チャプター35 近づく闇
和人世は背の高い甥と共にパソコンに向かっていた。
元々和人世が大翔に機械関係は教えてきた。初めに彼が教わりたいと言ったのは、電卓の使い方だった。四歳の時だっただろうか。
まだ習っていない筈の計算どころか、六桁の掛け算まで意味を理解してやってのけたので、随分驚いたのを思い出した。
大翔が声変わりを果たした声で言った。
「ここだよ、おじさんの会社も載っているだろう」
彼が示したのは、株市場ではなくあるリストだった。見覚えの無いもので、黒い画面に白い文字で浮き出された数多の会社は不気味なものがあった。
「何…のだ?」
大翔が髪を撫でつけながら答える。よく見ると少し金色が混ざっていた。
「俺も詳しくは知らないんだけどさ、最近出てきたアブナイ会社。『チェンジ』なんて比較にもなんない位のでっかい奴。で、調べてみたらかなり怖いとこだったんでさ」
隣のタブを開くと、奇妙な条文が美しく並べられていた。内容は笑えるものだったが、唇が持ち上がることはなかった。
「多分これ書いたのが、今回騒ぎを起こさせた張本人だろうね」
ページの一番上に、血を連想させる赤で打ち込まれた名前。
目眩を呼び起こしたのは、その名前に見覚えがあったからだ。
和人世はふらつきながら、テーブルに向かった。そこに置いてあるコーヒーはもう人肌になっていたが、一気に飲み干す。
大翔はコーヒーの淹れ方に関してはプロであった。だが、その濃厚な味わいも今の和人世に届くことはなかった。
「…何人に言った?」
大翔は予想していたように切り返す。
「誰にも。俺が信用してんのはあなただけだからさ」
大翔はその間にも次々とフォルダを開いていった。共通して並ぶ文字がある。あまりに単純で、恐ろしさのかけらも感じさせないある単語。
(モンブラン)
和人世はテーブルに着いた腕の間からそれらを見ていた。
今日は止まることを勧めたが、大翔は丁重に断って退出した。和人世は何度も礼を言った。真実を教えてくれたことに対してと、今夜一人にさせてくれることに対して。
「ようく話し合ってくれよ、おじさん。じゃなきゃ何のために此処に来たのか」
大翔は茶化したように付け加えて、繁華街の方へと去って行った。
「あんまり首を突っ込むなよ大翔…」
もう聞こえるはずもない距離で、和人世はつぶやいた。重いドアを閉めて、我が家を見渡す。
靴を脱いで上がると、壁に掛けたカレンダーの隣に、去年の写真があった。
妻、紗枝と行った海外旅行の時写したものだ。何の気なしに眺めていると、鍵を開ける音が背後から響いてきた。
無機質な音の重なりが途絶えると、愛する女性がそこに現れる。
「あら、道理で鍵が開いていたと思ったわ。もう帰っていたのね」
紗枝、和人世は口を動かした。彼女は買い物袋を二つ持ち、いつもと同じ目線で自分を捕えている。
(いや、同じなはずはない…)
つい一週間ほど前までにはあった、ロマンチックさをうかがわせる輝きが欠けていた。
しばらくの間、二人は無言で見つめあった。
そして口火を切ったのは、妻の方であった。
「お帰りなさい、早かったのね」
「ああ、聞きたい事があるんだ」
リビングの机を挟み、これから何を話せばいいのか和人世は決めかねていた。だが、妻はそれを感じ取ったらしい。
まっすぐと自分を見詰め、話し出すのを待っている。伸びた睫毛の毛先も自分に向けられている。
「…あー、あるサイトを見てな」
もっと強気な声でも良いだろう自分、そう思いたくなる声だった。
「そのサイトには、今回の株騒動の首謀者らしき人物の名前が出ていたんだ」
妻の眼が艶やかに動く。その目線はピタリとパソコンに定まった。
「あたしの名前でも載っていたのかしら?」
その言葉はパソコンを射抜き、跳ね返って和人世を貫いた。
心臓の鼓動が速くなる。また比坂の薬が働いたのか、と呼吸を落ち着ける。
「何故そう思うかは分からないが、お前の名前はなかった。代わりに…」
紗枝は感づいたようだ。目を見開き、口元が力なく開く。
「今お前が予想している人物の名前が載っていたんだよ」
大きな音と共に椅子が倒れた。勢いよく立ちあがった妻は、椅子など脇目も振らずに寝室へ飛び込んだ。
去った時と同じように突然帰ってきた彼女は、手紙の束を抱きしめていた。
震える声が真実を告げる。
「あ、あ、あなたには黙っていたけれど、実はあたし…あの人と…」
紗枝の腕の中からパラパラと手紙が落ちる。どの手紙にもある花の切手が添えられていた。
「ペチュニアか」
泣きそうな目で妻が顔をあげた。和人世も椅子を引いて妻の下へ近寄る。
久しぶりにゆっくりと見た彼女は、細い肩を震わせて折れそうなくらいか弱く見えた。
だが、やってきたことは何処にも弱さを感じさせない秘め事の集合だ。
「俺は責めないよ」
慰めるつもりが最大の攻撃となってしまったらしい。がくんと崩れた紗枝は、生気の無い眼で紙の束を見下ろした。
もはや束とも言えないそれらは、妻からすべてを奪ってゆくかに見えた。
「あたしはね、ねえあなた。こんなことになるなんて思わなかったわ」
家の照明が一段と暗くなった。何も言わずに妻を抱きしめる。
愛する妻とケーキを食べようと思ったんだ。
あの夜に。あの記念日に。
それが発端となったのだろうか。
なあ、紗枝。どう思う。