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栗の変化  作者: レモナー
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チャプター5 予兆

 

  東京の中では小さな部類に入るであろう瑠衣の会社はレンガの七階建て。

 雰囲気で選んだといってもいい程、瑠衣は気に入っている。

 ヒールを鳴らしドアを開ける。

 電子音とともに広がるドアを抜けると我が家に帰宅したような安心感が広がった。

 自然に歌を口ずさみエレベーターに入ると、最も会いたくない人物が脇に立った。

 「ああら、またケーキなの。芸がないわあ」

 気味の悪い赤い唇から澄んだ声が発せられる。つんとあげた顎の上から見下ろしてくる。

 松園由良、気に食わない女、心の中で瑠衣は毒づく。

 「こだわりですので、あなたと違い。そちらこそ企画は?」

 今回の夏はキャンペーンをするらしい。

 「宣伝」の為に人気の出そうな商品を探している。

 「一台買ったら付いてくる」というキャッチフレーズでもつけるのだろう。

 よくわからないが。

 「誰かさんと違ってもう企画は完成してるの」

 手を振りながら、丁度止まったエレベーターを彼女は降りて行った。ブラウンの艶やかな髪が背中で揺れている。

 今回のキャンペーンは彼女との一騎討ちとなるだろう、瑠衣は肩を怒らせた。毎回そうなのだが、冷静な心の声が聞こえる。

 彼女の背中を扉が消した瞬間、思いつく限りの悪態を吐く。

 ついでに肺の中の空気をすべて追い出すと、袋を口元に挙げ息を吸った。

 バニラと栗の香りが松園の香水を打ち消した。


  見慣れた部署に着くと、一つの机を目指し瑠衣は歩く。

 「片桐瑠衣、嬉しいのはわかったからそれ置け」

 突き出していた袋を下ろしケーキを広げた。甘い香りが空気を彩る。

 部長は絡まりの無い前髪を掻き上げ、今まで見ていた書類を脇へ寄せた。

 「夏はこのモンブランですよ、絶対宣伝になります」

 菓子の事になると瑠衣は信じられないほど熱くなる。

 それが勢いとなってか入社半年であの松園と肩を並べたのだ。会社内では有名だ。

 福原も彼女の企画を後押ししている一人である。

 「食べて感想言うから、書類まとめてこい」

 自分が感想を言う立場も彼は悪く思っていない。そんな福原へ、彼女は席へ戻る代わりに一枚のメモを取り出した。

 「九百八十円です、ありがとうございます」

 「たまには自分で払ったらどうだ、給料すべて菓子につぎ込みやがって」

 「では」

 「聞けオマエ」


  自分の席に戻りつつ、瑠衣は笑みが広がるのを感じていた。

 あれほど反応の良い人は部長くらいだろう。あまり質の良くない椅子に腰を下ろす。

 机の上の書類は朝の半分になっていた。隣の女性が顎で部長を示す。

 福原は本当に気が利く男だと瑠衣は思っている。

 キーボードに指を滑らせて、ケーキでチャラになるか考えた。

 神経質な顔立ちをしているが、案外性格は抜けている部長は女子社員に人気がある。こだわりのネクタイのセンスは、毒のある女性達の笑い種だ。

 持ち物は人を表すというが瑠衣の場合は人を混乱させる。

 外国のキーホルダーに各地の限定のペン、写真の山。その上にバックが乗せられた。

 半分となった仕事に気が軽くなる。マウスの音が可愛く聞こえた。

 企画の書類が仕上がり、頭を机に預けると不思議な視界となった。

 厚く重いパソコンが並んでいる。隣の紗枝さんのイヤリングが見える。机の振動を感じていると足音が近づいてきた。

 「堂々とサボってるな、片桐瑠衣」

 部長を眼だけで見上げる。改めて整った顔だと思った。

 あと五歳若ければ恋に落ちたのかもしれない。にやりと上がる唇の端を無理やり押さえつけた。

 「サボりの後は上司無視か。ちょっと来い」

 「私は休んでるんです」

 突然腕を引っ張られて部署を横切る。廊下に出てから瑠衣は口を開いた。

 「セクハラですよ福原部長、奥さんとなる人だけにしないと」 

 「黙れ」


  販売機の前に着くと腕が解放された。瑠衣は腕を軽くさする。

 部長は小銭を探していて存在を忘れられている気がした。それが気に食わず、瑠衣はコインが入ると同時に飛び込んでミルクコーヒーを押した。

 瑠衣のベージュのスカートが黒いズボンを通り過ぎる。

 落下音が沈黙を破った。部長は予期していなかった動きに反応が鈍ったようだ。

 「このくらいはおごって下さいよ、休みにつきあったんですから」

 瑠衣は既に冷たい缶コーヒーを両手で包みこんでいた。

 「片桐、お前って…いや、いい」

 「ごちです」

 「どもです」

 部長がブラックを買い沈黙が下りてきた。何故かホットのコーヒーに部長は顔を赤くしている。ただ自販機の不気味な音だけが辺りを支配する。

 「どうでした、ケーキ」

 両手で持った缶を見ながら瑠衣は尋ねた。一瞬間が空く。

 「美味かった」

 暑さが蘇る。缶を傾け一気に飲み干すと、喉が浄化されていく気がした。火照る体はまだ足りないと言わんばかりに、清涼飲料水を求める。

 「なんで私を連れてきたんですか」

 「あのまま空調の中にいると眠ってしまいそうだったからな」

 「…そですか」

 「…そうです」

 さっきと違う居心地の良い沈黙に包まれる。言葉を発さずに二人は缶を捨てた。部長の後ろから投げた瑠衣の缶は、奇跡的にも小さな穴に吸いこまれた。

 

 部長の隣を歩きながら、瑠衣は眼を閉じる。

 (ああそうか、風邪をひいたのだ。熱があるのだから。目眩がするのも。部長も風邪なのだ。だから…納得した)


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