チャプター45 隠された夜
圭護達が帰路についたころ、誠矢はのんびりと両開きの扉を開けた。無造作に左肩で押しながら。月明かりが差し込む店内には、湿気とはかけ離れた空気が漂っている。
誠矢は背後で金属音と共に扉が閉まる音を聞きながら、木の床を踏みしめて歩いた。右手はポケットに突っこませたまま、その冷たい眼を待ちうける女に向けて。
「おかえり、とでも言って欲しいわけ?」
「いりませんよ。そんな偽物の言葉など」
トキは相変わらず不機嫌そうに、煙草を吸っていた。黒のキャミソールと紺色のジャージを履いた彼女は、不思議とその化粧をまとった美しい姿が逆に際立って見えた。眼をつむり吐き出した灰色の煙が行き先を戸惑うように宙で揺れる。
「さっきまで、誰かいた?」
誠矢はカウンターまで来てつぶやくように訊いた。先刻の椅子の配置をすべて記憶していたわけでもないが、間違い探しと同じように”異変”に気付いたのだ。トキが煙草を落としそうになるのを見て、少年は静かに微笑む。
(素直な返答で)
誠矢は福原のグラスが置かれていた場所を幼い指でなぞる。僅かに水分の残るそこから過去の映像でも読み取ろうとしているようだ。
トキが固唾を呑んで見守る中、誠矢は自分の中にこもって推理に入った。先程の全員がいた空間が脳裏によみがえる。圭護、拓、大翔、裕也、そして福原。
全ての会話が耳の奥をよぎる。その中で不必要な情報を次々と削除していく。
(オレはただの仕事って立場からものを言うけどな、結局俺らで…)
削除。
(ストップ。行っとくけどあたしは比坂さえこの世から消せればいいの。オーナーは邪魔だけどこの際関係ないわ)
削除。
(随分物騒な顔ぶれじゃないすか。今さらですけどね)
削除。
(俺は…ただ、足が動く方に動いただけだ)
誠矢はスッと目を細めた。福原だ。
圭護達が駆けつけてくるまでの彼との会話を思い出して、誠矢はくすくす笑った。そんな姿を見てトキは訳も分からず戦慄する。
「あんたって、本当に小学生なの?」
口に中てていた手を外して答える。
「生物学上は。ただの記号ですがね」
計算通りに大翔が入って来た。見るからに怒ってますと言うアピールをしながら。
「なんだよさっきのは」
「…つけてたんですか」
大翔は様々な考えをはらうように、髪を乱暴に掻いた。綺麗な曲線を描いていたオールバックが崩れる。
「お前があの男たちと何かするっつったからな。で、見てみればなんだ? 失敗も何もあれに何の意味があったっていうんだ?」
くだらない。
誠矢は感情が抑えられない目の前の男を軽蔑した。自分を抑えられない者が他人を抑えつけられるとでも思っているのだろうか。
大翔はコツコツと音を鳴らして部屋の中央まで歩いてくる。目線はせわしなく、どの一点を見つめれば心を落ち着かせられるのか本気で探しているようだ。
彼の背の高さでは、暗い店内の中でその顔の表情が隠されてしまう。誠矢は少し不利に感じながらも、この状況を面白がっていた。こんなに分かりやすい人間など、なにをしようが会話において失敗することなどないからだ。
誠矢は相手が止まるのを待って、からかう口調でこう言った。
「大翔さんには、わからなかったようですね」
床の木目を睨んでいた彼は、重々しく顔を上げながら誠矢に照準を定める。
「あ?」
「わからなかったみたいですね」
相手が冷静になるのを邪魔するように誠矢はわざとらしく繰り返した。トキはカウンターの中で溜息をつく。これからの流れを想像して頭が痛くなったのだ。
否、この誠矢という少年が関わること自体に嫌気がさしたのかもしれない。
「成功、失敗。そんな物にこだわっているからさっきの出来事が何一つ理解できていないんですよ。大体、ラトルに忍び込めたとして、僕が何をすると思ってたんですか? オーナーを意気消沈させて出てくるとでも思いましたか?」
「お前なあっ…っとにムカつく餓鬼だ」
話すのはそちらの番だ。
誠矢は迫りくる沈黙を退ける。
お前が話す番だ。
少年の気迫を感じ取り、大翔はかすかに冷や汗が流れるのに気がついた。
(俺が…十歳も年下のガキにびびってる…?)
確かに先刻の状況とは変わっていた。少なくとも対等以下の立場にいたこの少年が、今自分を追い詰めている。大翔は足が震えるのを必死で抑えた。
誠矢の冷たい両眼が自分だけに向けられている。
「ぁ…くそっ。俺は…」
トキは哀れなものを見る目で大翔を見守った。煙草を口にくわえ、緩慢にその味を舌先で転がす。頬で揺れる髪に手を当てて、この事態を見守った。
「ハハハハハハッハハッハハハハハハハハハ」
いきなりのことだった。あまりに突然の笑い声に、誰もが脊髄の反射に応対できず硬直した。そして、おそるおそる笑い声の主を見つめた。
少年を。
「ハハハ…ククッ…あー、本当にバカな人たちばっかだね、この街は。くだらないよ。くだらなさすぎ。滅びればいいよ。株の大暴落も止められないくせしてさ。個人に至っては子供に反論すらできない。弱い弱い奴等ばっか。ハハッハハハハハ。あーあ、貴方が来るのに期待してたんだけどなあ」
(期待と言うより、来るのがわかりきってたってことだけど)
「き、期待?」
大翔はまだ震えている空気の中で小動物のようにそっと尋ねる。腰の引けた姿からは威厳のかけらも感じられない。まるで人外の、理解を超えた存在を前にしているように。
「こ、れ」
ポケットから取り出したUSBを見せびらかすように回転させる。大翔が目で追うのを確認してから、手の中に包み込んだ。背後の時ですら緊張していることが伝わってくる。
「どうして僕がこんなことしているのか、わかりたいんでしょ?」
トキは直感的にパソコンを取りに向かった。深紅のそれを急いで持ってきながら、トキは雰囲気を壊さぬよう細心の注意を払った。
「なんでだ?」
「なんであなたに教えるかって?」
大翔は検察官になっている気分だった。全てが疑わしい。
「つまんないんですよ」
単純な答えだった。さらに突っ込むには勇気がいるほど、強く単純な一言だった。だが、誠矢が言葉をつづけたのにトキまで安心した。
「圭護は無理です。福原は危険です。大翔さん、あなたは…」
自分の全人格を決定されてしまうかと思った。大翔は身構えて続きを待つ。
「一番危害がないかなと」
「は?」
大翔はまともな返答もできなかった。誠矢はそんな彼を見て、鼻で笑う。
「あなたって過去を明かさないじゃないですか、素性も」
確かに、とトキは会合を思い出した。大学生三人組は簡単にペラペラしゃべっていた気がしたが、大翔は情報提供だけで自分のことは何も言っていなかった。
「だから、ですよ」
意味がわからないだろうなあ。あなたみたいな人には。
誠矢は蒼い眼を伏せて眉を上げた。小学生からこれほどかけ離れた表情を見るのは何度目だろうか。大翔は始めてあったころから抱いていた違和感を一層感じた。小さな手の中に秘められたたくさんの情報を、笑いながらいじる少年が恐ろしくさえ思う。
トキの持ってきたパソコンを自分の物を扱うように起動させ、パスワードをかいくぐりフォルダを開いて行く。トキはただ口を開くことしかできない。
「あ、そうだ」
誠矢が突然子供らしい声で言った。
「母が寝るのは十一時なので、それまでには帰りますよ」
二人は唖然としたまま、パソコンの画面と誠矢を交互に見るだけだった。