1話 勇者の凱旋
巨竜と化した魔王、その金剛石の鱗を神剣が貫く。
頸に跨る【勇者】は剣の柄を逆手に握り直し、渾身の力を込めて竜の首を切り裂いた。竜は断末魔の代わりに炎をまとった血を吐き散らし、頭を失った巨体が地響きとともに斃れる。
やがて動かなくなった骸から勇者が降り立った。折良く雲の隙間から太陽が顔を覗かせ、崩れ落ちた天井から光が差し込むと、勇者の姿を煌々と照らし出した。
その神聖な姿に魔導師は思わず杖を置き、跪いた。神官も目を細め、魔導師に続いた。
魔剣士はその後ろで、剣を鞘に収めて立ち尽くしていた。右の目から溢れたひとすじの涙が、頬にこびりついた返り血と混ざって赤い雫になって落ちた。
勇者の一行が王都の門をくぐると、民衆から大歓声が上がった。
──勇者様、万歳、万歳!
王が待つ城まで街中を通り凱旋する。道中、民衆をかき分けて二人の男が一行に駆け寄り、初老の男のほうが馬上の勇者に大声で呼びかけた。
「良くやったぞ、ルーク!」
勇者が言葉に詰まっていると、勇者の背後から黒馬に跨った黒装の魔剣士がぬらりと現れた。恭しく会釈して見せる。
「ただいま戻りました。馬上からのご挨拶をお許しください、伯爵様、サイモン様」
「おお、ディオンよ。そなたも良く息子に尽くしてくれた。大義であったぞ」
続いて若い男が勇者に声をかける。大袈裟なまでに腕を広げて勇者の腕を掴んだ。
「ルーク! 自慢の弟よ、無事で何よりだ」
勇者は頷き、父と兄に微笑みかける。
「ただいま戻りました、父上、兄上」
勇者の父と兄は一瞬顔を見合わせ、ほっとしたような微妙な笑みを浮かべた。魔剣士が勇者の背を押して、一行は歩みを再開する。魔剣士は青筋を立てて手綱を握り、戦慄く腕を群衆に悟られまいと漆黒の外套を掛け直した。
「勇者ルーク、まさかお前がここに居ないとは誰も思うまい」
そのつぶやきは群衆の声にかき消される。
あれは魔王と邂逅した時の事だった。
魔王の居城、謁見の間の扉を開けた先で、美しい女が古めかしい玉座に座っていた。女はおもむろに腰を上げ、一行の姿を無遠慮に見下ろす。
銀糸の艶やかな髪を結い上げた頭には、雄牛のようにいきり立つ角。星屑を散りばめた漆黒のドレスを纏うのは豊満で嫋やかな女体だが、背丈が男の2倍はある。
魔王が女であったことに動揺したルークに代わり、ディオンが剣を抜いて問いかけた。
「魔王か?」
「……いかにも。わたくしこそ、魔王。ぬしは……勇者ではないな。勇者は誰ぞ?」
ルークも続いて剣を抜き、ディオンに並び立った。
「我が名はルーク、この剣の主だ」
神々の時代に鍛えられたと言う、勇者だけに許された剣。勇者である証。抜き身の剣の輝きを見て、魔王も爛々と目を輝かせた。
「待っていたぞ……乞い、焦がれるほどにのう……勇者よ!」
そう言うと魔王は音もなくルークに飛びかかり、戦闘が始まった。
一行の戦いぶりはけして悪くはなかった。魔導師シェルは魔力を温存していたお陰で存分に大魔法を出せたし、神官のイブキは素早い治癒と細かな補助で前衛を支えた。
そしてルークとディオン、二人の巧みな剣撃で最初こそ押していたが、魔王はそれを容易く読み解き、軽くさばくようになった。二本の剣を受け流し、時折飛んで来る巨大な火球や氷柱を握り潰し、治癒魔法を自ら操りダメージを無効化してきた。
そうしているうちに魔王の爪がディオンの額を掠め、飛び散った血に視界を遮られたディオンが微かによろめいた。それにルークが気を取られた、ほんの一瞬の隙をついて魔王がルークの脚を掴み、床に叩き付けた。
「ディ──あ……ッ……」
強かに頭と背中を打ちつけ、ルークが気絶する。
「ルーク!」
目を拭ったディオンが駆け寄ろうとするも、見えない壁に阻まれる。魔王が魔力の壁を張ったのだ。ディオンの剣を突き立てても傷一つつけられない。
「ルークに何する気だ!?」
「ルーク君!」
シェルとイブキも障壁を破ろうとするがびくともしない。中の魔王はルークの胸もとに手をかざし、目に見えるほどの濃い魔力を放出し始めた。
「やめろ!」
ディオンが叫ぶ中、魔王は魔力を纏った手をルークの胸に当てる。そして緋色に輝くなにかを手にして、魔王が手を引いた。同時にルークの頬や唇から生気が消える。ディオン達を阻んでいた壁も消滅した。
「ついに……手に入れた……次はぬしらを消してやる!」
魔王は高笑いしながらその身を白銀の竜に変えた。ディオンは変身に悶える竜の足元から死にもの狂いでルークの体を攫うと、シェルとイブキが見つけた隠し通路へ潜りその場を逃れた。
隠し通路は城の地下深くに繋がっていた。追手や魔物の気配が無いことを確認してからディオンは担いでいたルークを下ろし、口元に耳を寄せる。
寝息のような、微かな呼吸音が聞こえた。顔が死体のように白いことを除けばただ眠っているだけにも見える。
「ルークは……一体どうなったんだ?」
イブキがルークの胸に手をかざす。治癒をかけても反応がない。イブキは俯いて手を引っ込めた。
「私には治せません。怪我や病ではない。魂が抜かれています」
「それじゃあ……抜かれた魂はどこに行ったんだ? ルークは死んだのか!?」
「わかりません。魂に触れるのは神の御技。魂を抜くなど禁じられた邪法です。肉体は生きていますが二度と目を覚ますことはないでしょう」
ディオンは言葉を失った。シェルはルーク無しでここからどうすんだよ、と頭を掻く。
ディオンは再びルークを担ぎ、通路の奥を指差した。ルークがこのまま死ぬはずがない、あんなにあっさりと終わるはずがないと信じた。
「ここにいても仕方がない。奥へ進んでみないか」
引き返したところで巨竜が待ち構えている。イブキとシェルは力なく頷き、それぞれの杖に照明の魔法を灯した。
通路は薄暗い割に魔物が一匹も居ない。魔王の居城の地下でありながら空気は非常に清浄で、奥へ進むほど張り詰めるような聖の魔力が満ちていた。
最奥に辿り着くと、そこには広い一室があった。壁一面に書物が並び、魔法薬の調合や何かの実験に用いる道具が所狭しと置いてある。
その中に一つ、煌々と輝く硝子の箱があった。中には真紅の宝玉が鎮座している。大きさは卵程度だが、深く輝く赤が三人の目を惹いた。
「……イブキ?」
不思議な力に操られるようにイブキが箱の蓋を開け、中の宝玉を取り出した。震える両手で宝玉を掬い上げると、興奮して上擦った声を漏らす。
「これは……魂ですよ、勇者の!」
「勇者? ルークのか?」
「違います、微かに聞こえる声を聴くには……先代勇者のようです。」
なぜこんな所に先代の魂が囚われているのか、考えるべきことは多くあったがパーティ壊滅の危機が迫る中でイブキは一つの案を思いついた。
──この魂をルーク君の体に入れてみませんか
【勇者の魂を失った】我々の前に【魂だけの勇者が現れた】のだから、この答えに辿り着くのは明白だった。シェルは命や世界の危機には代えられない、と頷いたが、ディオンは頑なに拒否した。
「ありえない、ルークへの……いや、神への冒涜だ!」
「では四人揃って竜の餌になりますか? 世界はおしまいですね。ルーク君がそれを望むでしょうか? 彼ならきっと……」
許してくれるだろう、とイブキは部屋の隅に横たわるルークを見る。ディオンは視線を遮るように割り込むと、イブキが持つ勇者の魂を力づくで取り上げた。
「こんなもの……ッ!」
「ディオン! 気持ちは分かる、僕だってこんなことになって悔しいさ! けどこうするしかないだろ!? このまま全滅したら、ルークに会わせる顔がねぇよ……」
「ディオン君、渡してください」
「頼む……ディオン」
仲間の中で一番力強く、体格が良いのはディオンだ。二人がかりだろうが後衛のシェルとイブキがかなう相手ではない。それを分かって、二人はただ一心に懇願した。
絶対に渡してなるものか。ディオンが宝玉を握る手に力を込めると脳内に微かな声が聞こえた。聞き慣れたあの声だ。
──渡すんだ、ディオン
「ルーク……」
──俺のことは、いいから
「……これは死を恐れる俺が、都合の良い声を聞いているらしい……」
放心したディオンの手から、イブキがそっと宝玉を抜き取った。
かくして、復活した勇者により魔王は打ち倒されたのだった。
魔王を倒したものの、王国への帰路は長い。旅はまだ続いていた。ルークの体に宿った勇者は、自ら先代勇者のユリウスであると名乗った。
「ユリウスといえば、100年前に魔王を倒した後は国に戻らず、そのまま世捨て人になったっていうのが通説だろ。魂が封印されたのはいつなんだ?」
「いやあ、僕もよく覚えていないのだよな。記憶が曖昧で、魔王を倒したのかも正直わから……な……ッ……」
ユリウスがこめかみを抑えて立ち止まると、イブキがすかさず鎮痛の祈りをかけた。
「痛みますか?」
「すまない……思い出そうとすると頭が痛んでかなわん」
「魂と肉体の拒否反応でしょうか。この肉体にはないはずの記憶を魂が遡ろうとするので痛むのかもしれません。ご無理なさらず」
そろそろ陽が傾いてきた。ディオンは荷物を置き、野営の支度をはじめた。
「今日はこのあたりで休もうか、【勇者様】」
「ああ、有り難く休ませてもらおう」
仏頂面のディオンにも朗らかな笑みを返すユリウス。勇者の性質とでも言うべきか、ユリウスはルークのように柔和な人柄で嫌味がなく、シェルやイブキとすぐに打ち解けた。会って間がないと思えないほど、ルークの立ち位置に違和感なく入り込んだ。
今もイブキの貼った結界の中で無防備に寛いでいるその姿は、共に旅をしてきたルークそのものだ。
と、ディオンはそう思ってしまった自分に虫唾が走った。薪木を拾いに森へ入ったディオンをシェルが追いかけて来る。
「ディオン、感じ悪すぎだろ。先代勇者様だぞ? 悪いやつじゃないのは分かってるだろ」
「あいつはルークじゃない」
「ルークは……死んだんだ。俺たちの中でな……これ以上、どうしようもなかったろ」
「俺たちだと?」
ディオンの手の中の小枝が、ぱきりと音を立てて折れる。シェルは肩をすくめて続けた。
「ルークは世界を救った勇者として国に戻るんだ。
あいつの名誉を守ることが俺たちに出来る弔いじゃないか?」
魔王城での魂のやりとりは仲間内で秘めておくことになった。
魂に触れるのは信仰上御法度。非常事態といえど、禁忌を犯したイブキは良くて破門、最悪死刑の可能性もある。魂を抜かれ、別人の魂が入った勇者を民衆が受け入れるのは生理的に難しいだろう。
【勇者ルーク】の尊厳を守るために、ルークを殺さなければならない。
ルークとの出会いは十数年を遡る。
建国の時代に王家との繋がりを持ち栄えたが、今は衰退した弱小伯爵家の当主。彼が辺境の宿の娼婦に手を付け、生まれたのがルークだった。
既に正妻との間に生まれた嫡男がいたがその嫡男は出来が悪く、焦った伯爵はルークを認知し屋敷へ引き取ることを決めた。
ディオンは伯爵家に仕える騎士家系の出で、同じ年に生まれたことからルークの遊び相手に選ばれた。なぜ後継者ではなく落とし子に仕えなければならないのか、幼いディオンは不満に思った。自分は兄弟の中でとびきり優秀で、剣と魔法の才能に満ちていると自惚れていた。
その頃ルークは幼児期の栄養不足のせいで小さく痩せこけていたし、屋敷に来たことで正妻や兄にいじめられていた。いつもされるがままになっているルークを、つまらない奴だなと思った。
ある日、ディオンは伯爵が催す狩りに出席した。もちろん自分の腕前を振るう機会はなく、ルークのお守りをしなければならない。痩せた猟犬を連れ、とぼとぼ歩くルークの後ろを退屈そうに歩いた。
突然、目の前に巨大な熊の魔物が現れた。狩場にいるはずの無い大きさだ。正妻がルークを消すために放ったのかもしれないが、今となってはわからない。とにかく尻尾を巻いて逃げていく猟犬を見て、ディオンも逃げなければと思った。ルークは何を思ったか、じっと熊の前に立ち尽くしていた。恐怖で足が竦んだのかもしれない。ディオンも恐怖のあまり、熊から目を背けて後ずさったところを、熊の標的になった。荒い息を吐きながら突進してくる黒い塊が目の前まで迫り、ディオンは思わず顔を覆いしゃがみ込んだが、いつまで経っても衝撃は訪れない。恐る恐る腕の隙間から覗くと、熊は倒れ、ルークがディオンの短剣を持って立っていた。
「……大丈夫? ディオン……」
ディオンは驚きのあまり尻餅をついた。
「ルーク……おまえが倒したのか!?」
「あ……うん、そうみたい……初めてだったけど上手くいって良かったぁ」
ルークは兄が受けていた剣の稽古をこっそりと盗み見ていたのだと言う。見よう見まねで練習をしていたが、実戦で剣を振ったのはこれが初めてなのだとルークが語るのを見て、ディオンはかっと顔の芯から熱くなった。初めて剣を持ったやつに助けられたなんて、俺に恥をかかせやがってと大声で詰りたかったが堪えた。腰が抜けて立ち上がることができなかったから。
「手、貸してくれ」
「えっ? はいどうぞ……イテッ」
ルークの手を借りて立ち上がると、ルークの肩口がぐっしょりと血に塗れていることに気付いた。
「怪我、してる」
「へへ……」
「俺のこと助けたから……」
「良いんだ、ディオンが無事で良かったよ」
ルークにとってディオンは相当、鼻持ちならない奴だったはずだ。ディオンは自分が上であると気取っていて、ルークの兄のように虐めはしなかったが主人に取るべき態度ではなかっただろう。
それなのに助けた。自分の身も顧みず、初めて剣を握って立ち向かった。
嫉妬、羞恥、驚嘆、様々な感情がひとしきり駆け巡ったあと、ディオンの胸に芽生えたのはルークへの忠誠心と尊敬。
ディオンは跪いた。
「ルーク、今までの無礼をお許しください。そして従士としてこれからも仕えさせてほしい」
ルークは目を丸くした後、照れ臭そうに破顔して跪いたディオンの肩を叩いた。
「ありがとう。これから色々と俺に教えてよ……友人としてさ」
ルークと固く握手を交わしたあの時から、ディオンはルークのために生きてきた。
その後ルークはその利発さでめきめきと頭角を現し、周囲から一目置かれるようになった。素直なルークは屋敷の使用人からも好かれ、正妻の子を差し置いて次期後継者になるのではと噂された。
これに激昂した伯爵夫人は夫を責め立て、伯爵は王都の全寮制の学院にルークを入学させた。殆ど追い出されたようなもので、落とし子だからと学院内で家名を名乗ることも許されなかった。それでも腐らずに努力を続け、そして勇者の剣に挑む資格を得たのだ。
いつも優しく、誠実で、勇敢だった。その裏で勇者に相応しい男であろうと努力していた姿を知っている。
手の皮が剥けて血が滲むまで剣を振るっていたこと。実父に認められたいという、幼気な思いを捨てきれなかったこと。決戦前夜は震え、悪夢にうなされていたこと。
【勇者ルークの凱旋】が、本当にルークの魂を救えるのだろうか。
四話で完結する短編です