2話 魔王の蔵書
王は勇者たちのために、三日三晩の宴を催した。
国が救われたこと、勇者が無事に凱旋したことを祝い、城だけでなく国中をあげて行われる盛大な祭となった。
そして三日目の夜、王はある発表をした。
「世界を救った英雄ルークと我が娘、ソーニャ王女の婚約が決まった。ルークには爵位と領地を与え、王室の一員とする。そして二人の間に子を授かれば、継承権を与えよう」
歓声とともに拍手が巻き起こる。王の傍らに立つユリウスと、隣で頬を染めはにかむソーニャ王女。
続いてシェルが、宮廷魔導師に叙任された。
イブキは王都の大聖堂の最高司祭となることが既に決まっている。
「そして魔剣士ディオンよ、そなたを王家を護る近衛騎士に任ずる。さらに褒賞として国宝の剣を授けよう」
おお、と一瞬どよめきが広がった。田舎領主に仕えるただの従士にとって、大出世だ。
「ありがたき、幸せ」
宝物庫から出てきた煌びやかな宝剣を王から授かる。騎士としてこんな名誉はない。震えるほど嬉しいはずなのに、ディオンには目の前の光景がまるで壁の額縁の中で繰り広げられている心地がした。
昨晩、ユリウスから相談を受けていた。
「すまない、ルークの親友である君にどうしても聞きたい事があったのだ」
人払いされた王城の一室、バルコニーに設けられたテーブルにつく。ユリウスにワインを勧められたが断って、話の続きを待つ。
「ルークには……たとえば将来を誓った相手が居たんだろうか? 故郷や、学院には」
「そんな話は聞いた事がない。少なくとも俺は把握していないから、居ないんじゃないか」
「そうか」
ユリウスはほっと胸を撫で下ろしたようだった。
ルークは色恋沙汰に興味が無いようだった。というより自分の出生を気にしており、他人と親しくしても、そこには踏み込ませたがらなかったように思う。
「実は、王から縁談を持ちかけられているのだ。ルークに」
「お相手は」
「プリンセスソーニャ」
「それはおめでとうございます」
「受けても良いだろうか」
「俺の許可が必要か?」
ユリウスは困ったように眉尻を下げ、ワインを一口含んだ。ディオンもグラスを掴み、ぐいと大きく呷る。芳醇な香りが鼻を抜けていく、上等なワインだ、お上品な口当たりは安酒と違って全く酔える気がしない。
「不可抗力といえ、申し訳なく思っているのだ。僕は君の親友の肉体を奪った。返せるものならば返したい。それが出来ないなら……【勇者ルーク】の名に恥じぬよう生きるべきと考えている」
ユリウスにも思うところがあるだろう。いきなり別人の体に宿り、他人の人生を生きなければならない葛藤が無いとは思わない。仮に今すぐルークの魂と入れ替わることができると言えば、ユリウスは素直に従うだろう。
だが、出来ないのだ。空の器に魂を入れるのはイブキにもできた。だが一度定着した魂を引き剥がすのは膨大な魔力と高度な技術を必要とする。禁忌を犯すのを恐れてか、こういった魔法の研究もされていない。
「……貴方はどうしたいんだ? ユリウス」
「僕か? ……かつて僕はこの国のために生まれ、勇者となるべくして育てられた。ユリウスとしての生は道半ばで絶たれたが、再び務めを果たせる機会を授かった。この国を豊かな良い国にしたいのだ。ルークの力を借りてな」
星空を眺め、ユリウスは真剣な顔で語った後「……しかもプリンセスは美人だ、願ってもない申し出ではないか」と悪戯っぽい顔で付け加えた。
「……なら、良かったじゃないか」
ディオンはグラスを飲み干し、席を立った。
「勇者を幸せにしてやってくれ。俺が言えるのはそれだけだ」
「ああ」
ユリウスは握手を求めた。ディオンは一呼吸置いてからその手を軽く握り返すと、颯爽と部屋を後にした。
数ヶ月後。救国の勇者ルークと王の一人娘の結婚式は、王都の大聖堂で盛大に開かれた。イブキが司祭として執り行い、シェルの魔法で花弁の雨が舞った。
ディオンも近衛騎士として式を間近で見届けた。【勇者ルーク】の冒険譚の最後のページに相応しい、美しい式だった。国中の人々が祝い、彼の幸せを祈った。その夜、ディオンは独り王都を発った。
ディオンはひたすら馬を駆り、走り続けた。
かつて凶暴な魔物や生い茂る毒の草木に手こずったものだが、今は静かな森が広がるだけで、子鹿や野兎など無害な生き物の姿ばかり。
そうして目的地に予想より早くたどり着く事ができた。入り口に強固な結界が貼られているが、術者は容易に通り抜けることができる。以前、イブキ、シェル、ディオンが魔力を合わせて張ったものだ。
あの時は二度とここへ戻るまいと思ったが、こんなに早く舞い戻ろうとは──と、ディオンは自嘲気味に笑って魔王城に足を踏み入れた。
所々蔦が伸び、雨風に晒されて風化が進む箇所があるものの、結界の効果で城内はあの日のままを保っていた。目の前でルークを失った光景が何度もフラッシュバックする。今すぐここを逃げ去りたい気持ちを振り払い、玉座の間を開いた。
「……ここもそのままか」
巨竜を倒した後、骸は灰となって崩れ去った。破壊され穴の開いた床を避け、骸があった場所に近付くと僅かに遺灰が残っている。
その中に、きらりと微かな輝きが見えた。跪き、覗き込むと小さい緋色がある。手で掻き出すとそれは、見覚えのある宝玉だった。
「勇者の魂……ルークか!?」
汚れを綺麗にしてやると、透き通った緋色は日光を拾ってちらちらと輝いて「そうだよ」と伝えているかのようだった。
ディオンは失われたルークの魂について、何らかの手がかりを得たくてここまで来た。だがルークはずっとここに居たのだ。魔王の骸の中でひとり、眠っていた。
神官であれば、ルークの声を聞くことができるのかもしれない。ユリウスの魂を見つけたイブキはすぐにそれが先代のものだと読み取っていた。ならルークの魂をイブキのところに持っていけば──と、ここまで考えてディオンは思いとどまった。
持って行ったところで、何になる。ルークの肉体はもうない。世界を救って姫と結ばれ、めでたしめでたしの大団円を迎えた【勇者ルークの物語】に今更瑕疵の証拠が見つかったと言えばどうなる?
今のルークを連れて行っても、誰も喜ばないと思った。イブキもシェルも、ルークを諦めて早々とユリウスを受け入れた。信用できないとディオンは思った。魂だけになったルークに意識があるのか分からないが、これ以上ルークを傷つけたくなかった。
ルークの魂をもう一度丁寧に拭い、手巾に包んで懐にしまった。
玉座の裏の隠し通路から、ユリウスの魂が安置されていた部屋に入った。ここも変わっていない。鼠にも荒らされておらずディオンはほっとする。
壁にびっしりと並んだ本棚から適当に一冊手に取ったが、古代文字で書かれていて読めなかった。どれもこれも、古代文字やエルフ文字の本ばかりで目眩がする。学院でもこの科目は興味がなく履修していなかった。秀才のシェルなら、エルフの血を引くイブキなら、読めただろうか。信用できないと諦めたばかりなのに、かつての仲間の顔が浮かぶ己が情けなかった。
魂に触れる魔法、その手掛かりはここしかないとディオンは考えていた。ここは魔王の書斎か、研究室といったところか。ここで答えが見つかるはずだ。
ディオンは目についた本をいくつか持ち出し、外に繋いでいた馬へ飛び乗った。魔王の蔵書を読み解くために、古代文字とエルフ文字を学び直す必要がある。幸い近衛騎士である自分なら、城の書庫にも入れる。
「……少し、待っていてくれ」
懐の中のルークに語りかけ、ディオンは王都へ走った。
「お生まれになりました、元気な王子様ですわ!」
「勇者の血を引く世継ぎじゃ、実にめでたい! よくやったぞソーニャ! おお、このじいに抱かせてくれ」
ドアの向こうから聞こえる産声に、廊下に控えていた衛兵や使用人たちは安堵のため息をついた。ディオンも思わず出たあくびを噛み殺す。昨日の夕刻ソーニャが産気づいてから、ずっと扉の前で控えていた。無遠慮に差し込む朝陽が眩しい。
と、階下からガシャガシャと喧しい音を立てながら、赤子の父親が鎧を着込んだまま走ってきた。
「おい、今帰ったのか?」
「ハァ、ハァ……ああ、辺境の魔物が……思ったより多くて手こずった! それよりソーニャは無事か!?」
「大丈夫だ、無事に生まれた」
ユリウスは感極まった顔で膝をつく。
「良かった……っ! 神よ、感謝します……」
「おめでとう、【ルーク】。お前もついに父親か」
「ああ……!」
「着替えてこい、それじゃ赤ん坊抱けないだろ」
「それもそうだ……着替えて出直そう」
「俺も一度戻るよ。さすがに眠い」
部下に交代を伝えて、ユリウスと連れ立って場を離れる。気の置けない良い友人として、気さくに話をしながら。
魔王城でルークの魂を見つけてから、早くも二年が経過していた。
ディオンは日々近衛騎士として務めながら、古代文字とエルフ文字を学び、魔王の蔵書の解読にのめり込んだ。読めるようになった本は蔵書の十分の一にも満たないが、ひとつ分かったことがある。
【勇者の魂は、勇者の肉体にしか適合しない】
ルークの肉体にユリウスの魂が嵌ったのは必然だったのだ。常人の肉体に勇者の魂を入れても肉体が耐えられないという研究結果が記されていた。
ルークの肉体からユリウスの魂を抜くことはほぼ不可能だろうとディオンは結論付けた。ユリウスなら【勇者ルーク】を素のままに演じられるし、幸せに出来るだろうと信頼していた。
それに今まさに幸せの絶頂にあるであろうユリウスが抵抗しないとも限らない。さすがに一人で勇者を相手にするのは分が悪い。
そもそも、魂を抜くのに必要な魔力量を用意できないのだが。
ルークの息子がたどたどしく歩けるようになった頃、王が戯れに勇者の剣を触らせた。幼い手に力を貸して、一緒に剣を抜こうとする。ディオンが息を呑んで見守るも王子は剣を抜くことができず、すぐに飽きて祖父の膝でぐずりだした。
ディオンは持ち場を離れ早足で自室に戻ると、懐からルークの魂を取り出して床にくずおれた。薄暗く静かな室内に啜り泣く声が響き、やがてそれは懺悔に変わった。
「ルーク、俺は……! お前の息子を……まだ幼い息子を! 勇者の器になれるか期待した……そして、そうでないことに安心した! もしあの子が勇者だったら俺は……赤ん坊なら魂を……抜けるかもしれないと、期待したかもしれない……! 己が恐ろしい……」
うずくまり、緋色の宝玉に嗚咽混じりに訴えかける。何も応えない物に、必死になって語りかける己のことを虚しいと思った。それでもルークの魂はきらきらと相槌を打つように輝くので、ディオンは止められず、語り続けた。
「俺は何も知らない……魂のことも、勇者のことも……もっと知りたい、そしてお前ともう一度話したいよ……笑い飛ばしてくれ、愚かな俺を……」
宮廷魔導師のシェルと、近衛騎士のディオン。同じ城に仕えているが、職務の内容が全く違うため、顔を合わせることは少ない。
そのシェルがある日突然、ディオンを城にある人気のない庭に呼び出した。
「よ……久しぶり」
「ああ」
重い重いと文句を垂れていた宮廷魔導師のローブをすっかり着こなしたシェルは、落ち着かない様子でガゼボの椅子に腰掛けていた。
「忙しそうだなー、近衛騎士殿」
「そうだな、今も部下に頼んで抜けてきている」
「なら単刀直入に聞くけどさ」
「何だ?」
「お前、書庫で何か調べてるよな?」
ディオンは一瞬口角が引き攣ったが、それを悟られぬよう冷静に答えた。
「確かに城の書庫なら王の許可を得て何度か借りている。城仕えの騎士として足りない教養を補うためにな。それが何だ?」
「黒髪の近衛騎士様が禁書の魔導書庫に入るのを見た奴がいる。それも何度も。あの書庫はうちの管轄だから一度や二度なら僕が揉み消せる。が、流石にもう庇えないからやめろって言いに来た。それだけ」
「……悪かった。初めは単なる好奇心だったんだが、つい続きが気になってな。もうしない。……もう戻って良いな?」
「どうぞ。忙しい所悪かったよ」
踵を返し、足早に去っていくディオンの後ろ姿にシェルがぽつりと投げかける。
「ディオン、俺に嘘つくようになったのかよ」
騎士は答えず、垣根の向こうに消えた。
やがてディオンは魔王の蔵書の約半分を解読した。
驚くことに、蔵書の殆どが歴代魔王の自筆だと判明した。先代、先先代、それより古いものもあったが、どれも魔力の込められたインクと本の内容から著者の力量が推測できた。通りで言語も、書き方もばらけているはずだ。
この頃には既に辞書を引かずとも古代文字を読み解けるようになったディオンは、一冊の手記を読み耽っていた。
古の魔王が書いたものだが、これはその魔王がまだ【魔王でなかった頃】から書いている日記のようだった。
《睦の月、三の火、曇天。この日私は魔導師にとって念願の杖を手に入れ──》
はじめは魔導師が退屈な日常を書き留めているだけだったが、ふと気になる記述を見つけた。
《──そして私は勇者の露払いとして仕えることになった。この名誉を故郷の──》
ディオンと同じ、勇者と共に戦っていたようだった。そこから毎頁、必ず勇者の名が登場し、いつしか背中を預け合う間柄になった。そして魔王の討伐を目前にしたある時から日記は途切れ、読めないほど乱暴に書きなぐられたり、破り取られた頁が現れる。そして次からは研究日誌が始まっていた。
《──時間が足りない。神の領域へ至るまでに私の命が尽きるだろう。まずは時の摂理から脱却しなければ》
まさに今のディオンが悩んでいることだった。蔵書の半分を読み解くまでにユリウスの息子は歩き、喋り始めている。妃の胎には既に二人目の子がおり、【ルークの人生】が完全にルークから乖離していく。特に何の成果も得られないまま、世界が進んでいく焦りがディオンの精神を徐々に蝕んでいた。
本の中の魔導師は、やがて肉体の老化を克服した。そのために必要な素材も、工程も事細かに記されている。ディオンは本に栞を挟み、数日ぶりに寝台に横たわった。悩みの解決方法は分かった。まずは休息を取り、万全の状態にならなければならない。
友のため、やるべき事のために。