4話 忠誠の騎士
翌年の初夏、「もはや苦しみを長引かせるだけ」と王妃の希望で治療を諦め、痛覚を魔法で麻痺させた王は殆ど微睡みの中で過ごしていた。時折、魘されて呻き声をあげることもあれば、ふと意識を浮上させ、国政や家族の事を案じることもあった。
だが最早これまでという時、王の家族とかつて共に旅した仲間たちが王の居室に集められ、語り合う時間が与えられた。
「ディオン……シェル……イブキ……すまないが……他の者は席を外してくれ……」
「あなた……」
「……何かあればお呼びしますから」
ディオンの言葉に渋々、王妃が部屋を去ったのを確認すると、ユリウスは窪んだ目から涙を溢した。
「全て……思い出した……ユリウスだった頃の記憶を……」
息も絶え絶えに王は語る。
──先代勇者ユリウスは、王室と縁の深い公爵家に生まれた。当時魔王から受けた被害は甚大なもので、高貴な生まれのユリウスだが血の滲むような修練を積み、勇者として魔王討伐の旅に出た。
伴に選ばれたのは戦士、魔導士、そしてエルフの巫女。四人は旅の中で絆を深めていったが、ユリウスと巫女はいつしか男女として惹かれ合い、魔王の城を目前にしてついに結ばれたが、魔王との闘いで不意を突かれて魂を抜かれ、ユリウスの意識はそこで一度途絶えた。
「そうして……私がこの肉体を得て倒した竜は……彼女だった……! 彼女は……竜になる前……どんな姿をしていた……!?」
「確かに……女だった。エルフの……」
「……ええ、確か、銀髪でした」
「やはり……やはりそうだ……!」
王は魔法で誤魔化せない胸の苦しみに悶えた。
「彼女は私の魂の器を探し……魔王に堕ち……ルークの魂を抜いた……そして愛した私に斃されたのだ……なんという因果……か……」
王は順に、渾身の力で仲間たちの手を握り、涙ながらに頭を下げた。
「ディオン、シェル、イブキ……ルーク!……私を許してくれ……ルークを奪った私と、彼女のことを赦してくれ……!」
王冠を振り落とし、咽び泣く王を見てシェルは思わず涙した。
「そして……罪深い、強欲なことと、わかっているが……今は我が妻ソーニャを……確かに愛している……! 妻と……子たちのことを……! この国と……世界のことを、どうか、頼む……!」
振り絞るように話し終わった後、王は一際大きく苦しみだし、やがて力なく横たわった。
「ルーク! ──ッ、ソーニャ様、陛下が!」
「あなた!」
「父上、父上!」
妻子、家臣、友人たちが永い眠りについた王を囲んで涙を流す。最期の寝顔はどこか晴れやかで、安堵の笑みを浮かべていた。
ディオンは遂に耐えきれず、混乱に乗じてその場を抜け出し、走り去った。誰もいない城の片隅まで駆け抜けて、ようやく立ち止まったディオンは肩を震わせ──堪えきれず吹き出し、狂ったように哄笑する。
「【勇者王ルーク】……中々いい幕引きだったぞ、ユリウス!」
ユリウスが告白した百年前の出来事を、ディオンは既に魔王の手記から把握していた。そしてユリウスの魂を抜いた先代魔王もまた、先先代の勇者の器を探して魔王の力を求めたことも知っている。
魂をめぐる悲劇の連鎖がいつ始まったのか定かではない。だが勇者への親愛、恋慕、忠誠心、さまざまな形の執着心が新たな魔王を生み、そして魔王が生まれる事で勇者が生まれる。魔王の蔵書を読み耽り、その全てを手に入れた時、ディオンは既にその円環の一部となっていた。
ルークの肉体の死と、ルークの息子の成長を見届けた。勇者の肉体が天に返されたことで、次の勇者が生まれる準備も整った。
「この国でやるべき事を終えたぞ、ルーク」
緋色の宝玉を手にしたディオンは、黒い霧と化してたちまち姿を消した。
王の葬儀に現れず、侯爵邸にも二度と戻らなかったディオンを、殉死したのだと人々は噂した。新王に即位したラケスは魔剣士ディオンを忠義の臣として讃え、父王の像の隣に彼の像を作らせた。彼の詩を吟遊詩人が流行らせると、勇者の詩と併せて後年まで歌い継がれることとなる。
──百年の時を経て、漸く壮年の貫禄を得たイブキは一人、風の吹き荒ぶ断崖に立っていた。崖下には青い海が広がり、今まさに水平線の向こうで太陽が沈もうとしている。
かつて大司教まで務めたこの男が、供の一人も付けず辺境の地まで旅をしてきたのは、ある噂の真相を確かめるためだった。
百年でこの国は変わった。勇者王ルークとその子の代までは美しく栄えていたが、魔物の増加に伴い徐々に荒れていった。騎士団の対応が追いつかず、魔物に懸賞金を掛け有志を募ると、それを目当てに集まった荒くれ者の魔物狩人が王都の酒場で昼夜を問わず屯した。魔物に襲われて故郷を追われ、路頭に迷った者たちが物乞いをしてしている姿も珍しくない。
この光景をルークが見たらどう思うだろう。そう思いながら街を歩いていると、大声で喚く酔っ払いの声が聞こえてきた。
──本当だよ、俺は魔剣士ディオンに会ったんだ。
初めはイブキも妄言だと思った。白昼堂々酔い潰れている男の何を信じられようか。だが続けて聞こえてきた話に、イブキは己の耳を疑った。
「ありゃあ、俺が相棒と旧魔王城に蝙蝠退治に行った時の事だ。魔王城ったって、朽ちて今は廃墟だろ? 金目の物も何もねぇが、楽でボロい仕事だと思ったんだ。
で、そこに一人の男が居たんだ。黒髪の男で、しかも古くせぇ鎧まで真っ黒でよ、面は悪くねえがとにかく陰気だった。相棒が『何してやがる、ここは俺たちの狩場だぞ』なんて怒鳴りつけた。
そしたらそいつ、笑いやがった。笑いながら、仲間の一人にこうやって……手を向けたんだよ」
酒が回って真っ赤になっていた男の顔は語るうちにいつしか青白くなっていた。持ち上げた掌をぶるぶると震わせて、振り払う。
「そしたら小さな石塊が相棒の体から飛び出してきて……そいつは急に……棒切れみたいに真っ直ぐ倒れた。男は石を拾って、そこいらに捨てながら言ったんだよ『国へ帰って伝えろ、ディオンが勇者を待っているとな』」
「なんだぉ、そりゃあ」
話を聞いていた別の冒険者が首を傾げた。
「ディオンつったらよお、御伽話の勇者王の忠臣ディオンだろ。いかれた奴がホラ吹いてるか、グールにつままれたんじゃあねぇか?」
「だったら俺の相棒はどうなったんだよ!? ありゃあ、雑魚悪魔にできる所業じゃねえぞ、あれはディオンの亡霊だ、あいつは勇者を探してるんだよ!」
イブキの脳裏に、100年前に消えた友人の姿がよみがえる。居ても立っても居られなくなったイブキはそのまま王都を飛び出すように旅に出た。
そして今、探していた人物がイブキの前に姿を現した。ほぼ太陽が沈みかけた赤紫の空を背にこちらを向いて立っている友人の姿は、共に旅をしていた頃のままだった。
「この目に映る君は、私の罪悪感が生み出す亡霊でしょうか?」
イブキが泣き笑うようにこぼすと、ディオンは慈しみを孕んだ笑みを浮かべた。
「ようやく老いぼれたと思ったら、弱気になったのか? イブキ」
「ディオン君……」
「ユリウスが【ルーク】として死んだ時、お前の罪は消えた。俺はもうお前を恨んではいない……」
「ではなぜ」
神の摂理に逆らうのか、と問おうとしたイブキの喉笛に、ディオンの剣の刃がぴたりと沿う。
「イブキ……なんのつもりで俺を探した?」
「それは勿論……魔王となった君を止めるために」
「勇者でもないお前がか」
ディオンが剣を握る手に力を込めるより一瞬早くイブキは後方に跳び、魔法で障壁を作り上げた。だが同時に勢い良く踏み込んできたディオンの一薙ぎであっさりと障壁ごと斬りつけられ、イブキの白い法衣が赤く染まる。
「ぐ……あ……っ」
「ルークが赦すと言っているから止めは刺さない。運良く生きて帰れたら……そうだな、今度は俺でなく勇者を探して旅するといい。そして強い戦士に育て上げてくれ、頼んだぞ」
一方的に言い残すと、ディオンは漆黒の鱗を纏った竜に変化した。黒のヴェールにも似た翼を広げて静かに飛び去り、完全に陽が落ちた濃紺色の夜空に溶けるように消えてゆく姿を見送って、神官は静かに目を瞑る。
冷たい海風が涙に濡れた頬を撫でつけ、吹き抜けていった。