チャプター8 夏の夜
すっかり遅くなってしまった。
昼の陽光が温めた街は不快な湿気を帯びている。
道の脇に浮かぶ看板以外は闇に沈んでいる。
十一丁目の飲食店街に差し掛かったところで和人世は足をとめた。この辺は通勤で毎日通る。
「比坂が言っていたのはやはりあれか」
三件ほど奥に小さな洋菓子店が浮かび上がって見えた。夜であるため、今朝とは印象が違うが確かに今朝の店であった。罪悪感が蘇る。
軽く金属音を鳴らして時計を見ると八時を回っていた。
「和人世、これは多少危険だぞ」
和人世は夏の夜に寒気を覚えた。妻は時間に何よりも厳しい。
記念日を気にするのと関係があるのかもしれないが、あの剣幕には耐えられない。結婚当時は帰りが八時を過ぎただけで、食器の半分を投げつけてきたのだ。
「浮気でしょう!?」
あのつんざく一言が忘れられない。総額は二万だっただろうか、すべて弁償したのだった。薄給だった自分には身を切る思いだった。
あれ以来、会社で昇級するたび変わる勤務時間に意識を集中させている。持っていても携帯を使わぬ和人世は、とにかく早く帰っている。
速足で店に立ち寄ると、奇妙な看板が明らかになった。名前は知らなかった。
「ラトル一歩先…? 不思議な名前だな」
一瞬躊躇ったが妻の顔を思い出し脚を動かした。
入店してケーキ屋に来るのは今朝を除き、随分久しぶりだと気がついた。
店内は妙な湿度を保っている。人気なのであろう、ケーキは数えるほどしか残っていなかった。
中央にテーブルがあるのは珍しい。何も置かれていないのは自分の所為だろうか。
「昼に倒れてしまいましてね、ケーキが一台のってたんだが」
顔を上げると頭をかいて話す男が立っていた。顔が赤くならぬうちに和人世は口を動かす。
「あ、あの今朝は申し訳ありません。大丈夫でしたか?」
「ああ、あんたでしたかい。なあに、私の気まぐれで作ったものでね。気にせんでください」
ホッとするのもどうかと思うが、和人世は胸をなでおろした。しかし、気まぐれで作るとはどんなケーキなのだろうか。
「何かお求めのケーキはありますかな」
「はい? あ、ええと」
妻が好きなケーキの名前が出てこない。比坂に店を教えてもらってから、頑張って思い出したはずなのだが。
「あと五分で閉店ですし何でも作りますよ」
矛盾という言葉が浮かんだ。中学に習ったと思う。
何となく居づらくなり急いで注文する。
「モンブランを二つください、そのショーケースの」
値段が告げられなかったが、常に店員が伝えるより早く代金を出す和人世にとっては、気にならなかった。
きっかりお釣りなく小銭を支払う。
店長の顔がほころんだ。手際良くケーキを二つ包むとこちらを向いた。
「私の一番のお勧めです」
「妻と二人で楽しみます」
店長の視線が寒気を呼び起こし汗が流れる。
初めからおかしかったが、今すぐ店から出たくなる。足はまるで急かすように震え始めた。
袋をつかみ外へ向かおうとした途端、胸に激痛が走った。
息が荒くなる。体が前に曲がる。床が目の前に広がる。茶色い床が近づくにつれ黒くなる。
「どうしました」
軽く深呼吸をするとおさまってきた。背広の袖で汗を拭きとると、普段のように体が機能し始めた。
「大丈夫ですよ、仕事の疲れでね」
ふらつく足を操り街へ出た。後ろに感じた視線は気の所為だと思うことにした。
ふと夜空を見上げると赤い星が目に入った。どちらかと言えば都会のこの地域では、これほど星が見えるのは珍しい。
近くに工場がないおかげであろうか。
「そっか、さそり座の時期だったな」
赤く光る星に照らされながら、十一丁目の街を和人世は歩いた。お気に入りの靴が煉瓦の地面を楽器に帰る。
リズムよい音の連続に、ゆるんだ笑顔が生まれる。
下げた袋からいい香りがする。何故さっきはあんなに苦しかったのだろうか。
虫の予感と云うものだろう。何かが起こる気がする。
ふいに祖母が言っていたことが思い出された。
「サソリの時期にあんたはよく、いろんなことに勘強かったよ。いいかい、その時期には自分を信じなさい。災厄も防いでくれるさ」
歯切れのよい低い声が耳元で響く。あれは確か死が近いときのことだった。小さいころに両親を亡くした和人世にとって、祖母は人生を教えてくれる唯一の存在であり、優しい母であった。
祖母のことを思い出すほどだから、ますますこれは何かが起こる前触れである気がした。
愛車の前に戻り、慣れた手つきで鍵を開け、クッションに身を任せた。エンジン音が夜の真ん中に鳴り響く。
時刻は九時。
このモンブランは何分間の罵声を和らげてくれるだろうか。
そもそも妻の眼にこれが入るのは何分後であろうか。
優しく箱を抱き、ただ妻のことを考え目を閉じた。そして、助手席にそっと置くと、レバーを引き車体をうならせる。
ここからなら家までは三〇分とかからない筈だ。
一度自分を揺らした車は、暖かい家へと運び始めた。