知れないものだとしても、捨てる気にはなれなかった。
結局、その後も色々な検査をしたのだが、医者は露骨に首を傾げるようになった。神谷の話を聞いた後だから、俺も先生の気持ちはよく分かる。自分にだって、自分が分からない。 体に傷は残っていない。体の中も傷ついていない。血液検査も良好。いたって健康体。数日前まで意識の無かった人間だって言っても、誰も信じない。
それで、このまま入院しているのも居心地が悪く、病院側も何もしてあげることがないので、俺は退院することになった。
家に帰ると、淀んだ空気が俺を襲った。たぶん、母さんも俺が意識を取り戻すまでは病院に、それからは仕事でほとんど家に帰っていないからか、部屋全体の人の気配が薄れていた。換気しないと。
マグカップが置きっぱなしだった。おそらく、母さんが使ったものだろう。片付けはちゃんとする人だから、これが忘れられているということは。
「ほんと、心配かけた」
たぶん、俺が病院に運ばれたと連絡をもらった時なんだろうなと想像ができた。
まずしたのは、冷蔵庫の整理。作り置きの食材が、いくつか、傷んでいた。もったいないけど、捨てる。
こんなことで、と俺も思うけど。こうなるくらいまで俺は寝てたんだなと、初めて長期入院を実感した。
「上月っ! よかったな、心配してたぞ」
久しぶりに学校へ向かうと、クラスメイトの優しい声が待っていた。普段、話もしたことのない奴らまで遠巻きに集まっている。俺は、聞かれたことに答えながら休み時間を過ごす。
「教科書のここまで進んでるんだけど、大丈夫?」
授業中も、先生達がやたら気にしてくれた。俺は頷きながら必死にノートを取る。ブランクは正直、きつい。後でやり直さないといけない。
そうして、ようやく人に囲まれなくなった休み時間。
「はぁ」
俺は、誰にも聞こえないような小さな音でため息をついた。
なんか、妙に息苦しい。
学校内も、友人も、大人達も。見た目は変わりが無い。それなのに、皆がよそよそしい。触れたら壊れるかもしれない、皆がそんなガラス細工でも扱うかのように俺に近づくんだ。
いや、分かるよ。逆の立場だったら、俺もそうする。だって、たぶん誰かに襲われて、血だまりに倒れていて、数日意識を失っていて、それなのに何事もなかったかのように復帰してくるんだから。
どんな話をされているのか、おそらく今日の話から、あまり皆も知らないんだろうけど、だからこそ腫れ物でも触るかのように扱われている。
正直、気分が悪い。早く帰りたい。
早退でもしようかな。
俺はそんな逃げの思考で、鞄の中を何気なく探る。指先に固い感触があった。なんだろ、と思って、俺はそれをつまみ上げる。
「うわっ!」
思わず声が出た。近くにいた何人かが集まったが、俺は「大丈夫、大丈夫」と愛想笑いで乗り切る。
俺の周りに人がいなくなってから、俺は恐る恐る、もう一度鞄の中に手を突っ込んだ。
あった。さっきのは見間違いじゃなかった。
「なんで」
これがここにあるんだ。俺が取ったのは、あの病院で見つかった朱のカードだった。
こいつ確か、退院した時に持ち帰って、家の机にしまったはずだ。
背筋がぞわりとした。それがなぜ、俺の鞄の中に入ってるんだ。準備の時、教科書の間にでも挟まったんだろうか。
なぜか、誰にも見られてはいけないと思い、俺はもう一度、そいつを鞄の中にしまい込んだ。
放課後、俺は逃げるように教室を出た。もう、あの重い空気に耐えられない。
「はぁ」
帰り道。こんなにも人が少なかっただろうか、と思うくらいに他人と出会わない。まるで、世界に俺一人だけが取り残されたかのような錯覚を覚える。
いつも、こうだったろうか。そうじゃなかった気がするんだけどな。
「疲れたな」
今日一日は、体力を使い切った。足取りは重い。この先は坂になっている。億劫だな。
風が吹く。冷たいそれに、俺は思わず顔をしかめた。さわり、と地面に落ちていたビニール袋がこすれる音がする。
そんな音、全てを置き去りにして。
「上月ユータ様、ですね」
鈴のような声が上から降ってきた。
「あっ」
声の方を見上げ、俺は息を飲んだ。
坂の上。この世のものとは思えない、純粋な白。そして、映える一点の朱。
その光景を、俺は生涯忘れることは無いんだろう。そう、思った。




