朝顔の眠るころ
携帯を握りしめたまま目を閉じる。冷える指先、ベンチの冷たさ、冬に片足を突っ込んだ独特の空気。
手の中の振動でそっと目を開く。暖かく淡く煌めくガーデンプレイス。自分とは関係ない幸せの集合体。一件のメッセージの表示に触れる。端的な言葉を確認し静かに立ち上がり、駅の出口に戻った。あたかもずっとそこにいたように偽装する。また一つ増えてしまった、と。
いつからか世の中にあふれる男女のセットは全て純粋な関係ではない、とそう思うようになってしまった。多分あいつのせいだ。流れで行った大宮の古着屋でネクタイを締めてやったあいつ、思いつきで江ノ島まで行ってしらす丼を食べたあいつ。たまたま入った古着屋でお揃いのラルフローレンのシャツを買って写真を撮った瞬間からずっと思っている。でもちゃんと思い返してみれば何度も泊まりに来ていた不登校のあいつも、ほんの3回しょうもない遊びをした綺麗な顔をしたあいつも、この思考に至るまでの要因だったような気もする。そしてこんな取り止めのないことを考えながら待っている人も同じく要因になるであろう存在だった。恵比寿に呼び出してくるような奴には初めて出会った。どんなに傲慢な奴だろうと不快感を覚えながら指先を温めていた私に遠慮がちにどこかの自販機で買ってきたであろう温かいミルクティーを手渡してきたときは心底拍子抜けした。綺麗な二重瞼の目、さらりとした黒髪、背が高く筋肉質な細身にゆるっとしたフリースがよく似合っていた。この出会いは劇的でもなんでもない。言ってしまえばクソみたいな出会い。でも、初めて目があった瞬間は運命的な雰囲気だった。目の前の人混みが透ける感覚。全ての音が遠のく感覚。この世界には私たちだけ、なんて甘い言葉は似合わないけれど、そう言いたくなるような、感覚。
この出会いはどんな言葉でも形容できない。
その瞬間その相手だから成り立つそれを量産された言葉で表現されては困る。
東京タワーに行こう、と誘ったら彼は頷いてくれるだろうか。登るなんてことはしない。ただ眺めに行きたい。そう誘ったらどんな反応をするだろう。ほんの短い時間あの鉄塔を眺めるために駅前から続く坂を登る無駄な労力がたまらなく好きだった。そしてそれを同じように好きだという人も。東京タワーが好きになった理由はもうとっくに忘れてしまった。もし覚えていたとして、あんな理由は自分の中に留めておくだけでいい。ただ眺めに行くという生産性のない行為を同様に好きだという人間はおそらく同類だけれど未だに出会ったことはない。誘って頷いてくれた数人も共感はしていなかったように思う。そして彼もきっとそうだ。頷いてくれたとしてもこの感覚は持っていない。ただいつも通り明日になれば忘れるような話をして、帰ろう、と笑いかけてくる。なんとなくだけど私がこう言えば彼はこんな声、こんな言葉を放つだろう、と想像がつく。分かりやすい人だから。分かりやすいのは可愛らしいし有難いことだ。でもそれ故に辛いことの方が多かった。この人の瞳は私を捉えない。私は私という存在として彼の瞳に映ることはないということが痛いほど伝わる。口で言われるよりもずっと残酷な話だった。確信はあるけれど確証はない、そんな痛みが身体中に染みていく度、私は上手く笑えなかった。きっと中途半端な顔をしている、と自覚できてしまうような、そんな顔を。
多分、自分は人を心の底から好きになったことがない、とたまに思う。全てその瞬間の錯覚や思い込みだけ。ふとした瞬間温かかったものが急に冷える。だからそんなことを考える。なんの意味もないのに。それでも私は演技がうまかったからどうにでもなった。相手に好意を寄せているふり、相手と同じ熱量でいるふり。少々のあざとさと8割の嘘。それでどうにでもなった。なのに、ほんの少しでも自分から好きになってしまった相手にはそれができなかった。行動は減り、言葉は詰まり、頭だけが無駄に動いた。笑うしかない。こんなだから私はいつまでもこんな捻くれた可愛げのない生き物としてしか生きられない、と頭ではわかっているのに。
品川駅のトイレ、横浜駅の改札口、小山駅のホーム、特に何かあったわけではないのに鮮明な思い出として刻み込まれている場所が多々あった。あのスーパーの2Lペットボトルのコーナーもそう。普段大して思いを馳せたりしないくせに、その場所に行くと全てが再生される。音、雰囲気、気持ちの全て。特に匂いはいつも鮮明だった。あの初夏の匂い。熱いようで涼しい、冷やされていないペットボトルたちが並ぶあの煮え切らない生ぬるい空気。あの好きな匂い。おそらく香水ではない、ヘアオイルと本人の匂い。後ろに立った時だけ感じるあの匂い。絶対に本人ではないとわかっていてもあの匂いによく似た匂いがすると振り返ってしまうあの香り。しばらく忘れられそうになかった。匂いを忘れられないうちは他のことも忘れられない。匂いと共に全てが蘇ってしまうから。だからせいぜい忘れられるのはあの日の声だけだ。
人間ふとした瞬間に大人になってしまったと感じるものなのだと最近気づいた。良くも悪くも、急に現実として突きつけられる。私を大人にしたのはあの人だ。手すら繋いでないけれどあいつは確かに私を大人にした。大人になりたくなかった、とは思わない。ただ何かが虚しくて悲しい。水が指の隙間を通り抜けていくようなそんな感覚。得たものはたくさんある。失ったものの方が少ないはずだった。なのにその失ったものが大きすぎて自分に大きな穴を開けた。思い出そうとしても思い出せない何か。あの頃の私を構成していた何か。今も過去も私は私であるはずなのになぜか違って感じてしまうのはきっと無意識に大人になるうちに捨ててはいけない何かを道端に置いてきてしまったからだろう、と勝手に思っている。綺麗になった、と言われる度に内心当然だ、と自然に考える。全部あいつのせいだから。あいつのせいで確実に私は綺麗になった。可憐さと引き換えに美しさを手に入れた。それだけ痛い代償を払ったにも関わらず、当の本人は綺麗になった私の姿を見ることはない。これ以上の皮肉はなかった。でもその皮肉こそが私をまた少し綺麗にした。
ほんのごく僅か、意識しなければ見落としてしまうような瞬間にふと心を奪われる時があった。それはいつだってありふれた日常で、大して特別でもない、誰も気づかないような瞬間。それでも私の心を奪い去る瞬間。今までそんな瞬間の積み重ねだった。言葉では表せないようなそんな瞬間ばかりに心を奪われてきた。だからふと泣きたくなる。子供のように泣き喚いてこの世の全てを終わらせたくなるようなそんな気持ち。
いつからか考えばかりが先走って上手く動けなくなってしまった。だからこそ、それをぶち破りにくるあいつのことが好きで仕方なかった。あの冬に片足を突っ込みかけた日、その均整の取れた後ろ姿を早足で軽く追いながらなんて言葉をかけたら許されるか、何を話せば話しかけていい理由になるかを考えていたあの日。冷える心臓を温めようと俯きながら歩いていた私をあの視線が貫いた。目線を上げた先でスマホを片手に振り向いていたあいつ。あの顔、私がこの世で一番好きだと思った表情で。
「話しかけるか微妙な距離だったわかる?」
苦し紛れで発した言葉に我ながら呆れた。今まで脳内で組み立てていた言葉たちを水の泡にした。こんなこと言っても何にもならないのに。もっと他の何か、もっと整った言葉を、
「んなことだろうと思ったよ。」
あまりに単純で優しい音の並びだった。堂々巡りする心を綺麗に透かした音。その声だからこそ沁みた音。話すにはまだ遠すぎる距離が愛おしく感じた。私が追いつくように緩められた歩調、他人から見たら何にもならない会話。あまりにも色々な感情が駆け巡った脳内はむしろ凪いでいて綺麗に濾過された好意だけが残った。冬、その季節を改めて手に取った気がした。花は咲かない。全てが終わりに向かうこの季節。それでも私たちだけは終わらせたくなかった。綺麗なままずっと続け、と偶像に願った。もう清廉潔白な部分なんてひとつも残っていない、車に躪られた雪のような私を無視して。
時給が発生してくれたらまだマシなのに、と思うような時間の中で横浜の街を見下ろしに行った。夕暮れ時のまだ夜にはならない微妙な時間。それでも街は綺麗だった。冬の日の落ちる早さがありがたく思えた。4面ある窓ガラスを順番に巡っていく。やけに高い紅茶を片手に3つ目のガラスから街を見る頃には世界は夜に染まっていた。地上に立っているときはあり得ない、遠くまで見渡せる神奈川の風景。生きている、とふと思った。人間が生きているからこの景色は成り立つ。誰だかなんて全く知らない人が生きている証を今私はこんな場所から見つめているのかと考えたら少しその景色が愛おしく感じた。
あいつの最寄りはどこだったっけ。
何の脈絡もなく頭に飛び込んできた。あの私を大人にした綺麗な顔のあいつ。何も変わっていなければあいつはこの神奈川のどこかで生きているはずだった。あの頃、あいつのことが死ぬほど好きだった私は絶対にいつ聞かれてもあいつの最寄りを答えられるくらいには完璧に記憶していた。なのに今は何も思い出せなかった。溢れそうな涙を飲み込むとやけに胸がすっとした。ちゃんと、前に進めてた。まだ定期的に思い出すことはあっても、もうあいつを好いていた私はどこにもいない。寂しくて嬉しいような複雑な気持ちだった。あいつはきっと今も私が見下ろしている街のどこかで静かに生きている。私がこんな場所で、全く好きになれないような人の隣で、ただ貴方の幸せを願っているとも知らないで。
帰りたい、帰りたい、帰りたい、ひたすら心がそう軋んで泣いていた。あの夏の香り、あの日のアスファルトの香り。詰め込まれすぎた日々があまりに眩しかった。あの真ん中にいたときは何一つ気づかなかったあの眩しさ。今こんなにも切望しているこの関係が当たり前だったあの尊さ。何度も何度も見返したワンシーンの集まりを今日もまた見つめ返して目を閉じる。涙が溢れないように硬く閉じた目に寒さが染み込んできた瞬間、ふと思い出してしまった。
あの日心を奪われた横顔の奥で咲いていたあの花、萎れかけた朝顔が私の恋心に似ていたのが痛かった。あの朝顔はまだ目を覚さない。覚さないうちは冬夜の魔法がかかってる。この魔法が解けきってしまう頃にはこんな思いを与えてくれる距離には誰もいなくなっている。だからこそ、この期間限定の苦くて甘いような日々を傷つきながら味わっている。あの横顔を探すために。




