チャプター43 グラスの秘密
キイとドアが開けられた。ライトアップされてもなお薄暗い店内に、外の街灯の明かりが差し込む。一人の男が星空を背にして入って来た。
「よお」
カウンター越しにトキはため息をつく。先程まで飲んでいたレモンビールの香りが広がる。トキは人差指でドアを閉めるよう促した。
男、福原も静かにそれに従う。
奇妙なアンティークが月明かりを反射する中、まるで見張られている心地で福原はカウンターについた。
「多分あと二〇分で生意気なガキがやってくるわよ」
ハッと自嘲の笑いを加える。しかしトキの眼は不愉快さを浮かべてはいなかった。
「実は、俺としたことが悩んでてな」
「女?」
福原は幼馴染の顔を見て、顔を緩ませた。
「高校時代は何にも経験なかったからな」
「大学もでしょ」
「悪かったな」
二人はなつかしき青春時代を思い出し目を細めた。
「よせつけない、って感じだったのにね。女子とか目に入らないみたいな」
「ロックとかにはまったからな。ようやく硬派が何たるかを学び始めたんだろうよ」
馬鹿みたい、トキはカールした髪をいじりながら福原を見上げた。目線の差は大きく、ただでさえトキは猫のように背を丸めていた。
「瑠衣ちゃんをもてあそんじゃだめよ」
トキはこの三日間を思い出していた。誠矢のランドセルを持って思案顔をしていた瑠衣。その後の生意気な対話。川辺で会ったこと。母の日記に初めて本気で耳を傾けてくれたこと。
福原も同様に瑠衣のことを考えていた。
菓子に関しては誰にも譲らぬ性格で、部長と言う立場の自分を尊敬するどころかあしらってきた彼女。最近短くした髪型に胸を騒がせながらも平穏を装った毎日。思わず連れ出してしまった昼休み。
「大丈夫だよ」
「え?」
トキが笑顔で続ける。
「あんたは瑠衣を美里のようにはしないさ」
沈黙が流れる。福原はトキの紅が混ざった眼に吸いこまれそうになっていた。そうしていつの間にか、かつての記憶にとらわれ始めていた自分に気付いた。
「顔に…でてたか?」
「マジックで書いてあったわよ」
二人は低く笑った。
すこしの沈黙の後でトキがつぶやく。
「あいつらさあー、他人にはもう見えないわ」
この短い間に会話を交わした全員のことだろうか。それともラトルに泳がされ続けている者たちのことだろうか。
「明日は見守っててあげる」
トキは片手で瓶を二つぶら下げ奥に行ってしまった。
「そうかい」
その背中に向かってやさしく言う。
しばらく空のグラスを眺めていると、グラスの底に何かが見えた。
カウンターの奥に首を伸ばして、気配が感じないのを確認すると福原はグラスを上にあげてみた。予想通り一枚のメモが入っていた。
結露で湿った、だが字がはっきりしたメモをはがし取る。
カウンターの奥から水音が聞こえた。どうやら仕事の片づけをしているらしい。カチャカチャと食器の音も聞こえる。
福原は髪を撫でつけながらメモを読んだ。
美しいその筆跡に目を走らせた。
(貴方のことを許してはいません。貴方のことを憎んではいません。貴方のことを助けようとは思いません。でも明日だけ、お話を一度しましょうか)
「そうだな」
ただただ水音が響く店内で福原は嗤った。