チャプター34 二人の女性
誠矢は地面を軽く蹴飛ばした。小さな石が跳ね返り、膝に当たる。
結局オーナーから有益な情報はそれほど得られなかった。どちらかと言えば、不気味なあの女性の方が使えるかもしれない。
ラトルの方を振り返る。
(馬鹿なオーナー。まだ味方にもなっていない者に秘密をああも話すなんて)
誠矢は体に震えが走るのを感じた。不快ではない、気持ちのいい震えだ。
来た時よりは薄暗い路地を、軽い足取りで進む。頭の中は溶岩のように絶え間なく動き続け、さまよい続けている。
しかし、目標の定まった今、この状況は決して悪くはないものだ。
もうすぐ母を苦しみから救いだせるかもしれないんだ。眼を鋭くさせるとその視界に、ひらひらとした服が映った。
「ちょっと、用があるのよね」
忘れるはずの無い声が降る。誠矢は足を止めて、顔をあげた。カールした髪が艶やかに揺れる、若い女性が見下ろしていた。
「喫茶店に来てくれないかしら」
彼女が指さした先には古びた建物があった。読めない英単語が書かれているが、意味はないだろう。
「サラダがあるなら行ってもいいですけど」
誠矢は彼女を待たず右足から歩きだした。
喫茶店は興味深いものだった。明らかに日本製とは思えない小物が立ち並び、デザインの良いカウンターが店の空気を調節している。
「飲み物はコーヒーで良いかしら」
女性が奥からカップを持って出てきた。従業員だったのか、エプロンを纏っている。
「苦いものは好きじゃありません」
誠矢はむすっとして言いのけた。彼女の顔に明るい笑みが一瞬広がる。栗野はあまりに美しい笑顔に、目を奪われてしまった。そんな自分に侮蔑の言葉をぶつける。馬鹿じゃないのか。
「じゃあ、夏ミカンジュースにするわ」
一分後、少年はオレンジ色に輝くコップを口に付けていた。あの男達と行った喫茶店の飲み物とは比べ物にならない、上品な甘さに感心する。
まあ、母のジュースほどじゃない。
気分を落ち着けて、前を見た。カウンター越しに藍色の眼が光っている。
横目で見ると、少し薄暗い切り取られた世界が浮き上がっていた。楽に足を伸ばすと、自分から声を出した。
「ラトルについて何が聞きたいんですか」
「そりゃ、ラトルから出てきた直後に声をかけられればそう思うわよね。でも違うの。あたしが聞きたいのは比坂のことよ」
頭に疑問詞が湧く。
「誰ですかなんて言わないことよ。貴方は何度か接触しているはず」
栗野は椅子から飛び上がる速さで立った。過敏な神経が冷や汗を促す。
頭が痛かった。目眩がする。己の過ちとくだらなさに笑いすら口を閉ざした。
「まさか…貴方達は同一人物ではなかったんですね」
走馬灯のように、夏の昼間の映像が蘇る。声を掛けられたのは喫茶店を出た時だった。そして、オーナーと戦う術を与えられた。
双子か…もしくは他人の空似と言う奴か。
観察してきたんじゃなかったのか、僕は。見分けすらつかなかったのか。
腑抜けた顔であろう自分に、彼女は心配げな声を掛ける。
「同一人物ってどういうこと?比坂について聞いてる…比坂とあたしが?」
はっ、気味が良いほど驚いた顔だ。
「…本当に気が利きすぎる子よね。瑠衣とは大違いだわ」
迷う間が空く。欠伸も出ない。
長い溜息が耳についた。と同時に彼女がカウンターからこちらへ飛び込んできた。
美しい軽業に口笛が出そうだな。カウンターに手をつくと羽の如く足を振り上げ飛び越えたのだ。
顎を掴まれる。なんで、こんなことされなきゃいけなんだ。
「確かにあなたの予想通りよ。あたしと比坂は気が付かないほど似ているかもね。勿論同じ服で髪型がそっくりならの話だけど。ええ、ええ双子ですよ」
声色の変わった彼女を一瞥する。
誠矢はポケットから細い金属を取り出すと、彼女の腕に刺した。皮膚を貫通はしないものの、かなりの激痛が期待できるはずだ。
案の定、顎は解放された。腕を抑える女性がよろめいている。
「…っ頭がいいのね。護身用の武器まで隠し持ってるの?」
「武器とまでは言いませんが、死んだら今までの経験が無になりますからね」
誠矢は尖ったUSBカードを手の中で転がした。
「僕は比坂と言うその人に助けられました。双子の貴方も知っているかもしれませんが。僕よりあなたの方が彼女については詳しいのでは?」
「あたしはトキ。母を殺された。比坂を…この世から消す女よ」
面倒くさいことに巻き込まれそうだ。
それで僕に情報提供を頼むのか。十歳の少年に何を期待しているんだ。
教師と言いこの人と言い、見かけで判断するのはやめて欲しい。
「あんたは、比坂の秘密を知っているはずよ」
「ええ、ラトルの従業員ですとか。オーナーの暗証番号を何故か知っているとか。変装が得意とかですかね」
机が揺れた。思い切り彼女が叩いたらしい。
「あたしは本気なの。比坂の弱みが欲しいの。さっきあんたは何を聞かされたのよ」
耳が痛いし、目も痛い。この人に掛ける言葉は何だろうか。
過剰な期待もいいとこだ。僕は第三者だぞ、それだけ感情を見せてどうするつもりだ。
ドアが勢い良く開き、中年の男が入ってきたのは突然である。
今は閉店中だと言うトキに、男は冷たく言い放つ。
「悪いが、立ち去らせたければ力づくで頼む。俺からは出ていけないんだ」
なんで、面倒なことは積み重なるのだろう。
誰も僕の行き先に立ってくれるな、忌々しい。