チャプター6 男は・・
物思いにふけっていると小さな子を連れた女性が入ってきた。店内に風がそよぐ。
男は身を起こしカウンターの中で、笑顔を作る。
五歳ほどの女の子は目の前のケーキに顔をほころばせた。店内のすべてに心が奪われはしゃいでいる。母親の女性が軽く会釈した。
「あの、モンブランありますか」
男は笑みが漏れたのを悟らせまいとする。
照明を暗くした隠れ家のような店で、彼女の声はよく通っていた。
女の子は母の腕を引き、訴えている。
「モンブランないのぉ、ねえモンブラン」
男は客を帰したくなかった。口調を柔らかく心がける。
「さっき売り切れたのですが、後十分ほどで午後の分ができますよ」
女性は考え込むように立ち尽くしている。
数分過ぎて親子は店に留まる方を選んだ。甘い香りが二人を包んでいる。
「あっこのケーキかわいいよ。ママほら、アーモンドクリイムって。みーちゃんねえ、クリイムたーっぷりが好きなの、ママ知ってたあ?」
小さな店内とはいえ、子供にとっては夢の国のようなものだ。
女性は子供を静かにさせようとするが、内心楽しそうだ。
ふと奥にいる少年が目に入る。少年は中央のテーブルの脇に立っていた。
今は正午であることを女性は確認する。なぜ学校のある時間に少年がいるのだろう。
灰色のTシャツと茶色の短パンをはいている、ごく普通の男の子である。
男も気になっていたのだが、十歳そこらの子供を訝しがっても仕方ない。
いや、違和感はあった。
視線を感じる。見られている。
子供と思えぬ静かな両目が自分を捉えている。
気付かれたのか、そんなはずはないだろう。考えすぎだ。
男は汗をぬぐった。仕事の汗か異なる意味の汗か判断はつかない。
もう一人の従業員である女性がモンブランを運んできた。新任の割に要領がよい。
男は一人の職場が気に入っているが、人気が出てきた店の為募集を出し迷いなく彼女に決めた。
彼女の周りを取り巻く空気と、冷静な性格が際立っていたのだ。
白い従業服が厨房で映えている。その長い黒髪がまた似合っていた。
彼女が近付くとラベンダーの香りと栗の匂いが混ざり合い、不思議な空気を生み出した。
ケーキはショーケースに並び、出来立ての艶やかさを魅せつける。
男の自慢の作品だ。
「お待たせいたしました」
子供が歓声を上げ、母を見上げる。親子は早速注文し出て行った。
出口で嬉しそうに話す二人の横顔が視界の隅に入った。
この瞬間が男の楽しみである。
もちろん単純な意味ではない。この後の事を考えて男は快感に浸っているのだ。
気がつけば二人を追うようにして、少年も出て行ってしまっていた。
鋭い眼が脳によみがえる。
何も買わなかった。何も言わなかった。
ただ観察していただけだった。
厨房へ戻り、冷蔵庫の側、壁に張られた誓いを前に目を閉じる。
血液の流れが遅くなるのを感じ、ドアの向こうの風の音を聞いた。ファンが空気を裂く鋭い音を聞き分けた。
深呼吸をひとつして、男は眼を開ける。体は自然にカウンターへ戻る。
「気付かれはしない」
つぶやく男はドアを見ていた。