完璧に見える人ほど実はヤバい人なのかもしれない。
「あんた、何者だ?」
俺は倉庫の奥にいる男に向かって声をかけた。
だが——返事はない。
それどころか、周りの誰も男の存在に気づいていない様子だった。
「……え?」
と佐藤は戸惑った顔で俺を見るし、
時任も怪訝そうな表情を浮かべている。
相澤に至っては、
「神谷くん、どうしたの?」
と不思議そうに首をかしげていた。
「みんな……あの男が見えてないのか?」
「え? 誰もいないけど?」
相澤が困った顔で答えた。
時任の方を見ると、
見えるわけがないと言いたそうに腕を組んでいる。
男の方を指さして説明しようとしたその瞬間、
相澤がハッとした顔で俺を見た。
「神谷くん! まさか幽霊が見えてるの!?」
その言葉を聞いた途端——
バタンッ!!
「せ、先生!?」
突然、直井がその場に倒れ込んだ。
「直井先生!!」
相澤と時任が慌てて先生の身体を支える。
先生の顔は青ざめ、完全に気を失っていた。
「……見えるのは俺だけか……」
内心戸惑いながら、もう一度男の方へ目を向けた。
さっきまで透明人間だった男が
驚いたように目を見開き、じりじりと後ずさっている。
「まさか……本当に俺の姿が見えるのか?」
男は低い声でそうつぶやくと、踵を返して倉庫の扉から外へ逃げようとした。
「待て!」
咄嗟に俺は男の腕を掴んだ。
「離せ!!!もう時間がない!!」
男は必死に抵抗する。
「時間がないってどういうことだ!?」
俺が問い詰めても、男は答えない。
ただ、何かに追われるように必死で俺の手を振りほどこうとしている。
一体、こいつは何者なんだ?
それに【時間がない】って一体どういう意味なんだ?
胸の奥で、不安がじわりじわりと広がっていく。
と次の瞬間——
男の身体が一瞬、眩しく光った。
「うっ!」
思わず目を細める。
直後——
「きゃーーーーー!!変態!!!」
相澤の叫び声が倉庫内に響き渡った。
顔を上げると、相澤が両手で顔を覆いながら必死に目を塞いでいる光景が目に入った。
おそらく今、茶髪の男の姿が、みんなにもはっきりと見えている。
「この変態野郎、どこから現れた…」
と、時任は怪訝そうに眉をひそめ、佐藤は口をパクパクさせている。
……まあ、そりゃそうなるよな。
何せ目の前に、全裸の男が堂々と立っているのだから。
俺がさっきまで掴んでいた腕を強引に振りほどき、男はため息混じりに言った。
「バレてしまっては仕方がない。俺はこの学校の3年の音無だ。よろしく」
「この状況で堂々と自己紹介するな!!」
思わずツッコミを入れる俺。
「……で、お前はなんで全裸でこんなところにいるんだ?」
時任が冷静な口調で音無に問いただす。
音無は観念したように肩をすくめ、こう言った。
「ここだけの話——俺は、一日1時間だけ透明人間になれる能力を持っている」
「……」
静まり返る倉庫内には冷たい空気が流れている。
「そこにいるお前——」
音無は俺を指差す。
「お前には俺の姿が見えていたようだが、普通の人には見えない。
だから俺はいつも誰にも迷惑をかけることなく、
ここで瞑想や筋トレをして、学生生活を謳歌してきた」
「……いやいやいやいや」
「……誰にも迷惑をかけていない、だと?」
時任が鋭い視線を男に向ける。
「見たくもないお前の裸を見せられてる俺たちは、今まさに迷惑してるんだが?」
「そ、それは……」
「たとえ姿が見えなくても、
倉庫から変な音がするってバスケ部のみんなが怖がってたんだぞ。
それに気づいてなかったのか?」
俺が問い詰めると、
音無はやれやれといった感じで肩をすくめた。
「そんなのどうだっていい……」
そう言いながら、倉庫の隅に置いてあった制服を手に取り、ゆっくりと袖を通し始める。
……いや、そもそも服があるなら最初から着とけよ。
と思ったけど、よく考えたら透明になるのは身体だけだから制服は着れないってわけか。
体育館倉庫の手前、意識を取り戻した直井が
「……あれ??」と戸惑った声を上げた。
「先生、大丈夫ですか?」
俺が声をかけると、直井は軽く頭を振りながらゆっくりと起き上がる。
「僕、どうして……?」
「今までずっと気絶してた」
時任があっさりと言った。
「そっか…なんか、ごめんね…。僕がしっかりしないといけないのに」
直井の言葉を遮るように時任が続ける。
「それより、謎の物音の正体がわかった」
「えっ……!?」
直井の顔がこわばる。
「こいつだ」
時任が指さした先には、制服を着直した音無がいた。
直井は目を瞬きさせながら、音無をじっと見つめる。
「え……音無くん……? 君が?」
「えぇ、先生」
音無は淡々と答えた。
「彼、倉庫に隠れて瞑想してたみたいです」
俺は音無の能力については伏せ、さらっと説明した。
音無が透明人間になれる能力を持っていて、そのうえ全裸だったなんて、
そんなこと言っても信じてもらえるわけがない。
「……そうだったのか……」
直井はほっとしたように肩の力を抜いた。
「幽霊じゃなくて安心したよ…」
「バレー部のみんなには、ちゃんと謝っておきます」
音無はそう言って、一礼する。
「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
それだけ言うと、音無は静かに体育館から去っていった。
気のせいだろうか、
直井と音無——二人の間には、どこか微妙な空気が流れていたように思える。
「……なにはともあれ、これで問題解決だな」
時任がそう言って、体育館の出口へと向かう。
「私も、もう帰らなくちゃ」
相澤も足早にその後を追い、体育館を出ていった。
「じゃあ、僕もこれで……」
佐藤も静かに体育館を後にする。
体育館に残されたのは俺と直井先生の二人だけだった。
さっきまで騒がしかったのが嘘のように、しんとした静けさが辺りを包む。
正直、なんとなく気まずい。
そんな空気を断ち切るように、体育館の入り口から足音が響いた。
「もうここ閉めますけど、まだ帰られないんですか?」
警備員のおじさんが懐中電灯を片手にこちらを見ている。
「すみません、もう用事は済んだので大丈夫です」
直井先生がぺこりと頭を下げる。
先生はそのまま俺の背中をぽんと押し、
「さ、もう僕らも帰ろう」と促した。
外に出ると、すっかり夜も更けていて、辺りは暗闇に包まれていた。
時刻はすでに10時を過ぎている。
「車で家まで送っていくつもりだったんだけど……」
直井は苦笑しながら言った。
「みんな帰っちゃったね」
「そうですね…」
俺も少し戸惑いながら返す。
「神谷くんはどうする?良かったら家まで送るよ」
「いいんですか?」
「もちろん、遅い時間だし夜道はなにかと危ないからね」
俺は遠慮しつつも、ありがたく先生の申し出を受けることにした。
駐車場に停められていた白い軽自動車に乗り込む。
車内は思ったよりもきれいで、ほのかにコーヒーの香りがした。
「じゃあ、道案内よろしく」
「はい、この道をまっすぐ行って、次の信号を左で――」
先生は俺の指示に従いながら、車を進める。
この時間帯は交通量も少なく、静かな夜道が続いていた。
そんなときだった。
「――っ!?」
突然、一匹の野良猫が車の前に飛び出してきた。
「うわっ!」
直井先生は反射的にブレーキを踏むが、間に合わない。
――マズい!!!
とっさに、俺は強く念じた。
――止まれ。
次の瞬間、世界が静止する。
目の前の猫も、ブレーキの軋む音も、すべてが止まっていた。
俺はすぐに車から降りる。
固まったままの猫をそっと抱き上げ、道路脇の安全な場所へ移動させた。
「よし……」
俺は急いで助手席へと戻る。
シートに収まると同時に、
「……動け!」と
再び、強く念じた。
時間が動き出し、急ブレーキの音が響く。
タイヤが地面を擦る嫌な音とともに、車は停止した。
「――あれ?」
先生がきょろきょろと辺りを見渡す。
「さっきの猫は?」
「急ブレーキの音に驚いて逃げたんじゃないですか?」
俺はできるだけ平静を装って答えた。
「……」
直井はしばらく沈黙した後、小さく息をついた。
その沈黙が、やけに重く感じられる。
俺はごまかすように窓の外を眺めた。
冷や汗が、背中を伝っていくのを感じる。
車内に静寂が満ちる中、直井がふいに口を開いた。
「ひとつ、聞いていいかな?」
その問いかけに、俺は少し肩をすくめる。
「なんです?」
視線を俺の方へ向け、直井が慎重に言葉を選ぶように続ける。
「熊田先生から聞いたんだけど、入学初日に君からタックルされたって。
その理由、教えてくれないかな?」
思わぬ方向から飛んできた質問に、俺は思わず息をのむ。
「それは……熊田先生の肩にハチがいたからで」
なんとか絞り出した答えは、自分でも苦しいと言わざるを得ないものだった。
長い沈黙が落ちる。
「僕は大事にしないし、ここで話したことは誰にも言わない。だから、本当のことを言ってほしい」
「本当のことって…?」
「君だけに見えていたものだよ。一体何から熊田先生を守ったの?」
ドキリとする。
まさかそこまで勘づかれているとは。
俺だけに見えていたもの
――黒咲の背後から現れた、あの異様な剣。
熊田先生を傷つける前に阻止しなければならなかった。
だけど、そんなこと言えるはずがない。
「……」
沈黙する俺を見て、直井は小さく息を吐いた。
「ダメか……」
ボソリとつぶやかれた言葉に、俺は思わず顔を上げる。
「え……?」
だが直井はすぐにかぶりを振り、苦笑交じりに言った。
「変なこと聞いてごめん。
こんな話……きっと疲れてるんだ。最近、何かと忙しかったから……」
そう言ってアクセルを踏み込む。
やがて車は俺の家の前に停まった。
「送ってもらって、どうもありがとうございました」
助手席から降り、俺は言った。
直井はハンドルを握ったまま、軽く頷いた。
「それじゃ、また学校で」
そう言って、彼は車を発進させる。
テールランプが遠ざかり、やがて夜の闇に溶けていった。
その姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、俺は静かに息を吐く。
早くなった心臓の鼓動の音が耳の奥から聞こえてくる。
その音はしばらく止みそうもない。
まだ続きます。