表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
栗の変化  作者: レモナー
8/45

チャプター8 夏の夜

 

  すっかり遅くなってしまった。

 昼の陽光が温めた街は不快な湿気を帯びている。

 道の脇に浮かぶ看板以外は闇に沈んでいる。

 十一丁目の飲食店街に差し掛かったところで和人世は足をとめた。この辺は通勤で毎日通る。

 「比坂が言っていたのはやはりあれか」

 三件ほど奥に小さな洋菓子店が浮かび上がって見えた。夜であるため、今朝とは印象が違うが確かに今朝の店であった。罪悪感が蘇る。

 

  軽く金属音を鳴らして時計を見ると八時を回っていた。

 「和人世、これは多少危険だぞ」

 和人世は夏の夜に寒気を覚えた。妻は時間に何よりも厳しい。

 記念日を気にするのと関係があるのかもしれないが、あの剣幕には耐えられない。結婚当時は帰りが八時を過ぎただけで、食器の半分を投げつけてきたのだ。

 「浮気でしょう!?」

 あのつんざく一言が忘れられない。総額は二万だっただろうか、すべて弁償したのだった。薄給だった自分には身を切る思いだった。

 あれ以来、会社で昇級するたび変わる勤務時間に意識を集中させている。持っていても携帯を使わぬ和人世は、とにかく早く帰っている。

 速足で店に立ち寄ると、奇妙な看板が明らかになった。名前は知らなかった。

 「ラトル一歩先…? 不思議な名前だな」

 一瞬躊躇ったが妻の顔を思い出し脚を動かした。

 入店してケーキ屋に来るのは今朝を除き、随分久しぶりだと気がついた。

 店内は妙な湿度を保っている。人気なのであろう、ケーキは数えるほどしか残っていなかった。

 中央にテーブルがあるのは珍しい。何も置かれていないのは自分の所為だろうか。

 「昼に倒れてしまいましてね、ケーキが一台のってたんだが」

 顔を上げると頭をかいて話す男が立っていた。顔が赤くならぬうちに和人世は口を動かす。

 「あ、あの今朝は申し訳ありません。大丈夫でしたか?」

 「ああ、あんたでしたかい。なあに、私の気まぐれで作ったものでね。気にせんでください」

 ホッとするのもどうかと思うが、和人世は胸をなでおろした。しかし、気まぐれで作るとはどんなケーキなのだろうか。

 「何かお求めのケーキはありますかな」

 「はい? あ、ええと」

 妻が好きなケーキの名前が出てこない。比坂に店を教えてもらってから、頑張って思い出したはずなのだが。

 「あと五分で閉店ですし何でも作りますよ」

 矛盾という言葉が浮かんだ。中学に習ったと思う。

 何となく居づらくなり急いで注文する。

 「モンブランを二つください、そのショーケースの」

 値段が告げられなかったが、常に店員が伝えるより早く代金を出す和人世にとっては、気にならなかった。

 きっかりお釣りなく小銭を支払う。

  

  店長の顔がほころんだ。手際良くケーキを二つ包むとこちらを向いた。

 「私の一番のお勧めです」

 「妻と二人で楽しみます」

 店長の視線が寒気を呼び起こし汗が流れる。

 初めからおかしかったが、今すぐ店から出たくなる。足はまるで急かすように震え始めた。

 袋をつかみ外へ向かおうとした途端、胸に激痛が走った。

 息が荒くなる。体が前に曲がる。床が目の前に広がる。茶色い床が近づくにつれ黒くなる。

 「どうしました」

 軽く深呼吸をするとおさまってきた。背広の袖で汗を拭きとると、普段のように体が機能し始めた。

 「大丈夫ですよ、仕事の疲れでね」

 ふらつく足を操り街へ出た。後ろに感じた視線は気の所為だと思うことにした。


  ふと夜空を見上げると赤い星が目に入った。どちらかと言えば都会のこの地域では、これほど星が見えるのは珍しい。

 近くに工場がないおかげであろうか。

 「そっか、さそり座の時期だったな」

 赤く光る星に照らされながら、十一丁目の街を和人世は歩いた。お気に入りの靴が煉瓦の地面を楽器に帰る。

 リズムよい音の連続に、ゆるんだ笑顔が生まれる。

 下げた袋からいい香りがする。何故さっきはあんなに苦しかったのだろうか。

 虫の予感と云うものだろう。何かが起こる気がする。

 ふいに祖母が言っていたことが思い出された。

 「サソリの時期にあんたはよく、いろんなことに勘強かったよ。いいかい、その時期には自分を信じなさい。災厄も防いでくれるさ」

 歯切れのよい低い声が耳元で響く。あれは確か死が近いときのことだった。小さいころに両親を亡くした和人世にとって、祖母は人生を教えてくれる唯一の存在であり、優しい母であった。

 祖母のことを思い出すほどだから、ますますこれは何かが起こる前触れである気がした。

 愛車の前に戻り、慣れた手つきで鍵を開け、クッションに身を任せた。エンジン音が夜の真ん中に鳴り響く。

 時刻は九時。

 このモンブランは何分間の罵声を和らげてくれるだろうか。

 そもそも妻の眼にこれが入るのは何分後であろうか。

 優しく箱を抱き、ただ妻のことを考え目を閉じた。そして、助手席にそっと置くと、レバーを引き車体をうならせる。

 ここからなら家までは三〇分とかからない筈だ。

 一度自分を揺らした車は、暖かい家へと運び始めた。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ